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誰でも暴力的になりうるか? [海外メディア記事]

  暴力、あるいは攻撃性についての(古くて新しい)記事がありましたので、紹介します。何かひどい暴力事件があったとか、暴力に関する新説が出たというわけではないようですし、締めとして利用されている「ミルグラム実験」もずいぶん古いものなので、いまさら何故? という気もしなくはありませんが、ともかくイギリスBBCの記事からです。
  なお、「ミルグラム実験」の詳細は、検索すればすぐに見つかります。

  Are we all capable of violence?   
   By Diene Petterle

  http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8043688.stm



誰でも暴力的になりうるか?

 
 これは20世紀のもっとも厄介な問題の一つであったし、今日でも依然として難問のままである。「普通の」人々はみな潜在的に暴力的なのだろうか?


 人類は暴力を見て愕然となるが同時に魅了されもする。人間の攻撃性―テロ攻撃からゲリラ戦からギャングの犯罪に至るまで―は全地球を覆っている。
 攻撃性はいたるところにあり、あらゆる国家、あらゆる民族を結びつけている。しかしその始まりは何処にあるのか? それは学ばれるものか、それとも本能的なものなのか?

 たいていの人は自分自身のことを穏やかで平和的と考えている。
 私たちは、あらゆる葛藤を平和的に解決するよう努め、暴力は自分たち「以外の人々」が犯すことであると考えるように育てられた。しかし、はたしてそうだろうか?

 あなたや、あなたの母や娘や息子が恐るべき犯罪を犯すように駆り立てられたことがあった、などということは考えられるだろうか? そうしたレベルの暴力を自分自身の中にもっているだろうか? 

 答えは、イエスである。

 通常の信念とは逆に、私たちは生まれつき暴力的である。3歳までには、私たちの衝動は止まるところを知らないほどになっている。脳の中の情動の中枢に由来する欲求を止めることはできないのである。

 しかし成長するにつれ、私たちは攻撃性を抑制することを可能にする脳の部分、つまり前頭前皮質を発達させ始める。しかし肝心なのは、この抑制のメカニズムの働き方は、私たちの経験次第なのである。


 喧嘩祭り


 葛藤を暴力によって解決する代わりに、分けあったり順番で行ったりしなさいと教えられると、脳の構造が変わりそれゆえ攻撃的でなくなる。

 しかし、平和的に葛藤を解決しようとすることは、すべての文化が賛同するものというわけではない。ボリビアのアンデス地方のとある部族は、一年間に生じた紛争を「ティンク(Tinku)」と呼ばれ毎年恒例の喧嘩祭りで解決するのである。戦士の伝統があるために、男も女も、子供でさえも戦うべきとされ、祭りで死者が出ることも稀ではないという。

 彼らの脳は、葛藤をこのように解決することに順応しているので、通常の脳とは違っていると、神経科学者マリア・クーピスは論じている。

 このことが示唆するのは、私たちはみな暴力的なポテンシャルをもって生まれるのだが、しつけと環境が重要な役割をはたして、脳の中に暴力を抑制するものを生み出している、ということである。

 私たちは生まれつき暴力的であるばかりか、それが大好きになるよう化学的にプログラム化されてもいるのである。私たちが喧嘩をするとき、脳の中では、ドーパミンと呼ばれる快感を引き起こす化学物質が放出されるからである。


 ドーパミンは脳に、今自分は心地よいということを知らせる。しかし問題はそこで終わらない。ドーパミンから私たちが得る快感のために、私たちは暴力の中毒になる恐れがある。そういう経験を多くつめばつむほど、そういう経験をよりいっそう欲するようになるのである。
 
 
 
 原始的な快楽

 もとフーリガンだったダニー・ブラウンは、こうした「麻薬」じみた経験を得るために人はどんなことでもしかねないことを、誰よりも知っている。彼は、ライバルチームのファンを突き刺したために刑務所行きになったが、それでも彼は止められなかった。フーリガンの行為の快感はあまりに強くて抵抗できなかったのである。 


 「酒や麻薬におぼれたことなんてなかったよ。喧嘩が俺のヘロインだったのさ」。

 喧嘩は、脳の前頭部によって抑制される原始的な快楽である。しかし、そうした抑制を失うことはどれほど容易なのであろうか? カッとなって犯す犯罪は日常よく起こることであり、そういう犯罪者が自分の身に何が起こったのか、振り返ってみて覚えていないこともしばしばある。それはどのようにして説明されるのか? 自制心を失うように駆り立てるものは何なのか?

 神経-心理学の専門家チャールズ・ゴールデン教授によると、私たちは皆、容易に自制心を失うものだし極端な犯罪行為を犯すものらしい。そのために必要なことは、前頭前皮質の機能が停止することだけであって、それは、自動車事故とか、ラグビーの試合で頭部に何度も衝撃を受けるといったことによって引き起こされる。

 実は、肉体的な損傷だけが、前頭前皮質の機能を停止させるものではない。ウツ状態、アルコール依存症、ドラッグ、睡眠不足、それに老化のプロセスですら、暴力を抑制するものに損傷を与えうるのである。


 抑制のメカニズム


 「私の患者の一人に司祭がいます」とゴールデン教授は言う。「彼は生涯を人助けに費やしてきましたが、ある日、自動車事故を起こしてしまいました。病院にいきましたが、医師たちは、あなたは何処も悪くはありませんといって、司祭を家に帰しました。

 一ヶ月間、彼はどこかが悪いとは気づきませんでした。ある時、彼は奥さんと喧嘩をし、自制心をすっかりなくしてしまいました。もう少しで奥さんを殺してしまうところでした。奥さんはすぐに家を出て行きましたけどね。

 怖いのは、日常生活で、どこかがおかしいなんて誰も思わない、ということです。暴力の衝動の引き金が引かれたときになって初めて、自分は自制心を失っているのだということに気づくのです。しかしそのときは、たぶん、もう手遅れなのです」。

 私たちは生まれながらにして暴力的である、私たちは暴力を楽しむ、私たちの抑制のメカニズムは容易に壊れやすい、こうしたことを受け入れるのは困難である。
 しかし、多くの人々が殺される原因について考えるとき、それは、激情犯罪や突然生ずる暴力の快感のためではなく、戦争やジェノサイドのため、と私たちは考える。他者を殺そうと熟考した上で決心する人がいるためである、と考える。

 かつてスーダンの少年兵だったエマニュエル・ジャルは、トラウマとなるような経験のせいで、よく考えた末に、他の人間を殺そうと思うようになったという個人的経験の持ち主である。

 彼は健康的で幸せな少年時代をすごしていたが、それは、ある日戦争が普通の生活への望みを引き裂いてしまうまでだった。彼の母親はいなくなり、彼の村は焼き討ちにあい、彼は持っているすべてを失った。



 正当な攻撃

 
 彼は、これをした人間は死に値すると確信するようになり、反乱軍に加わった。反乱軍とともに、彼は多くの人々を殺し拷問にかけた。

 彼は今、人生を立て直し、世界の人々と、暴力はよりいっそう多くの暴力しか生み出さないという考え方を共有しようと努力している。

 エマニュエル・ジャルの経験は極端である。しかし、あなたや私が、他の人間に対する暴力は正当であると確信するためには、状況はどれくらい極端である必要があるのだろうか?

 私たちの大半は、もし誰かが自分の子供や自分が愛している者に危害を加えたら、暴力に訴えてもいいと思っている。しかし、ただ単にある観念やイデオロギーのために、自分に危害を加えていない人に危害を加えることはできるのだろうか?

 数多く引用されてきた1961年のミルグラム実験は、その答えがイエスであることを示唆している。一般から選ばれた被験者は、「ボランティア」から選択式の問題に対して間違った答えを得る度ごとに、その「ボランティア」に対して電気ショックを与えるように要請された。この電気ショックは徐々に引き上げられることになっており、最後には命にかかわる450ボルトのショックまで引き上げられた。

 被験者が知らなかったことは、「ボランティア」が演技していて実際は電気ショックを受けていないということであった。しかし、それでも被験者の3分の2は、白衣を着た権威ある人物の指示があるために、「命にかかわる」450ボルトの電気ショックを進んで与えたのであった。

 この実験は、しばしば、ある種の枠組みの中でならわれわれは皆暴力的になりうるということの証明として使用されてきた。私たちはこのことを受け入れたいとは思わないが、科学は私たちが間違っていることを示唆しているように思われる。

」 

 





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金融界から教壇へ [海外メディア記事]

 金融の世界に居場所を失った人々が教職に活路を求めてチャレンジする、という動きを追った記事です。収入は大幅減なのでしょうが、これでもまだ恵まれている方でしょうか? いずれにせよ、金融界の「祭りの後」が垣間見れます。

『ニューヨーク・タイムズ』の記事より。
http://www.nytimes.com/2009/05/10/nyregion/new-jersey/10tradersnj.html




金融業界の失業者が教壇に

 MBAの資格をもち金融アナリストとして20年経験を積んできたケイシー・マーシャルは、出世競争というゲームのトップにいるはずだった。

 しかし、昨年の暮れ、44歳のコンサルタントのこの女性は、自分の仕事が枯渇してしまったことに気づいたとき、このゲームは終了した。彼女の専門は新規事業のための金融モデルを構築することだった。

 「万事よくなるだろうと思い続けていたのですが、9月に入った頃、自分が何をしたいか考え直してみる時期が来たと思いました」と、マーシャルさんは言う。夫は失業してはいなかったが、職場が危なくなるかもしれないと心配していた。この夫婦には4人の子供がいた。

 「数学を教えようと考え始めたのです」とマーシャルさんは言う。「そして代用教員の資格を手にしたのです」。


 3月に、州議会が、彼女の境遇に打ってつけと思われる試験的なプログラムを承認した。「トレーダーを教師に」と名づけられ、職を失った金融のプロを、3ヵ月間で、数学の教師にするためのプログラムだ。見込みありとされた志願者は、大学で数学を専攻していたことは必須要件ではないので、州立モンクレア大学の授業を無料で受講することになる。

 このプログラムへの反応はすさまじいものだった。情報を開示してから48時間以内に、電話またはイーメールでの問い合わせが200件もあった。大学の事務局によると、25人の第一期生に応募すると見込まれているのは少なくとも100人はいるそうだ。マーシャルさん以外にも、志願者の中には、ペドロ・ラミレス(48歳、ゴールドマン・サックスの元エグゼクティブで2008年2月に解雇)、ロバート・スタンリー(50歳、26年勤続したウォール・ストリートのヴェテランで10月以降失業状態)、トニー・マランガ(46歳、元不動産銀行の銀行マンで3月に失職)などがいる。

 「金融サービス業は大々的な崩壊だったので、正常な状態に戻るには何年もかかるでしょうね」と語るのは、6児の父であるマランガ氏。「新しい職業に移る良い頃合です。教職は、ずっとなりたいと思っていたものですからね。40代も後半になって、こんな経験をした後では、財産を築くことよりも安定のほうが大事ですから」。


 2007年12月以降、ニュージャージー州の金融サービス部門は16,000人もの人員整理をしてきた。そう語るのは、ニュージャージー州で労働および労働力開発を担当するデイヴィッド・ソコロウ委員。それに、ニュー・ヨークで金融サービスの職場を失った住民も何千といるのである。

 
 連邦補助金の支援を受けた『トレーダーから教師へ』というプログラムは、失職した労働者の再教育ということ以上のことをします、とソコロウ氏は言う。わが州には数学の教師が不足しているので、その打開策も兼ねているのです。


 州立モンクレア大学の教育および人的サービス学部の学部長エイダ・ベス・カトラーによると、このアイディアは、昨秋、彼女が、ニュー・ジャージー州の教育委員のルシール・デイヴィーと話しているときに閃いたのだという。


 「彼女から電話がかかってきて、金融サービスの職場からみんな解雇されているという噂を聞いているんだけど、と言うんです」と、カトラー博士は回顧する。「この人たち、立派な数学の先生になれると思わない?、と彼女は言うの。私は言ってやったの。「今頃そんなことを訊くなんて可笑しいわよ、電話でそういう問い合わせがひっきりなしなんですから」。


 問い合わせをしてきた大半は、大学で金融や会計を専攻した人々だった。大学での数学の履修単位が30以上必要なことを知ると、彼らはがっかりしたという。

 そのルールを緩和して迅速に証明書を発行できるように特別な法律が導入された。


 「だからと言って、基準を引き下げようというつもりはありません」とカトラー博士は言う。とても優秀な人々がやって来て、短期集中型のプログラムを通して、知る必要のある数学とその教授法を学ぶわけですから」。


 新たに訓練を受けた教師の第一期生25名は、1月には教職の現場に赴任する予定である。他に3名が1年以内に訓練を受ける予定である、とモンクレア大学の事務局は言う。


 最近のある日の午後、プログラム受講予定者数十名が、オリエンテーションをうけるために、モンクレア大学の講義棟に入っていった。そのほとんどが少なくとも40歳であるように見えた。多くがビジネス・スーツを着用し、ブラック・ベリーをじっと見つめていた。


 元シティー・グループの金融アナリストだったティナ・ローダムリス(38歳)が手をあげて「ずっと分析をする側にいたので、人前で立ちながら教えるなんてどうやったらいいの?」と質問したときは、笑いを誘った。


 数学の教師の報酬についての質問が続いた。2007年、金融部門の給与は平均して98,000ドルで、州の労働局によると、ニュージャージー州の平均賃金の約2倍だった。


 「給与は地区ごとに違いますし、各人の学位によっても違います」とカトラー博士は言った。「一般論ですが、学士号をもっている人は4万ドル台です。5万ドル台の所もあります。交渉に応じてくれる地区もあります」。


 候補者は資格試験にパスしなければならないことも知らされる。


 オリエンテーション後、元金融アナリストで、今は地元のテナフライで代用教員しているモーリーン・クワイン(46歳)は、代数の補習が必要だわと言った。「勉強する必要があるわね」。


 出席者の多くは、経済が悪化する以前は、自分の経歴を謳歌していたと言った。


 「心理的にも報われていたし、金銭的にもとても報われていましたね」と語るのは、エレクトロニクス関係の株の売買を得意分野としたブローカーだったロバート・スタンリー。「あの仕事は社会にとって無くてはならないものだったしね。自分がそれをしたということを何ら恥じてはいませんよ」。


 それでも、50歳になる今、その仕事には将来が見えないのだという。

 
 「ウォール街での経歴は50歳で終わったと思います。もし、おあつらえ向きの状況が整ったら、ウォール街に戻ると思います、絶対にね。だけど状況が変わるとは思えないんです」とスタンリー氏は言う。「ウォール街は若い人の職場ですしね」。


 ペドロ・ラミレス(48歳)は、ゴールドマン・サックスにいることができて幸せだったと語った。ゴールドマン・サックスは、彼のMBAに対する手当ても払ってくれたし、ローン債権部門で昇進させてくれもした。「学んでいたし、人やプロセスを管理していました」と彼は言った。

 一年間求職活動をした後で、彼はギアを変えようと決心する。

 
 「教えることは、いつも僕の心の片隅に引っかかっていたことです」と、いまはクランフォードに住むラミレス氏は言う。「明らかに、これまでほど稼ぐことはできないでしょうね。他方で、僕の人生の質は好転するかもしれないし、子供たちも、僕がそばにいるので喜んでくれるでしょう」。失職後、彼はボーイスカウトの隊長のアシスタントをしていた。

 
 金融サービスのプロを教師として再教育することは「とてつもない意義があります」と話すのは、ラトガース大学、エドワード・J・ブロースタイン・スクール、プランニングおよび公共政策学部のジェームズ・W・ヒューズ学部長。「このプログラムは、普通ならばこの職種には来ないような高い技能と才能を持った教師を生み出すでしょう」。


 彼らがそこに留まってくれるかどうかは、また別問題ですと彼は言う。


 「1年か2年たって、経済が力強く回復すれば、金融界の好条件の所に戻っていく人が出てくるかもしれません」とヒューズ博士は言う。「しかしどうなるかは判りません。未来はまだ書かれていないのですから」」。 
 








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「ゴッホの耳きり事件」に新説 [海外メディア記事]

 ゴッホのあまりにも有名な「耳きり事件」に新説が登場。途中で言及される日本文化についてですが、吉原の遊女(原文では「ゲイシャ」)の技のようです。髪切り、爪剥、断指あたりで検索すると、関連するサイトが見つかると思います。しかし、その説が正しければ、耳きりはゴッホと娼婦の間の個人的な関係を踏まえたものになり、ゴーギャンの出番はないはず。しかも耳を切ったのが娼婦なら話はわかるが・・・ 。もしかしてゴッホが遊女の役回り? ゴーギャンが助太刀した? この紹介記事を読む限りは、辻褄が二重三重に合っていません。

『ヌーベル・オプセルバトゥール』の記事より。
http://bibliobs.nouvelobs.com/20090505/12346/van-gogh-la-polemique-bidon





ファン・ゴッホ:インチキくさい論争の書

 ファン・ゴッホやレオナルド・ダ・ヴィンチが話題になると、何を書いても、いつだって売れる。最新の商品は、二人のドイツ人の大学教員、ハンス・カウフマンとリタ・ヴィルデガンスが書いた『ファン・ゴッホの耳、ポール・ゴーギャンと沈黙のとりきめ』である。この本の中で、1888年12月に、いまや有名になったエピソードが起きたとき、ゴッホの耳を切ったのはファン・ゴッホその人ではないと、彼らは主張している。耳を切り落とすという罪を犯したのは、恐怖心に駈られたポール・ゴーギャンだった。カミソリ一振りで、ゴーギャンは友人の右の耳を切断してしまった、というのである。なぜ? 説明を聞こう。


 1888年2月、フィンセント・ファン・ゴッホは、アルルに居を構えるために、パリを離れる。夢が何かあったのだろうか? 弟のテオに宛てた手紙で、フィンセントは、南仏に到着するや『日本的なものはないかどうか探し回った』と書いている。何ヶ月も前から、二人の兄弟は日本に対して熱をあげていた。パリのブルス地区で、テオは浮世絵を何点も購入した。1887年2月に、テオはフィンセントとともに、タンバランのキャフェで浮世絵のコレクションの展示会を開催したほどだった。フィンセントにとって、日本の芸術は、習得しなければならないものだった。『それを研究すれば、必ずやもっとずっと陽気で幸福になれるはずだ』と、彼は手紙に書いている。


 アルルに向かう道すがら、フィンセント・ゴッホはこれからも幸福でいられたらと願った。だから彼は、仲間のゴーギャンに自分と共同作業をするために、アルルで落ち合おうともちかけたのである。しかし、その共同作業は急速に悪化の途をたどる。1888年12月23日の手紙で、ゴーギャンは、ゴッホが「カミソリを手にもって」自分のほうに突進してきたと語っている。そして次のように付け加えた。「その瞬間の私の眼光は凄まじいものだったに違いない。というのも、彼は立ち止まり…急いで家に帰ってしまったのだから」。翌日、ファン・ゴッホは自分の耳を切り落とし、それをラシェルという名の町の娼婦に手渡しに行くつもりだった。


 しかし、なぜ娼婦なのか? ファン・ゴッホは日本の文化をよく知っていた。だから、彼が語りたかったことは、遊女が恋人や旦那に切った髪や剥がした爪や、それどころか切断した指を贈ったという伝統だった。旦那へのいわば「義理立て」を示すために、死体から指を何本か盗み取ることをする者すらいた。娼婦に自分の肉体の一部を贈ることで、ファン・ゴッホは日本の儀式を自分なりに重んじた、というのである。

 
 耳の切断の責任をゴーギャンにとらせることは、たんなる思いつきによるものにすぎない。自説を守る必要から、二人のドイツ人の大学教員はゴーギャンが卓越した剣の使い手だったとまで主張しているが、ゴーギャンは若い頃フェンシングの授業を数時間しか受けていなかった。剣の天分によほど本当に恵まれていなければ、頬や首を切りつけることなく、1~2センチの耳たぶを切断できるはずがない。さらに奇妙なことだが、弟のテオがアルルにゴッホを訪ねて来たときに、なぜフィンセント・ゴッホは沈黙を守ったのだろうかと、人は自問したくなるだろう。ゴーギャンが切りつけたというが、証拠がないではないか?証人がいないではないか?しかし、そんなことは大したことではないのだろう。このインチキくさい書物の二人の著者は確かに勝利を収めたのである。なぜなら、話題になったのだから」。





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肉を食べる代償 [海外メディア記事]

 『ニューヨーク・タイムズ』誌の健康欄から、やはり肉食は健康に悪いらしいという研究結果(しかし、確定的とは言えない)がでたことを伝える記事を紹介します。なにげに気になるのは、赤身肉もさることながら、ソーセージ類はそれよりはるかに悪いらしいと示唆されていること。子供によく出しますからね・・・


http://www.nytimes.com/2009/04/28/health/28brod.html?em





赤身の肉を好んで食べる代償

 
 赤身の肉が普通のアメリカ人にとって贅沢だった、あるいは少なくとも特別なものだった時代がかつてあった。日曜日の晩の食事に肉をローストしたり、レストランでステーキを注文したりすれば、後はもう何もいらないという時代が。合衆国では、肉の消費量がこの50年間で2倍以上になった。

 さて、50万人以上のアメリカ人を対象にした新たな研究が示す最良の証拠によれば、赤身の肉に対する嗜好のために、われわれは健康に対して高い代償を支払ってきたし、寿命の延びも制限されてきたというのである。

 
 その研究によると、他の条件を等しいとした場合、赤身肉や加工肉を非常に食べる男女は、それよりも肉の消費量がずっと少ない人々に比べて死期が早い、とくに二大死亡原因である心臓病とガンのどちらかに罹って死亡する時期が早いということが判った。

 10年に及ぶこの研究の結果は、『アーカイブス・オブ・インターナル・メディシン』3月23日号に掲載された。アメリカ国立ガン研究所の栄養疫学研究者ラシュミ・シンハを責任研究者とするこの研究は、国立衛生研究所による退職者協会に対する食事と健康研究に参加した、50歳から71歳までの322,262人の男性と223,390人の女性を対象とした。参加者は皆、喫煙、運動、アルコール摂取、教育、サプリメントの使用、体重、家族のガン罹患状況などを含む、食事や他の習慣や性格についての詳細なアンケ-トに答えていた。



 リスクを決定する


 10年間で、47,976人の男性と23,276人の女性が亡くなったが、研究者は各々の死亡の時期や理由を跡づけ続けた。赤身肉の消費量は、一日平均1オンス以下から最高4オンスまでにわたり、加工肉の消費量は、せいぜい週1オンスから、一日平均1.5オンスまでにわたって等級づけられた。

 肉の消費量のレベルが高くなるにつれて上昇する死亡リスクは、約20パーセントから約40パーセントまでが「中くらい」として記述された。高い肉消費量に帰されうる過剰死亡の数値は、アメリカの人口の規模を考えるならばきわめて高いものであった。


 この新たな研究を、研究対象になった年齢層のすべてのアメリカ人に当てはめてみると、赤身肉と加工肉の消費量を減らせば、10年間で、100万人の男性と約50万人の女性の死亡は防げたはずであると、この研究の総論を書いたバリー・ポプキン博士が準備した評価値は語っているのである。


 ポプキン博士があるインタビューで提案していることだが、赤身と加工肉に関連する早すぎる死を防ぐには、ハンバーガーならば、毎日ではなく週に一回か二回だけ、小さなステーキならば一日おきではなく週に一回、ホットドックならば、週に一回ではなく、一ヵ月半に一回にすべきである。


 菜食主義者でないならば、赤身肉ではなく、鶏肉や魚を考慮に入れたほうがいい。この研究では、鳥と魚の「白身の」肉を最もよく食べた人は、わずかながら寿命を延ばした。同様に、果物と野菜を最も食べる人々はより長く生きる傾向があった。


 地球全体の幸福に関心を持つ人には、赤身肉の消費を減らす理由がもっとある。ノース・カロライナ大学で疫学を教えるポプキン博士によれば、食料としての家畜に依存する割合を減らせば、環境汚染や、地球温暖化や飲料水の枯渇などの破壊的な影響から地球を救うことに寄与するかもしれないからである。


 「合衆国では、家畜生産は、土地浸食の55パーセント、殺虫剤使用の37パーセント、抗生物質消費量の50パーセント、水面に排出される窒素とリンの総量の3分の1が、家畜生産によって引き起こされている」とポプキン博士は書いている。




 真の犯人を探す



 こうした観察・研究から生じる疑問は、実際肉が危険なのか、それとも肉を食べることに結びついた別の要因が死亡率を高める上での真の犯人なのかという疑問である。この研究で、赤身肉をもっとも食べた被験者は健康的とは言いがたい別の習慣ももっていた。彼らは、別の被験者よりも喫煙をしていたし、身長のわりには太りすぎだったし、カロリーでも脂肪の総量でも飽和脂肪でも消費量が多かった。彼らは、果物や野菜や繊維質の摂取量が少なかった。ビタミンのサプリメントの摂取量も少なかった。運動量も少なかった。

 
 しかし、肉の消費と関連づけて死亡率を分析する際に、ガン研究所の研究員たちは、これらすべてのことや、死亡率に影響を及ぼしうる他の多くの要因を、慎重に考慮に入れていた。大豆のような植物源や完全な菜食料理からたんぱく質をより多く得ることから生命を守るどんな恩恵が由来するのかという問題については、今回の研究データはまだ分析されていないので決定できない。

 
 この結果は、肉の割合の高い食事を生命を脅かす健康問題に結びつけた近年の別のいくつかの研究結果と符合する。最も初期の研究は、赤身肉の飽和脂肪と、動脈に損傷をきたすコレステロールの高い血中濃度やその後に起こりうる心臓病との関連に焦点を合わせたのだが、その結果多くの人がもっとやせた肉や皮のない鶏肉や魚を食べるようになった。このことは、乳脂肪の摂取量を減らすなど他の食事上の変化とあいまって、血中コレステロールの平均値の全国的な減少につながったし、心臓病による死亡率の減少にも貢献した。


 シンハ博士と共同研究者の報告によると、心臓病のもう一つのリスク要因である高血圧もまた、赤身や加工肉をより多く食べることに関連していることが示された。


 鶏肉と魚は赤身肉ほど飽和脂肪を含んでいないし、魚は、いくつかの大規模な研究において心臓に良い物質に結び付けられたオメガ3脂肪酸を含んでいる。たとえば、週に脂肪性の魚を二食分食べる男性は、心臓病で死亡するリスクが50パーセントも低いことが判明したし、84,688人の女性を対象にした『ナース・ヘルス研究(Nurses' Health Study)』では、週に少なくとも一度は魚やオメガ3脂肪酸を豊富に含む食べ物を食べた人は、心臓病のリスクを20パーセント以上も減らしたのである。



 ガンとの関係

 肉以外の食材からたんぱく質を得ることは、また、ガンのリスクを下げることに結びつけられてきた。肉が調理されるとき、とりわけ高温で焼いたり網焼きにした場合、発ガン物質が肉の表面に形成されることがある。ソーセージ、サラミ、ボローニャ・ソーセージのような加工肉には、普通、ニトロソアミンが含まれている。もっとも、今では、発ガン物質のない製品も手に入るようになったが。

 『ヨーロッパにおけるガンおよび栄養面での予測研究(European Prospective Investigation Into Cancer and Nutrition)』の試験参加者100万人からのデータからは、もっとも魚を食べることが少なかった人は、一日に1.75オンス以上の魚を食べる人に比べると、結腸ガンになるリスクが40パーセントも高いことが判明している。同様に、大規模な『セレニウムとビタミンEの癌予防効果試験(Selenium and Vitamin E Cancer Prevention Trial)』において赤身肉を多く含む食事が前立腺ガンのリスクの増加に結びつけられたが、その研究に参加した35.534人の男性のうち、週に少なくとも三食分の魚を食べていた人は、魚をめったに食べない人に比べて、進行性前立腺ガンになるリスクは半分だった。


 19.500人以上の女性をランダムに選んで低脂肪の食事をしてもらった別の研究では、通常の食事をしている29.000人の女性に比べて、低脂肪の食事をしていた女性では卵巣ガンになるリスクが40パーセントも減ったことが、8年間の研究の結果判明している」。












 

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思考と感情(3) [海外メディア記事]

 『シュピーゲル』誌の「感情(Emotion)」に関する記事の最終回です。道徳のほうに話題がシフトしていくので、ちょっと話を広げすぎという感じを強く抱かせる展開になってしまい、最後はアルノ・グリュンにお任せしましたという終わり方です。ちょっと物足りない感じ。ちなみに、グリュンの著作は日本語でも読むことができるものもあるようです。


http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,620709-3,00.html






「思考と感情 

  謎に満ちた群棲動物


  第三部:反抗期も思春期の危機も知らない文化もある

 近年、道徳の起源についての注目すべき研究を、アメリカの二人の心理学者が発表した。ハーバード大学で教えているマルク・ハウザー(『他人の心』)とヴァージニア大学のジョナサン・ハイト(『幸福仮説』)である。二人は、方法と探求の前提は違えども、フランス・デ・ヴァールが道徳感情の原理について下したのと似た結論に達した。


 マルク・ハウザーは自分の出発点をなす仮説を、現代の言語学の土台として受け入れらている言語学者ノーム・チョムスキーの心的「普遍文法」の定理と類比的に考えた。「私たちは最初の言語を学ぶわけではありません。むしろ、腕が自然と大きくなるような形で、わが物とするのです。明らかに道徳の場合も事情は似ています。道徳に関しても一種の深層文法があって、それが、社会的な環境のその都度の道徳を構造的にわが物とする手助けをしているのです」とハウザーは言う。ハウザーは、この見解が、非常に難しい道徳的な問題―その中には、5人の人間を救うためには、1人の人間を犠牲にしてもいいかといった問題が含まれていた―を問うネット上のアンケートによる集団テストに対する回答によって確証されたと見なした。対象者は、合理的に考えると理由づけられない決断を、直感的に一致して選んだのである。


 道徳に対する新たな見方のための素晴らしい比喩をジョナサン・ハイトは見いだした。カウボーイが荒馬を手なづけるように粗暴な本能を手なづける理性という伝統を支配してきた考え方を、ハイトは、まったく別のイメージによって置き換えた。力強い象(その上に小さな騎手が座っている)のように、直感が理性を支えている、というイメージである。


 これは、感情と理性が調和していればどれほどの力を発揮できるかを示す好感のもてる思想である。しかし、脳の機能に対するこうした進化論的なモデルは、歴史と社会において人類がなしてきた圧倒的な破壊性に対する説明を何も提供しない。逆に、こうした破壊性は、ホッブスやフロイトの伝統に連なる悲観論者の正しさを示すように見える(もっとも、生の欲動としてのリビドーの根源的な力は、同じくらい強力な死の欲動によって妨げられるという後期フロイトの仮説は、決して立証されるものではなかったが)。 


 われわれが近親の動物と同様に、生まれつき群居性があり共感の能力に恵まれているということは、われわれがこのメカニズムをいかに使っているかについては何も語っていない。このことが特に当てはまるのは、共感に対する欲求が、進化の別の遺産、つまり、異質なもの、未知のものの危険に対して体の奥底から感じられる不安と競合するときである。乳児が生後八ヶ月頃から未知の顔に対して反応する際の典型的な「人見知り」もまた進化の産物である、と確信する専門家もいる。
 

 社会道徳とは、それゆえ概して、人が直接属している集団に対する忠誠心のことなのである。個人的、社会的経験や制約は、子供の頃から、共感に対する遺伝的メカニズムを修正し始める。生まれつきある本能が萎縮したり、破壊的なものに転化することさえあるだろう。そこで、人間が自らの同類に対してなしうる悪行に関しては、自然科学的モデルの説明力は役に立たないのである。同類を集団殺戮することは、動物界には例がないからである。


 集団心理学は、19世紀の末以降、群棲動物としての人間が差し出す謎に対する答えを捜し求めてきた。しかし今日に至るまで、社会科学者はせいぜいパズルの断片を集めただけにすぎない。なぜ歴史は暴力の行使の連続なのだろうか? いかにして人間はテロリストや、殺人狂や、大量殺人者になるのか?


 国家社会主義とホロコースト以降、数知れぬほどの研究者が、犯罪者に共通する特徴を探した。彼らは、特定の性質や、行動の傾向、遺伝的特殊性などを割り出そうと望んだ。もしそれが成功すれば、犯罪に固有の顕著な点が認識され、歴史が繰り返されることを防げるかもしれない、という希望を人々は抱いた。よく知られているように、見いだされたのは、予想されたモンスターではなく、従順に仕事をこなす普通の市民が圧倒的多数を占めたのである。ハンナ・アレントの有名な「悪の凡庸さ」という言葉は、「最終解決」を組織したルドルフ・アイヒマンを念頭に作られた言葉である。


 ヴィッテン/ヘルデッケ大学で教えている社会心理学者ハラルド・ヴェルツァーは「悪の合理性」についてすら語っている。彼は、ホロコーストと並んで、ヴェトナム、ルアンダ、ユーゴスラビアでの大量殺戮行為を調べ、『犯罪行為者。まったく正常な人間からどうして大量殺戮者が発生するのか』を公刊した。この気分が悪くなるような研究書が焦点を当てているのは、自分自身の基準に従ってまったく合理的に行動していて、その社会的環境と一致していたいという欲求に駆り立てられている人間である。東部戦線への「出動グループ」のメンバーにとっては、日々行われる大量殺戮のノルマは負担ではあったとしても、彼らは決して自分勝手な行動に走ろうとはしなかったのである。


 「人類が進化で獲得した最も際立った特質」(ヴァルツァー)であるこの適応能力はこれほどまでも破滅的になりうる。それが可能になるのは、特定のグループを、脅威となる『人類の敵』として完全に人間の共同体から除外する、服従によって守られた支配がある場合だけである。ニュルンベルク裁判で戦争犯罪者に対して行われた多くの心理学的テストから典型的な共通の特徴を引き出そうとして失敗した試みについてヴァルツァーがふと述べたことは、われわれの注意を引かずにはおかない。「被告たちの唯一目立つ点」があるとするならば、それは「どちらかといえば共感の能力が乏しい」という点にあった、というのである。


 共感の喪失と非人間性の関連については、チューリッヒ在住のアルノ・グリュンほど知っている者はほとんどいない。ほっそりした、白髪のサイコセラピストは元気な70歳代のような印象を与えるが、もうすぐ86歳になるのだが、いまだに現役で仕事に励んでいる。ベルリンに生まれたが、1936年、まだ子供ながらユダヤ人の家族と合衆国に逃げ、そこでサイコ・セラピストとして開業し大学教授として教鞭もとった。30年前にヨーロッパに戻り、『共感の喪失』や『正常さという病』のような著作で知られている。


 特に注目に値するのは彼の『われわれの中の他者』という作品である。この作品は、患者たちの苦難に満ちた物語と、子供時代を席巻したナチスについての研究を結びつけたもので、ゲシュヴィスター・ショル賞に輝いた。この著者が念頭に置くケースはすべて、共感が破壊されたことに由来する恐るべき結末を中心にしている。この共感のことを彼は『非人間的にならないための柵』、『われわれ人間存在の核』、『道徳性と良心の土台』と記述している。

 
 多くの伝記的細部を描きながら彼が示しているのは、ホロコーストの責任者にとって、共感の天分が、母親や父親によって小さい頃からいかに奪われていたか、ということである。子供の頃、彼らは、苦痛や苦悩の表情はどんなものでも禁止され、いかなる弱みも嫌悪すべき敵であることを体験した。傷つきやすい繊細さは、自分の中にある異質なものとして憎むようになった。しかし、アルノ・グリュンが言うには、人間であることは、傷つくことである。子供というものは強大な両親の同意なしには途方に暮れるものだから、子供は、自分自身の根本的な欲求に対する破壊的な態度を引き受け内面化する。脳内では、共感の能力は死滅し、外部の『敵』には一様に苦痛と死を与えようとする能力が生み出されるのである。


 アルノ・グリュンは、自分の患者や彼らの病気の起源についての反省を、決定的な文化批判にした。そこで彼はフロイトと袂を分かつのだが、フロイトの抑制を要する本能の本性についての説は、グリュンにとっては古くさいものに映った。グリュンは自らを、人間の善良な自然の素質が劣悪な社会的制約によって堕落してしまう様を見て取ったジャン-ジャック=ルソ-の伝統に位置づける。


 成長することはある段階から次の段階への穏やかな移動ではなく、摩擦や攻撃性をともなって進むものだという反論には、グリュンはこう答える。「しかしそうした穏やかな移動だってあるでしょう。私たちにとって避けがたいように見える発達の諸段階―少年の「反抗期」とか思春期の危機とかですが―を知らない文化だってあるのです。そんなのはわれわれが作り上げたことなんです」。


 彼が夢想家としてではなく科学者として語っていることの証明として、グリュンは、アメリカの研究者リチャード・ソーレンセンが責任者として行った長期にわたる人類学の研究を引き合いに出す。懐疑的な訪問者に対して、ソーレンセンの研究報告書を喜んで差し出した。それは、ヒマラヤの深い谷やオセアニアの島のように地理的に特別に守られている立地のために、敵対的な外部との接触もなかったし征服されたこともなかった一連の孤立した部族のもとでの30年にわたる観察に基づいた報告書である。


 それらの部族は部外者の経験がないので、彼らは部外者に対する不安もなければ攻撃しようという心性とも無縁である。これらの社会を特徴づけるのは部族の全員を包みこむ社会的感受性と近さであるが、だからといって個々人の自由が制限されるようなことがあるわけではない。一連の写真が雄弁に語っているのだが、それらが写し撮っているのは、われわれが自然に与えられたものと受け取ることに慣れてしまった他人を押しのけてでも這い上がろうとする社会とはまったく異なるタイプの文化である。『善良な野蛮人』という古くからあるロマンチックな神話にも一片の真理が含まれているかのように見えるのである。


 「われわれの文化で一番成功を収めるのは、自分の感情や共感する能力を自分からもっともしばしば切り離した人々なのです」とグリュンは言う。「僕は苦しい」と誰かに言ったら、もうそれだけで負けだ、とわれわれは思っていますからね。しかしそれはおかしいでしょう。それは、屈服の合図をあたえることなく、そう言えるほど強いのだということを示しているのですから」。
 
 アルノ・グリュンが念頭においている友好的な寛大さには人をひきつけるものがある。しかし彼は、われわれの文明的な現実の優位に対してどうやったら太刀打ちできるというのだろうか。「私だけではありませんよ」と彼は答える。「ダライ・ラマのことを考えてみてください。彼は、他の人間に
共感を覚える能力は人類が生き延びるための根本をなすものだ、と言っているのです」。


 ひょっとしたら、その通りなのかもしれない」。









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思考と感情(2) [海外メディア記事]

 また『シュピーゲル』誌の「感情(Emotion)」に関する記事の第二弾です。また、早とちりをしたようですが、この一連の記事のタイトルは「思考と感情」というよりは、「謎に満ちた群棲動物」の方ですね。「思考と感情」は、この記事が属するカテゴリーに対する名称のようです。でも、まあ、訂正しないでおきます。

 ちなみに、最初に出てくる「著者」とは、この記事を書いているライナー・トラウプという記者のこと。科学に特化した記者なのでしょうか? どうも雑誌の内部の構造やどういう人が記事を書いているのか、といった基本的なことがいまいち判っていません、遺憾ながら。 

 フリードリヒ2世のことも知りませんでした。検索すると、いくつか解説しているサイトがありました。興味ある方は検索されたし。


http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,620709-2,00.html






「思考と感情 

  謎に満ちた群棲動物


  第二部:共感の能力はわれわれが進化の過程で受け継いだものの一部である



 ここで筆者は、シュタウフェン王朝時の皇帝フリードリヒ2世が800年前に行ったとされる残忍な実験のことを思い出す。どんな原因で脳が自ずと発達していくのかを突きとめるために、皇帝は二人の子供を乳母に養育させたのだが、彼は乳母に、子供たちと話すことを厳禁した。皇帝の予想とはちがって、子供たちは自然発生的にアラム語を話し始めることはなく、全体的に発達が遅れ、ついには死んでしまったのである。

 
 中世中頃の人間の試みは現在とは何の関係もないではないかと思う人がいるかもしれないが、そうではない。それに似た形式で、コミュニケーションや社会的なつき合いから人を除け者にすることは「いじめ(Mobbing)」として知られ、広くいきわたっているからである。いじめはどんな年代の人々の間でも生じるし、ひどい場合は死に至らしめることだってあるからである。


 医師や心理学者は、感情的な共感が著しく乏しい患者がいる場合、自閉症に言及する。この病気は、ミラーシステムの障害に他ならない。「自閉症児においては、2歳の頃にすでに、自然に生じる表情や身振りを模倣しようという能力が低いことが見られる。… 彼らには、他の人間たちからなる世界において居心地よいと思う感情が欠如している。人間相互の関わり方に対する彼らの理解力は、彼らの合理的な知性に比べてはるかに劣っている」。
 

 ヨアヒム・バウアーは、その示唆に富む著作『あなたが感じていることをなぜ私が感じられるのか』でそう記している。フライブルク大学で神経生物学と精神身体医学を教えているバウアーは、同時に、感情的共感が学校や職場での日常的状況において阻害されると、いかにネガティヴな結果になるかを強調している。不安や、緊張やストレスはミラーニューロンのシグナル送信率を低くし、学習や労働の能力を大幅に悪化させるのである。


 喜ばしいことに、幸福感で人を包みこむような共感のケースもある。この状態をわれわれは愛と呼ぶ。オランダ人のフランス・デ・ヴァールは、感情の社会的本性について研究中である。アトランタ大学で教えているこの行動学者の専門は、人間の近親者で人間と同様に動物学的には霊長類に属しているサルである。サルの社会生活に関するデ・ヴァールの長年にわたる観察は、神経生物学者の発見を裏書きするだけにとどまらない。彼は、さらに、道徳的に行動するという能力は、人間に限定されているわけではなく、生まれつきの才能としてサルの際立った能力であるという結論に達した。彼の経験と論証は、先ごろドイツ語で『霊長類と哲学者 進化はいかにして道徳をもたらしたか』という著書で述べられている。


 デ・ヴァールは、人間は元来は非社会的な動物であり、社会的な強制によってのみコントロールできるという見解には、断固として反対の立場である。この理論は、17世紀の英国の哲学者トマス・ホッブスが「人間は人間にとって狼(homo homini lupus)という古いラテン語の格言を念頭に置きながら概念化し、それ以来、西欧人の思考の公理になったと言ってもいいくらいである。その理論によれば、もし合理性と道徳性が一種の文化的非常ブレーキとして作用しなければ、われわれは、エゴイスティックに暴走する、破壊的な本能のなすがままになってしまう宿命にあるだろう、というわけである。


 無意識の偉大な開拓者も、こうした悲観的な人間像を大いに強化した。「人間は元来相互に敵対心をもって臨むものであるために、文化的な社会はたえず崩壊の脅威にさらされている」。フロイトは『文化への不満』でそのように記した。



 デ・ヴァールは、ラテン語の格言には誤りが二つあることを指摘する。第一に、狼は、地球上でもっとも群居性が高く、最も協調性のある動物の一つであった。第二に、その格言は、「われわれが骨の髄まで社会的である」という事実を否定していることである。ダーウィンの説は、道徳的行動を進化の産物として認識できるようにした、というのである。いくつか例をあげよう。



 ・アカゲザルは、電線を引っ張るとエサをもらえることを学んでも、電線を引っ張ると仲間に電気ショックが加えられるならば、引っ張るのをやめる。仲間に苦痛を加えるくらいならば、腹をすかしているほうが良いのである。



 ・あるチンパンジーは脅したり厳しく叱っても何とも思わないが、その共感に訴えると心を動かした。そのチンパンジーと親しい女性の研究者が泣いてしまったことがあったが、チンパンジーはすぐに駆け寄ってきた。


 ・ メスのボノボのクニは、とあるイギリスの動物園で、ムクドリを捕まえたのだが、飼育係の女性から、その鳥を放すように迫られた。クニは一番高い木のてっぺんまで登り、両手を自由にするために、両足で木の幹をはさみつけた。そして小鳥の二つの羽根を慎重に広げて、大きく弧を描くような方向めがけて小鳥を放り投げた。



 ・ たとえば権力闘争に敗れた失意の仲間に対して、抱擁のような慰めのしぐさをすることによって、同情の気持ちを表明する動物もいる。



 ・感謝の気持ちも動物界には広く見られる。チンパンジーは、仲間から熱心に毛づくろいをしてもらうと、エサを気前よく分けることによって、お返しをする。



 ・オマキザルは平等と正義に対する並外れた感受性を示した。番号札と、質・量ともに様々なエサを交換できるような実験をした。同じ「仕事」に対して違う報酬を提供したところ、たちまち、オマキザルは協力を拒んだのである。



 共感し、社会的・道徳的振る舞いをする人間の能力は、われわれが進化の過程で受け継いだものの一部である、とデ・ヴァールは結論づける。神経学者が図解で示してくれるように、こうしたメカニズムは、発展史的には部分的にきわめて古い脳の領野において成立した。それは、左脳に位置する言語や認知の能力よりもずっと以前に形成されたのである」。(以下続く)











 

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思考と感情(1) [海外メディア記事]

 また『シュピーゲル』誌の、長いが興味深い記事を紹介します。「感情(Emotion)」に関する様々な研究の現状がテーマです。三部構成のまず第一弾です。


http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,620709,00.html


「 思考と感情

  第一部:謎に満ちた群棲動物
  

 「私」はどのようにして「私たち」に結びつくのか? 感情は思考とどのような関係にあるのか? 道徳と非道徳は、何によって人間のうちにやってくるのか? 学際的な研究によって、研究者たちは進化のコンパスというべきものを発見しつつある。

 始めに「私たち」があった。胎児はへその緒で母親と結びつき、原初的な共同生活に守られながら成長する。自我がやって来るのはもっと後になってからだ。

 幼児は、生後12ヶ月から18ヶ月の間に、自分を、周囲の世界とは切り離された独自のものとして経験し始めるのだが、それに先立って幼児は共生関係を体験し、自分自身を直感的に社会的存在として感じるのである。母親が食べたり飲んだりするもの、母親がしたりしなかったりすること、母親の生を豊かにしたり害したりするもの:これらすべてが、生成しつつある人格を備えた生命体に直接的な影響を及ぼすのであり、その生命体が世界および同類に対してどのような関係をもつかということにも直接的な影響を及ぼすのである。


 子供は、始めから、母親に対する信頼をもち合わせているかもしれないし、あるいは、母胎にいるときや乳児期にすでにストレスのホルモンで満たされていて、ひょっとしたら一生ずっと、自分はなすすべもなく捨てられてしまったのだという意識下におしこめた経験に苦しむことになるかもしれない。そのいずれになるかは、その子が子宮内や幼児期に成長していく時の安心感が損なわれなかったか、それとも母親の世界が動揺することで子供の安心感がかき乱されてしまったかによるのである。


 トラウマの研究は、年金がもらえる位の年齢になっても、1943年から1945年の空襲で蒙ったトラウマに苦しんでいるドイツ人がいる―中には、空襲のときまだ母胎にいたり乳飲み子として母親に抱えられていた者もいた―ということを示している。テロ攻撃のテレビ映像のような偶然のきっかけで、人生の最も初期にまでさかのぼり、膿瘍のように固まってしまっていた古傷がぱっくり口を開き、急性の疾患が始まるのである。


 精神分析が、100年以上も前から、無意識という心の隠れた大陸を解き明かし始めて以降、感情の力はつねにますます経験的な科学のテーマとされてきた。しかし、生物学者や行動科学者や人類学者の観察と発見によって、{感情という}非認知的な知覚が決定的に重要であり、そしてそれらのニューロンが脳のどこに場所をもっているかということが確固とした形で証明されたのはつい最近のことである。



 フランスの哲学者ルネ・デカルトの根本命題「われ思う、ゆえにわれあり」は、西欧人の思考を表わすものとして頻繁に引き合いに出される信仰箇条の一つである。しかし、生物学的認識の観点から見ると、{デカルトが主張する}理性の誇り高い絶対性なるものは何一つ残らない。『デカルトの誤まり』。今日、脳研究で世界をリードしている学者の一人であるアントニオ・ダマシオの著作の一つは、そのような題名になっている。さらに別の著作は『われ感じる、ゆえにわれあり』という題名がつけられている。


 直感を一種の進化のコンパスとして解読するような学際的な研究結果が次々と出ている。感情の社会的本性についてや、脳の構造に感情がどのように局所化されているか、それが意識に対してどのような意義をもつか、という点については日進月歩の勢いで知識が増大している。


 まったくの偶然から、1996年、イタリア人のグループは新たな次元に進むことができたのだが、それは、そのグループの指導者で生理学の教授ジャコーモ・リッゾラッティの言葉を借りると、「アインシュタインにも似た」出来事だった。彼のチームはパルマ大学で、チンパンジー相手に、合目的行動がいかに計画されいかに実行されるかを研究していた。動物の脳は、麻酔にかけられた上で、覚醒しても痛みを感じたり邪魔になったりしないような超微細なセンサーに結びつけられた。チンパンジーがクルミのほうに手を伸ばそうとするたびに、特定の神経細胞(「ニューロン」)が活性化し、電気信号を送りつけるので、そのたびに計測器が鳴り響いた。


 ほんの気まぐれから一人の研究者がクルミの方に手を伸ばした。と、そのときである。チンパンジーの脳と結びつけられていた計測器が、それまでと同様に鳴り響いたのである。科学者たちは、まず、技術的なミスだと思ったのだが、どこにも間違いがないことが判明した。研究者のことをじっと見ていたチンパンジーが、まるで自分を人間の立場に置き換えたかのように振舞ったのである。他人の動きをたどることによって、チンパンジー自身のニューロンがその行動を写しとって、まるで自分がその人の行動を行ったかのような結果になったのである。

 それ以降、ミラーニューロンという名で呼ばれるようになったのだが、このニューロンはやがて人間にもあることが実証された。それが見いだされる脳の範囲は、人間の場合、当然ながらよりいっそう広い。ある行動が話題になっているのを耳にするだけで、人間のミラーニューロンは共鳴を始めるのである。

 それによって発見されたのはまさに「共感の生物学的土台」であった。これは、つい先ごろ出版されたリッゾラッティと共同研究者による研究報告書の題名である。これまで以上にわれわれは、なぜ新生児にとって感情の共感―見つめ合ったり、触れ合ったり、話しかけることによる共感―が、空腹を満たすことと同じくらい生きることにとって重要であるかを理解できるようになった。身体の成長が絶えず栄養補給を求めるように、精神的、感情的、社会的成長は絶えず共感を要求する。この共感が生じなければ、脳の特定領域が全体的に萎縮し、重大な発達障害が発生することになるのである。


 人間が母胎にいる頃からなす経験はすべて脳に痕跡を残す。最近の研究が示していることだが、脳の構造と機能は、いわば、良好な社会的関係が何かを、神経生物学的な仕方で、知り尽くしているのである。もちろん、それは使用することによって活性化され、使用されなければ消えてしまう素質のようなものである。生まれつき備わっているのは、共感の行為(Empathie)ではなく(この外国語は、感情移入(Einfuhlung)というドイツ語の概念が英語に翻訳されたときに出来た語である)、ミラーニューロンの体系における共感の能力なのである。


 だから、「使わなければ失われる(Use it or lose it)」という原則は、肉体的運動と同様、社会的・感情的知性にも当てはまる。「ですから、私たちの脳は、思考の器官というよりは、むしろ社会的器官(Sozialorgan)なのです」。ゲッチンゲン大学の神経生物学者ゲラルド・ヒュッターは、明快で繊細な入門書『人間の脳のための手引き書』でそう説明している」。(以下続く)












 


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『フィンセント・ファン・ゴッホ – 天と地の間:風景』展 [海外メディア記事]

 いつかも『ル・モンド』紙のゴッホ展の紹介記事を訳しましたが、またバーゼルでゴッホの風景画だけを集めた展示会があることを知らせる記事があったので紹介します。下のURLをクリックしてみると判りますが、ちょっと変わった趣向の記事です。スライドショー的に画面が切り替わりますが、画面ごとに付されている簡単な紹介文の訳を下に示しておきます。4番目に出てくる絵は、初めて見ましたが、印象的な絵ですね。


それにしても、行けるだけの暇があれば…

http://www.lemonde.fr/culture/portfolio/2009/04/23/bale-accueille-70-toiles-de-van-gogh_1184644_3246.html#ens_id=1184735





バーゼル美術館ファン・ゴッホの作品70点を一堂に集める



 1.4月26日から、バーゼル美術館は、オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホの風景画だけを集めた『天と地の間:風景』という展示会を世界で初めて開催する。


 2. 世界的に知られた作品と、それほど有名ではない絵画を合わせて70点が展示される予定。


 3. ファン・ゴッホは、自らの価値観を19世紀から受け継いだにもかかわらず、奇妙なことに、自画像ほど風景画には意義を認めていなかったのであるが、それでもやはり、自分の作品の総体の中に関連性と一貫性を打ち立てようと試みていた。そして、それこそ彼のとても偉大な現代性の源泉の一つなのである。


 4.「風景画はゴッホの作品の重要な部分をなしているだけではなく、彼の画家として個性と彼の芸術に深い影響を及ぼしています」。そう説明するのは、企画展委員のベルンハルト・メンデス・ビュルジ。


 5. この企画展には、啓発的な面もあり、画家の望みに忠実に、一連の絵画の統一性を再構成しているのだが、それは「(絵画に描かれた)過ぎ去りつつある一瞬一瞬をもっと広がりのあるどっしりとした関係の内に組み込み直すためなのです」。そう説明するのは、企画展委員の一人ニーナ・ツィマー。


 6.  バーゼルに集められた70点の絵画(そのうち何点かはほとんど一般には知られていない)は、ニュー・ヨークから、オランダ、ベルリン、ダブリン、エルサレムや神奈川を経由して、ホノルルに至るまでの全世界の美術館や個人的コレクションに由来するものである。


 7. 企画展『ファン・ゴッホ:天と地の間:風景』は、2009年4月26日から9月27日までバーゼル美術館で開催」。
 




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肥満は地球にやさしくない [海外メディア記事]

 肥満と温暖化をリンクさせたこの研究は、さっそく、各国のメディアで取り上げられたようです。それだけ視点が斬新だった、ということでしょう。とりあえず、CNNのサイトからとりました。


http://www.cnn.com/2009/HEALTH/04/20/thin.global.warming/index.html


「痩せているほうが、地球温暖化の抑止には良い

 スマートなほうがいい理由がまた一つ出現した。新たな研究によると、痩せた人のほうが、地球温暖化に対する貢献度は低い、というのである。

 ロンドン大学衛生熱帯医学大学院の研究者たちが公表した研究によると、食糧生産や輸送の要因を考えるならば、体重の重い人々からなる集団は、軽い人々からなる集団に比べ、地球にとって有害なガスを放出していることになる。

 
 重い人々を動かすにはより多くのエネルギーが必要であるならば、重い人々の輸送にはより多くの燃料が必要であり、それによりより多くの温室効果ガスが発生する、と研究者たちは記す。


 「主なメッセージは、痩せたままでいようということ。自分の健康にもいいし、地球の健康にもいいのですから」。そう言うのは、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院の上級講師フィル・エドワーズ。

 この研究が地球温暖化問題に対するこうした新たなアプローチを提供する折りも折り、合衆国の国会議員が気候変動に関する立法の今後を議論することになっている。今週、米国下院エネルギーおよび商業対策委員会が、エネルギーと気候の包括的法案についての議論を開始する予定になっている。金曜日には、環境保護庁が6種類の温室効果ガスが健康被害を与える可能性があるとの声明を発表したが、この声明によりそれらのガスの規制が促進されることになるだろう。


 世界規模で見れば10億人以上の成人が太りすぎであり、約3億人が肥満である、と研究は述べる。一般的にいって、肥満の尺度の一つである肥満指数(body mass index=BMI)は、中国からヨーロッパ、アメリカに至るまでの世界中の大半の国で増加傾向にある。


 BMIが増加するのは食事と自動車による移動がどこでも手に入るからである、とエドワーズは言う。人々は30年前ほどは活動的でなくなったし、ファストフードの広がりが人々に与えたのは、健康的でない高エネルギーのオプションであった。
 
 統計的方法を使い、研究者たちは、1970年代の英国でのBMIの分布状況―その時、肥満とされたのは全人口の3.5%―
を、2010年の英国のBMIの分布状況の予測値(肥満率を40%として)と比較した。

 
 「環境に対するインパクトという点では、スリムな集団のほうが二酸化炭素排出量はずっと少なかったのです」とエドワードは言う。


 研究によると、40%の人が肥満である集団は、3.5%の人が肥満である集団に比べて、その全エネルギー消費のために、19%も多くの食料エネルギーを必要としているという。


 食料消費が19%増加するということを言い換えてみれば、温室効果ガスの排出量が2億7千万トン増加する、ということであると研究は言う。


 「この発見は意義深いもので、体重を減らすことが、個人の健康を著しく増進するのみならず、地球に対して多大な貢献をすることを明らかにしてくれたのです」と語るのは、この研究に参加はしなかったが、コロンビア大学公衆衛生学部の準教授パトリック・キーニー。

 肥満率という点では、合衆国はこの研究のモデルとなった国と大差がない。マイヨ・クリニックによると、わが国は肥満の人を33.3パーセントも抱えている。


 エドワーズによると、政府は国民がもっと活発に体を動かすように促進する責任があることをこの研究は示唆しているというのである。自転車を使ったり歩いたりして、体を使って移動すれば健康的な体重を維持することに役立つが、そのためには道路が安全である必要がある、と彼は言う。


 「もし政府が、自らの体を使った通勤や通学を促進したいならば、そのほうが環境にも個人の健康にも良いと思いますが、そのためには、環境を、そうしても安全であるようにする必要があります」と彼は言う。


 気候変動が世界的大問題として人々の関心の的になったのは最近のことだが、化石燃料と体内にある脂肪との関連について学者が思いをめぐらしたのは、今回が初めてではない。

 
 1978年は合衆国がオイル・ショックを経験した年だったが、その年に『全米公衆衛生ジャーナル』に載った研究は、全米の18歳から79歳の太りすぎの人が皆その人の最適な体重になったとしたら、それによって節約されるエネルギーは、ガソリン13億ガロンに等しいだろう、ということを示していた。

 
 ダイエットの期間が終わった後は、約7億5千万ガロンのガソリンが毎年節約されることになるのです、と言うのはイリノイ大学の教授ブルース・ハノンと、今はアリゾナ大学名誉教授のティモシー・ローマンである。

 
 今日、研究の示すところによると、肥満の蔓延のために合衆国は、年間、約1千億ドルもの負担を強いられている、と述べるのは、『公衆衛生と社会正義』というウェブ・サイトを運営しているポートランド州立大学のマーチン・ドノヒュー博士。エネルギー消費という点で見ると、平均的な食べ物があなたの食卓のところにたどり着くまでに1500マイルかかっているのです、と彼は言う。


 肥満を抑える対策としては、学校でもっと健康的な食事を提供したり、食べ物のパッケージやメニューに栄養の情報を記載したり、トランス脂肪を禁止することがあげられます、と彼は言う」。


 






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すたれつつある男性という性(5) [海外メディア記事]

 『シュピーゲル』誌の男性を見舞う危機を特集した記事の最終回。

 ちなみに、第一回目の記事を読んで、全体のタイトルを「すたれつつある男性という性」としたのですが、これはいささかフライイング気味のタイトルのつけ方でした。その時点では、まだ全体を読んでいなかったのですが、もっと生物学的な話になるのではと勝手に考えて、先走ったタイトルにしてしまったのですが、やはり、原文にあるとおり、全体を表わすタイトルは「忘れられた男性という性」の方が良かったと思います。



http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,601269-5,00.html


忘れられた性

 第五部:若い男性の問題はこの役割理解と密接に関連している


 男性が直面している危機については、おそらく数多くの原因がある。結局のところ、原因は一義的なものではない、とハノヴァーの児童心理学者ヴォルフガンク・ベルクマンは語る。決まった答えがあるわけでもないし、エレガントな説明があるわけでもありません。男性の若者はいつも絆のようなもの、拠り所のようなもの、男として憧れをいだける対象を求めています。こうした手本となるようなもの―俺はこうなりたいんだというもの―が、今日の彼らには欠けています。これが最大の問題なのです。

 
 たいていの若い女性は非常に早くから柔軟に人生設計を立て、やがてキャリアと家族と子供をどのように組み合わせればいいかを考えるが、若い男性の大多数は、相も変わらず、伝統的な男性像に定位している、とビーレフェルトの社会学者のクラウス・フレルマンは述べる。彼らは自分を家族の主たる扶養者と見てはいるが、しかし家事や育児で重要な問題を進んで引き受けたいとはまったく思っていない。現代の社会で男性が果たす役割は何かを定めることは、男性自身にも難しいことに思われているのである。



 フレルマンは、若い男性の問題がこうした役割の理解と密接に結びついていると考えている。彼の見解によると、男らしさについて太古の昔から受け継がれてきた中核的な要素、言い換えれば、人格の深いところに根ざした役割行動の型のようなものがあるという(女性の場合は、それに見合う女らしさの型がある)。


 男性の場合、この役割行動は、個体として生存することを確保することに役立つ活動によって示されている(女性の場合は、社会的で、他人に配慮する生活のスタイルが中心にくる)。それは、自己主張や、自他の区別の明確化、自己の拡大、社会的空間の制圧、自己抑制と自己統制などの概念に結びついている。

 
 フレルマンによると、教育学者にとって、今日まず問題とならざるを得ないことは、こうしたステレオタイプの役割の型から始めるとしても、結局はもっと柔軟な型に取り替えなければならない、ということである。そのために必要なことは、たとえば、若い男性に対して、社会的な共同体での生活に喜びを覚える機会や、長所も短所ももった自分の身体に対してもっと感受性をもてるような機会を与えることである。そのさい大切なのは、若者の特性―たとえば運動に対する欲求―を考慮することであり、新しい形式の身体的活動についてよく考えたり、不透明ではない、はっきりした付き合い方を見いだすことである。


 別の専門家、たとえば、アイヒシュテット=インゴルシュタット・カトリック大学の基礎学校教育学者クラウディア・シュールタイスは、男子生徒がもっと居心地がよく感じられるように学校のあり方を変えることに賛成の立場である。男子生徒には、もっと休息と運動の時間を認めるべきであり、教材にももっとアクセントをつけて、男子生徒のためにもっと競い合う機会を与えるべきである、というのである。…


 教育現場に女性の教員が多すぎると点については、シュールタイスは決定的な問題とは見ていない。「男子生徒が男性の先生には違った反応を示す、たとえば、もっと注意深く話を聞くということ、そして男性の先生が男子生徒の手本として機能するということは周知の事柄です。しかし、男子生徒が基礎学校で女性の先生の授業しか受けないことが不利に働くかどうかという点については、はっきりしたことはわかっていませんから。研究結果がほとんどないのです」。


 
 このアイヒシュテットの女性研究者が強調するところによると、学習スタイルや学習意欲に応じて、男児と女児に差をつけた扱いをしなければならないことはあるという。「両性間の扱いに敏感な」学校は存在するし、クラウディア・シュールタイスの考えでは、女性の教師に、男子生徒にも合うような授業スタイルをしてもらうようにすることは可能だという。


 少年たちに関しては難題が山積しているにもかかわらず、一つのことは忘れてはならない。女性がいたるところで優位に立っているわけではないし、とりわけ大人になってからも優位を保っているわけでもないということである。


 大学入学時のスタートラインでは女子学生のほうが男子学生よりも多いのだが、大学卒業5年後では、男性のほうが、女性よりも職に就いている数は多い。順調に昇進している人の中で女性の占める割合は、明らかに50%を切っている。


 お金については、まだ平等というには程遠い。2005年の数字だが、女性従業員の平均年収は男性に比べて29%も低かった。比較可能な活動に対しても、女性のもらう報酬は、男性より17%も低い額であった。


 クラウディア・シュールタイスは次のようにまとめている。「男の子は、ひとたび学校を終えてしまえば、もう何も問題はないのです」」。 








 











 


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