私はいっぱい [海外メディア記事]
少し前のことになりますが、『シュピーゲル』誌が「いかにして私は成立するのか」という特集を組んで、いくつかの記事をアップしたことがありましたが、その第一弾を紹介します。題名は「私はいっぱい」という一風変わったもの。これは‘Ich bin viele’を訳したものです(英語にすれば ‘I am many ’)。
ちなみに、最後のほうでなぜか「声」が話題になっていますが、これは調和や気分や声が、ドイツ語では‘Stimm’という語幹に関係した言葉であることに由来しています。
http://wissen.spiegel.de/wissen/dokument/dokument.html
?id=65111033&top=SPIEGEL
「 私はいっぱい
神経学者、脳研究者、心理学者、哲学者――かつてないほど多くの学問分野が、同一性や人格がどのように成立したのかを解明しようと試みている。
人生の事柄は、たいていの場合、一見してそう見えるようなものではない。「なぜこんなに多くのことが上手くいかないのかと自問していらっしゃるんですね? それは人間がいっぱいでいたいと思っているからですよ。文字通りの意味ですよ。たくさんのものでいたいんです。いっぱいでね。いくつもの人生がほしいんです。ただそれは上辺だけのことで、心の奥底ではそうでないことを望んでいる。結局のところ、一つになることをみんな目指しますからね。自分と一つになる、すべてと一つになるのをね」。
聞いていてイライラするような話をするのは、ダニエル・ケールマンの小説("Ruhm"(名声))に出てくる謎のタクシー・ドライヴァー。この本では、現実の見せかけだけの側面と、男性または女性の「私」がもちうるさまざまな顔が問題となっている。
「私」を求めているのは物書きだけではない。進化生物学者、医学者、哲学者、心理学者、脳科学者、神経科学者、生物学者――かつてないほど多くの学問分野が人間という謎を追っている。
というのも、人間は奇妙な生き物であるからだ。人間は、生を色彩豊かにする(同時に複雑にもする)もの―たとえば、銃、精神分析、iPodなど―を休むことなく作り出したり、暗い広間に座って動く画像に感動して涙を流したり、長円形のプラスティック板に乗って山を滑り降りたり、月に行ってそこに小さな旗をたてたりする。
女性は女性で、靴やハンドバッグを大量に買ったりウェストや目尻のしわを気に病んだりする。
こうした活動に加えて、人間は、飽くことなく自己の探求に没頭する唯一の生き物である。人間は、今あるような自分がいかにして生じたのかを知りたがるのである。
急速に変貌する社会にあって、人間は自己の確証を求め、自己自身を探求し、次のように問うのだ。どうして私は私になったのか、と。遺伝子、両親、学校の先生、文化環境や社会環境は、「私」が形成される際にどのくらいの役割をもつのか?
弱く、優柔不断な「私」を誰も望まない、誰もが、人生に満足し成功し健全でいられるための前提として、強い自己があることを自分に望む。それなのに、なぜ、私たちは、今いるとおりの姿でいるのか? なぜ、おどおどした人がいるかとおもえば勇気ある人もいるのか、そして、思いやりのない人がいる一方で、進んで手助けをして協調性のある人もいるのはなぜか? せっかちな人もいる一方で落ち着いて気長に構えていられる人もいるのはなぜか?
そして、ヴィネンデン銃乱射事件直後の今は心が痛む問いだが、子供が成長してティム・クレッチマーのような殺人者になるのはなぜか(訳者註――ヴィネンデン銃乱射事件は2009年3月11日にドイツのヴィネンデンで起きた銃撃事件。15人が殺害された。犯人は17歳の少年のティム・クレッチマーと見られるが、彼は自殺した)。赤ん坊が大きくなって近親相姦の父親ジョゼフ・フリッツェルのような犯罪者になるものもいればアルバート・アインシュタインのような天才になるものもいるのはなぜか? (訳者註――ジョゼフ・フリッツェルは娘を24年間地下室に監禁し7人の子供を産ませた)。
親の教育や影響や手本となるような親の姿があったから? そんなことは全部でたらめ――教育の終わりをアメリカの心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、数年前、声高に叫んだ。遺伝子と同年代の仲間が子供の発達に最大の影響をもつのだからと。遺伝的素質と友人のサークルからなる産物としてのみ自己を捉える――大抵の人はそんなことは信じないだろうし、それは正しいのである。
なぜなら、そうなると自己責任とモラルの余地がどこにもないことになるからだ。今日ではアイデンティティー管理とも好んで呼ばれたりしているが、幸福と自己実現の追求が可能なのは、自分の人格に集中して向き合うことがある場合に限られる。
16世紀の終わりに詩人ミシェル・ドゥ・モンテーニュがすでに見いだしていたように、私とは「たんなるつぎ布やボロキレからひどく乱雑で不恰好に作られたので、いつ何時でも布の一枚一枚が勝手に踊りだしてしまうような」作り事なのだろうか? 多くの人にとってはそうであろう――多くの人は自分自身に対して居心地の悪さを感じており、人と違った点をなくそうとして、その代わりに何らかの美点を得ようと思うのだ。
自分の性格に満足しない大人は、どの程度まで性格を変えることができるのだろうか? 私たちは、望みさえすれば、別人になれるのだろうか? 限界はどこかにあるのだろうか? 特定の行動パターンや関係のパターンは固定しているが、それ以外は固定していないということなのだろうか?
そもそも骨組みがしっかりしていて、はっきりとした輪郭をもつ自己なるものは存在するのだろうか? むしろ、私たちの生を規定している多様な私の状態や役割を考えるならば、「私はいっぱいある」のほうが正しいのではないか? そして、自分自身の自己にいたる道は、それゆえ、終わりのない探求プロセスであり、しかもそのプロセスは現代のテクノロジーによって難しくされているのではないだろうか?
自分のプロフィールを公開し、最適化し、比較することは、現代の人間に課された義務である。リアリティーTV、TVの安易なドキュメンタリー、結婚紹介所、ウェブポータルやコミュニティーなどが自分のアイデンティティー形成のために混乱するほど多くの機会を提供している。
ネットやテレビも、自分自身を表現するためのこの上ないほど多様な形式にとってのインスピレーションの源になっている。「ドイツの次のトップモデル」や「ビッグ・ブラザー」(どちらもTVのオーディション番組―訳者註)や、インターネットのFacebookやMyfaceにおける今流行の自己の売り込みやアイデンティティーの演出がどれほど自己に影響力を及ぼすかどうかは、簡単には言えない。人に見られたとき、わずかな注目や認知しかえられない「私」は、どれほど安定できるのか、それとも傷ついて壊れてしまうことさえあるのではないか?
… 私は何を知りうるか、私は何をすべきか、私は何を望んでいいのか、これらの問いは、哲学者で著述家のリヒャルト・ダヴィッド・プレヒトが彼のベストセラー『私は誰か、そして私はどれくらいたくさんあるのか』で導きの糸とした問いである。
プレヒトの楽しい哲学的な読み物がベストセラーの一覧に載って約15ヶ月経つが、それはこれまでで最も成功した実用といっていいだろう。いつまで経っても需要がなくならないのは、自分の真の自己に対する人間の渇望がいかに強いものであるかを証明するものである。
真の自己が見つかったと思っても、それは批判的鑑定にかけられて懐疑の内で改善されなければならない。かくして、何年も前から各種の入門書が書店にあふれ、それと平行してコーチの人材市場がふくれあがった。
週刊誌『Die Zeit』の試算によると、指導的立場にある人の二人に一人にはサポートしてくれるコーチがついているらしい。ドイツだけでも約35,000人の専門のコーチが活動しているが、専門家によればしっかりしているのはそのうち5,000人程度にすぎないらしい。
儲かる商売としてのみならず、まじめな問いかけとしての私の探求には伝統がある。19世紀の終わりにはもう、科学としての心理学が発達しており、私たちがいかにして「私」と呼ばれるものになるのか、感情と記憶はいかにして成立するのか、私たちの行動をコントロールしているのは何かを基礎づけようと試みていた。
近年では、とりわけ神経科学が、人間の精神や意識、性格や人格の成立を基礎づけようという野心に燃えている。「われ思う、ゆえにわれあり」と、17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは言った。それに対して、「存在が意識を規定する」とカール・マルクスは考えた。しかし意識が存在を規定することもあるのではないだろうか? または、「存在は意識の調子を狂わせる」という命題や、ウッディー・アレンが言ったように、「すべては幻想にすぎず何も存在しないとしたらどうだろう。もしそうなら、じゅうたんにお金を払いすぎちゃったよ」という命題も正しいのではないだろうか?
ジョン-ディラン・ハインズは変わった経験を通して心理学にたどり着いた。彼は、問題に取りかかっているときは問題が解けないのに、まったく別のことに関わっているときに解答が苦もなく意識に現われた、ということが再三あった。
「それでこう自問したんです。いったい僕の代わりにこの問題を解いたのは誰なんだ?」。ベルリンの計算論的神経科学ベルンシュタイン・センターで研究グループのリーダーをしているハインズはそう言う。
ハインズの確信によると、私たちの意識は特定の思考プロセスのきっかけを与えはするが、しばしば決定的で創造的な刺激を与えるのは無意識のほうである。そのことが脳の中でいかに行われるかを、ハインズは研究しその発見によって世界的な評価を得た。
すでに精神分析の創始者であるジグムント・フロイト(1856~1939)は「無意識が指導的特質をもっていること」を確信していた。彼は、「私」の意識を、エス、自我、超自我の三つの部分に分けた。エスの部分には食欲や性欲の衝動や、愛や憎しみといった感情もあり、その対立物である超自我には教育によって内面化された規範、規則、理想像がある。
自我、つまり、私たちが意識している部分であるが、それはうかうかしていられないのである。強力な無意識と厳格な超自我といかにすれば折り合いがつけられるかを考慮しなければならないからである。理性的な自我は感情的なエスに対して勝つ見込みがないこともしばしばある。「私は感じる、ゆえに私は存在する」。アメリカの脳研究者で意識の解明について何冊もの書物を書いたアントニオ・ダマッシオは―哲学者ルードヴィッヒ・フォイエルバッハ(1804~1872)に倣って―自分の信条をそう述べている。
私たちの感情が行動に影響を及ぼしたり身体的な行為に反映したりするということは確証済みの事柄である。自分の感情を一貫して否認する人は、自分の自己に対していわば裏切りを行っているのである。感情が人格を引き裂いて現われてはどれほど容赦なく人を破壊するものであるかは、すでにジェーン・オースティン(1775~1817)が印象深い形で描いていた。
『分別と多感』であれ『自負と偏見』であれ、このイギリスの作者は人間の感情をこの上なく巧みに描写した。感情は抑圧されればされるほど、それだけ強烈に表面下では燃え上がるものだし、激しく否定されればされるほど、それだけ勢いよく広がっていくのである。
感情の研究者ポール・エクマンは、サンフランシスコ大学の心理学の教授だが、世界でもっとも成功した虚言の専門家と見なされている。ずいぶん前から彼は、喜び、悲しみ、怒り、不安、嫌悪感、驚き、軽蔑、好奇心といった感情を顔のうちに認識する授業をしている。
「私がビル・クリントンをテレビで初めて見たとき、彼の顔の表情が私の注意を引きました」と、エクマンは『南ドイツ新聞』とのインタビューで述べた。「私はそれを「クッキーの缶に手を突っ込んでいる現場を取り押さえられてもママは僕のことが大好きだもんねという顔」と呼びたいものものでした」。クリントンが後に大統領でありながら実習生のモニカ・ルウィンスキーとの情事にのめりこんだことは、エクマンには少しも驚きではなかった。
色恋沙汰にまめな傾向は顔に出るのかもしれないが――それにしても、ある人間の人格がまさにそのように構成されるのはなぜかという点について識者の見解は分かれている。哲学者、心理学者、神経科学者は活発な対話を交わし、時として反駁しあい、人間の本性をこれ以上はないくらい別様に解釈する。
たとえばイタリアの医師のヴァレンチン・ブライテンベルグは神経学や精神分析に対して次のように問う。「意識は脳の中に探すことができるのでしょうか? 酔っている状態は? 肥満の状態は? 外国人であることは? 熟睡している状態は? 愚かなことは? みんなそのことをよく考えてみるべきでしょう。それだけでプラスになるのです」。
ケンブリッジのハーバード医科大学の精神科の教授ジョン・レイティーは脳を生態系として見ている。それは、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画にも、民主主義の創造にも、原子爆弾の創造にも、精神病にも責任をもつが、最初の休暇のときやホットドックの味の記憶にも責任をもつ。
「この器官がこれほど多種多様な能力を包括しているなんてどうしてできるでしょう?」とレイティーは問う。
ライプツィヒ大学政治科学インスティチュートの倫理学、政治学、修辞学の教授で、社会学者のウルリッヒ・ブレークリンクは、一種の多様なる自己としての企業家的な自己について語る。「その自己は、本来は統合できない多くの私を自分のうちに統合しなくてはなりません。したがって、アイデンティティーとは、今日では、競合したり協同したり、相互に争い合ったり相互に結合したり、相互に意思を交し合ったり互いに無視し合う多くのアイデンティティーからなる領野なのです」。
なにやら複雑なパッチワーク式のアイデンティティーのようにも聞こえるし、内部に駆り立てるものがいて、ゲームの規則に従いながら、絶えずよりよい私を求めているようにも聞こえる。しかし、「私」がバランスを崩し、自分が自分自身と調和していないように感じるならば、どうだろう?
「声とアイデンティティーは密接につながっています」。そう説明するのは、デュッセルドルフで声や話し方のトレーニングをしているカタリーナ・パードルシャットさん。経済危機以来、個別トレーニングのために彼女のもとを訪れる経営者や企業家が増えているという。彼らは、パードルシャットさんによれば、自分自身に投資をしているのであり、振る舞いや声やボディ・ランゲージを最大化しようとしているのだという。「声は心の聞こえる表現なのです」とパードルシャットさんは言う。声はかすれて、苦しそうで、圧迫され、押しつぶされ、わざとらしくかつ繊細に聞こえることもあれば、明瞭で、堂々として、確信を持って、力強く、自信に満ちているように聞こえることもある。
「あなたは有能だ。しかしそれは耳に入ってこないのです」。そんな説明を女性の従業員にする主任がいるのだという。パードルシャットさんによれば、こうした女性は大抵呼吸が浅く、自分の能力に不安を抱いていて、特定の屈服のポーズを表わすボディ・ランゲージを習慣的にしてしまうのだという。パードルシャットさんは男性たちに、再び正しく呼吸をして全身を声の器官として利用するように教え込んでいる。
肉体的練習と発声トレーニングによって自分の振る舞いをより「調和の取れた姿に」作り上げることは、大抵の人間にとっては、長期間のセラピーにかかるよりも、容易に見える。しかし、自己が欝やバーンアウトや他の心的障害によってぐらついているときは、セラピーに通うことは避けがたいのである。
わざとらしい自己演出や否定とは無関係の所で、「私」の探求を一生涯の関心事としてした人々がいる。先ごろ亡くなったアメリカの偉大な小説家ジョン・アップダイクは自分のことを自分自身の人生の主催者と見ていた。自己の探求こそ大事なことで、彼は自分が老いることを次のようなものとして体験した。それは、まるで自分が頭の中にいくつもの穴をもっていて、「そこにはかつて電気や物質があったのだが、そして僕はいま自問している、僕の頭にはもう一つしか穴がないことになったら、いまよりも苦痛に満ちた喪失感をもつだろうかどうかと・・・・知らないことは一種の祝福であり、老いることは酒による酩酊のようなものだ。どちらも、当事者以上に、他の人々に面倒をかけるものだからである」。
ちなみに、最後のほうでなぜか「声」が話題になっていますが、これは調和や気分や声が、ドイツ語では‘Stimm’という語幹に関係した言葉であることに由来しています。
http://wissen.spiegel.de/wissen/dokument/dokument.html
?id=65111033&top=SPIEGEL
「 私はいっぱい
神経学者、脳研究者、心理学者、哲学者――かつてないほど多くの学問分野が、同一性や人格がどのように成立したのかを解明しようと試みている。
人生の事柄は、たいていの場合、一見してそう見えるようなものではない。「なぜこんなに多くのことが上手くいかないのかと自問していらっしゃるんですね? それは人間がいっぱいでいたいと思っているからですよ。文字通りの意味ですよ。たくさんのものでいたいんです。いっぱいでね。いくつもの人生がほしいんです。ただそれは上辺だけのことで、心の奥底ではそうでないことを望んでいる。結局のところ、一つになることをみんな目指しますからね。自分と一つになる、すべてと一つになるのをね」。
聞いていてイライラするような話をするのは、ダニエル・ケールマンの小説("Ruhm"(名声))に出てくる謎のタクシー・ドライヴァー。この本では、現実の見せかけだけの側面と、男性または女性の「私」がもちうるさまざまな顔が問題となっている。
「私」を求めているのは物書きだけではない。進化生物学者、医学者、哲学者、心理学者、脳科学者、神経科学者、生物学者――かつてないほど多くの学問分野が人間という謎を追っている。
というのも、人間は奇妙な生き物であるからだ。人間は、生を色彩豊かにする(同時に複雑にもする)もの―たとえば、銃、精神分析、iPodなど―を休むことなく作り出したり、暗い広間に座って動く画像に感動して涙を流したり、長円形のプラスティック板に乗って山を滑り降りたり、月に行ってそこに小さな旗をたてたりする。
女性は女性で、靴やハンドバッグを大量に買ったりウェストや目尻のしわを気に病んだりする。
こうした活動に加えて、人間は、飽くことなく自己の探求に没頭する唯一の生き物である。人間は、今あるような自分がいかにして生じたのかを知りたがるのである。
急速に変貌する社会にあって、人間は自己の確証を求め、自己自身を探求し、次のように問うのだ。どうして私は私になったのか、と。遺伝子、両親、学校の先生、文化環境や社会環境は、「私」が形成される際にどのくらいの役割をもつのか?
弱く、優柔不断な「私」を誰も望まない、誰もが、人生に満足し成功し健全でいられるための前提として、強い自己があることを自分に望む。それなのに、なぜ、私たちは、今いるとおりの姿でいるのか? なぜ、おどおどした人がいるかとおもえば勇気ある人もいるのか、そして、思いやりのない人がいる一方で、進んで手助けをして協調性のある人もいるのはなぜか? せっかちな人もいる一方で落ち着いて気長に構えていられる人もいるのはなぜか?
そして、ヴィネンデン銃乱射事件直後の今は心が痛む問いだが、子供が成長してティム・クレッチマーのような殺人者になるのはなぜか(訳者註――ヴィネンデン銃乱射事件は2009年3月11日にドイツのヴィネンデンで起きた銃撃事件。15人が殺害された。犯人は17歳の少年のティム・クレッチマーと見られるが、彼は自殺した)。赤ん坊が大きくなって近親相姦の父親ジョゼフ・フリッツェルのような犯罪者になるものもいればアルバート・アインシュタインのような天才になるものもいるのはなぜか? (訳者註――ジョゼフ・フリッツェルは娘を24年間地下室に監禁し7人の子供を産ませた)。
親の教育や影響や手本となるような親の姿があったから? そんなことは全部でたらめ――教育の終わりをアメリカの心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、数年前、声高に叫んだ。遺伝子と同年代の仲間が子供の発達に最大の影響をもつのだからと。遺伝的素質と友人のサークルからなる産物としてのみ自己を捉える――大抵の人はそんなことは信じないだろうし、それは正しいのである。
なぜなら、そうなると自己責任とモラルの余地がどこにもないことになるからだ。今日ではアイデンティティー管理とも好んで呼ばれたりしているが、幸福と自己実現の追求が可能なのは、自分の人格に集中して向き合うことがある場合に限られる。
16世紀の終わりに詩人ミシェル・ドゥ・モンテーニュがすでに見いだしていたように、私とは「たんなるつぎ布やボロキレからひどく乱雑で不恰好に作られたので、いつ何時でも布の一枚一枚が勝手に踊りだしてしまうような」作り事なのだろうか? 多くの人にとってはそうであろう――多くの人は自分自身に対して居心地の悪さを感じており、人と違った点をなくそうとして、その代わりに何らかの美点を得ようと思うのだ。
自分の性格に満足しない大人は、どの程度まで性格を変えることができるのだろうか? 私たちは、望みさえすれば、別人になれるのだろうか? 限界はどこかにあるのだろうか? 特定の行動パターンや関係のパターンは固定しているが、それ以外は固定していないということなのだろうか?
そもそも骨組みがしっかりしていて、はっきりとした輪郭をもつ自己なるものは存在するのだろうか? むしろ、私たちの生を規定している多様な私の状態や役割を考えるならば、「私はいっぱいある」のほうが正しいのではないか? そして、自分自身の自己にいたる道は、それゆえ、終わりのない探求プロセスであり、しかもそのプロセスは現代のテクノロジーによって難しくされているのではないだろうか?
自分のプロフィールを公開し、最適化し、比較することは、現代の人間に課された義務である。リアリティーTV、TVの安易なドキュメンタリー、結婚紹介所、ウェブポータルやコミュニティーなどが自分のアイデンティティー形成のために混乱するほど多くの機会を提供している。
ネットやテレビも、自分自身を表現するためのこの上ないほど多様な形式にとってのインスピレーションの源になっている。「ドイツの次のトップモデル」や「ビッグ・ブラザー」(どちらもTVのオーディション番組―訳者註)や、インターネットのFacebookやMyfaceにおける今流行の自己の売り込みやアイデンティティーの演出がどれほど自己に影響力を及ぼすかどうかは、簡単には言えない。人に見られたとき、わずかな注目や認知しかえられない「私」は、どれほど安定できるのか、それとも傷ついて壊れてしまうことさえあるのではないか?
… 私は何を知りうるか、私は何をすべきか、私は何を望んでいいのか、これらの問いは、哲学者で著述家のリヒャルト・ダヴィッド・プレヒトが彼のベストセラー『私は誰か、そして私はどれくらいたくさんあるのか』で導きの糸とした問いである。
プレヒトの楽しい哲学的な読み物がベストセラーの一覧に載って約15ヶ月経つが、それはこれまでで最も成功した実用といっていいだろう。いつまで経っても需要がなくならないのは、自分の真の自己に対する人間の渇望がいかに強いものであるかを証明するものである。
真の自己が見つかったと思っても、それは批判的鑑定にかけられて懐疑の内で改善されなければならない。かくして、何年も前から各種の入門書が書店にあふれ、それと平行してコーチの人材市場がふくれあがった。
週刊誌『Die Zeit』の試算によると、指導的立場にある人の二人に一人にはサポートしてくれるコーチがついているらしい。ドイツだけでも約35,000人の専門のコーチが活動しているが、専門家によればしっかりしているのはそのうち5,000人程度にすぎないらしい。
儲かる商売としてのみならず、まじめな問いかけとしての私の探求には伝統がある。19世紀の終わりにはもう、科学としての心理学が発達しており、私たちがいかにして「私」と呼ばれるものになるのか、感情と記憶はいかにして成立するのか、私たちの行動をコントロールしているのは何かを基礎づけようと試みていた。
近年では、とりわけ神経科学が、人間の精神や意識、性格や人格の成立を基礎づけようという野心に燃えている。「われ思う、ゆえにわれあり」と、17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは言った。それに対して、「存在が意識を規定する」とカール・マルクスは考えた。しかし意識が存在を規定することもあるのではないだろうか? または、「存在は意識の調子を狂わせる」という命題や、ウッディー・アレンが言ったように、「すべては幻想にすぎず何も存在しないとしたらどうだろう。もしそうなら、じゅうたんにお金を払いすぎちゃったよ」という命題も正しいのではないだろうか?
ジョン-ディラン・ハインズは変わった経験を通して心理学にたどり着いた。彼は、問題に取りかかっているときは問題が解けないのに、まったく別のことに関わっているときに解答が苦もなく意識に現われた、ということが再三あった。
「それでこう自問したんです。いったい僕の代わりにこの問題を解いたのは誰なんだ?」。ベルリンの計算論的神経科学ベルンシュタイン・センターで研究グループのリーダーをしているハインズはそう言う。
ハインズの確信によると、私たちの意識は特定の思考プロセスのきっかけを与えはするが、しばしば決定的で創造的な刺激を与えるのは無意識のほうである。そのことが脳の中でいかに行われるかを、ハインズは研究しその発見によって世界的な評価を得た。
すでに精神分析の創始者であるジグムント・フロイト(1856~1939)は「無意識が指導的特質をもっていること」を確信していた。彼は、「私」の意識を、エス、自我、超自我の三つの部分に分けた。エスの部分には食欲や性欲の衝動や、愛や憎しみといった感情もあり、その対立物である超自我には教育によって内面化された規範、規則、理想像がある。
自我、つまり、私たちが意識している部分であるが、それはうかうかしていられないのである。強力な無意識と厳格な超自我といかにすれば折り合いがつけられるかを考慮しなければならないからである。理性的な自我は感情的なエスに対して勝つ見込みがないこともしばしばある。「私は感じる、ゆえに私は存在する」。アメリカの脳研究者で意識の解明について何冊もの書物を書いたアントニオ・ダマッシオは―哲学者ルードヴィッヒ・フォイエルバッハ(1804~1872)に倣って―自分の信条をそう述べている。
私たちの感情が行動に影響を及ぼしたり身体的な行為に反映したりするということは確証済みの事柄である。自分の感情を一貫して否認する人は、自分の自己に対していわば裏切りを行っているのである。感情が人格を引き裂いて現われてはどれほど容赦なく人を破壊するものであるかは、すでにジェーン・オースティン(1775~1817)が印象深い形で描いていた。
『分別と多感』であれ『自負と偏見』であれ、このイギリスの作者は人間の感情をこの上なく巧みに描写した。感情は抑圧されればされるほど、それだけ強烈に表面下では燃え上がるものだし、激しく否定されればされるほど、それだけ勢いよく広がっていくのである。
感情の研究者ポール・エクマンは、サンフランシスコ大学の心理学の教授だが、世界でもっとも成功した虚言の専門家と見なされている。ずいぶん前から彼は、喜び、悲しみ、怒り、不安、嫌悪感、驚き、軽蔑、好奇心といった感情を顔のうちに認識する授業をしている。
「私がビル・クリントンをテレビで初めて見たとき、彼の顔の表情が私の注意を引きました」と、エクマンは『南ドイツ新聞』とのインタビューで述べた。「私はそれを「クッキーの缶に手を突っ込んでいる現場を取り押さえられてもママは僕のことが大好きだもんねという顔」と呼びたいものものでした」。クリントンが後に大統領でありながら実習生のモニカ・ルウィンスキーとの情事にのめりこんだことは、エクマンには少しも驚きではなかった。
色恋沙汰にまめな傾向は顔に出るのかもしれないが――それにしても、ある人間の人格がまさにそのように構成されるのはなぜかという点について識者の見解は分かれている。哲学者、心理学者、神経科学者は活発な対話を交わし、時として反駁しあい、人間の本性をこれ以上はないくらい別様に解釈する。
たとえばイタリアの医師のヴァレンチン・ブライテンベルグは神経学や精神分析に対して次のように問う。「意識は脳の中に探すことができるのでしょうか? 酔っている状態は? 肥満の状態は? 外国人であることは? 熟睡している状態は? 愚かなことは? みんなそのことをよく考えてみるべきでしょう。それだけでプラスになるのです」。
ケンブリッジのハーバード医科大学の精神科の教授ジョン・レイティーは脳を生態系として見ている。それは、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画にも、民主主義の創造にも、原子爆弾の創造にも、精神病にも責任をもつが、最初の休暇のときやホットドックの味の記憶にも責任をもつ。
「この器官がこれほど多種多様な能力を包括しているなんてどうしてできるでしょう?」とレイティーは問う。
ライプツィヒ大学政治科学インスティチュートの倫理学、政治学、修辞学の教授で、社会学者のウルリッヒ・ブレークリンクは、一種の多様なる自己としての企業家的な自己について語る。「その自己は、本来は統合できない多くの私を自分のうちに統合しなくてはなりません。したがって、アイデンティティーとは、今日では、競合したり協同したり、相互に争い合ったり相互に結合したり、相互に意思を交し合ったり互いに無視し合う多くのアイデンティティーからなる領野なのです」。
なにやら複雑なパッチワーク式のアイデンティティーのようにも聞こえるし、内部に駆り立てるものがいて、ゲームの規則に従いながら、絶えずよりよい私を求めているようにも聞こえる。しかし、「私」がバランスを崩し、自分が自分自身と調和していないように感じるならば、どうだろう?
「声とアイデンティティーは密接につながっています」。そう説明するのは、デュッセルドルフで声や話し方のトレーニングをしているカタリーナ・パードルシャットさん。経済危機以来、個別トレーニングのために彼女のもとを訪れる経営者や企業家が増えているという。彼らは、パードルシャットさんによれば、自分自身に投資をしているのであり、振る舞いや声やボディ・ランゲージを最大化しようとしているのだという。「声は心の聞こえる表現なのです」とパードルシャットさんは言う。声はかすれて、苦しそうで、圧迫され、押しつぶされ、わざとらしくかつ繊細に聞こえることもあれば、明瞭で、堂々として、確信を持って、力強く、自信に満ちているように聞こえることもある。
「あなたは有能だ。しかしそれは耳に入ってこないのです」。そんな説明を女性の従業員にする主任がいるのだという。パードルシャットさんによれば、こうした女性は大抵呼吸が浅く、自分の能力に不安を抱いていて、特定の屈服のポーズを表わすボディ・ランゲージを習慣的にしてしまうのだという。パードルシャットさんは男性たちに、再び正しく呼吸をして全身を声の器官として利用するように教え込んでいる。
肉体的練習と発声トレーニングによって自分の振る舞いをより「調和の取れた姿に」作り上げることは、大抵の人間にとっては、長期間のセラピーにかかるよりも、容易に見える。しかし、自己が欝やバーンアウトや他の心的障害によってぐらついているときは、セラピーに通うことは避けがたいのである。
わざとらしい自己演出や否定とは無関係の所で、「私」の探求を一生涯の関心事としてした人々がいる。先ごろ亡くなったアメリカの偉大な小説家ジョン・アップダイクは自分のことを自分自身の人生の主催者と見ていた。自己の探求こそ大事なことで、彼は自分が老いることを次のようなものとして体験した。それは、まるで自分が頭の中にいくつもの穴をもっていて、「そこにはかつて電気や物質があったのだが、そして僕はいま自問している、僕の頭にはもう一つしか穴がないことになったら、いまよりも苦痛に満ちた喪失感をもつだろうかどうかと・・・・知らないことは一種の祝福であり、老いることは酒による酩酊のようなものだ。どちらも、当事者以上に、他の人々に面倒をかけるものだからである」。
戦争と利他主義 [海外メディア記事]
戦争は利他主義を生み、利他主義的考えを持ったメンバーをより多くもつ集団が、進化のサバイバルゲームで生き残っていく…
集団選択の考え方は古くからあります。利己的遺伝子説によって一旦は完全に息の根を止められてしまったように見えましたが、80年代後半からまたリバイバル傾向にあります(実は、理論的にどっちが正しいかどうかという論争はもうあまり意味がないはず。そういう意味で、この記事の記者はすこし遅れていると感じますね)。
さほど考えなくともわかるように、狩猟採取民として人類がすごした年月に比べると、農耕が始まって以降の時間は微々たるものなので、狩猟民としてすごしたときに人間が得た特性にもう少し焦点を当てなければならないと常々思ってきたので(かつて、ブルケルトについて書いたことを参照されたい)、こういう研究が出てくるのは個人的に喜ばしいし、自分でも読んでみたいと思います。
『インディペンデント』紙の記事です。
http://www.independent.co.uk/news/science/war-what-is-it-good-for-it-made-us-less-selfish-1697321.html
「 戦争、それは何のためになるのか? それはわれわれを利己的でないようにしたのである
争いに満ちた20万年という歳月の間に利他主義がいかに発展したのかを科学者が説明する。
人間であることを特徴づけるものの一つに、集団のために自分の生命をなげうつ個人的犠牲という崇高な行為があるが―そのような利他主義がダーウィン的進化の結果としてわれわれの遺伝子に組み込まれたということはありうるだろうか?
生物学者たちはここ何十年もの間、利他主義の進化について論じてきたが、似たような遺伝子を共有する血縁上の近親者のサバイバルを手助けすることに直接関わる行為を除けば、ダーウィン流の自然選択は崇高な個人的犠牲の行為を説明することはできないという結論に、生物学者はとうの昔にたどり着いていた。
しかし、いま、ある研究が示唆するところによると、先史時代の人間社会の利他主義は、結局、狩猟採取者の競合する部族間のほとんど絶えることのない戦争状態によって引き起こされた一種の自然選択に由来したとのことだが、これはダーウィン自身が1873年の書物『人間の由来』で初めて示唆した考え方でもあった。
ある科学者の示唆によると、人類の歴史の20万年という歳月の大部分は、一万年足らず前の農業の発明に先立つ狩猟-採集の局面であったのだから、進化の歴史におけるこの長い期間がわれわれの社会的行動を形作ったことになる。おまけに、その科学者によれば、個人の犠牲的行為こそ、ある集団が他の集団に対して勝利を収めることを可能にする鍵だったのだから、利他主義は部族間の戦争の結果として直接進化したのかもしれないのである。
ニュー・メキシコ州のサンタ・フェ・インスティチュートのサムエル・ボウレスは次のように言う。「戦争は十分一般的で、私たちの祖先に死をもたらすものだったので、私がローカルな利他主義と呼ぶもの、つまり、集団のメンバーに対しては協力的だが外部の人間には敵対的である傾向のことですが、そういう利他主義の進化に有利に働いたのです」。
「遺伝的な近親者に対する援助を除けば、利他的に振舞う―自分を犠牲してでも他人を手助けする―遺伝的傾向が進化しうるということを生物学者や経済学者は疑ってきました」。
『サイエンス』誌に掲載された彼の研究で、ボウレス博士は、自然選択は、単なる個人に対してというよりも、相互に共同する人々の集団に対して作用を及ぼすと提案することによって、人間の進化についての利己的遺伝子説の論者たちに論戦を挑んでいる。
石器時代の考古学的データや、もっと最近の狩猟-採取者の部族の民族誌的研究に依拠しながら、ボウレス博士は利他主義がダーウィン的選択によって進化したことは可能である、もし競合する部族間の戦争が十分激しいもので、そうした人間集団間の遺伝的差異が十分あるならば可能である、と結論づけた。
彼は、人間の集団間の遺伝的差異はこれまで考えられていた以上に大きなものであり、戦争は初期の人間の社会的行動を形作ったに違いないほとんど絶えることのない活動であった、ということを示した。結果として、個人が犠牲になる利他的行為のおかげで、ある集団が生き残ったり別の集団が滅んだりした、と彼は言う。
ボウレス博士によれば、「利他的な戦士」説は初期の人間社会における利他主義の進化を説明するシナリオの一つにすぎない。「戦士として死のリスクを進んで取ろうとする態度が利他主義の唯一の形式なのではありません…より利他的で、したがってより協調性のある集団はより生産的になるでしょうし、たとえば、より健康的だったり、より力強かったり、より多くのメンバーを擁するでしょうし、情報をより効率的に利用するでしょう」と、彼は言う。
ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジの人類学者ルース・メイスによると、ボウレス博士の研究は、自然選択は個体のレベルではなく集団のレベルで作用するという提案をはるか昔に拒絶した利己的遺伝子説の一般的な考え方に反しているという。
「社会的進化についての最近の文献は、特にヒトのような文化を形成する種においては集団選択が重要である場合もあると主張することによって、論争を再燃させたのです」と彼女は言う。
『サイエンス』誌に載った別の研究では、人間であることを特徴づける別の性質――精巧な道具を製作したり、芸術や文化を発展させること――の進化をもたらした鍵となる因子は、生物学的変異に由来するというよりも集団の人口増加に由来したという科学者の提唱があった。
ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジの科学者によれば、芸術のような人間の文化的形質が突然出現したのは、人口密度がある種の限界を超えて、観念の自由な交換を可能にしたときだったというのである」。
集団選択の考え方は古くからあります。利己的遺伝子説によって一旦は完全に息の根を止められてしまったように見えましたが、80年代後半からまたリバイバル傾向にあります(実は、理論的にどっちが正しいかどうかという論争はもうあまり意味がないはず。そういう意味で、この記事の記者はすこし遅れていると感じますね)。
さほど考えなくともわかるように、狩猟採取民として人類がすごした年月に比べると、農耕が始まって以降の時間は微々たるものなので、狩猟民としてすごしたときに人間が得た特性にもう少し焦点を当てなければならないと常々思ってきたので(かつて、ブルケルトについて書いたことを参照されたい)、こういう研究が出てくるのは個人的に喜ばしいし、自分でも読んでみたいと思います。
『インディペンデント』紙の記事です。
http://www.independent.co.uk/news/science/war-what-is-it-good-for-it-made-us-less-selfish-1697321.html
「 戦争、それは何のためになるのか? それはわれわれを利己的でないようにしたのである
争いに満ちた20万年という歳月の間に利他主義がいかに発展したのかを科学者が説明する。
人間であることを特徴づけるものの一つに、集団のために自分の生命をなげうつ個人的犠牲という崇高な行為があるが―そのような利他主義がダーウィン的進化の結果としてわれわれの遺伝子に組み込まれたということはありうるだろうか?
生物学者たちはここ何十年もの間、利他主義の進化について論じてきたが、似たような遺伝子を共有する血縁上の近親者のサバイバルを手助けすることに直接関わる行為を除けば、ダーウィン流の自然選択は崇高な個人的犠牲の行為を説明することはできないという結論に、生物学者はとうの昔にたどり着いていた。
しかし、いま、ある研究が示唆するところによると、先史時代の人間社会の利他主義は、結局、狩猟採取者の競合する部族間のほとんど絶えることのない戦争状態によって引き起こされた一種の自然選択に由来したとのことだが、これはダーウィン自身が1873年の書物『人間の由来』で初めて示唆した考え方でもあった。
ある科学者の示唆によると、人類の歴史の20万年という歳月の大部分は、一万年足らず前の農業の発明に先立つ狩猟-採集の局面であったのだから、進化の歴史におけるこの長い期間がわれわれの社会的行動を形作ったことになる。おまけに、その科学者によれば、個人の犠牲的行為こそ、ある集団が他の集団に対して勝利を収めることを可能にする鍵だったのだから、利他主義は部族間の戦争の結果として直接進化したのかもしれないのである。
ニュー・メキシコ州のサンタ・フェ・インスティチュートのサムエル・ボウレスは次のように言う。「戦争は十分一般的で、私たちの祖先に死をもたらすものだったので、私がローカルな利他主義と呼ぶもの、つまり、集団のメンバーに対しては協力的だが外部の人間には敵対的である傾向のことですが、そういう利他主義の進化に有利に働いたのです」。
「遺伝的な近親者に対する援助を除けば、利他的に振舞う―自分を犠牲してでも他人を手助けする―遺伝的傾向が進化しうるということを生物学者や経済学者は疑ってきました」。
『サイエンス』誌に掲載された彼の研究で、ボウレス博士は、自然選択は、単なる個人に対してというよりも、相互に共同する人々の集団に対して作用を及ぼすと提案することによって、人間の進化についての利己的遺伝子説の論者たちに論戦を挑んでいる。
石器時代の考古学的データや、もっと最近の狩猟-採取者の部族の民族誌的研究に依拠しながら、ボウレス博士は利他主義がダーウィン的選択によって進化したことは可能である、もし競合する部族間の戦争が十分激しいもので、そうした人間集団間の遺伝的差異が十分あるならば可能である、と結論づけた。
彼は、人間の集団間の遺伝的差異はこれまで考えられていた以上に大きなものであり、戦争は初期の人間の社会的行動を形作ったに違いないほとんど絶えることのない活動であった、ということを示した。結果として、個人が犠牲になる利他的行為のおかげで、ある集団が生き残ったり別の集団が滅んだりした、と彼は言う。
ボウレス博士によれば、「利他的な戦士」説は初期の人間社会における利他主義の進化を説明するシナリオの一つにすぎない。「戦士として死のリスクを進んで取ろうとする態度が利他主義の唯一の形式なのではありません…より利他的で、したがってより協調性のある集団はより生産的になるでしょうし、たとえば、より健康的だったり、より力強かったり、より多くのメンバーを擁するでしょうし、情報をより効率的に利用するでしょう」と、彼は言う。
ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジの人類学者ルース・メイスによると、ボウレス博士の研究は、自然選択は個体のレベルではなく集団のレベルで作用するという提案をはるか昔に拒絶した利己的遺伝子説の一般的な考え方に反しているという。
「社会的進化についての最近の文献は、特にヒトのような文化を形成する種においては集団選択が重要である場合もあると主張することによって、論争を再燃させたのです」と彼女は言う。
『サイエンス』誌に載った別の研究では、人間であることを特徴づける別の性質――精巧な道具を製作したり、芸術や文化を発展させること――の進化をもたらした鍵となる因子は、生物学的変異に由来するというよりも集団の人口増加に由来したという科学者の提唱があった。
ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジの科学者によれば、芸術のような人間の文化的形質が突然出現したのは、人口密度がある種の限界を超えて、観念の自由な交換を可能にしたときだったというのである」。
カー・フリー社会をめぐって(2) [海外メディア記事]
「カー・フリー(car-free)」社会についての後半。
ドイツの、それも若干特殊な背景の町で行われている「カー・フリー」の街づくり。それが、世界に広まるか? という以前に、アメリカで成功するモデル地区が出てくるか? ということがこの記事のテーマなのでしょうが、締めくくり方を見ると、この記者(ELISABETH ROSENTHAL)はあまり期待していないように受け取れます。
それはともかく、日本でもこうしたモデル地区が出ないものでしょうか? 私が住む東京の都心などは、少なくとも自家用車はまったく不要だと思います。
『ニューヨークタイムズ』紙の記事の後半部分です。
http://www.nytimes.com/2009/05/12/science/earth/12suburb.html?pagewanted=2&_r=2&em
「 ドイツの郊外で、車なしの生活が進んでいる
メルセデス-ベンツとオートバーンの国ドイツでは、ヴォーバンのような自動車を低減させた場所での暮らしには、それなりのいびつさがついて回る。この町は縦長で比較的狭いので、フライブルク行きの市街電車にはどの家からも歩いてすぐ行けるようになっている。店やレストラン、銀行や学校は、住宅地のなかにあって、典型的な郊外の街よりもあちこちに点在している。ヴァルターさんのようなたいていの住民は、ショッピングに出かけたり子供たちを遊び場に連れて行くために、自転車の後ろにカートを取りつけている。
イケアのような店に出かけたりスキー場にいくために、複数の家族が共同で車を購入したり、ヴォーバンのカー・シェアリング・クラブが貸し出している共同使用の車を使うことになる。ヴァルターさんは、以前は合衆国とフライブルクで―自家用車と一緒に―暮らしたことがある。
「車があると、どうしても使ってしまいますよね」と彼女は言う。「ここに越してきてすぐに引っ越してしまって人もいます―近くに車がないとさびしいのでしょう」。
ヴォーバンは、かつてはナチスの軍の基地があった場所で、第二次世界大戦から20年前のドイツ統合まではフランス軍が駐留していた。基地として建設されたので、道路網は民間の車の使用に合うように意図して作られたわけではなかった。「道路」は兵舎の間を通る狭い廊下のようだった。
元々の建物ははるか以前に倒壊された。それに換わるスタイリッシュな低い家々は、ヒート・ロスを抑えエネルギー効率を最大化するようにデザインされ、外来の木と凝ったバルコニーで飾り立てられた4~5階建てのビルである。一戸建ては禁じられている。
ヴォーバンで家を買った人々は、環境のためなら進んで実験台に立とうとする人々である――実際、住民の半数以上は緑の党に投票している。しかし、多くは、生活の質が良いからここに住み続けているのだと言っている。
科学者のヘンク・シュルツさんは、先月のとある昼時に自分の3歳になる子供がヴォーバンのあちこちを歩き回っているのを眺めていたとき、初めて車買ったときにどれほど興奮したかを思い出したという。今は、車のないところで子供を育ていることに喜びを感じています、と彼は言った。通りでの子供の安全にあまり気にかけることがないからである。
ここ数年で、ヴォーバンは、ドイツで類似の実験をするコミュニティをまだ生み出してはいないけれど、ニッチな街としてすっかり有名になった。しかし、このコンセプトがカリフォルニアで上手くいくかどうかは判らない。
100人以上のオーナーがベイ・エリアの「車低減社会」であるケーリー・ヴィレッジの家を買う契約をしたし、ルイス氏は、このプロジェクトを上手く開始させるさせるために初期資金として200万ドルの追加を期待している。
しかしもし上手くいかない場合、彼の代替案は、同じ土地にまったく自由な車の使用を許す開発地区を作ることである。その土地はヴィラージュ・ディターリア(Village d’Italia=イタリア村)と名づけられるだろうというのである。
」。
ドイツの、それも若干特殊な背景の町で行われている「カー・フリー」の街づくり。それが、世界に広まるか? という以前に、アメリカで成功するモデル地区が出てくるか? ということがこの記事のテーマなのでしょうが、締めくくり方を見ると、この記者(ELISABETH ROSENTHAL)はあまり期待していないように受け取れます。
それはともかく、日本でもこうしたモデル地区が出ないものでしょうか? 私が住む東京の都心などは、少なくとも自家用車はまったく不要だと思います。
『ニューヨークタイムズ』紙の記事の後半部分です。
http://www.nytimes.com/2009/05/12/science/earth/12suburb.html?pagewanted=2&_r=2&em
「 ドイツの郊外で、車なしの生活が進んでいる
メルセデス-ベンツとオートバーンの国ドイツでは、ヴォーバンのような自動車を低減させた場所での暮らしには、それなりのいびつさがついて回る。この町は縦長で比較的狭いので、フライブルク行きの市街電車にはどの家からも歩いてすぐ行けるようになっている。店やレストラン、銀行や学校は、住宅地のなかにあって、典型的な郊外の街よりもあちこちに点在している。ヴァルターさんのようなたいていの住民は、ショッピングに出かけたり子供たちを遊び場に連れて行くために、自転車の後ろにカートを取りつけている。
イケアのような店に出かけたりスキー場にいくために、複数の家族が共同で車を購入したり、ヴォーバンのカー・シェアリング・クラブが貸し出している共同使用の車を使うことになる。ヴァルターさんは、以前は合衆国とフライブルクで―自家用車と一緒に―暮らしたことがある。
「車があると、どうしても使ってしまいますよね」と彼女は言う。「ここに越してきてすぐに引っ越してしまって人もいます―近くに車がないとさびしいのでしょう」。
ヴォーバンは、かつてはナチスの軍の基地があった場所で、第二次世界大戦から20年前のドイツ統合まではフランス軍が駐留していた。基地として建設されたので、道路網は民間の車の使用に合うように意図して作られたわけではなかった。「道路」は兵舎の間を通る狭い廊下のようだった。
元々の建物ははるか以前に倒壊された。それに換わるスタイリッシュな低い家々は、ヒート・ロスを抑えエネルギー効率を最大化するようにデザインされ、外来の木と凝ったバルコニーで飾り立てられた4~5階建てのビルである。一戸建ては禁じられている。
ヴォーバンで家を買った人々は、環境のためなら進んで実験台に立とうとする人々である――実際、住民の半数以上は緑の党に投票している。しかし、多くは、生活の質が良いからここに住み続けているのだと言っている。
科学者のヘンク・シュルツさんは、先月のとある昼時に自分の3歳になる子供がヴォーバンのあちこちを歩き回っているのを眺めていたとき、初めて車買ったときにどれほど興奮したかを思い出したという。今は、車のないところで子供を育ていることに喜びを感じています、と彼は言った。通りでの子供の安全にあまり気にかけることがないからである。
ここ数年で、ヴォーバンは、ドイツで類似の実験をするコミュニティをまだ生み出してはいないけれど、ニッチな街としてすっかり有名になった。しかし、このコンセプトがカリフォルニアで上手くいくかどうかは判らない。
100人以上のオーナーがベイ・エリアの「車低減社会」であるケーリー・ヴィレッジの家を買う契約をしたし、ルイス氏は、このプロジェクトを上手く開始させるさせるために初期資金として200万ドルの追加を期待している。
しかしもし上手くいかない場合、彼の代替案は、同じ土地にまったく自由な車の使用を許す開発地区を作ることである。その土地はヴィラージュ・ディターリア(Village d’Italia=イタリア村)と名づけられるだろうというのである。
」。
カー・フリー社会をめぐって(1) [海外メディア記事]
「カー・フリー(car-free)」社会の実験が、ドイツのフライブルク市の郊外で進行中だそうである。ついに車も文明のトレンドから弾かれることになるのか? まさか? しかし、あのアメリカにおいても、わずかながらとはいえ、そういう気運が高まりつつあるみたいです。
ちなみに、日本は、都市部を除けば、いつしか車がなければ何もできないような車社会になってしまいました。郊外の巨大なショッピングモールは依然(これからますます?)花盛り。日本は環境先進国? いえいえ、この点ではとてつもなく遅れています。
『ニューヨークタイムズ』紙の記事の前半部分です。
http://www.nytimes.com/2009/05/12/science/earth/12suburb.html?_r=1&em
「 ドイツの郊外で、車なしの生活が進んでいる
ドイツ、ヴォーバン――この高所得者層が住む街の住人たちは郊外居住のパイオニアであり、サッカー・ママや車で通勤する企業幹部がかつて行ったことのないところに行こうとしている。彼らは車を放棄したのだ。
路上駐車、私設車道、家庭用のガレージは、フランスとスイスの国境に近いフライブルク市郊外のこの実験的な新しい地区では、原則的に禁止されている。ヴォーバンの通りは完全に「カー・フリー」なのである――ただし、フライブルクの中心街に向かう市外電車が通る目抜き通りや、この地区の周縁部にある少数の通りは例外である。車の所有は認められるが、駐車できる場所は二箇所しかない。この新興住宅地のはずれにある大きなガレージがそれで、そこに車の所有者は、40,000ドルを出して、家付きのスペースを買うことになる。
結果として、ヴォーバンの家庭の70㌫は車を所有していないし、57㌫はここに引っ越すために車を売り払ったのである。「車をもっていたとき、私はいつもピリピリしてましたよ。車がなくなってずっと幸せです」と言うのは、メディア・トレーナーで二児の母のヘインドラム・ヴァルターさん。彼女が歩く緑あふれる通りは、自転車の風切る音や歩き回る子供たちのはしゃぎ声のおかげで、時折遠くを通る車の音が聞きとれないほどである。
ヴォーバンは2006年完成した街であるが、ヨーロッパ、アメリカ等で高まりつつある、郊外生活を車の利用から切り離そうとするトレンドの一例である(そのトレンドは「スマート・プランニング(smart planning)」と呼ばれる運動の一要素である)。
郊外といえば、上海からシカゴにいたるまでの世界中の中流家庭が居住する場所であり、車はそうした郊外居住者にとっての必需品である。そしてこのことが、車からの温室効果ガスの排出量を劇的に抑えて、それにより地球温暖化を低減しようとする現在の努力に対する大きな障害となっていた、と専門家は指摘する。ヨーロッパでの温室効果ガスの排出量の12㌫は乗用車に帰せられるし―欧州環境機構によると、このパーセンテージは増加しつつある―、合衆国の車依存の高い地域では、その数字が50㌫にはね上がる所もある。
ここ20年間で都市をコンパクトにしてもっと歩くのに適した場所にする試みがなされてきたが、都市計画者たちはそのコンセプトを郊外に適用し、とくに排出量低減のような環境にプラスとなる政策に焦点を置きつつある。1平方マイルの長方形の土地に5,500人の居住者が暮らすヴォーバンは、低自動車型郊外生活の最も先進的な実験場であるだろう。しかし、その根本的な指針は、郊外をもっとコンパクトにし、もっと公共機関の交通の便をよくし、駐車スペースをもっと少なくしようとする努力として、世界中で採用されつつある。この新たなアプローチでは、商店は、遠いハイウェイ沿いにあるショッピング・モールというよりは、歩いていける、メイン・ストリート上にある。
「第二次世界大戦以降の発展のすべては車を中心にしてきたのですが、それは変わらなければならないでしょう」と語るのはデイヴィッド・ゴールドバーグ氏。彼は、合衆国の何百もの団体―そこには、環境団体も、市長連合も、全米退職者連合も含まれる―の連合体である’Transportation for America’の役員であるが、車にあまり依存しない新たなコミュニティーづくりを推進している。ゴールドバーグ氏はこう付け加えた。「車をどれくらい利用するかは、ハイブリッド・カーを持っているかどうかと同じくらい重要です」。
レビットタウンやスカールスデールといった、開放型の家と私用のガレージが並ぶニューヨーク郊外の住宅地は、1950年代では夢の住宅地であったし、いまでも強力な魅力を及ぼしている。しかし、新たな郊外の住宅地でヴォーガン型のように見える所も出現してきているのだが、それは先進国だけではなく、急成長する中流階級が所有する自家用車が増大し、そこからの排気ガスによって街の空気が悪化している発展途上国においても見られることなのである。
合衆国では、環境保護庁が「車を減らすコミュニティー」づくりを推進しており、議員たちも、慎重にではあるが、法案の作成に取り掛かり始めた。多くの専門家は、今年可決される予定の今後6年間の連邦輸送法案において、公共交通機関の一翼を担う郊外の街々がこれまで以上の役割をはたしてくれることを期待している、とゴールドバーグ氏は語った。以前の法案では、予算割り当て額の80㌫は法的にハイウェイに流れてしまい、それ以外の交通機関には20㌫しか流れなかったのである。
カリフォルニアでは、ヘイワード地域計画組合(Hayward Area Planning Association)がヴォーガンに似たケイリー・ヴィレッジというコミュニティをオークランド郊外に建設中で、そこからは車なしで通勤用高速鉄道(Bay Area Rapid Transit system)やヘイワードのカリフォルニア州立大学に行くことができるのである。
同大学の名誉教授でこの組合のリーダーであるシャーマン・ルイスは、「引越しするまで待っていられない」と言い、ケイリー・ヴィレッジのおかげで家の車が2台から1台になり、できればゼロになることを希望しているという。しかし住宅ローンの会社は50万ドルもしながら車の余地のない家の再販売価格を気にするし、合衆国のたいていの建築基準法は住宅ユニットあたり二つの駐車スペースを要求しているので、現在の制度はこのプロジェクトに大変不利に働いている、とルイス氏は言う。ケイリー・ヴィレッジは、ヘイワード地区から特例措置を貰ったのである。
おまけに、車を諦めるように説得することはしばしば非常に困難である。「合衆国の人々は、車を所有しないようにしようという考え方、または所有している車を減らそうという考え方に対しては、信じられないほどの不信感を抱くものです」と語るのは、「カーフリーシティーUSA(CarFree City USA)」運動の共同創始者のデイヴィッド・シーザー氏。氏によると、ヴォーバン程度の規模の郊外地でなされたカーフリーのプロジェクトで成功した例は、これまで全米に一つもないという。
ヨーロッパでは国家規模で考えている政府もある。2000年、イギリスは都市計画を改良して、これからの開発地は公共の交通機関で行けるように求めることで、車の使用を減らそうとする包括的な努力を開始した。
「土地開発を構成するさまざまな仕事、ショッピング、レジャー、サービスは、車が大多数の人にとっての唯一の現実的な移動手段であるという前提のもとで考案され位置づけられるべきではない」と述べるのは、イギリス政府の革命的な2001年都市計画文書であるPPG13。ショッピング・モール、ファスト・フード・レストラン、マンションなどからなる数十にも及ぶ複合施設が、この新たなイギリス政府の方針に基づいて、建築許可を拒否されたのであった」。(後半に続く)
ちなみに、日本は、都市部を除けば、いつしか車がなければ何もできないような車社会になってしまいました。郊外の巨大なショッピングモールは依然(これからますます?)花盛り。日本は環境先進国? いえいえ、この点ではとてつもなく遅れています。
『ニューヨークタイムズ』紙の記事の前半部分です。
http://www.nytimes.com/2009/05/12/science/earth/12suburb.html?_r=1&em
「 ドイツの郊外で、車なしの生活が進んでいる
ドイツ、ヴォーバン――この高所得者層が住む街の住人たちは郊外居住のパイオニアであり、サッカー・ママや車で通勤する企業幹部がかつて行ったことのないところに行こうとしている。彼らは車を放棄したのだ。
路上駐車、私設車道、家庭用のガレージは、フランスとスイスの国境に近いフライブルク市郊外のこの実験的な新しい地区では、原則的に禁止されている。ヴォーバンの通りは完全に「カー・フリー」なのである――ただし、フライブルクの中心街に向かう市外電車が通る目抜き通りや、この地区の周縁部にある少数の通りは例外である。車の所有は認められるが、駐車できる場所は二箇所しかない。この新興住宅地のはずれにある大きなガレージがそれで、そこに車の所有者は、40,000ドルを出して、家付きのスペースを買うことになる。
結果として、ヴォーバンの家庭の70㌫は車を所有していないし、57㌫はここに引っ越すために車を売り払ったのである。「車をもっていたとき、私はいつもピリピリしてましたよ。車がなくなってずっと幸せです」と言うのは、メディア・トレーナーで二児の母のヘインドラム・ヴァルターさん。彼女が歩く緑あふれる通りは、自転車の風切る音や歩き回る子供たちのはしゃぎ声のおかげで、時折遠くを通る車の音が聞きとれないほどである。
ヴォーバンは2006年完成した街であるが、ヨーロッパ、アメリカ等で高まりつつある、郊外生活を車の利用から切り離そうとするトレンドの一例である(そのトレンドは「スマート・プランニング(smart planning)」と呼ばれる運動の一要素である)。
郊外といえば、上海からシカゴにいたるまでの世界中の中流家庭が居住する場所であり、車はそうした郊外居住者にとっての必需品である。そしてこのことが、車からの温室効果ガスの排出量を劇的に抑えて、それにより地球温暖化を低減しようとする現在の努力に対する大きな障害となっていた、と専門家は指摘する。ヨーロッパでの温室効果ガスの排出量の12㌫は乗用車に帰せられるし―欧州環境機構によると、このパーセンテージは増加しつつある―、合衆国の車依存の高い地域では、その数字が50㌫にはね上がる所もある。
ここ20年間で都市をコンパクトにしてもっと歩くのに適した場所にする試みがなされてきたが、都市計画者たちはそのコンセプトを郊外に適用し、とくに排出量低減のような環境にプラスとなる政策に焦点を置きつつある。1平方マイルの長方形の土地に5,500人の居住者が暮らすヴォーバンは、低自動車型郊外生活の最も先進的な実験場であるだろう。しかし、その根本的な指針は、郊外をもっとコンパクトにし、もっと公共機関の交通の便をよくし、駐車スペースをもっと少なくしようとする努力として、世界中で採用されつつある。この新たなアプローチでは、商店は、遠いハイウェイ沿いにあるショッピング・モールというよりは、歩いていける、メイン・ストリート上にある。
「第二次世界大戦以降の発展のすべては車を中心にしてきたのですが、それは変わらなければならないでしょう」と語るのはデイヴィッド・ゴールドバーグ氏。彼は、合衆国の何百もの団体―そこには、環境団体も、市長連合も、全米退職者連合も含まれる―の連合体である’Transportation for America’の役員であるが、車にあまり依存しない新たなコミュニティーづくりを推進している。ゴールドバーグ氏はこう付け加えた。「車をどれくらい利用するかは、ハイブリッド・カーを持っているかどうかと同じくらい重要です」。
レビットタウンやスカールスデールといった、開放型の家と私用のガレージが並ぶニューヨーク郊外の住宅地は、1950年代では夢の住宅地であったし、いまでも強力な魅力を及ぼしている。しかし、新たな郊外の住宅地でヴォーガン型のように見える所も出現してきているのだが、それは先進国だけではなく、急成長する中流階級が所有する自家用車が増大し、そこからの排気ガスによって街の空気が悪化している発展途上国においても見られることなのである。
合衆国では、環境保護庁が「車を減らすコミュニティー」づくりを推進しており、議員たちも、慎重にではあるが、法案の作成に取り掛かり始めた。多くの専門家は、今年可決される予定の今後6年間の連邦輸送法案において、公共交通機関の一翼を担う郊外の街々がこれまで以上の役割をはたしてくれることを期待している、とゴールドバーグ氏は語った。以前の法案では、予算割り当て額の80㌫は法的にハイウェイに流れてしまい、それ以外の交通機関には20㌫しか流れなかったのである。
カリフォルニアでは、ヘイワード地域計画組合(Hayward Area Planning Association)がヴォーガンに似たケイリー・ヴィレッジというコミュニティをオークランド郊外に建設中で、そこからは車なしで通勤用高速鉄道(Bay Area Rapid Transit system)やヘイワードのカリフォルニア州立大学に行くことができるのである。
同大学の名誉教授でこの組合のリーダーであるシャーマン・ルイスは、「引越しするまで待っていられない」と言い、ケイリー・ヴィレッジのおかげで家の車が2台から1台になり、できればゼロになることを希望しているという。しかし住宅ローンの会社は50万ドルもしながら車の余地のない家の再販売価格を気にするし、合衆国のたいていの建築基準法は住宅ユニットあたり二つの駐車スペースを要求しているので、現在の制度はこのプロジェクトに大変不利に働いている、とルイス氏は言う。ケイリー・ヴィレッジは、ヘイワード地区から特例措置を貰ったのである。
おまけに、車を諦めるように説得することはしばしば非常に困難である。「合衆国の人々は、車を所有しないようにしようという考え方、または所有している車を減らそうという考え方に対しては、信じられないほどの不信感を抱くものです」と語るのは、「カーフリーシティーUSA(CarFree City USA)」運動の共同創始者のデイヴィッド・シーザー氏。氏によると、ヴォーバン程度の規模の郊外地でなされたカーフリーのプロジェクトで成功した例は、これまで全米に一つもないという。
ヨーロッパでは国家規模で考えている政府もある。2000年、イギリスは都市計画を改良して、これからの開発地は公共の交通機関で行けるように求めることで、車の使用を減らそうとする包括的な努力を開始した。
「土地開発を構成するさまざまな仕事、ショッピング、レジャー、サービスは、車が大多数の人にとっての唯一の現実的な移動手段であるという前提のもとで考案され位置づけられるべきではない」と述べるのは、イギリス政府の革命的な2001年都市計画文書であるPPG13。ショッピング・モール、ファスト・フード・レストラン、マンションなどからなる数十にも及ぶ複合施設が、この新たなイギリス政府の方針に基づいて、建築許可を拒否されたのであった」。(後半に続く)
自閉症の子供の割合 [海外メディア記事]
記事のタイトルに出ている12倍という数字はあまり重要ではなく、自閉症の子供の割合がこれまでの想定よりも少し高いという研究結果のほうが重要なようです。
『インディペンデント』紙の記事です。
http://www.independent.co.uk/life-style/health-and-families/health-news/autism-study-finds-12fold-rise-in-cases-1692556.html
「 自閉症:研究によると発症件数は12倍も増加
自閉症の子供の数は過去30年間で12倍も増加し、以前の推定値より50㌫ほど高いかもしれないことが、この病気についてのこれまででもっとも詳細な研究によって判明した。
250,000人もの子供が自閉症か自閉症スペクトラム上の病気をもっているにもかかわらず、そのように診断されなかったと研究者は言う。この数字は、発病していることが判明している500,000人の子供に上乗せされる数字である。
『ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・サイキアトリー』に発表された、サイモン・バロン=コーエン教授とケンブリッジ大学自閉症研究センターの同僚たちによる正式の研究は、英国における自閉症の有病率についての将来の研究にとって新たな基準となるものであり、教育や他の公共サービスにとって重大な意義をもつものである。この発見が意味することは、生涯にわたって集中的な援助を必要とする若者はもっと多いだろうということである。
しかし著者たちは、ライフスタイルや環境の変化がこの上昇の背後にあるという考え方は退け、この病気に対する意識や検査技術の向上、穏やかな病気も自閉症として診断するようになった事情などに上昇の原因を帰した。
自閉症は、その発病者が関係を形成したり他者とコミュニケートすることを困難にする社会的機能の障害である。重い症状から軽い症状に至るまでの様々なケースのスペクトラムがあることが1990年代に認識され、比較的軽い症状にいる人々までをカヴァーするためにアスペルガー症候群という診断名が取り入れられた。
自閉症がここ10年間論争の的になってきたのは、新三種混合ワクチン(MMR vaccine)との結びつきが取りざたされたからだったが、そのため新三種混合ワクチンの評判はすっかり落ちてしまった。自閉症の発症件数の増加が、新三種混合ワクチン反対運動の活動家によって、新三種混合ワクチン(導入は1988年)の有害な作用の証拠として引き合いに出されたからである。
2006年、ガイズ、聖トマス両医科大学の研究者は、全人口の1㌫が自閉症スペクトラム上にある疾病の診断を受けるはずだという試算をしたが、それはイギリス全土では500,000の子供に等しい数字である。この数字が自閉症研究における基準となった。
さて、バロン=コーエン教授は、精確さを期すために、ケンブリッジシャー州の20,000人の子供に対して3つの違う研究方法を使うことによって、この数字に修正を加えることになった。
ケンブリッジで特別な教育を必要とする子供の名簿を調べると、発症している子供が1㌫いることが分かる。このことは、親に対する聞き取り調査(41の発症例を明らかにした)によって確証された。しかし、自閉症の子供を発見するために、同じ親に対して行なわれたその後のスクリーニング・テストによって、以前は自閉症と診断されなかった11人の子供が追加された。
この結果が示していることは、以前自閉症と診断されなかったケースを含めると、64人に1人の子供がこの病気にかかっていることになるが、これは母集団の1.5㌫に等しい。これをイギリスの全人口に適用すると、自閉症の子供の総数は500,000人から750,000人になる。3人の子供が自閉症と診断されるたびごとに、さらに2人の子供が診断からもれているかもしれない、と研究者たちは結論づけた。
バロン=コーエン教授は次のように語った。「もし病院が将来の計画を立てるときは、既知の3つの発症例に対して、未知の発症例が2つ以上あるかもしれないことを、あらかじめ考慮に入れておくべきです。これは重要なことです。現在病院の多くの科は手一杯です。現状維持が精一杯で、診察を待つ人の長い列があちこちに出来ていますからね」。
彼は次のように付け加えた。「もう充分援助を受けているのであれば、誰もが診断をうける必要があるというわけではないでしょう。しかし病院の各科は準備を整えておく必要があります。事態が悪化し始めた場合、たとえば家を出ていて親の援助を受けられない場合、診断を受けようと思うのが普通ですからね」。
国立自閉症協会によれば、早期の診断が大事である。親たちは正確な診断のために何年も棒にふる。国立自閉症協会の会長マーク・リーヴァーは次のように語った。「自閉症の患者数の正確な数字は、人々のニーズに見合う充分なレベルのサービスと適切な援助を確保するのに欠かせません」。
」
『インディペンデント』紙の記事です。
http://www.independent.co.uk/life-style/health-and-families/health-news/autism-study-finds-12fold-rise-in-cases-1692556.html
「 自閉症:研究によると発症件数は12倍も増加
自閉症の子供の数は過去30年間で12倍も増加し、以前の推定値より50㌫ほど高いかもしれないことが、この病気についてのこれまででもっとも詳細な研究によって判明した。
250,000人もの子供が自閉症か自閉症スペクトラム上の病気をもっているにもかかわらず、そのように診断されなかったと研究者は言う。この数字は、発病していることが判明している500,000人の子供に上乗せされる数字である。
『ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・サイキアトリー』に発表された、サイモン・バロン=コーエン教授とケンブリッジ大学自閉症研究センターの同僚たちによる正式の研究は、英国における自閉症の有病率についての将来の研究にとって新たな基準となるものであり、教育や他の公共サービスにとって重大な意義をもつものである。この発見が意味することは、生涯にわたって集中的な援助を必要とする若者はもっと多いだろうということである。
しかし著者たちは、ライフスタイルや環境の変化がこの上昇の背後にあるという考え方は退け、この病気に対する意識や検査技術の向上、穏やかな病気も自閉症として診断するようになった事情などに上昇の原因を帰した。
自閉症は、その発病者が関係を形成したり他者とコミュニケートすることを困難にする社会的機能の障害である。重い症状から軽い症状に至るまでの様々なケースのスペクトラムがあることが1990年代に認識され、比較的軽い症状にいる人々までをカヴァーするためにアスペルガー症候群という診断名が取り入れられた。
自閉症がここ10年間論争の的になってきたのは、新三種混合ワクチン(MMR vaccine)との結びつきが取りざたされたからだったが、そのため新三種混合ワクチンの評判はすっかり落ちてしまった。自閉症の発症件数の増加が、新三種混合ワクチン反対運動の活動家によって、新三種混合ワクチン(導入は1988年)の有害な作用の証拠として引き合いに出されたからである。
2006年、ガイズ、聖トマス両医科大学の研究者は、全人口の1㌫が自閉症スペクトラム上にある疾病の診断を受けるはずだという試算をしたが、それはイギリス全土では500,000の子供に等しい数字である。この数字が自閉症研究における基準となった。
さて、バロン=コーエン教授は、精確さを期すために、ケンブリッジシャー州の20,000人の子供に対して3つの違う研究方法を使うことによって、この数字に修正を加えることになった。
ケンブリッジで特別な教育を必要とする子供の名簿を調べると、発症している子供が1㌫いることが分かる。このことは、親に対する聞き取り調査(41の発症例を明らかにした)によって確証された。しかし、自閉症の子供を発見するために、同じ親に対して行なわれたその後のスクリーニング・テストによって、以前は自閉症と診断されなかった11人の子供が追加された。
この結果が示していることは、以前自閉症と診断されなかったケースを含めると、64人に1人の子供がこの病気にかかっていることになるが、これは母集団の1.5㌫に等しい。これをイギリスの全人口に適用すると、自閉症の子供の総数は500,000人から750,000人になる。3人の子供が自閉症と診断されるたびごとに、さらに2人の子供が診断からもれているかもしれない、と研究者たちは結論づけた。
バロン=コーエン教授は次のように語った。「もし病院が将来の計画を立てるときは、既知の3つの発症例に対して、未知の発症例が2つ以上あるかもしれないことを、あらかじめ考慮に入れておくべきです。これは重要なことです。現在病院の多くの科は手一杯です。現状維持が精一杯で、診察を待つ人の長い列があちこちに出来ていますからね」。
彼は次のように付け加えた。「もう充分援助を受けているのであれば、誰もが診断をうける必要があるというわけではないでしょう。しかし病院の各科は準備を整えておく必要があります。事態が悪化し始めた場合、たとえば家を出ていて親の援助を受けられない場合、診断を受けようと思うのが普通ですからね」。
国立自閉症協会によれば、早期の診断が大事である。親たちは正確な診断のために何年も棒にふる。国立自閉症協会の会長マーク・リーヴァーは次のように語った。「自閉症の患者数の正確な数字は、人々のニーズに見合う充分なレベルのサービスと適切な援助を確保するのに欠かせません」。
」
ピカソとセザンヌ [海外メディア記事]
エクス=アン=プロヴァンスで開催されている『ピカソ-セザンヌ』展についての、『ル・モンド』紙の批評です。読めばわかりますが、ものすごく手厳しい。こんなこと書いていいの? と誰もが思うのではないでしょうか?
http://www.lemonde.fr/culture/article/2009/05/25/picasso-et-cezanne-une-confrontation-en-manque-d-oeuvres-majeures_1197699_3246.html
この批評記事で『ル・モンド』がビビったわけでもないでしょうが、もっと穏やかな紹介コーナーが追加されたので、口直しにそちらもどうぞ。ほとんど絵だけのスライドショーです。
http://www.lemonde.fr/culture/portfolio/2009/05/26/comment-cezanne-a-nourri-picasso_1198267_3246.html#ens_id=1197776
「 ピカソとセザンヌ 名画なき比較
この冬にパリのグラン・パレで好評を博した『ピカソと巨匠たち』展では、セザンヌはほとんど不在と言ってもいい扱いだった。このことは、1906年から9年までセザンヌがピカソにとって持っていた意義を考えると、それにまた、このスペインの天才の作品に時どき現われる人気のないエクス=アン=プロヴァンスに対する暗示を考えるならば、不可解なことであった。
忘れ去られていたわけではない。場所の割り振りの結果なのである。この二人の画家の関係を扱うべきは、パリではなく、セザンヌの生れ故郷エクス=アン=プロヴァンスでひと夏をかけて行われる展示会においてであるということは了解済みだったのである。
両者をめぐる問題は、キュビズムの分析家の多大な関心の的であったのだが、それは、ブラック、ドゥラン、ピカソが1907年以降行った幾何学的手法が、彼らが当時発見した―1906年のセザンヌの死をうけて、大規模な回顧展がサロン・ドートンヌで開催されたのは1907年―セザンヌの風景画や裸婦画から引き出されたからである。三人の若き画家たちは、風景や女性の肉体を形成する諸要素を角ばったり紡錘形の立体によって表わそうと試みた。彼らは、肌や石には黄や茶のオークル、葉や影には暗い緑といったセザンヌの絵の主調を模範とした。彼らはセザンヌの静物を眺め、ブラックとピカソはそれを単純化することから始め―対象を減らし、平面も減らしていき―、1909年以降はそれらを解体し断片化していくことで、急速にセザンヌから遠ざかっていった。
このプロセスを示すための策は、誰が見ても描かれる対象や共謀関係や違いに気がつくように、縁のあるカンバスを並べることである。それが出来るには重要な絵画がなければならない。ロンドンとフィラデルフィアにあるセザンヌの『女性大水浴図 (Les Grandes baigneuses)』は、ニューヨークにあるピカソの『アヴィニヨンの娘たち』と同じくらい門外不出の作品である。同じ問題は、もっとも重要な風景画や静物画にも当てはまる。
さて、エクス=アン=プロヴァンスの展示会には、近代絵画のこの決定的な時期を解明してくれるような傑作は非常に乏しい。この展示会は、セザンヌの絵が乏しく、最初の会場で訪問者に提供してくれるのは、断片的な逸話のみである。その手の話に馴染んでいないならば、その逸話を再構成することにとても苦労するだろう。わずかな絵画を目にすることはできるし、そのうちのいくつかは一級品であるが、それら作品間の関係は明瞭に設定されているわけではない。
さらに先に進んで、この二人の画家の間の更なる関係、間隔もあるし省略に満ちた関係に捧げられた展示でも同じ曖昧さの印象はついて回る。そこでも、ピカソの年譜をそらんじられる人でもなければ、カード遊びをする男たちや、アルルカンや、画家とそのモデルをめぐって何がなされているのかを把握するのは難しい。平行関係は、時には正確だが、時にはこじつけめいている。ピカソがバテシバに興味を覚えた時、それはセザンヌを通してというよりは、クラナッハとレンブラントを通してであった。それに、1960年代の初めピカソの念頭にあったのは、セザンヌの女性大水浴図よりは、マネの草上の昼食だった。
部屋の飾りつけのために
1959年から1961年にかけて、ピカソはヴォーヴナルグ城で生活し仕事をしていた。そこはセザンヌがあれほど頻繁に描いたサン-ヴィクトワール山に近いところではあるが、セザンヌは、城からの観点で描いたわけではない。ピカソはセザンヌの故郷にいたのだから、セザンヌのことを思っていたと主張できるだろうか? カンバスははっきり逆のことを語っている。1959年4月に描かれたサン-ヴィクトワール山の風景画三点は、構図的にも手法的にもセザンヌ的ではない。部屋の飾りつけのために手に入れたアンリ2世の食器棚にピカソが捧げたカンバスも、ジャックリーヌの肖像画と同様にセザンヌ的ではない。ヴォーヴナルグの時期にセザンヌは不在だったのではないかと問いかけるほうが、無理やり認める振りをするよりもまだましだっただろう。
もちろん、そんなことをすれば展示会の大いなる存在理由は薄弱なものになっただろう。つまり、観光客を呼び寄せ収入アップをはかるという存在理由である。2006年、グラネ美術館とエクス=アン=プロヴァンス市は、多くの人を惹きつけるセザンヌ展を開催することで、うるわしの名誉回復作戦を成功させた。セザンヌは、生前、同郷人から嘲けられ侮蔑されていた。しかし今や、セザンヌは同郷人の子孫たちにとって収入源の一つとなった。2006年セザンヌのおかげでエクス=アン=プロヴァンス市とその地方に入る収入は6000万ユーロにのぼると、エクス=アン=プロヴァンス市長マリーズ・ジョワッサン・マジーニは、その就任演説で振り返った。市長の夢はかなえられたのか? 今年はピカソが同程度の収入をもたらしてくれるという夢が? この観点からみると、展示会があいまいな印象しか与えないことやキュビズムの発生状況などは無視できる問題なのである」。
http://www.lemonde.fr/culture/article/2009/05/25/picasso-et-cezanne-une-confrontation-en-manque-d-oeuvres-majeures_1197699_3246.html
この批評記事で『ル・モンド』がビビったわけでもないでしょうが、もっと穏やかな紹介コーナーが追加されたので、口直しにそちらもどうぞ。ほとんど絵だけのスライドショーです。
http://www.lemonde.fr/culture/portfolio/2009/05/26/comment-cezanne-a-nourri-picasso_1198267_3246.html#ens_id=1197776
「 ピカソとセザンヌ 名画なき比較
この冬にパリのグラン・パレで好評を博した『ピカソと巨匠たち』展では、セザンヌはほとんど不在と言ってもいい扱いだった。このことは、1906年から9年までセザンヌがピカソにとって持っていた意義を考えると、それにまた、このスペインの天才の作品に時どき現われる人気のないエクス=アン=プロヴァンスに対する暗示を考えるならば、不可解なことであった。
忘れ去られていたわけではない。場所の割り振りの結果なのである。この二人の画家の関係を扱うべきは、パリではなく、セザンヌの生れ故郷エクス=アン=プロヴァンスでひと夏をかけて行われる展示会においてであるということは了解済みだったのである。
両者をめぐる問題は、キュビズムの分析家の多大な関心の的であったのだが、それは、ブラック、ドゥラン、ピカソが1907年以降行った幾何学的手法が、彼らが当時発見した―1906年のセザンヌの死をうけて、大規模な回顧展がサロン・ドートンヌで開催されたのは1907年―セザンヌの風景画や裸婦画から引き出されたからである。三人の若き画家たちは、風景や女性の肉体を形成する諸要素を角ばったり紡錘形の立体によって表わそうと試みた。彼らは、肌や石には黄や茶のオークル、葉や影には暗い緑といったセザンヌの絵の主調を模範とした。彼らはセザンヌの静物を眺め、ブラックとピカソはそれを単純化することから始め―対象を減らし、平面も減らしていき―、1909年以降はそれらを解体し断片化していくことで、急速にセザンヌから遠ざかっていった。
このプロセスを示すための策は、誰が見ても描かれる対象や共謀関係や違いに気がつくように、縁のあるカンバスを並べることである。それが出来るには重要な絵画がなければならない。ロンドンとフィラデルフィアにあるセザンヌの『女性大水浴図 (Les Grandes baigneuses)』は、ニューヨークにあるピカソの『アヴィニヨンの娘たち』と同じくらい門外不出の作品である。同じ問題は、もっとも重要な風景画や静物画にも当てはまる。
さて、エクス=アン=プロヴァンスの展示会には、近代絵画のこの決定的な時期を解明してくれるような傑作は非常に乏しい。この展示会は、セザンヌの絵が乏しく、最初の会場で訪問者に提供してくれるのは、断片的な逸話のみである。その手の話に馴染んでいないならば、その逸話を再構成することにとても苦労するだろう。わずかな絵画を目にすることはできるし、そのうちのいくつかは一級品であるが、それら作品間の関係は明瞭に設定されているわけではない。
さらに先に進んで、この二人の画家の間の更なる関係、間隔もあるし省略に満ちた関係に捧げられた展示でも同じ曖昧さの印象はついて回る。そこでも、ピカソの年譜をそらんじられる人でもなければ、カード遊びをする男たちや、アルルカンや、画家とそのモデルをめぐって何がなされているのかを把握するのは難しい。平行関係は、時には正確だが、時にはこじつけめいている。ピカソがバテシバに興味を覚えた時、それはセザンヌを通してというよりは、クラナッハとレンブラントを通してであった。それに、1960年代の初めピカソの念頭にあったのは、セザンヌの女性大水浴図よりは、マネの草上の昼食だった。
部屋の飾りつけのために
1959年から1961年にかけて、ピカソはヴォーヴナルグ城で生活し仕事をしていた。そこはセザンヌがあれほど頻繁に描いたサン-ヴィクトワール山に近いところではあるが、セザンヌは、城からの観点で描いたわけではない。ピカソはセザンヌの故郷にいたのだから、セザンヌのことを思っていたと主張できるだろうか? カンバスははっきり逆のことを語っている。1959年4月に描かれたサン-ヴィクトワール山の風景画三点は、構図的にも手法的にもセザンヌ的ではない。部屋の飾りつけのために手に入れたアンリ2世の食器棚にピカソが捧げたカンバスも、ジャックリーヌの肖像画と同様にセザンヌ的ではない。ヴォーヴナルグの時期にセザンヌは不在だったのではないかと問いかけるほうが、無理やり認める振りをするよりもまだましだっただろう。
もちろん、そんなことをすれば展示会の大いなる存在理由は薄弱なものになっただろう。つまり、観光客を呼び寄せ収入アップをはかるという存在理由である。2006年、グラネ美術館とエクス=アン=プロヴァンス市は、多くの人を惹きつけるセザンヌ展を開催することで、うるわしの名誉回復作戦を成功させた。セザンヌは、生前、同郷人から嘲けられ侮蔑されていた。しかし今や、セザンヌは同郷人の子孫たちにとって収入源の一つとなった。2006年セザンヌのおかげでエクス=アン=プロヴァンス市とその地方に入る収入は6000万ユーロにのぼると、エクス=アン=プロヴァンス市長マリーズ・ジョワッサン・マジーニは、その就任演説で振り返った。市長の夢はかなえられたのか? 今年はピカソが同程度の収入をもたらしてくれるという夢が? この観点からみると、展示会があいまいな印象しか与えないことやキュビズムの発生状況などは無視できる問題なのである」。
脳の老化とブリッジ(2) [海外メディア記事]
前回の続きの部分です。痴呆を予防するのに、社交的活動が重要であるということは知っていましたが、人と会うことがそれほど脳のエネルギーを必要とするということは初耳でした(まあ、考えてみれば、人との付き合いには確かに色々難しい側面があるからこそ、それを回避しようとする人が沢山出てくるわけですが・・・)。男性の平均寿命が短い理由は、案外、社交性の乏しさという点に求められるのかもしれない、と思いました。
http://www.nytimes.com/2009/05/22/health/research/22brain.html?pagewanted=2&_r=2&ref=science
「金曜の午後のブリッジのゲームで、カミンズさんとスコットさんは、他の二人のプレイヤー(二人とも女性で90歳台)とテーブルを囲んでいた。手番の合間にゴシップの話が自由に飛び交う。ゲームよりもおしゃべりのほうに夢中な居住者について、その週に体操クラスで倒れ死んだ100歳の男性について。
しかし、女性たちは、ゲームになると真剣そのものである。
「あなたが出したの何だった、スペードだった?」と、パートナーがカミンズさんに尋ねる。
「そう、スペードよ」と、カミンズさんは少しムッとして答える。
後になって、そのパートナーは不安げにテーブルのカードを見つめる。「これって・・・」。
「そのトリックはもう終わったのよ」とカミンズさんは言う。
「あなた、1トリック負けてるのよ」。
ラグーナ・ウッズの常連プレイヤーならば大抵は、うっかりした間違いに狼狽して、定例のゲームから身をひいてしまったプレイヤーを少なくとも一人は知っているそうだ。「私の友人で、とても優秀だったんだけど、キープ・アップできないと思い込んで、反射的にドロップ・アウトしてしまった人がいました」とカミンズさんは言う。「よくあることなんです」。
けれども、多くの場合、状況の悪化によって急に自己意識が消え去ってしまうのは、痴呆の悲劇の一部である。たぶん他のどんなことよりも、自分の日常の生活を規定しているたった一つのものを進んで放棄しようと思う人はいないはずなのだから。
「そんなときは本当につらいのです」とデイヴィスさんは言う。「つまり、あなたならどうします? 自分の友達がそうなったら」。
ゲームをし続ける
食事や運動が90歳以上の人の痴呆のリスクに影響を及ぼすという証拠は、これまでのところ科学者によって発見されたわけではない。しかし、クロスワード・パズルをしたり読書をしたりといった精神的活動が痴呆の兆候の到来を遅らせることはありうる、と主張する研究者もいる。友人との交流を含む社会的なつながりをもつ活動はとても重要であろうと推測する研究者もいる。心理学者の知見によると、健全な精神であっても、孤立状態に置かれると、空ろになって急速に退化してしまうこともありうるのだ。
「自宅であれ自宅の外であれ、付き合う人が多ければ多いほど、精神的にも肉体的にもそれだけ良いということを示す証拠はかなりあるのです」とカーワス博士は言う。「見知らぬ人でもいいのですが、定期的に人と会うことは、パズルを解くのと同じくらいの脳のエネルギーを使用します。だから、これこそ問題のすべてだということになったとしても、私は驚かないでしょう」。
ブリッジは両方の種類の刺激を提供してくれるのです、と博士は付け加える。
ラグーナ・ウッズでの不文律に、記憶力が低下しつつある人を援助してやること、一種の記憶の補助として振舞うことというものがある。「みんな記憶を失うのが怖いのです。誰にもそのリスクがありますからね」。そう語るのは、匿名希望の90歳代の常連プレイヤーの一人。
現在96歳で、以前学校の校長をしていたウッディー・ボワーソック氏は、ラグーナ・ウッズのスイミング・チームの仲間が競泳できるように手助けをしたのだが、その仲間は痴呆のために新たな記憶のほとんどを形成する能力がなかった。
「レースの前に、スタート位置のところまで歩かせて、その上に載せてやらなければなりません」とボワーソック氏は語る。「しかしホイッスルがすぐ鳴らなければ,彼は徘徊し始めるでしょう。ですからね、彼が水に入るまで彼のそばに立っていなければならないんです。水に入ってしまったら、もう大丈夫です。泳ぎはうまいから。自由形ですよ」。
ブリッジには別の難しさがあるが、居住者の幾人かによると、優秀なプレイヤーは、記憶力が減退しつつあるときでも、本能的にプレイできるのだという。
「95歳のある男性を知っていますが、彼は、痴呆の兆候が始まっていますがブリッジをしています。もち札を忘れたりしますが」と言うのはラグーナ・ウッズに暮らしているマリリン・リュックバークさん。「いずれにしても私は彼をパートナーにします。そして結局私たちはよい成績なんですよ。彼がどうしてやっていけるのか知りませんが、ブリッジの経験が豊富だからなんでしょうね」。
科学者の推測では、ブリッジのようなゲームに豊富な経験を持つ人は、記憶力の減退に対処するために経験のストックに頼ることができるのかもしれない、とのことである。しかし充分な証拠があるわけではないので、真相は不明である。
リュックバークさんの気がかりはそのことよりも、友人にある。「私は彼に、日中、部屋の四つの壁をただ眺めて暮らす以上のことを与えてあげたいの」。
一線を引く
高齢者についての研究で、カリフォルニア、ニューヨーク、ボストン等の研究者たちは、幸せな晩年のための手がかりをいくつも見いだした。たとえば、カーワス博士のグループは、とても長い人生の終わりまで明晰な頭脳を保っていた人の中には、アルツハイマー病に罹っているように見える脳をもっている人もいたことを発見した。先月発表された研究では、痴呆にならなかった人の多くはAPOE2と呼ばれる遺伝子変異体をもっていて、それが精神的な若々しさを保つのに役立っているかもしれない、という報告があった。
アルバート・アインシュタイン医科大学のニール・バージレイ博士は、百歳を超えても痴呆にならないアシュケナージ系ユダヤ人は、痴呆に陥った同胞に比べて、いわゆる善玉コレステロール粒子のサイズと量を増大させるらしいCETPと呼ばれる遺伝子をもっている確率が3倍も高いことを発見した。
「これがどうして予防効果をもつのか、私たちにはまだ分かっていませんが、これは高齢期の良好な認知機能ときわめて密接に関係しているのです」とバージレイ博士は言う。「少なくともこれは、将来の治療にとってのターゲットを与えてくれるのです」。
スーパー・メモリー・クラブの人々にとって、その将来は遠すぎるので意義あるものではない。とても大事なことは独立心をもち続けることである。つまり、ある時点で、親友をあきらめなければならない、ということである。
「いつも真っ先にしたいと思うことは、かけつけて手助けをしてやることです」とデーヴィスさんは言う。「でもしばらくたって結局こう自問するようになるんです。「ここでの私の役割は何かしら? 私は介護師なの?」。自分の生活があるのだから、自分がどこまでやっていいかは自分で決めるしかないの」。
ブリッジの世界では、高校でもそうであったが、パーティーへの招待を取り消すことはほとんど不可能である。あるプレイヤーが、少なくともしばらくの間、このパートナーとゲームをするのは止めようと決心しても、結局はまた別のプレイヤーと組んでゲームをし始めるものだ。あるいは、それは、パートナーに、真剣なゲームからもっと気楽にできるゲームへと、ゲームのレベルを落としたほうがいいのではと示唆することであるかもしれない。そんなことを好んで聞きたいと思うプレイヤーはいない。しかし、世界中のカード・ルームで毎日、そのような宣告を受けるプレイヤーがいる。
「あなた、彼らとはもうゲームはなしね。おしまい」。そうカミンズさんは言った。「あなた、勝負に集中してないわ。とにかく余裕がないの」。
ビッドとトリックを取るリズム、手番の合間の気のおけない会話、毎日やってくる勝負――生まれてからほぼ一世紀たって、遺伝子のくじ引きで最も運がよかった者にも、終わりの時は来る。
「いつかはやめる時が来ます」と言うのは、ここでの常連プレイヤーの一人ノーマ・コスコフさん。「そしてよくあることですが、ブリッジをやめると、もう長くは生きていられないのです」」。
http://www.nytimes.com/2009/05/22/health/research/22brain.html?pagewanted=2&_r=2&ref=science
「金曜の午後のブリッジのゲームで、カミンズさんとスコットさんは、他の二人のプレイヤー(二人とも女性で90歳台)とテーブルを囲んでいた。手番の合間にゴシップの話が自由に飛び交う。ゲームよりもおしゃべりのほうに夢中な居住者について、その週に体操クラスで倒れ死んだ100歳の男性について。
しかし、女性たちは、ゲームになると真剣そのものである。
「あなたが出したの何だった、スペードだった?」と、パートナーがカミンズさんに尋ねる。
「そう、スペードよ」と、カミンズさんは少しムッとして答える。
後になって、そのパートナーは不安げにテーブルのカードを見つめる。「これって・・・」。
「そのトリックはもう終わったのよ」とカミンズさんは言う。
「あなた、1トリック負けてるのよ」。
ラグーナ・ウッズの常連プレイヤーならば大抵は、うっかりした間違いに狼狽して、定例のゲームから身をひいてしまったプレイヤーを少なくとも一人は知っているそうだ。「私の友人で、とても優秀だったんだけど、キープ・アップできないと思い込んで、反射的にドロップ・アウトしてしまった人がいました」とカミンズさんは言う。「よくあることなんです」。
けれども、多くの場合、状況の悪化によって急に自己意識が消え去ってしまうのは、痴呆の悲劇の一部である。たぶん他のどんなことよりも、自分の日常の生活を規定しているたった一つのものを進んで放棄しようと思う人はいないはずなのだから。
「そんなときは本当につらいのです」とデイヴィスさんは言う。「つまり、あなたならどうします? 自分の友達がそうなったら」。
ゲームをし続ける
食事や運動が90歳以上の人の痴呆のリスクに影響を及ぼすという証拠は、これまでのところ科学者によって発見されたわけではない。しかし、クロスワード・パズルをしたり読書をしたりといった精神的活動が痴呆の兆候の到来を遅らせることはありうる、と主張する研究者もいる。友人との交流を含む社会的なつながりをもつ活動はとても重要であろうと推測する研究者もいる。心理学者の知見によると、健全な精神であっても、孤立状態に置かれると、空ろになって急速に退化してしまうこともありうるのだ。
「自宅であれ自宅の外であれ、付き合う人が多ければ多いほど、精神的にも肉体的にもそれだけ良いということを示す証拠はかなりあるのです」とカーワス博士は言う。「見知らぬ人でもいいのですが、定期的に人と会うことは、パズルを解くのと同じくらいの脳のエネルギーを使用します。だから、これこそ問題のすべてだということになったとしても、私は驚かないでしょう」。
ブリッジは両方の種類の刺激を提供してくれるのです、と博士は付け加える。
ラグーナ・ウッズでの不文律に、記憶力が低下しつつある人を援助してやること、一種の記憶の補助として振舞うことというものがある。「みんな記憶を失うのが怖いのです。誰にもそのリスクがありますからね」。そう語るのは、匿名希望の90歳代の常連プレイヤーの一人。
現在96歳で、以前学校の校長をしていたウッディー・ボワーソック氏は、ラグーナ・ウッズのスイミング・チームの仲間が競泳できるように手助けをしたのだが、その仲間は痴呆のために新たな記憶のほとんどを形成する能力がなかった。
「レースの前に、スタート位置のところまで歩かせて、その上に載せてやらなければなりません」とボワーソック氏は語る。「しかしホイッスルがすぐ鳴らなければ,彼は徘徊し始めるでしょう。ですからね、彼が水に入るまで彼のそばに立っていなければならないんです。水に入ってしまったら、もう大丈夫です。泳ぎはうまいから。自由形ですよ」。
ブリッジには別の難しさがあるが、居住者の幾人かによると、優秀なプレイヤーは、記憶力が減退しつつあるときでも、本能的にプレイできるのだという。
「95歳のある男性を知っていますが、彼は、痴呆の兆候が始まっていますがブリッジをしています。もち札を忘れたりしますが」と言うのはラグーナ・ウッズに暮らしているマリリン・リュックバークさん。「いずれにしても私は彼をパートナーにします。そして結局私たちはよい成績なんですよ。彼がどうしてやっていけるのか知りませんが、ブリッジの経験が豊富だからなんでしょうね」。
科学者の推測では、ブリッジのようなゲームに豊富な経験を持つ人は、記憶力の減退に対処するために経験のストックに頼ることができるのかもしれない、とのことである。しかし充分な証拠があるわけではないので、真相は不明である。
リュックバークさんの気がかりはそのことよりも、友人にある。「私は彼に、日中、部屋の四つの壁をただ眺めて暮らす以上のことを与えてあげたいの」。
一線を引く
高齢者についての研究で、カリフォルニア、ニューヨーク、ボストン等の研究者たちは、幸せな晩年のための手がかりをいくつも見いだした。たとえば、カーワス博士のグループは、とても長い人生の終わりまで明晰な頭脳を保っていた人の中には、アルツハイマー病に罹っているように見える脳をもっている人もいたことを発見した。先月発表された研究では、痴呆にならなかった人の多くはAPOE2と呼ばれる遺伝子変異体をもっていて、それが精神的な若々しさを保つのに役立っているかもしれない、という報告があった。
アルバート・アインシュタイン医科大学のニール・バージレイ博士は、百歳を超えても痴呆にならないアシュケナージ系ユダヤ人は、痴呆に陥った同胞に比べて、いわゆる善玉コレステロール粒子のサイズと量を増大させるらしいCETPと呼ばれる遺伝子をもっている確率が3倍も高いことを発見した。
「これがどうして予防効果をもつのか、私たちにはまだ分かっていませんが、これは高齢期の良好な認知機能ときわめて密接に関係しているのです」とバージレイ博士は言う。「少なくともこれは、将来の治療にとってのターゲットを与えてくれるのです」。
スーパー・メモリー・クラブの人々にとって、その将来は遠すぎるので意義あるものではない。とても大事なことは独立心をもち続けることである。つまり、ある時点で、親友をあきらめなければならない、ということである。
「いつも真っ先にしたいと思うことは、かけつけて手助けをしてやることです」とデーヴィスさんは言う。「でもしばらくたって結局こう自問するようになるんです。「ここでの私の役割は何かしら? 私は介護師なの?」。自分の生活があるのだから、自分がどこまでやっていいかは自分で決めるしかないの」。
ブリッジの世界では、高校でもそうであったが、パーティーへの招待を取り消すことはほとんど不可能である。あるプレイヤーが、少なくともしばらくの間、このパートナーとゲームをするのは止めようと決心しても、結局はまた別のプレイヤーと組んでゲームをし始めるものだ。あるいは、それは、パートナーに、真剣なゲームからもっと気楽にできるゲームへと、ゲームのレベルを落としたほうがいいのではと示唆することであるかもしれない。そんなことを好んで聞きたいと思うプレイヤーはいない。しかし、世界中のカード・ルームで毎日、そのような宣告を受けるプレイヤーがいる。
「あなた、彼らとはもうゲームはなしね。おしまい」。そうカミンズさんは言った。「あなた、勝負に集中してないわ。とにかく余裕がないの」。
ビッドとトリックを取るリズム、手番の合間の気のおけない会話、毎日やってくる勝負――生まれてからほぼ一世紀たって、遺伝子のくじ引きで最も運がよかった者にも、終わりの時は来る。
「いつかはやめる時が来ます」と言うのは、ここでの常連プレイヤーの一人ノーマ・コスコフさん。「そしてよくあることですが、ブリッジをやめると、もう長くは生きていられないのです」」。
脳の老化とブリッジ(1) [海外メディア記事]
脳の老化を防ぐためには何が良いのか?
ニューヨーク・タイムズ紙の記事の前半です。
http://www.nytimes.com/2009/05/22/health/research/22brain.html?_r=1&ref=science
By BENEDICT CAREY
Published: May 21, 2009
「 ブリッジのテーブルには呆けない老年のための手がかりがいろいろある
カード・ルームのご婦人たちはブリッジをしている。彼女たちの年齢を考えると、カードゲームは趣味とはいえない。それは生活スタイル、日常に楽しみと刺激を与えてくれるものであるが、すべてが闇になる前に皆がそろって楽しむ最後のキャンプファイヤーのようでもある。
「血行を良くするためにブリッジをしているの」。ルース・カミンズさん(92歳)はそう言うと、次のゲームに備えてレッド・ブル(=栄養ドリンクのこと)を一口飲んだ。
「このおかげで元気でいられるのよ」と付け加えるのはジョージア・スコットさん(99歳)。「ここには大の親友がいますからね」。
近年、科学者たちは「スーパー・メモリー・クラブ」とでも呼べるもの――つまり、スコットさんやカミンズさんのように、痴呆の兆候をまっくた見せることなく90歳をこえても元気でいる、200人に1人もいない人々の集団――に強い関心を示し始めた。この集団は充分大きな集団なので、人間の生命が達しうる限界近くにいながら明晰な状態を保っている脳に対する洞察を与えてくれるだろうし、若々しい心を最後まで保つには何が必要であるかを研究者が引き出すうえで参考になるだろうと期待されている。
「この人々はもっとも上手に年をとった人々であり、この人々のおかげで、私たちは、遺伝子や日常の仕事や生活で何が重要なのかを、ようやく今になって学び始めているのです」と語るのは、カリフォルニア大学アーバイン校の神経学者クラウディア・カーワス博士。「たとえば、私たちは、脳を使って、精神を刺激し続けることはとても重要であると思っていますが、精神の活動がすべて等しいわけではないのかもしれません。社会的要素が決定的に重要であるという証拠はいくつかあります」。
ロサンジェルスの南にある人口2万人の広大な高齢者居住地域ラグーナ・ウッズは、高齢者の健康および知力を数十年単位で調べている世界最大の研究の中心地である。1981年に南カリフォルニア大学の研究者によって開始され、90歳プラス研究(90+ Study)と名づけられた研究は、65歳以上の高齢者14,000人以上、90歳以上の高齢者を1,000以上を対象にして進められている。
こうした研究は歳月を経るほど成果が出るものだが、この研究の結果は科学者が老化する脳を理解する仕方を徐々に変え始めている。一日のかなりの時間、3時間かそれ以上をカードゲームのような精神活動に熱中してすごす人々は痴呆になるリスクが低いことが示されている。研究者は結果と原因をハッキリさせようと努めている。そういう人々は若々しいから活動的なのか、それとも活動的だから若々しいのだろうか?
研究者たちは、また、90歳以上で痴呆の高齢者が占める割合は、これまで専門家の推測とは違って、横ばいあるいは減少するわけではないことも示した。その割合は増加し続けるのであって、90歳以上の600人のうち95歳にまで達した人で、男性はほぼ40パーセント、女性は60パーセントの人が痴呆と診断された。
同時に、この研究や高齢者についての別の継続的研究の発見は、アルツハイマー病によるありとあらゆる生物学的損傷を示す脳をもちながら頭脳明晰のままでいることに役立っている遺伝子があるということを示唆した。90歳プラス研究、いまではU.S.C.とカリフォルニア大学アーバイン校の共同プロジェクトとなっている研究で、研究者は定期的に遺伝子テストを行い、住民の記憶をテストし、彼らの活動を跡づけ、血液サンプルを採取し、場合によっては、住民の脳の検視分析を行っている。アーバイン校の研究者は100以上のサンプルからなる脳バンクを維持している。
ラーグナ・ウッズは、バンガローとコンドミニアムが整然と立ち並んでいて、オレンジ・カウンティーの南部に入り込んでいる部分もある村である。この門のある村に入居するには、いくつかの条件を満たさなければならないのだが、そのうちの一つは、フルタイムのケアは必要ではないという条件である。65歳であれ95歳であれ、この村にやってくる人々は活気に満ちている。
彼らはここで新たな生活を始める。新たな友達を作る。それが新たな恋のパートナーになるかもしれない。この村のフィットネス・センターの一つで新たな活動にはげむ。または、400以上ある居住者のクラブで新たな趣味を始める。新たなキャンパスに来たばかりの大学の新入生みたいな忙しさだが、一つ大きな違いがある。それは、彼らが、大学生ほどには、将来や過去に興味をもっていないということである。
「私たちはその日一日のために生きています」。そう語るのは、長年この地で暮らす90歳台のレオン・マンハイマー博士。
しかし、ラグーナ・ウッズや他の地で行われた研究が見いだしたことは、痴呆のケースで普通何よりも大事なのは、その日一日という現在についての新しい記憶を形成できる能力なのである。
仲間とともに暮らしている高齢者はこのことを身をもって知っており、自分自身のノウハウ、自分自身の実験を築き上げてきた。彼らは、慎重な観察に基づいて、お互いを診断しているのである。そして、様々な種類の記憶の喪失を区別できるようになり、どういう喪失が大したことのないもので、どういう喪失が不吉なものであるかが判るのである。
ブリッジ・テーブルの座席
ここラグーナ・ウッズでは、多くの居住者が集まってとても複雑な計算をしている場所がある。ブリッジ・テーブルである。
コントラクト・ブリッジをするには半端ではない記憶力が必要である。4人のプレイヤーが2組に分かれて、出されたカードに従いながら、パートナーの作戦を読みとらなくてはならない。優秀なプレイヤーは出されたカードをすべて記憶しているし、それがチームにとってどういう意味を持つのかも記憶している。カードを一枚でも忘れるならば、勝負では不利になり、チームは敗北するかもしれないし、社会的な結びつきもそれで終わりになるかもしれない。
「パートナーがしくじり始めたら、もう信頼はされませんね」。そう言うのは、ラグーナ・ウッズに住むブリッジの常連ジュリア・デーヴィスさん(89歳)。「要は、そういうゲームなんですよ。こんな風に言うのはひどいことだけど、それが起こるのを目にするもはもっとひどいこと。相手側のプレイヤーも困ってしまうんです。そうなると、どうにもなりませんね」」。(後半に続く)
ニューヨーク・タイムズ紙の記事の前半です。
http://www.nytimes.com/2009/05/22/health/research/22brain.html?_r=1&ref=science
By BENEDICT CAREY
Published: May 21, 2009
「 ブリッジのテーブルには呆けない老年のための手がかりがいろいろある
カード・ルームのご婦人たちはブリッジをしている。彼女たちの年齢を考えると、カードゲームは趣味とはいえない。それは生活スタイル、日常に楽しみと刺激を与えてくれるものであるが、すべてが闇になる前に皆がそろって楽しむ最後のキャンプファイヤーのようでもある。
「血行を良くするためにブリッジをしているの」。ルース・カミンズさん(92歳)はそう言うと、次のゲームに備えてレッド・ブル(=栄養ドリンクのこと)を一口飲んだ。
「このおかげで元気でいられるのよ」と付け加えるのはジョージア・スコットさん(99歳)。「ここには大の親友がいますからね」。
近年、科学者たちは「スーパー・メモリー・クラブ」とでも呼べるもの――つまり、スコットさんやカミンズさんのように、痴呆の兆候をまっくた見せることなく90歳をこえても元気でいる、200人に1人もいない人々の集団――に強い関心を示し始めた。この集団は充分大きな集団なので、人間の生命が達しうる限界近くにいながら明晰な状態を保っている脳に対する洞察を与えてくれるだろうし、若々しい心を最後まで保つには何が必要であるかを研究者が引き出すうえで参考になるだろうと期待されている。
「この人々はもっとも上手に年をとった人々であり、この人々のおかげで、私たちは、遺伝子や日常の仕事や生活で何が重要なのかを、ようやく今になって学び始めているのです」と語るのは、カリフォルニア大学アーバイン校の神経学者クラウディア・カーワス博士。「たとえば、私たちは、脳を使って、精神を刺激し続けることはとても重要であると思っていますが、精神の活動がすべて等しいわけではないのかもしれません。社会的要素が決定的に重要であるという証拠はいくつかあります」。
ロサンジェルスの南にある人口2万人の広大な高齢者居住地域ラグーナ・ウッズは、高齢者の健康および知力を数十年単位で調べている世界最大の研究の中心地である。1981年に南カリフォルニア大学の研究者によって開始され、90歳プラス研究(90+ Study)と名づけられた研究は、65歳以上の高齢者14,000人以上、90歳以上の高齢者を1,000以上を対象にして進められている。
こうした研究は歳月を経るほど成果が出るものだが、この研究の結果は科学者が老化する脳を理解する仕方を徐々に変え始めている。一日のかなりの時間、3時間かそれ以上をカードゲームのような精神活動に熱中してすごす人々は痴呆になるリスクが低いことが示されている。研究者は結果と原因をハッキリさせようと努めている。そういう人々は若々しいから活動的なのか、それとも活動的だから若々しいのだろうか?
研究者たちは、また、90歳以上で痴呆の高齢者が占める割合は、これまで専門家の推測とは違って、横ばいあるいは減少するわけではないことも示した。その割合は増加し続けるのであって、90歳以上の600人のうち95歳にまで達した人で、男性はほぼ40パーセント、女性は60パーセントの人が痴呆と診断された。
同時に、この研究や高齢者についての別の継続的研究の発見は、アルツハイマー病によるありとあらゆる生物学的損傷を示す脳をもちながら頭脳明晰のままでいることに役立っている遺伝子があるということを示唆した。90歳プラス研究、いまではU.S.C.とカリフォルニア大学アーバイン校の共同プロジェクトとなっている研究で、研究者は定期的に遺伝子テストを行い、住民の記憶をテストし、彼らの活動を跡づけ、血液サンプルを採取し、場合によっては、住民の脳の検視分析を行っている。アーバイン校の研究者は100以上のサンプルからなる脳バンクを維持している。
ラーグナ・ウッズは、バンガローとコンドミニアムが整然と立ち並んでいて、オレンジ・カウンティーの南部に入り込んでいる部分もある村である。この門のある村に入居するには、いくつかの条件を満たさなければならないのだが、そのうちの一つは、フルタイムのケアは必要ではないという条件である。65歳であれ95歳であれ、この村にやってくる人々は活気に満ちている。
彼らはここで新たな生活を始める。新たな友達を作る。それが新たな恋のパートナーになるかもしれない。この村のフィットネス・センターの一つで新たな活動にはげむ。または、400以上ある居住者のクラブで新たな趣味を始める。新たなキャンパスに来たばかりの大学の新入生みたいな忙しさだが、一つ大きな違いがある。それは、彼らが、大学生ほどには、将来や過去に興味をもっていないということである。
「私たちはその日一日のために生きています」。そう語るのは、長年この地で暮らす90歳台のレオン・マンハイマー博士。
しかし、ラグーナ・ウッズや他の地で行われた研究が見いだしたことは、痴呆のケースで普通何よりも大事なのは、その日一日という現在についての新しい記憶を形成できる能力なのである。
仲間とともに暮らしている高齢者はこのことを身をもって知っており、自分自身のノウハウ、自分自身の実験を築き上げてきた。彼らは、慎重な観察に基づいて、お互いを診断しているのである。そして、様々な種類の記憶の喪失を区別できるようになり、どういう喪失が大したことのないもので、どういう喪失が不吉なものであるかが判るのである。
ブリッジ・テーブルの座席
ここラグーナ・ウッズでは、多くの居住者が集まってとても複雑な計算をしている場所がある。ブリッジ・テーブルである。
コントラクト・ブリッジをするには半端ではない記憶力が必要である。4人のプレイヤーが2組に分かれて、出されたカードに従いながら、パートナーの作戦を読みとらなくてはならない。優秀なプレイヤーは出されたカードをすべて記憶しているし、それがチームにとってどういう意味を持つのかも記憶している。カードを一枚でも忘れるならば、勝負では不利になり、チームは敗北するかもしれないし、社会的な結びつきもそれで終わりになるかもしれない。
「パートナーがしくじり始めたら、もう信頼はされませんね」。そう言うのは、ラグーナ・ウッズに住むブリッジの常連ジュリア・デーヴィスさん(89歳)。「要は、そういうゲームなんですよ。こんな風に言うのはひどいことだけど、それが起こるのを目にするもはもっとひどいこと。相手側のプレイヤーも困ってしまうんです。そうなると、どうにもなりませんね」」。(後半に続く)
ネアンデルタール人絶滅の証拠? [海外メディア記事]
ネアンデルタール人はなぜ滅んだのか? 最近は、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の混血を主張する研究者が増えているということを聞いた覚えがありますが、必ずしもそうとはいかないようで…。『シュピーゲル』誌の記事からです。
http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,625362,00.html
「人類はネアンデルタール人を食べていたかもしれない
恐ろしい行為を示唆する手がかりが見つかった。子供のネアンデルタール人のあごの骨に刃物で切った痕跡があることが科学者によって発見された。彼らの想定によると、3万年前の現生人類がそれを食べたか、その頭部をトロフィーとして利用したものだという。
結局のところ、われわれは人類の親戚を食べていたのか? パリ科学研究国立センターの人類学者フェルディナンド・ロッツィは、多くの想像をかきたてるようなあごの骨を見つけ出した。そしてそれは、古くから論争の種になっていた問い、なぜネアンデルタール人は滅んだのかという問いをかきたてることも間違いない。
ロッツィは、現生人類がネアンデルタール人を狩り立てて食べつくしたから滅んだのだ、と考えている。
ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、いづれも、アフリカの祖先から互いに独立して発展した。ホモ・ネアンデルターレンシスは約25万年前ヨーロッパでその祖先となる種から誕生したのに対して、ホモ・サピエンスはアフリカで発展した。その後、約28,000年前にネアンデルタール人は舞台から姿を消すのであるが、その時期は、ホモ・サピエンスが、アフリカからやって来て、ヨーロッパに広がり始めた時期にぴったり重なり合うのである。いずれにせよ、これは、多くの学者が支持している人類のアフリカ起源仮説("Out of Africa" Hypothese)に符合するのである。
このようにびっくりするほど時間が重なり合っているので、学者たちは、再三にわたって、推論を試みてきた。現生人類は、食料を奪うことによって、おそらく劣っていたネアンデルタール人を徐々に追いやってしまったのではないか? ネアンデルタール人を狙い撃ちにするような狩りをして絶滅させてしまったのではないか? そして、それらに劣らず決定的な問いなのだが、ホモ・サピエンスはホモ・ネアンデルターレンシスと性交をしたのではないか?
「そしてしばしば私たちは彼らを食べたのです」
フェルディナンド・ロッツィは、現生人類の歴史上最初の大量殺戮を示す決定的な手がかりを見つけたのかもしれない。それは、子供のネアンデルタール人のあごの骨で、そこには石器の小刀によって切断された跡があることが見て取れるのである。
ロッツィがこの骨を発見したのは、彼が、フランス南西部のムーティエ・シュル・ベーメの近くにあるレ・ロワ洞窟から出土したあご骨を新たに調べていたときであった。これまで、約28,000年前から30,000年前とされていたあご骨はホモ・サピエンスの遺骨と見なされてきた。しかし、下あごはネアンデルタール人の骨であると、ロッツィは専門誌『人類学ジャーナル(Journal of Anthropological Science)』に書いている。あごの形と歯の特徴は、現生人類よりもホモ・ネアンデルターレンシスに典型的なものであるとロッツィは言う。
研究者にとって大きな驚きは、よりによってこのあご骨に切断の跡が見られたことであった。それは、火打ち石製の道具で肉がそぎ落とされた動物の骨に見られる切断の跡に似ていた。
研究者たちには、この驚くべき発見に対して考えられる説明が三つあった。
・子供のネアンデルタール人は現生人類によって洞窟の中で食べられたか、その頭蓋骨はトロフィーとして飾られた。
・このあご骨は、ホモ・サピエンスの特徴もネアンデルタール人の特徴もあわせもつ現生人類に由来するものである。これは、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の性的接触を示す最初の証拠であろう。
・第三の可能性:この洞窟に居住していた者は、まさに原始的な外面の特徴を備えた現生人類の一群であったのかもしれない。これは、石器時代における現生人類の外的特徴に大きな幅があったを示しているのかもしれない。
これらの可能性のうちもっとも残虐なものがもっともありそうな可能性であるとロッツィは見ている。「ネアンデルタール人は私たちのうちに非業の最期を見たのでしょう――そしてしばしば私たちは彼らを食べたのです」と、ロッツィはイギリスの『ガーディアン』紙に語っていた。
しかし、彼の同僚のすべてがこの見解を共有しているわけではない。今回の研究書の共同執筆者で、先史および第四紀地質学インスティチュートのフランチェスコ・デリーコは、『ガーディアン』紙でロッツィに反駁していた。「切断の痕跡がいくつかあったとしても、それだけでは食人の証拠にはなりません」。洞窟の居住者があごの骨を見つけて、自分の歯と一緒にしてネックレスを作ったということだって考えられるから、というのである。
ロンドン自然史博物館の人類学者クリス・ストリンガーは「アフリカ起源説」の支持者の一人である。彼は、今回の発見を「きわめて重要な発見」と見なす。もっと証拠が必要であろうが、「このことは、現生人類とネアンデルタール人が同じ時期にヨーロッパの同じ場所で暮らしていたことを示しているのでしょう」とストリンガーは言う。「彼らは出会っていたのでしょうし、こうした出会いのいくつかは、場合によっては、敵意に満ちたものだったのかもしれません」」。
http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,625362,00.html
「人類はネアンデルタール人を食べていたかもしれない
恐ろしい行為を示唆する手がかりが見つかった。子供のネアンデルタール人のあごの骨に刃物で切った痕跡があることが科学者によって発見された。彼らの想定によると、3万年前の現生人類がそれを食べたか、その頭部をトロフィーとして利用したものだという。
結局のところ、われわれは人類の親戚を食べていたのか? パリ科学研究国立センターの人類学者フェルディナンド・ロッツィは、多くの想像をかきたてるようなあごの骨を見つけ出した。そしてそれは、古くから論争の種になっていた問い、なぜネアンデルタール人は滅んだのかという問いをかきたてることも間違いない。
ロッツィは、現生人類がネアンデルタール人を狩り立てて食べつくしたから滅んだのだ、と考えている。
ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、いづれも、アフリカの祖先から互いに独立して発展した。ホモ・ネアンデルターレンシスは約25万年前ヨーロッパでその祖先となる種から誕生したのに対して、ホモ・サピエンスはアフリカで発展した。その後、約28,000年前にネアンデルタール人は舞台から姿を消すのであるが、その時期は、ホモ・サピエンスが、アフリカからやって来て、ヨーロッパに広がり始めた時期にぴったり重なり合うのである。いずれにせよ、これは、多くの学者が支持している人類のアフリカ起源仮説("Out of Africa" Hypothese)に符合するのである。
このようにびっくりするほど時間が重なり合っているので、学者たちは、再三にわたって、推論を試みてきた。現生人類は、食料を奪うことによって、おそらく劣っていたネアンデルタール人を徐々に追いやってしまったのではないか? ネアンデルタール人を狙い撃ちにするような狩りをして絶滅させてしまったのではないか? そして、それらに劣らず決定的な問いなのだが、ホモ・サピエンスはホモ・ネアンデルターレンシスと性交をしたのではないか?
「そしてしばしば私たちは彼らを食べたのです」
フェルディナンド・ロッツィは、現生人類の歴史上最初の大量殺戮を示す決定的な手がかりを見つけたのかもしれない。それは、子供のネアンデルタール人のあごの骨で、そこには石器の小刀によって切断された跡があることが見て取れるのである。
ロッツィがこの骨を発見したのは、彼が、フランス南西部のムーティエ・シュル・ベーメの近くにあるレ・ロワ洞窟から出土したあご骨を新たに調べていたときであった。これまで、約28,000年前から30,000年前とされていたあご骨はホモ・サピエンスの遺骨と見なされてきた。しかし、下あごはネアンデルタール人の骨であると、ロッツィは専門誌『人類学ジャーナル(Journal of Anthropological Science)』に書いている。あごの形と歯の特徴は、現生人類よりもホモ・ネアンデルターレンシスに典型的なものであるとロッツィは言う。
研究者にとって大きな驚きは、よりによってこのあご骨に切断の跡が見られたことであった。それは、火打ち石製の道具で肉がそぎ落とされた動物の骨に見られる切断の跡に似ていた。
研究者たちには、この驚くべき発見に対して考えられる説明が三つあった。
・子供のネアンデルタール人は現生人類によって洞窟の中で食べられたか、その頭蓋骨はトロフィーとして飾られた。
・このあご骨は、ホモ・サピエンスの特徴もネアンデルタール人の特徴もあわせもつ現生人類に由来するものである。これは、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の性的接触を示す最初の証拠であろう。
・第三の可能性:この洞窟に居住していた者は、まさに原始的な外面の特徴を備えた現生人類の一群であったのかもしれない。これは、石器時代における現生人類の外的特徴に大きな幅があったを示しているのかもしれない。
これらの可能性のうちもっとも残虐なものがもっともありそうな可能性であるとロッツィは見ている。「ネアンデルタール人は私たちのうちに非業の最期を見たのでしょう――そしてしばしば私たちは彼らを食べたのです」と、ロッツィはイギリスの『ガーディアン』紙に語っていた。
しかし、彼の同僚のすべてがこの見解を共有しているわけではない。今回の研究書の共同執筆者で、先史および第四紀地質学インスティチュートのフランチェスコ・デリーコは、『ガーディアン』紙でロッツィに反駁していた。「切断の痕跡がいくつかあったとしても、それだけでは食人の証拠にはなりません」。洞窟の居住者があごの骨を見つけて、自分の歯と一緒にしてネックレスを作ったということだって考えられるから、というのである。
ロンドン自然史博物館の人類学者クリス・ストリンガーは「アフリカ起源説」の支持者の一人である。彼は、今回の発見を「きわめて重要な発見」と見なす。もっと証拠が必要であろうが、「このことは、現生人類とネアンデルタール人が同じ時期にヨーロッパの同じ場所で暮らしていたことを示しているのでしょう」とストリンガーは言う。「彼らは出会っていたのでしょうし、こうした出会いのいくつかは、場合によっては、敵意に満ちたものだったのかもしれません」」。
キリンの首はなぜ長い? [海外メディア記事]
キリンの長い首は、ラマルクの素朴な考え方を説明するときよく引き合いに出される素朴な例と思っていましたが、ダーウィン以降、特に20世紀の驚異的な生物学の進展をもってしてもまだ説明がつけられないということを知って、少し驚きました。BBCの記事です。
http://news.bbc.co.uk/earth/hi/earth_news/newsid_8050000/8050298.stm
「何世紀にわたって、キリンはどのようにしてあんな長い首になったのかを専門家たちは議論してきた。
キリンの長い首は、他の動物には届かない木の葉を食べるのに役立ったと言う者もいれば、長い首は、キリンが長い足を進化させたことの帰結として進化したという説を述べるものもいた。
しかし、それらの考え方を支持する証拠は乏しい。そして、最も最近になって提起された仮説の一つも地に堕ちたようである。
キリンは長い首を性的なシグナルとして慎重に成長させたわけではなかったことが科学者たちによって示された。キリンの長い首の起源は依然として謎のままなのである。
雑誌『動物学』で、ワイオミング大学のグラハム・ミッチェル教授と、その共同研究者である南アフリカのぺオリア大学のジョン・スキナー教授とS.J.ファン・シッタート博士は、キリンの首の起源についてはまだいかなるコンセンサスもないという報告をしている。
彼らによると、ほとんどの人が支持している説は、長い首のおかげでキリンは、ガゼルやアンテロープのような多くの背の低い草食動物には届かない木の葉にありつけるのだから、その首は餌を採る上でのアドバンテージを与えるものだという説である。
研究が示したことによると、長い首をもっていることは、木の低いところの葉がすでに食べられてしまったときにアドバンテージをもたらしてくれるし、また他方で、低い木の中心部にあって近づくのが難しい葉でも、長い首のおかげで、キリンは食べることができる。
しかし、キリンは特定の高さにある葉よりも特定のタイプの葉を好む傾向があって、このことは、色々なタイプの葉をめぐる競争があったとしても、それは長い首に有利に働くような自然選択を引き起こさなかったかもしれない、ということを示唆している。
もう一つの仮説は、キリンは肉食動物から逃げ去るためにより長い足を進化させたのであり、水を飲むために地面に届くために足と同じくらい長い首を必要とした、というものである。
性的に魅力的?
最近になって、別の考え方が登場して評判になった。自然選択というよりも、性的選択がキリンの首の進化を駆り立てた、という考え方である。
つまり、何世代にもわたって、オスのキリンがさらにいっそう長い首を進化させたのは、メスのキリンの愛情をめぐる争いでライバルに対して勝利を収めるためであった、という考え方である。オスのキリンは、首をぶっつけ合ったり頭をこん棒のようにぶっつけ合うことで勝利のためにユニークな戦いをするのだが、首が長く頭が重いオスのほうが勝利を収める傾向があるという事実が、上で述べた仮設を支持する証拠として提起されてきたわけである。
そこで、ミッチェル教授と共同研究者たちは、17頭のオスと21頭のメスを調査することによって、性的選択の仮説を検証してみることにしたのである。
もし長い首が性的に選択された形質であるならば、多くのことが見いだされるだろうと彼らは考えたが、その中には次のようなことも含まれた。
・長い首は、メスよりもオスのほうが強調されているはずである。
・長い首は進化の結果、キリンの体の他の部分に比べて、サイズがより大きいものになったはずである。
・長い首は、生存にとって直接的な恩恵をもたらすものではないし、負担となることもある。
しかし、彼らの研究は、これらのいずれの命題も支持しなかった。
彼らは、オスやメスの首の相対的サイズの内に有意となる違いを何ら見いだすことはできなかった。
おまけに、キリンは、成長するにつれて、他の体の部分以上に首の生育に多くの負担を払っているが、両性ともに同程度の負担である。
一般論として、肉食動物の被害にあう危険性はオスもメスも変わりがないので、大きな首がオスのキリンに対して負担となっているという証拠はほとんどなかった。
より首が長くなったキリンに対してどのようなアドバンテージが選択されたのかを決定的な形で証明するのは決して可能ではないだろうと、研究者は言っている。
しかし、どんなアドバンテージが得られたとしても、それが性的な性質のものであったとは思われないということは言えるようだ。「首が長くなったことのよりよい説明は、別の点に求められなければならない」と彼らは書いているからである」。
http://news.bbc.co.uk/earth/hi/earth_news/newsid_8050000/8050298.stm
「何世紀にわたって、キリンはどのようにしてあんな長い首になったのかを専門家たちは議論してきた。
キリンの長い首は、他の動物には届かない木の葉を食べるのに役立ったと言う者もいれば、長い首は、キリンが長い足を進化させたことの帰結として進化したという説を述べるものもいた。
しかし、それらの考え方を支持する証拠は乏しい。そして、最も最近になって提起された仮説の一つも地に堕ちたようである。
キリンは長い首を性的なシグナルとして慎重に成長させたわけではなかったことが科学者たちによって示された。キリンの長い首の起源は依然として謎のままなのである。
雑誌『動物学』で、ワイオミング大学のグラハム・ミッチェル教授と、その共同研究者である南アフリカのぺオリア大学のジョン・スキナー教授とS.J.ファン・シッタート博士は、キリンの首の起源についてはまだいかなるコンセンサスもないという報告をしている。
彼らによると、ほとんどの人が支持している説は、長い首のおかげでキリンは、ガゼルやアンテロープのような多くの背の低い草食動物には届かない木の葉にありつけるのだから、その首は餌を採る上でのアドバンテージを与えるものだという説である。
研究が示したことによると、長い首をもっていることは、木の低いところの葉がすでに食べられてしまったときにアドバンテージをもたらしてくれるし、また他方で、低い木の中心部にあって近づくのが難しい葉でも、長い首のおかげで、キリンは食べることができる。
しかし、キリンは特定の高さにある葉よりも特定のタイプの葉を好む傾向があって、このことは、色々なタイプの葉をめぐる競争があったとしても、それは長い首に有利に働くような自然選択を引き起こさなかったかもしれない、ということを示唆している。
もう一つの仮説は、キリンは肉食動物から逃げ去るためにより長い足を進化させたのであり、水を飲むために地面に届くために足と同じくらい長い首を必要とした、というものである。
性的に魅力的?
最近になって、別の考え方が登場して評判になった。自然選択というよりも、性的選択がキリンの首の進化を駆り立てた、という考え方である。
つまり、何世代にもわたって、オスのキリンがさらにいっそう長い首を進化させたのは、メスのキリンの愛情をめぐる争いでライバルに対して勝利を収めるためであった、という考え方である。オスのキリンは、首をぶっつけ合ったり頭をこん棒のようにぶっつけ合うことで勝利のためにユニークな戦いをするのだが、首が長く頭が重いオスのほうが勝利を収める傾向があるという事実が、上で述べた仮設を支持する証拠として提起されてきたわけである。
そこで、ミッチェル教授と共同研究者たちは、17頭のオスと21頭のメスを調査することによって、性的選択の仮説を検証してみることにしたのである。
もし長い首が性的に選択された形質であるならば、多くのことが見いだされるだろうと彼らは考えたが、その中には次のようなことも含まれた。
・長い首は、メスよりもオスのほうが強調されているはずである。
・長い首は進化の結果、キリンの体の他の部分に比べて、サイズがより大きいものになったはずである。
・長い首は、生存にとって直接的な恩恵をもたらすものではないし、負担となることもある。
しかし、彼らの研究は、これらのいずれの命題も支持しなかった。
彼らは、オスやメスの首の相対的サイズの内に有意となる違いを何ら見いだすことはできなかった。
おまけに、キリンは、成長するにつれて、他の体の部分以上に首の生育に多くの負担を払っているが、両性ともに同程度の負担である。
一般論として、肉食動物の被害にあう危険性はオスもメスも変わりがないので、大きな首がオスのキリンに対して負担となっているという証拠はほとんどなかった。
より首が長くなったキリンに対してどのようなアドバンテージが選択されたのかを決定的な形で証明するのは決して可能ではないだろうと、研究者は言っている。
しかし、どんなアドバンテージが得られたとしても、それが性的な性質のものであったとは思われないということは言えるようだ。「首が長くなったことのよりよい説明は、別の点に求められなければならない」と彼らは書いているからである」。