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トルストイ『私の宗教』について 5 [探求]

トルストイ『私の宗教』について 5

 夏に入って左目が急に悪くなったため、その療養もかねて、8月後半から2週間弱、人里離れた所に籠って文明と縁遠い生活を送ってみた。こういうことは、自分の性に合うのかどうか判らなかったのだが、意外に楽しめた。自分も、里山暮らしのようなことを考えてみようかな・・・。

 トルストイは『私の宗教』で「貧しさ」に触れて、次のように言っている(なぜ「貧しさ」が問題となるかというと、あの「貧しい人は幸い」というイエスの言葉を念頭においているから。ただし、トルストイの見解が、イエスの意図に合致しているかどうかはここでは問わない)。

 「貧しいということは、都市に暮らすことではなく、田舎に暮らすことを意味するのであり、部屋に閉じこもるのではなく、野外で、森や畑で働くこと、太陽や開けた空や大地の歓びをもつこと、物言わぬ動物の習慣を守ることを意味する。… 貧しいことは、日に三度空腹になること、不眠症の犠牲者として何時間も枕の上で頭を左右に動かすことなく眠ることであり、子供を持ち、子供とつねに一緒にいることであり、したくもないことは何もしないことであり(これが肝心なこと)、何が起ころうと恐れをもたないことである」(『私の宗教』第10章)。


 この基準に照らすと、私はなんと「豊か」なことか。年中部屋にこもっているし、慢性的に不眠に苦しみ、日に二度しか食事はとらないし、子供はいるが今年受験で、成績で人間の価値を測る制度の試練の真っただ中にいる。他人の上に行かない限り他人に蹴落とされるしかない状況の中で神経がかなり参っているはずなのに、それに何も有益な言葉の一つもかけてやれない、それに加えて、これから、好きとも言えない大学がまた始まる。いや、授業は嫌いではないのだが、通勤で電車に乗ったり、退屈な会議や、顔を合わせたくない職員や同僚がいたりとかね色々・・・


 「豊かな」人間が一極集中する東京は、今年度の「幸福度調査」では最下位に近かったという記事を、さっきどこかで見かけたが、そんなことは、調べてみるまでもないだろう。まあ、こういうことを書いているとキリがないので止めよう。一応、トルストイの『私の宗教』についての感想をまとめようとブログの「作成」のページをひらいたのであるから。 

 『私の宗教』の結論は、第7章辺りではっきり言われている。「山上の教え」を一通り解説し終わった文脈で、トルストイは、「イエスの教えは立派だ。だが、そうはいっても、それは実行が困難である」というつねに出てくる紋切型の反応を紹介する。(ちなみに、参考のために、別のところに第7章の私訳をアップしておく(https://miksil.blog.ss-blog.jp/2020-09-14))。


 そういう反応が出てくる原因は、第6段落以降に書かれている。つまみ食い的に引用すると、「現実を存在しないものと誤解し、存在しないものを現実と見なすような奇妙な観念」、キリスト教の神学が西欧人の心の奥底に植えつけた観念が原因であるとトルストイは言う。

 正直言って、この点については、最初読んだときはピンと来なかった。何度か読み返していくうちに、おぼろげに理解できるようになったのだが、要するにこういうことらしい。

 
 現実(この世界)を「存在しないもの」と誤解する教義は、「原罪」の教義によく表れている。アダムとイブの失楽園以降、人類には神罰が下り、辛い労働と苦しい出産が人類の宿命になった。言い換えれば、罪に満ちた生が、この世界における人間の宿命になった。その罪を償ったのがイエス・キリストであり、イエス・キリストは、人類を罪深い生から救い、永遠の幸福に満ちた生を約束した。

 (正直に言って、トルストイが前提しているキリスト教の神学について私は深い知識をもっていないので、きわめてまずい要約しかできないのだが、その点はご容赦願いたい)。


 ただし、その幸福に満ちた永遠の生に与(あずか)るためには、イエス・キリストに対する信仰心をもち、定期的に教会の定めるサクラメント(秘跡)に参加することによって、キリスト者としての務めを果たさないといけない。その条件を満たした者だけが、あの永遠の生に与ることができる。キリスト教徒にとって、このようにして得られる「永遠の生」こそが「真の現実」、「真に存在するもの」である。あの罪や悪に満ちた「この世界」は偽の現実であり、一時的な滞在地にすぎないことになる。トルストイの文章を、きちんと引用しよう。


 「イエスの教義は、この地上では、文字通りの仕方で実行されることはできない、なぜならこの地上の生は本質的に悪であり、真の生の影にすぎないからだと教会は言う。最良の生き方は、この地上での生を軽蔑し、そして、来るべき幸福で永遠の生に対する信仰に(すなわち想像力に)導かれること、そして、この地上では悪い生を送り続けながら、良き神に祈りを捧げることなのである」。


 哲学的に言えば「観念論」のバリエーションの一つと言えないこともない。そんな考え方がキリスト教の世界観の根底にあるということは、別段、目新しい指摘でもない。プラトン的な二世界論は、初期のキリスト教の理論家たちにも重宝されたことは周知のことだからである。それにもかかわらず、私には、このトルストイの洞察は大変興味深く感じられた。その理由は、この二世界論が悪の問題とリンクしていることを知らしめてくれたからである。


 「原罪」の観念が、どれ位早い時期から言われたのかは知らないが、少なくとも、アウグスティヌスの頃には、ある程度広がっていたのだろう(アウグスティヌスが「悪の問題」を問いつめたことは、原罪の問題にも影を落としていたに違いない)。なぜ、あんな下らない「(原罪という)
お話」が好まれたのか、私には不思議でならなかったのだが、この世界の「悪」を説明するための一つの手段として使われたと考えると、不思議に合点がいった。人類の初めから、悪は宿命として神によって人類に課せられたものだ。だとしたら、それには対処の仕様がない。少なくともこの世界においては。この世界に対しては「軽蔑」と諦念と絶望という態度が相応しい(この世に対する軽蔑(contemptus mundi)という言い回しは、中世でよく使われたようだ)。この世の悪から救われたいと思うならば、信仰心をもち、洗礼に始まるサクラメントを欠かしてはならない。そうすれば、別の本当の世界に参与できる、というわけである。

 こうして、真のキリスト教徒にとって、「現実」は「存在しないもの」であり、「存在しないもの」こそ「現実」であるという観念は、彼らの信仰生活の一大原則となった。だとしたら、この世界で、イエスの「山上の教え」を実行しようとすること自体、始めから、きわめて空しい試みと見なされることは当然である。なぜなら、この世界は悪に満ちていて、それに対処できるのは現世的な警察力・軍事力、および司法的な権力のみである。


 こうした考え方をさらに発展させるならば、キリスト教の(それ自体、罪のないように見える)教義が、現実世界に悪がはびこることを致し方ないとする考え方に行きつくのは当然である。いやだと思いながら、悪の生活にどぷり浸り、それを改変しようと思うことなく、結果的に、悪を肯定してしまう。

 こうして、悪には悪をもって対処してはならない、悪には関わるなというイエスの教えは、見事なまでに捨てられてしまうのだが、そのことにキリスト教の教会側に少しの罪悪感もなかったらしいことは、門外漢にはまったく不可思議に思われたのだが、これも容易に説明がつく。なぜなら、この世界はあまりに悪に染まっているので、それに対してはどうしようもない。その代りに、まったく別の回路を創って、悪から人間を救う方途を考え出した。それがキリスト教の教義だというわけである。


 トルストイは、あくまで、この世界に対する関心に導かれた人だったから、こういうキリスト教の現実無視の教義は許せなかったようだ。あのイエス自身が、何よりもこの世界に対する関心を第一に考えた人だと想定できるので、なおさら、キリスト教の教義のこういう側面は許しがたいものと映ったようだ。その教義は、現実の空無化や、現実世界の悪の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を促すことはあれ、それらを食い止めるすべを何も持ち合わせていないという意味で、悪の蔓延に加担してさえいるのではないか?


 こういうことを理解するに及んで、一つひらめいたことがあった。キリスト教は、プラトンに始まる形而上学的な世界観と悪の問題を合体させることで、その教義を打ち立てた。しかしその教義は、上で述べたように、「現実の空無化、現実世界の悪の跳梁跋扈」を食い止めるどころか、それを促しただけだった。ここに来て、なぜ、一握りの思想家や哲学者が、ニヒリズムの進展とキリスト教を結びつけようとしたのかが、自分なりの観点から見えてきたのである。


 かの悪名高いハイデガーの「存在史」は、ギリシアの存在理解がローマ世界に取り入れられることで根本的に変わってしまったことを強調する。それは、それだけを取れば、ほとんど意味不明の主張にしか映らないし、それが、なぜニヒリズムに結びつけられるのかも不可解である。だが、ハイデガーはキリスト教について語ることはほとんどなかったが、ひょっとしたら、トルストイが考えたことくらいは念頭にあったのかもしれない、と(漠然とだが)思えるようになった。そこには、何かの接点があるに違いない。そういうことは誰かが、とうの昔に指摘していることかもしれないが、こういうことは、誰かに指摘されるだけではダメで、あくまで自分の頭で苦労して自力で行きつかないと、真に理解したとは言えないのである。


 いずれにせよ、キリスト教と悪の問題は、自分の中では、まだまだ長く追求していく問題となりそうな予感がしている。













 







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