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誰でも暴力的になりうるか? [海外メディア記事]

  暴力、あるいは攻撃性についての(古くて新しい)記事がありましたので、紹介します。何かひどい暴力事件があったとか、暴力に関する新説が出たというわけではないようですし、締めとして利用されている「ミルグラム実験」もずいぶん古いものなので、いまさら何故? という気もしなくはありませんが、ともかくイギリスBBCの記事からです。
  なお、「ミルグラム実験」の詳細は、検索すればすぐに見つかります。

  Are we all capable of violence?   
   By Diene Petterle

  http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8043688.stm



誰でも暴力的になりうるか?

 
 これは20世紀のもっとも厄介な問題の一つであったし、今日でも依然として難問のままである。「普通の」人々はみな潜在的に暴力的なのだろうか?


 人類は暴力を見て愕然となるが同時に魅了されもする。人間の攻撃性―テロ攻撃からゲリラ戦からギャングの犯罪に至るまで―は全地球を覆っている。
 攻撃性はいたるところにあり、あらゆる国家、あらゆる民族を結びつけている。しかしその始まりは何処にあるのか? それは学ばれるものか、それとも本能的なものなのか?

 たいていの人は自分自身のことを穏やかで平和的と考えている。
 私たちは、あらゆる葛藤を平和的に解決するよう努め、暴力は自分たち「以外の人々」が犯すことであると考えるように育てられた。しかし、はたしてそうだろうか?

 あなたや、あなたの母や娘や息子が恐るべき犯罪を犯すように駆り立てられたことがあった、などということは考えられるだろうか? そうしたレベルの暴力を自分自身の中にもっているだろうか? 

 答えは、イエスである。

 通常の信念とは逆に、私たちは生まれつき暴力的である。3歳までには、私たちの衝動は止まるところを知らないほどになっている。脳の中の情動の中枢に由来する欲求を止めることはできないのである。

 しかし成長するにつれ、私たちは攻撃性を抑制することを可能にする脳の部分、つまり前頭前皮質を発達させ始める。しかし肝心なのは、この抑制のメカニズムの働き方は、私たちの経験次第なのである。


 喧嘩祭り


 葛藤を暴力によって解決する代わりに、分けあったり順番で行ったりしなさいと教えられると、脳の構造が変わりそれゆえ攻撃的でなくなる。

 しかし、平和的に葛藤を解決しようとすることは、すべての文化が賛同するものというわけではない。ボリビアのアンデス地方のとある部族は、一年間に生じた紛争を「ティンク(Tinku)」と呼ばれ毎年恒例の喧嘩祭りで解決するのである。戦士の伝統があるために、男も女も、子供でさえも戦うべきとされ、祭りで死者が出ることも稀ではないという。

 彼らの脳は、葛藤をこのように解決することに順応しているので、通常の脳とは違っていると、神経科学者マリア・クーピスは論じている。

 このことが示唆するのは、私たちはみな暴力的なポテンシャルをもって生まれるのだが、しつけと環境が重要な役割をはたして、脳の中に暴力を抑制するものを生み出している、ということである。

 私たちは生まれつき暴力的であるばかりか、それが大好きになるよう化学的にプログラム化されてもいるのである。私たちが喧嘩をするとき、脳の中では、ドーパミンと呼ばれる快感を引き起こす化学物質が放出されるからである。


 ドーパミンは脳に、今自分は心地よいということを知らせる。しかし問題はそこで終わらない。ドーパミンから私たちが得る快感のために、私たちは暴力の中毒になる恐れがある。そういう経験を多くつめばつむほど、そういう経験をよりいっそう欲するようになるのである。
 
 
 
 原始的な快楽

 もとフーリガンだったダニー・ブラウンは、こうした「麻薬」じみた経験を得るために人はどんなことでもしかねないことを、誰よりも知っている。彼は、ライバルチームのファンを突き刺したために刑務所行きになったが、それでも彼は止められなかった。フーリガンの行為の快感はあまりに強くて抵抗できなかったのである。 


 「酒や麻薬におぼれたことなんてなかったよ。喧嘩が俺のヘロインだったのさ」。

 喧嘩は、脳の前頭部によって抑制される原始的な快楽である。しかし、そうした抑制を失うことはどれほど容易なのであろうか? カッとなって犯す犯罪は日常よく起こることであり、そういう犯罪者が自分の身に何が起こったのか、振り返ってみて覚えていないこともしばしばある。それはどのようにして説明されるのか? 自制心を失うように駆り立てるものは何なのか?

 神経-心理学の専門家チャールズ・ゴールデン教授によると、私たちは皆、容易に自制心を失うものだし極端な犯罪行為を犯すものらしい。そのために必要なことは、前頭前皮質の機能が停止することだけであって、それは、自動車事故とか、ラグビーの試合で頭部に何度も衝撃を受けるといったことによって引き起こされる。

 実は、肉体的な損傷だけが、前頭前皮質の機能を停止させるものではない。ウツ状態、アルコール依存症、ドラッグ、睡眠不足、それに老化のプロセスですら、暴力を抑制するものに損傷を与えうるのである。


 抑制のメカニズム


 「私の患者の一人に司祭がいます」とゴールデン教授は言う。「彼は生涯を人助けに費やしてきましたが、ある日、自動車事故を起こしてしまいました。病院にいきましたが、医師たちは、あなたは何処も悪くはありませんといって、司祭を家に帰しました。

 一ヶ月間、彼はどこかが悪いとは気づきませんでした。ある時、彼は奥さんと喧嘩をし、自制心をすっかりなくしてしまいました。もう少しで奥さんを殺してしまうところでした。奥さんはすぐに家を出て行きましたけどね。

 怖いのは、日常生活で、どこかがおかしいなんて誰も思わない、ということです。暴力の衝動の引き金が引かれたときになって初めて、自分は自制心を失っているのだということに気づくのです。しかしそのときは、たぶん、もう手遅れなのです」。

 私たちは生まれながらにして暴力的である、私たちは暴力を楽しむ、私たちの抑制のメカニズムは容易に壊れやすい、こうしたことを受け入れるのは困難である。
 しかし、多くの人々が殺される原因について考えるとき、それは、激情犯罪や突然生ずる暴力の快感のためではなく、戦争やジェノサイドのため、と私たちは考える。他者を殺そうと熟考した上で決心する人がいるためである、と考える。

 かつてスーダンの少年兵だったエマニュエル・ジャルは、トラウマとなるような経験のせいで、よく考えた末に、他の人間を殺そうと思うようになったという個人的経験の持ち主である。

 彼は健康的で幸せな少年時代をすごしていたが、それは、ある日戦争が普通の生活への望みを引き裂いてしまうまでだった。彼の母親はいなくなり、彼の村は焼き討ちにあい、彼は持っているすべてを失った。



 正当な攻撃

 
 彼は、これをした人間は死に値すると確信するようになり、反乱軍に加わった。反乱軍とともに、彼は多くの人々を殺し拷問にかけた。

 彼は今、人生を立て直し、世界の人々と、暴力はよりいっそう多くの暴力しか生み出さないという考え方を共有しようと努力している。

 エマニュエル・ジャルの経験は極端である。しかし、あなたや私が、他の人間に対する暴力は正当であると確信するためには、状況はどれくらい極端である必要があるのだろうか?

 私たちの大半は、もし誰かが自分の子供や自分が愛している者に危害を加えたら、暴力に訴えてもいいと思っている。しかし、ただ単にある観念やイデオロギーのために、自分に危害を加えていない人に危害を加えることはできるのだろうか?

 数多く引用されてきた1961年のミルグラム実験は、その答えがイエスであることを示唆している。一般から選ばれた被験者は、「ボランティア」から選択式の問題に対して間違った答えを得る度ごとに、その「ボランティア」に対して電気ショックを与えるように要請された。この電気ショックは徐々に引き上げられることになっており、最後には命にかかわる450ボルトのショックまで引き上げられた。

 被験者が知らなかったことは、「ボランティア」が演技していて実際は電気ショックを受けていないということであった。しかし、それでも被験者の3分の2は、白衣を着た権威ある人物の指示があるために、「命にかかわる」450ボルトの電気ショックを進んで与えたのであった。

 この実験は、しばしば、ある種の枠組みの中でならわれわれは皆暴力的になりうるということの証明として使用されてきた。私たちはこのことを受け入れたいとは思わないが、科学は私たちが間違っていることを示唆しているように思われる。

」 

 





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