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思考と感情(3) [海外メディア記事]

 『シュピーゲル』誌の「感情(Emotion)」に関する記事の最終回です。道徳のほうに話題がシフトしていくので、ちょっと話を広げすぎという感じを強く抱かせる展開になってしまい、最後はアルノ・グリュンにお任せしましたという終わり方です。ちょっと物足りない感じ。ちなみに、グリュンの著作は日本語でも読むことができるものもあるようです。


http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,620709-3,00.html






「思考と感情 

  謎に満ちた群棲動物


  第三部:反抗期も思春期の危機も知らない文化もある

 近年、道徳の起源についての注目すべき研究を、アメリカの二人の心理学者が発表した。ハーバード大学で教えているマルク・ハウザー(『他人の心』)とヴァージニア大学のジョナサン・ハイト(『幸福仮説』)である。二人は、方法と探求の前提は違えども、フランス・デ・ヴァールが道徳感情の原理について下したのと似た結論に達した。


 マルク・ハウザーは自分の出発点をなす仮説を、現代の言語学の土台として受け入れらている言語学者ノーム・チョムスキーの心的「普遍文法」の定理と類比的に考えた。「私たちは最初の言語を学ぶわけではありません。むしろ、腕が自然と大きくなるような形で、わが物とするのです。明らかに道徳の場合も事情は似ています。道徳に関しても一種の深層文法があって、それが、社会的な環境のその都度の道徳を構造的にわが物とする手助けをしているのです」とハウザーは言う。ハウザーは、この見解が、非常に難しい道徳的な問題―その中には、5人の人間を救うためには、1人の人間を犠牲にしてもいいかといった問題が含まれていた―を問うネット上のアンケートによる集団テストに対する回答によって確証されたと見なした。対象者は、合理的に考えると理由づけられない決断を、直感的に一致して選んだのである。


 道徳に対する新たな見方のための素晴らしい比喩をジョナサン・ハイトは見いだした。カウボーイが荒馬を手なづけるように粗暴な本能を手なづける理性という伝統を支配してきた考え方を、ハイトは、まったく別のイメージによって置き換えた。力強い象(その上に小さな騎手が座っている)のように、直感が理性を支えている、というイメージである。


 これは、感情と理性が調和していればどれほどの力を発揮できるかを示す好感のもてる思想である。しかし、脳の機能に対するこうした進化論的なモデルは、歴史と社会において人類がなしてきた圧倒的な破壊性に対する説明を何も提供しない。逆に、こうした破壊性は、ホッブスやフロイトの伝統に連なる悲観論者の正しさを示すように見える(もっとも、生の欲動としてのリビドーの根源的な力は、同じくらい強力な死の欲動によって妨げられるという後期フロイトの仮説は、決して立証されるものではなかったが)。 


 われわれが近親の動物と同様に、生まれつき群居性があり共感の能力に恵まれているということは、われわれがこのメカニズムをいかに使っているかについては何も語っていない。このことが特に当てはまるのは、共感に対する欲求が、進化の別の遺産、つまり、異質なもの、未知のものの危険に対して体の奥底から感じられる不安と競合するときである。乳児が生後八ヶ月頃から未知の顔に対して反応する際の典型的な「人見知り」もまた進化の産物である、と確信する専門家もいる。
 

 社会道徳とは、それゆえ概して、人が直接属している集団に対する忠誠心のことなのである。個人的、社会的経験や制約は、子供の頃から、共感に対する遺伝的メカニズムを修正し始める。生まれつきある本能が萎縮したり、破壊的なものに転化することさえあるだろう。そこで、人間が自らの同類に対してなしうる悪行に関しては、自然科学的モデルの説明力は役に立たないのである。同類を集団殺戮することは、動物界には例がないからである。


 集団心理学は、19世紀の末以降、群棲動物としての人間が差し出す謎に対する答えを捜し求めてきた。しかし今日に至るまで、社会科学者はせいぜいパズルの断片を集めただけにすぎない。なぜ歴史は暴力の行使の連続なのだろうか? いかにして人間はテロリストや、殺人狂や、大量殺人者になるのか?


 国家社会主義とホロコースト以降、数知れぬほどの研究者が、犯罪者に共通する特徴を探した。彼らは、特定の性質や、行動の傾向、遺伝的特殊性などを割り出そうと望んだ。もしそれが成功すれば、犯罪に固有の顕著な点が認識され、歴史が繰り返されることを防げるかもしれない、という希望を人々は抱いた。よく知られているように、見いだされたのは、予想されたモンスターではなく、従順に仕事をこなす普通の市民が圧倒的多数を占めたのである。ハンナ・アレントの有名な「悪の凡庸さ」という言葉は、「最終解決」を組織したルドルフ・アイヒマンを念頭に作られた言葉である。


 ヴィッテン/ヘルデッケ大学で教えている社会心理学者ハラルド・ヴェルツァーは「悪の合理性」についてすら語っている。彼は、ホロコーストと並んで、ヴェトナム、ルアンダ、ユーゴスラビアでの大量殺戮行為を調べ、『犯罪行為者。まったく正常な人間からどうして大量殺戮者が発生するのか』を公刊した。この気分が悪くなるような研究書が焦点を当てているのは、自分自身の基準に従ってまったく合理的に行動していて、その社会的環境と一致していたいという欲求に駆り立てられている人間である。東部戦線への「出動グループ」のメンバーにとっては、日々行われる大量殺戮のノルマは負担ではあったとしても、彼らは決して自分勝手な行動に走ろうとはしなかったのである。


 「人類が進化で獲得した最も際立った特質」(ヴァルツァー)であるこの適応能力はこれほどまでも破滅的になりうる。それが可能になるのは、特定のグループを、脅威となる『人類の敵』として完全に人間の共同体から除外する、服従によって守られた支配がある場合だけである。ニュルンベルク裁判で戦争犯罪者に対して行われた多くの心理学的テストから典型的な共通の特徴を引き出そうとして失敗した試みについてヴァルツァーがふと述べたことは、われわれの注意を引かずにはおかない。「被告たちの唯一目立つ点」があるとするならば、それは「どちらかといえば共感の能力が乏しい」という点にあった、というのである。


 共感の喪失と非人間性の関連については、チューリッヒ在住のアルノ・グリュンほど知っている者はほとんどいない。ほっそりした、白髪のサイコセラピストは元気な70歳代のような印象を与えるが、もうすぐ86歳になるのだが、いまだに現役で仕事に励んでいる。ベルリンに生まれたが、1936年、まだ子供ながらユダヤ人の家族と合衆国に逃げ、そこでサイコ・セラピストとして開業し大学教授として教鞭もとった。30年前にヨーロッパに戻り、『共感の喪失』や『正常さという病』のような著作で知られている。


 特に注目に値するのは彼の『われわれの中の他者』という作品である。この作品は、患者たちの苦難に満ちた物語と、子供時代を席巻したナチスについての研究を結びつけたもので、ゲシュヴィスター・ショル賞に輝いた。この著者が念頭に置くケースはすべて、共感が破壊されたことに由来する恐るべき結末を中心にしている。この共感のことを彼は『非人間的にならないための柵』、『われわれ人間存在の核』、『道徳性と良心の土台』と記述している。

 
 多くの伝記的細部を描きながら彼が示しているのは、ホロコーストの責任者にとって、共感の天分が、母親や父親によって小さい頃からいかに奪われていたか、ということである。子供の頃、彼らは、苦痛や苦悩の表情はどんなものでも禁止され、いかなる弱みも嫌悪すべき敵であることを体験した。傷つきやすい繊細さは、自分の中にある異質なものとして憎むようになった。しかし、アルノ・グリュンが言うには、人間であることは、傷つくことである。子供というものは強大な両親の同意なしには途方に暮れるものだから、子供は、自分自身の根本的な欲求に対する破壊的な態度を引き受け内面化する。脳内では、共感の能力は死滅し、外部の『敵』には一様に苦痛と死を与えようとする能力が生み出されるのである。


 アルノ・グリュンは、自分の患者や彼らの病気の起源についての反省を、決定的な文化批判にした。そこで彼はフロイトと袂を分かつのだが、フロイトの抑制を要する本能の本性についての説は、グリュンにとっては古くさいものに映った。グリュンは自らを、人間の善良な自然の素質が劣悪な社会的制約によって堕落してしまう様を見て取ったジャン-ジャック=ルソ-の伝統に位置づける。


 成長することはある段階から次の段階への穏やかな移動ではなく、摩擦や攻撃性をともなって進むものだという反論には、グリュンはこう答える。「しかしそうした穏やかな移動だってあるでしょう。私たちにとって避けがたいように見える発達の諸段階―少年の「反抗期」とか思春期の危機とかですが―を知らない文化だってあるのです。そんなのはわれわれが作り上げたことなんです」。


 彼が夢想家としてではなく科学者として語っていることの証明として、グリュンは、アメリカの研究者リチャード・ソーレンセンが責任者として行った長期にわたる人類学の研究を引き合いに出す。懐疑的な訪問者に対して、ソーレンセンの研究報告書を喜んで差し出した。それは、ヒマラヤの深い谷やオセアニアの島のように地理的に特別に守られている立地のために、敵対的な外部との接触もなかったし征服されたこともなかった一連の孤立した部族のもとでの30年にわたる観察に基づいた報告書である。


 それらの部族は部外者の経験がないので、彼らは部外者に対する不安もなければ攻撃しようという心性とも無縁である。これらの社会を特徴づけるのは部族の全員を包みこむ社会的感受性と近さであるが、だからといって個々人の自由が制限されるようなことがあるわけではない。一連の写真が雄弁に語っているのだが、それらが写し撮っているのは、われわれが自然に与えられたものと受け取ることに慣れてしまった他人を押しのけてでも這い上がろうとする社会とはまったく異なるタイプの文化である。『善良な野蛮人』という古くからあるロマンチックな神話にも一片の真理が含まれているかのように見えるのである。


 「われわれの文化で一番成功を収めるのは、自分の感情や共感する能力を自分からもっともしばしば切り離した人々なのです」とグリュンは言う。「僕は苦しい」と誰かに言ったら、もうそれだけで負けだ、とわれわれは思っていますからね。しかしそれはおかしいでしょう。それは、屈服の合図をあたえることなく、そう言えるほど強いのだということを示しているのですから」。
 
 アルノ・グリュンが念頭においている友好的な寛大さには人をひきつけるものがある。しかし彼は、われわれの文明的な現実の優位に対してどうやったら太刀打ちできるというのだろうか。「私だけではありませんよ」と彼は答える。「ダライ・ラマのことを考えてみてください。彼は、他の人間に
共感を覚える能力は人類が生き延びるための根本をなすものだ、と言っているのです」。


 ひょっとしたら、その通りなのかもしれない」。









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