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デキマティオ(前回の補足)

 前回の記事( ローマ:恐怖の社会)の補足をしたい。

 古代のローマがいかに恐怖に満ちた体制だったかを示す格好の例が見つかったので報告したい気持ちにかられた。「デキマティオ」と呼ばれる恐るべき制度である。

 ローマが地中海世界の覇者になったのは、カルタゴとの二度目の戦争につづく二世紀問、紀元前二世紀から一世紀にかけての期間だった。ローマは地中海世界の全域を征服し、征服した領土とその住民をローマの国家組織に組み入れた。その住民の数は当時の世界人口のおそらく五分の一ないし六分の一にのぼると考えられている。これほどの規模にわたって支配権を拡大しえた国家は、それ以前それ以後もなかった。

 このような空前絶後の成果は、まれにみる徹底した規律なくしてはありえなかったが、それがいかに非情な掟によって支えられていたかは、籤で十人につき一人の兵士を処刑する「デキマティオ」によって最も判然とする。

 いかなる部隊であれ、もしある部隊が命令に従わなかったとか戦闘において臆病だったと判断されたならば、兵士十人につき一人が籤で選び出され、つい先程まで戦友だった者たちによって棍棒で殴り殺された(ポリュピオス『歴史Histories』六・三八)。デキマティオは、たんに新兵たちに絶対服従を強いる目的で語られる恐ろしい話にすぎないというようなものではなかった。デキマティオは実際に行われたのであって、しかも特に取り立てて言及される必要もないほど頻繁に執行されたのである(たとえば、デイオン四一・三五および四八・四二)。ローマ兵たちはいわゆる公共の福祉のために互いに殺し合った。だから、彼らが脱走兵を情け容赦なく処刑したとか、時には戦争捕虜が無理やり剣闘士試合で戦わせられたり、大衆娯楽のために猛獣の前に投げ込まれたりしたというようなことは、別段驚くに当たらないわけである」(K.ホプキンス:『古代ローマ人と死』p.13~4)。

 つまり、ローマは、外部の人間にその残忍な暴力を行使する以前に、自分の内部の人間に対しても容赦なく殺害するという文化を内包していた。こうした力の支配に対していかなる者も例外扱いされることはないのであって、皇帝でさえも、いったん信望が地に堕ちるや悲惨な末路を避けることは難しかった。ヴィテリウスがいい例であって、彼は、兵士たちになぶりものにされて死んでいった。ローマ市民の内部ですらそうなのであるから、ローマ市民にとっての「他者」、奴隷や他国民に対する暴力性の行使は、日常茶飯のことだっただろうし、そもそも殺人が、特に良心に反する事柄とは見なされていなかったのだろう。

 だから、ローマの支配が及んだ土地で、その文化とは相いれないものがすべて根絶やしにされたことは驚くに当たらない(いわゆる、ぺんぺん草も生えないという状態)。知識人の間でギリシア文化(ヘレニズム)が栄えたのも一時のこと、直に顧みられなくなった。後にルネサンスの文芸復興の機運の中でギリシア的なものが見直されるが、そのことは、ローマの文化の中で、非ローマ的なものがいかに徹底的に破壊され忘却されていたかを示唆するものである。ローマによる単一化、多様性の排除、他文化の英知に対する敵視、こうした恐ろしさを根底に秘めた傲慢と単細胞の共存する文化がそれ以降の世界の歴史を支配することになる。
                   


 
 



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