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ローマ:恐怖の社会 (つづき)

 Welbornの読み方によれば、パウロが抗ったのは、ローマの恐怖に満ちた全体主義的な支配体制だったが、それを読みながら、古い記憶がよみがえってきた。たしか、シモーヌ・ヴェーユがローマ帝国に対して似たような読み方をしていなかっただろうかと。ただし、断片的にしか読んだことがないので、あいまいでイメージ的な類似性の指摘しかできないのだが、とりあえず念頭に浮かぶことを書いてみよう。ヴェーユは、ナチが支配する現状に直面して、その全体主義的な支配体制のあり方の先駆をローマ帝国に求めた。その点についてきちんと考えるためには、「ヒトラー主義の起源にかんする若干の考察」や「この戦争は宗教戦争である」といった試論や『根をもつこと』を読む必要があるだろうが、今はその余裕はない。今の私に言えるのは、ヒトラーに対抗してその歴史的起源をローマに求め、ナチの全体主義にラディカルに対峙したヴェーユの姿勢と、ローマの支配領域をめぐりながらそのイデオロギーの全面的な転倒を説いて回ったパウロの姿勢はパラレルに扱えるのではないか、ということである。

 ただし、ヴェーユの読み方は歴史的考察という形をとるので、直接的なパラレリズムは成り立っていないということは言うまでもないが、逆に、ナチと ローマの類似性というパースペクティヴを通してみるからこそ、ヴェーユの歴史の考察は、他には見られない興味深い論点を提供してくれる。ローマは、自らにとって「他なるもの」を一切許容しなかった。地中海一帯にあった雑多な文化的多様性は消滅し、ヘレニズム的教養も受け継がれることもなく直に消滅してしまった。ローマの支配政策に関してよくその「寛容さ」が喧伝されるが、その「寛容さ」とは、結局、ローマ的基準に抵触しないものを許容する「寛容さ」であって、少しでも抵触するものには容赦がなかった。ドルイデス教は、その「野蛮な習慣」のゆえに根絶させられたというが、どういう「野蛮」が問題なのかは不明だが、おそらくローマに内在する野蛮さに比べればかわいいものだっただろう。理由がどうであれ、他民族の宗教を「根絶」させる野蛮さに勝る野蛮さはそうそうないだろう。今日の中国は、習近平の肖像画を飾る教会には存続を認めてやるという「寛容」さをもってキリスト教に対して臨んでいるようだが、いってみれば、ローマの「寛容」も同じようなものだっただろう。その「寛容」の裏側にあるのは、ローマ皇帝に跪拝しない勢力に対しては容赦しないという不寛容があった。

 このような風土においては文化的な活動が花開くことはない。ルネサンスの文芸復興に至るまでギリシア的な文化が顧みられなかったのは、結局、ローマ的な一元的偏狭さがいかに深く根づいていたかを示唆するものであろう。国教化されたキリスト教は、その一元的偏狭さを推進するように機能した。ローマの不寛容を受け継いだキリスト教が、異端排除に至るのは当然のことであった。

 この記事を書くために、少しだけ「ヒトラー主義の起源にかんする若干の考察」を拾い読みをしたのだが、いくつか興味深い洞察を拾ってみよう。

 「(若干の詩以外の)芸術、哲学、科学にかんするかぎり、古代文明はギリシアとともに消滅した」(『シモーヌ・ヴェーユ著作集2』42ページ)。

 「他なるもの」に対する全面的無理解。古代の終焉により、世界は、過去の記憶を全く持たぬままに、全く不毛な形で放置されたようだ。


 「ローマの政治の第一原理は…威信を最高度に保つことであった。…彼らはその町(=カルタゴ)が自由であることを許すわけにはいかなかったのだ」(同43ページ)。

 自分に従わぬ小さな勢力がいようが、大帝国にとっては脅威にはならないはずだったが、ロ-マ人の無意味な「威信」がそれを許さなかった。異質なものが存在することすら許さぬプライドの高さ。もちろん、ヴェーユは、ナチの民族意識の傲慢さの先駆をそこに見ているわけである。私は、ナチの民族意識は、ドイツ・プロテスタンティズムの文化的傲慢さがあったからこそ可能だったのではないかというぼんやりした見通しをもって、それを肉づけしたいと考えている。ドイツ・プロテスタンティズムこそ、キリスト教の遅れて現実化した精髄であるという歴史観。したがって、ドイツ民族こそ歴史の先端に立つという歴史観。こういう「威信」が、政治的プログラムに組み込まれて現実化するとき、いかに破滅的な結果を生み出すか。おそらく「威信」とは罪のないものどころか、これほど有害なものはないと言うべきかもしれない。


 「ローマにおける精神生活とは、権力への意志を表現すること以外ではなかった」(同48ページ)。

 ローマ人は、表面を取り繕うことにばかり気を遣っていた。彼らにとって肝心なのは「宣伝」だけであって、「国家の権勢に奉仕することにはなりえない、さまざまの形の精神的創造はローマに存在しなかった」。

 「ヒトラーのやり口のうちで、我々を憤らせ驚愕させるものは、すべてローマとの共通項になっている」(同52ページ)。
 
 無慈悲で迅速な攻撃に関連してそう言われているのだが、それ以外にも、高度に中央集権化された体制、その中で無力化していく個々人(「グラックス兄弟の死後、カトーをのぞいて、ローマには気骨のある、誇りある人物はいなくなっていた」(同60ページ)、下の人間にはどれほどでも冷酷になれる兵士たち、ますます恐怖の度合いを増す軍隊…。ここら辺を読むと、自然に、ドイツの官僚的組織とその中でのうのうと暮らす「末人たち」の姿、官僚制の末端にいて絶滅計画に加担するアイヒマンのような凡庸な役人のことなどが思い出される。


 「ローマ人は、国家への信仰をのぞけば、そもそも宗教などもってはいなかった」(同65ページ)。

 ローマの神々はいわばお飾りであって、皇帝以外の崇拝の対象は存在しなかった。もちろんナチも同様。そこから、ヴェーユは、「この戦争は宗教戦争である」などにおいて、ナチ的「偶像崇拝」に対極に立つものとして、真の信仰のあり方を模索することになる。その対置すべき信仰は、当然ながら、偶像崇拝の要素を一切含まない、「非人格的なもの」に対する信仰にならなければならないのであるが。


 「強制収容所が人間性の価値を消滅させるのに効果的な手段であるのは、あの剣闘士のゲームや奴隷に課された責苦の場合と全く同じである」(同68ページ)。

 今日「剣闘士」は、長らく喧伝されてきたほど、悪しき習慣ではなかったという趣旨の紹介の仕方をしばしば見かける。NHKの特集番組でもそういうふうに紹介されていたと記憶しているが、やはり、「剣闘士」に関しては、あまり肯定的に扱うべきではないのではないかと思う。剣闘士の試合は、貴族が名を売るための機会であったから、剣闘士は、その限りで大事にされたという側面はあるが、結局は、貴族の道具であるにすぎない。その道具たちが戦ったり、場合によっては獣と格闘する様を見て興奮し憂さを晴らす社会というのは、全体としてやはり一抹の狂気をどこかに漂わせているというように見なければならない。それは、ナチのドイツで、強制収容所で具体的にどのようなことが行われているかをまったく知らないかのように見せかけながら、そして、いつの間にかいなくなったユダヤ人や政治犯たちが始めからいなかったかのように見せかけながら、平穏無事に過ぎていく社会の空気の中に、一抹の狂気の気配がつねに漂っていたのと同じ構造である。

  おそらく、そのような観点から、パウロやドイツ・プロテスタンティズムやヴェーユを読んでいくべきなのだろうと思っている。









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