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共感(empathy) その4

スタンフォード大学の哲学百科事典の「共感(Empathy)」の項目を紹介する第四回目。時間の関係上、第三章と第四章をとばして、第五章に行く。その始まりと5.1を見ていく(とばした部分は、いつか時間ができたら、補足したいと考えている)。「共感」については、やはり利他的な動機がその根底にあるということを実証的に示したバトソンの理論の紹介がメインとなる。心理学での議論なのでまるで知らなかったが、興味深いトピックスに満ちている。 


 
 Empathy  By Karsten Stueber
 https://plato.stanford.edu/entries/empathy/




  5. 共感、道徳哲学、および道徳心理学


道徳哲学者は、つねに道徳心理学に関心をもってきたし、人間の生活にとって道徳がはたす重要性を説明するために、行為主体の動機づけの構造を明確化することに関心をもってきた。結局のところ、道徳的判断は行為主体の意志に対して要求を課すわけであるし、特定の仕方で行為する理由と動機をわれわれに提供すると想定されているからである。それでも、少なくとも現代においてわれわれが思い描くあり方における道徳的判断は、単なる従来からの規範とは対照的に、普遍的な妥当範囲をもち、行為主体が組み込まれている特定の社会的慣習とは無関係に妥当する規範的な基準に基づいていると見なされている。その点については、「罪のない子供に対する虐待や奴隷制は道徳的に不正である」といった言明を考えるだけでいいだろう。それらの言明は、当該住民の態度がそのような行為を容認しているような社会的慣行にも当てはまるとわれわれは考える。だから、道徳的判断は、われわれが自己愛の視点を捨てて互いを友人や敵として考えたりせず(Hume 1987, 75)、または、仲間かよそ者かのどちらに属するのかと考えたりせず、互いをみんな道徳的共同体の等しい一員としてみなすような道徳的スタンスの観点から、われわれに語りかけているように思われる。最後に、以上と関連することだが、道徳性を人間にとって可能なものと見なすために、われわれは、道徳的理由に基づくまたはそれと結びついたわれわれの動機は無-私の性格をもつことを要求しているかのようである。たとえば、単に利己的な理由で慈善活動によく参加する人は、慈善活動の道徳的価値を明らかに下げて、道徳的要求の普遍的な性格を知らずのうちに否定しているように見える。人間の生活における道徳の重要性を哲学的に解明することは、次のことを行わなければならない。つまりそれは、われわれ人間がこのように考えられた道徳を、実際上、気にかけるのはどうしてかということを説明しなければならないし、なぜわれわれは道徳性を気にかけなければならないかという哲学的にもっと重要な問いをたてなければならない。さらには、道徳的スタンスの観点から発せられた判断がわれわれに対して規範的な権威をもつと見なすべきなのはなぜか、という問いをたてなければならない。そしてそれは、道徳的スタンスからわれわれに課される要求に応えるような仕方でわれわれが無私の行為をするのはどうしてかということをわれわれが理解できるようにしなければならない。ただし、これらすべての質問に答えるには、われわれの道徳的関心が人間としてのわれわれの心理的体制とどのように関連しているか、および、道徳的要求がそのように心理的に構造化された行為主体に適切に向けられていると理解されるのはどうしてか、ということを解明する必要がある。

 この試みの難しさが、人間の心理についての現実的な説明と道徳的判断の普遍的妥当範囲と相互主観的妥当性と折り合いをつけることにあるのは明白である。なぜなら、人間の動機や心理的メカニズムはつねに状況や場所の制約を受け、妥当範囲がかなり限定されているように見えるからである。さらに、進化心理学者が言うように、集団内の偏りは人間の心理の普遍的な特徴であるように思われるからである。この問題を解決する最も有望な試みの一つは、確かに、デビッド・ヒュームとアダム・スミスの名前に結びつけられる一八世紀の道徳哲学の伝統によるものである。その二人は、上記の哲学的な課題のすべてに応えるために、われわれの共感的な能力が、われわれを社会的道徳的行為主体として構成する上で、そして、道徳的判断を下したり、それに応える心理的能力がわれわれに提供される上で、中心的役割を果たしていることを指摘したのである。カントの伝統にいる哲学者は、感情よりも理性を優先するので、概してこの提案には懐疑的であったが、最近では、共感が道徳や人生の成功にとって中心をなすという主張が、ふたたび活発で異論に満ちた論争の的となってきた。一方で、共感は、幅広い分野の研究者や、一部の公人(その中でも最も著名な人物としてオバマ大統領を挙げなければならないが)によって称賛されてきた。スロート(2010)は、共感を道徳的判断の唯一の基盤として擁護したし、ドゥヴァール(2006)はそれを道徳の唯一の進化的要素と考え、リフキン(2009)は、それを開拓することが危機にある世界を変える唯一の革命的な力をもつようになるとさえ見なしているし、バロン-コーエン(2011、194)は、「どんな問題も、共感に浸すならば、解決可能となる」のだから、それを「普遍的な溶媒」と見なしている(「溶解する」という意味をもつsolventに「解決策」という意味を込めている – 訳者註)。他方で、そのような共感に寄せる熱意は、その暗黒面、つまり、いわゆる「今ここ(here and now)」の偏見に陥りなりがちな傾向を強調するプリンツ(2011 a、b)とブルーム(2016)による鋭い批判に遭遇した。以下のサブセクションでは、共感が無私の仕方でわれわれを動機づけるかどうかの問題、共感が本質的に偏っていて仲間内にえこひいきをしないかどうかの問題に関する経験的研究を概観することによってこれらの問題を扱う。そして、われわれの共感的能力に照らして道徳的判断の規範的特徴をどうしたら考えられるようになるかを、論ずることになる(社会心理学、特に社会神経学に由来する他の関連する問題の概観については、Decety and Lamm 2006; Decety and Ickes 2009, and Decety 20012も参照。共感が医療行為にとって果たす意義については、Halpern 2001を参照)。


 5.1   共感と利他的動機

 一連の念入りに設計された実験で、バトソンは、共感-利他性テーゼ(the empathy-altruism thesis)と彼が呼ぶもののエビデンスを積み上げた。このテーゼの論拠を示す際に、バトソンは共感を共感に満ちた関心、または他の人ならば同情(sympathy)と呼ぶものとして考えている。より具体的にいうならば、彼はそれを、他人の窮状に対して、同情的で、心を動かされ、それに思いやりを寄せ、優しく、温和で、柔和な気持ちをもつこととして特徴づける(Batson et al.1987、26)。彼の実験の課題は、共感(empathy/sympathy)が真に利他的な動機を生み出すことを示すことにあった。真に利他的な動機では、主に利己的な動機のために他者を助けることなく、他者の幸福が私の援助する行為の最終的な目標となる。共感に関連する現象についての利己的解釈によると、困っている人に共感を抱くことは、罪悪感・恥・社会的制裁といった、ネガティヴな感情に結びついたり、助けないことからそうしたネガティヴな帰結が生じることへの過敏な意識を生み出すことがある。あるいは、共感は、社会的な報酬や晴れがましい感情といった、援助活動のポジティヴな帰結についてのおごった認識を生み出すことにもなりかねない。この解釈によると共感とは、ただ単に自己中心的な動機を介して助けるようにわれわれを誘うもの、ということになる。われわれが他人を助けるのは、援助行為を自己中心的な目的に対する手段として認識しているからにすぎないことになる。それは、われわれのネガティヴな感情を軽減し(嫌悪感低減の仮説)、「処罰」を回避し、特定の内的・外的「報酬」を得ることを可能にする(共感特有の処罰と共感特有の報酬の仮説)。

  ただし、共感-利他性テーゼの論拠を示す際に、バトソンは共感がつねに援助行為を誘発するものだとは主張していないことに注意したい。むしろ、彼は、行為主体の動機づけの構造で利己的解釈が優勢であることに反対する。彼は、真に利他的な動機が存在していること、そして、より具体的には、共感がそのような真に利他的な動機を引き起こすという主張を支持する。これらの真に利他的な動機は(他の利己的な動機とともに)、助けるべきかどうかについて熟考するときに、個々の動作主体によって考慮に入れられるのである。バトソンにとってでさえ、行為主体が利他的な動機に基づいて行為するかどうかの問題は、最終的に、それらの動機がどれほど強いか、および、行為主体が他人を助けるときにどれくらいのコストを負うかによって決まるとされる。

 バトソンの実験の基本的な仕掛けは、被験者の状況を調整することにあり(反駁されるべき利己的な選択肢に応じて)、困っているターゲットに対して感じた共感を調整することにある。共感-利他性テーゼにとっての決定的な証拠は、つねに、被験者の記録された行動であって、被験者は、自分が手助けしたところで、ターゲットが個人的に満足する手段にはなりそうもない状況においても、高い共感の状態にあるからである。いまはバトソンの実験の詳細を延々と記述する場所ではないので、実験の仕掛けの簡単な記述と - 共感の嫌悪感的な解釈に否定的なバトソンの議論に焦点を当てならが - 、彼の論証的戦術一般が成功していることを簡単に評価するだけで十分である(詳細については、Batson 1991 and 2011)。彼の実験のすべてにおいて、バトソンは、ストットランド(1969)などに基づいて、共感(empathy/sympathy)は、被験者とターゲットとの類似性の知覚を調整することによって、あるいは、被験者のどの程度ターゲットの観点を取りいれる態度をとるかを調整することで、高くなったり低くなったりできる、とバトソンは前提している。これらの前提によれば、共感は、被験者とターゲットの知覚される類似性を高めたり、あるいは、被験者に、提供された情報に注意深く注意を払うように求めるのではなく、観察された人がその状況においてどのように感じるかを想像するように求めることによって、増大させることが出来る。 [また注意してほしいが、被験者に対して、他人がどう感じるかを想像しなさいと指示を出すより、自分がその他者の立場に立ったらどう感じるかを想像するように指示をだすならば、それは、同情的な感情の増大だけではなく、自分個人の苦痛の増大に結びつくことになるのである(Batson et al,1997b,Lamm、Batson、and Decety 2007)]。


 嫌悪感低減の解釈を否定する論証をしようとするとき、バトソンは、被験者が他人を助けることを回避できる容易さを調整する(この場合は、被験者が席に着くと、他人が感電するのを目撃する)。彼は、共感が本当に利他的な動機を生み出すならば、高い共感と簡単に逃げ去ることが出来るという条件のもとで被験者はやはり喜んで助けるだろうと推論する。もし彼らが自分のネガティヴな感情を減らすためだけに助けるならば、この条件のもとでは彼らは当然逃げ去るだろう、なぜなら逃げ去ることが利己的な目標を得るためのコストのかからない手段だからである。バトソンが喜んで報告したように、実験の結果は、彼の共感-利他性仮説を確証した。それは上記の実験だけでなく、共感特有の処罰や共感特有の報酬仮説のような共感について他の代替解釈をテストする実験でも、結果は彼の共感-利他性の仮説を確証したのであった。

 研究者たちは概して、バトソンの実験研究プログラムと、共感-利他性テーゼにとっての蓄積された証拠が印象的であると一致して考える。しかし、最終的に彼の立場をどれほど説得力があると見なすべきかについては意見が分かれている。特に、彼の実験は、共感が援助行動を生み出すのはなぜかについての非常に特殊で利己的な説明のみをターゲットにしているので、彼の実験は限られた価値しかもたないということは、かねがね指摘されてきたことである。バトソンは、代わりとなる利己的な解釈のすべてを決定的に退けることはない。さらに、利己主義にもバトソンの実験結果を説明できる余地があるという主張もなされてきた。たとえば、困っている人を見かけたとき、その人を助けるものを何ももっていないならば、それは悪い記憶となって悩むことになるだろうという過敏な意識を共感は生み出さないかどうかを考えることによって、バトソンの解釈の妥当性に異議を唱える人が出てくるかもしれない。この場合、利己的な動機の持ち主でも、高い共感と簡単に逃げ出せるという条件下でも、助けることになるだろう。(この返答やバトソンの実験についての多様な利己的解釈については、Sober and Wilson 1998、264–271を参照)。

 チャルディーニと彼の共同研究者は、高い共感があり簡単に逃げ出せるという条件下での援助行動について、さらにずっと念入りで非利他的な解釈があると主張した。彼らの主張によれば、高い共感という条件は、人間間の統一性が強いという条件でもあって、そこでは「自己と他者の考え方が違っておらずある程度統合されている」(Cialdini et al,1997、490)。援助行動を動機づける原因となっているのは、共感というよりもこの一体性の強い感覚なのである(ただし、それに対するもっともな返答については、Batson et al。1997a,Neuberg et al.1997,Batson 1997 and 2011を参照。共感的な関心と一体性の関係についての詳細な議論については、May 2018, 144–153)。したがって、バトソンが共感-利他性仮説が正しいことを決定的な形で証明したと主張するには注意が必要である。もしそのことが、援助行動を説明する利己的な代わりの仮説をすべて論理的に排除したことを意味するとしたら、そうである。しかし、バトソンは、人間の行為主体性についての利己的な説明に対して、その枠組みの中で援助行動を説明するためには、もっとずっと精巧な代替的解釈を見つけ出すようにせざるを得なくすることで、利己主義と利他主義をめぐる論争の論証上のやり取りのあり方を根本から変えてしまったということは認めなければならない。エゴイズムは、人間の行為主体の動機の構造について非常に統一的で比較的単純な説明を提供すると考えられていた。この枠組みの優位性と単純性に対して経験的に鋭い形で異議を唱えることで、バトソンは -利己的な動機に加えて、われわれは真に利他的な理由によっても動機づけられていると主張することで - 利他性を少なくとも経験的にもっともな仮説として確立したのである。彼は、彼自身が最近自分の認識的態度を特徴づけたように(Batson 1997、522)、それが真であると納得して信じることができる仮説であることを示したのである。もっとポジティヴに表現すれば、バトソンの研究は少なくとも共感が援助行動を引き起こすうえで一つの因果的要因となることを実証した。心理学者は、援助や向社会的行動の根底にある動機の正確な本性の問題に関係なく、大人にも子供にも、共感と向社会的行動のあいだには、弱いものだとしても、正の相関があることが確立された、と想定している。そして、これは、他人に対する感情的な反応の上記の側面が必ずしも十分に区別されているわけではないという事実にもかかわらず、そうなのである(概観については、Eisenberg and Miller 1987; Eisenberg/Fabes 1998, Spinrad and Eisenberg 2014。向社会的行動に貢献するさまざまな要因の全般的調査については、Bierhoff 2002)。

バトソンの立場の強みを正確にどのように見なすかに関係なく、彼の研究だけでは、同情/共感(sympathy/empathy)が道徳の基礎である、または、それが道徳的動機の唯一の源泉を構成するという、さまざまな伝統的な道徳哲学者によって表明されたテーゼは妥当なものとはなっていない。第一に、彼の研究では、同情/共感が道徳的行為主体にとって経験的に必要であることを示すものは何もない。第二に、バトソン自身の研究には、共感によって引き起こされる利他性は、正義と公正の原則と矛盾する行動を生み出しうるから、同情/共感が道徳の基礎であるという主張に疑問を投げかけるものがある。たとえば、実際に共感の念を抱く相手には、より良い仕事やより高い優先順位で医療を受けさせるという傾向があるが、これは上記の正義と公正の原則に違反している(Batson et al.1995を参照)。まさにその理由で、バトソン自身、他人の幸福を気遣う利他的な動機と、正義と公正の原則によって導かれる道徳的動機を区別するのである(Batson 2011)。残念ながら、道徳的動機を幅広く利己的動機と抽象的に対比するとき、われわれは必ずしもこの事実に気づいているわけではない。そのまさに理由で、われわれはまた、道徳的な目的で利他主義の動機づけの力を十分に活用するためには、利他的動機と道徳的動機の関係を「調和」させることにもっと意識的になる必要があることに気づいていないのである(Batson 2014)。最後に、バトソンは共感を主に情動的な現象として理解しているので、これまで論じてきた研究が、高度な「心を読み取る」能力が本格的な道徳的行為主体に必要かどうかの問題を決定するには相応しくない。(この点については、Nichols 2001,Batson et al.2003を参照)



」(つづく)










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