SSブログ
 

共感(empathy) その3

 スタンフォード大学の哲学百科事典の「共感(Empathy)」の項目を紹介する第三回目。第二章の全体を見ていく。「共感」をめぐって、今日、どれほど多くの研究や論争が積み上がっているかが簡潔に概観されている。他者理解、想像力、モラルの発生という(カント-アレントの)論点とも絡んでいてとても興味深い。 


 
 Empathy  By Karsten Stueber
 https://plato.stanford.edu/entries/empathy/



  2. 共感と他者の心という哲学的問題


 共感は、二〇世紀初頭に哲学者の間で活発な議論の焦点となった (Prandtl 1910, Stein 1917, Scheler 1973)他者の心についての知識を得るための第一の認識手段として理解されるべきであるというのがリップスの主張だった。リップスの具体的な説明に同意しなかった哲学者でさえ、共感の概念は魅力的だと感じたのだが、それは、リップスが自説のために繰り広げた議論が、他者の心の知識について考えるための唯一の選択肢であると当時広く考えられていたもの、すなわち、ミルの類似からの推論という考え方に対する徹底的な批判に密接に結びついていたからである。伝統的な背景を考えると、類似からの推論という考え方は、自分自身の心への接近は直接的かつ誤ることがないのに対して、他者の心についての知識は、推論的で、誤ることがあり、他者の観察された身体的行動に関するエビデンスに基づいているというデカルト的な考え方を前提としたものだった。もっと形式的に言えば、類似からの推論を次の前提やステップから構成されるものとして特徴づけることができる。

i)  他者XがタイプBの行動を示す。
ii) 私自身の場合、タイプBの行動はタイプMの心的状態によって引き起こされる。
iii) タイプBの私の行動と、タイプBのXの外見上の行動は類似しているので、それは、私と同様の内的で心的な原因をもっていなければならない。(私とその他者は、いまの文脈に関連する意味で、心理的に類似していると前提されている)。
ⅳ) したがって、他者の行動(Xの行動)は、タイプMの心的状態によって引き起こされる。

 ウィットゲンシュタインと同様に、彼をかなり先取りした形で、リップスは、1907年の論文(「他の自我についての知識(Das Wissen von fremden Ichen)」で、類似からの推論は他者の心という哲学的問題を解決することは根本的にできないと主張する。リップスが類似からの推論に反対するのは、それがエビデンスに欠ける根拠しかないからではなく、他者が私たち自身の心と心理的に類似している心をもっているというその根本前提を理解させてくれることができないからなのである。類似からの推論が、他者が私たちと同じような心的状態をもっているという主張のエビデンスを私たちに提供できないのは、そのデカルト的な枠組みの中では、そもそも他者の心についてわれわれが考えることができないからなのである。リップスにとって、類推とは、他者の怒りと悲しみを私の悲しみと怒りに基づいて推論しておきながら、同時に、その悲しみと怒りを私の怒りと悲しみとは「絶対的に異なる」ものとして考えるという矛盾した企てを求めるものである。もっと一般的に言えば、類推が矛盾した企てであるのは、それが「ある私(an I)についてまったく新たな考えを抱くことであるが、その私とは、私ではなく、絶対的に違う何かであるような私である」ためなのである(Lipps 1907、708、訳は筆者による)。

 リップスは、心についてのデカルト的考え方の文脈内で、類似による推論の問題にきわめて簡潔な診断を下したが、共感が他者の心についての認識的に是認できる理解をいかにして提供できるかを説明できなかったし、なぜわれわれが他者の心に「感じ入る」ことが単なる投影以上のものであるのかを、説明することもできなかった。さらに重要なことに、リップスは、共感が類似からの推論に対して診断されたのと同じような問題に遭遇しないのはなぜかという点を充分に説明しなかったし、われわれが直接的に見知っているのは自分自身の心的状態のみであるとするならば、共感がいかにして、他者がわれわれと同じような心をもっていると考えることを可能にしてくれるのはいかにしてか、という点も十分に説明することはなかった(Stueber 2006)。類似からの推論に対するウィトゲンシュタインの批判は、その問題が心的概念のデカルト的考え方に依存していることを彼が認識していたため、結局より深いところまで行き着くことになった。何らかの心的な概念についての私の捉え方が、ある種の仕方で私が何かを体験することによってのみ構成されるならば、私が私以外の誰かの心的状態を体験できないのであるとすれば、その概念が私以外の誰かにどのように適用できるかについて私が考えることは不可能である。したがって、他者が私と同じ心的状態にいるのはどうしてかを考えることが私にはできないのは、そうするためには、私は自分の心的状態を私が経験していない何かとして考えることができるのでなければならないからである。しかし、デカルト的な考え方によれば、これは概念的に不可能な作業であるように見える。さらに、心についてのデカルト的な考え方を保持するならば、リップスによって考えられているような、共感に訴えることが、ある種の心的状態を他者の心に属するものとして考えるのに役立つのはどうしてかということも、明らかではない。

 
 現象学的伝統の中でも、リップスの共感の立場について上で述べたような欠点はとても明白なものであった(Stein 1917、24, Scheler 1973、236)。しかし、リップスの共感の説明が内的共鳴と投影のメカニズムに基づくものであるとして受け入れなかったという事実にもかかわらず、現象学の伝統の中にも、類似からの推論に対するリップスの批判を納得した哲学者はいた。たとえばフッサールとシュタインは、共感の概念を使い続け、共感を還元不可能な「独自の経験的行為」と見なした(Stein 1917、10)。共感のおかげで、われわれは、類似性の推論を構成する「類比的統覚」がなくとも、他者をわれわれ自身と類似するものとして見なすことが可能なのである(Husserl 1931 [1963], 141)。シェーラーはおそらく、共感の概念のようなものにコミットし続けながら、他者の心の把握について考える際に、デカルト的な枠組みをもっとも根底から拒絶した人であった。シェーラーにとって、他者の心の把握についての議論の根本的な間違いは、それがある種の現象学的事実を真摯に受け止めないという事実にある。一見して判ることだが、われわれは、他者の身体的な動きだけに遭遇するわけではない。むしろ、心的状態は、顔の表情、身振り、声のトーンなどの肉体の状態において独特な仕方で表出されているのだから、われわれは特定の心的状態を直接的に認識しているのである。現象学的伝統の中での共感は、観察者が自分の心の中で他者の心的状態を再創造することを求める共鳴現象としてではなく、特殊な知覚的行為として考えられている(Scheler 1973、particularly232–258)。現象学的伝統における共感についての議論の簡潔な説明については、Zahavi 2010を参照)。



 2.1 ミラー・ニューロン、シミュレーション、および現代の「心の理論」をめぐる論争における共感についての議論


 内的な模倣として理解された共感は、他者の心を理解するための第一の認識手段であるという考え方は、民間心理学に関する学際的な論争の文脈の中で、シミュレーション理論を掲げる人々によって1980年代に復活を遂げていた。他の行為主体を解釈、説明、予測するわれわれの民間心理学的能力の根底にある因果的メカニズムをどのように記述するのが最善かについて経験的に裏打ちされた論争が交わされていたのである(Davies and Stone 1995)。理論理論{theory theory:子供は、科学の理論家のように、自分の信念を訂正していくものだと発達心理学上の理論 —— 訳者註}とは対照的に、シミュレーションの理論家は、われわれの通常の「心を読み取る」能力を、自我中心の方法として、そして「知識を欠いた」戦略として考える。それによれば、私は民間心理学的理論を利用するのではなく、自分自身を他者の心的生活のモデルとして使用するのである。ここは現代の論争を広範囲にわたって議論する場ではないが、心的概念の把握をどのように説明するのか、そして、シミュレーション理論がデカルト主義にコミットしているのかどうかについて、現代のシミュレーションの理論家が活発に議論しているということは強調しておかなければならない。ゴールドマン(2002、2006)は、彼のバージョンのシミュレーション理論を心的概念のネオ・デカルト的説明に関連づけているのに対し、他のシミュレーションの理論家は、心についてのデカルト的考え方にコミットしないバージョンのシミュレーション理論を展開している (Gordon 1995a、b、2000; Heal 2003;Stueber 2006、2012)。


 さらに、いわゆるミラー・ニューロンが他者の感情の状態を認識し、彼の行動が目標指向的であることを理解する上で重要な役割を果たしているとする神経科学的発見は、リップスの内的模倣としての共感という考え方に経験的なエビデンスを提供するものとして理解されてきた。科学者は、「ミラー・ニューロン」という語の助けを借りて、他者の行為の観察の根底にある神経の興奮領野と、まったく同じ行為をわれわれが実行するときに刺激される領野との間にかなりのオーバーラップがあるという事実を指し示す。興奮の神経領野間の同様のオーバーラップは、他者の顔の表情にもとづいてわれわれが他者の情動を認識することと、われわれが情動を経験することの間にもあることが確証された。(ミラー・ニューロンの概観については、Gallese 2003a and b, Goldman 2006, chap. 6; Keysers 2011; Rizzolatti and Craighero 2004; and particularly Rizzolatti and Sinigaglia 2008)。人間同士が顔を見合わせて出会うことは、人間が自分を心ある生き物としてを認識し、心的状態を他者に帰属させる主要な状況であるのだから、ミラー・ニューロンのシステムは、心をもつ生き物の間に相互主観的な関係があることを確立するうえで因果的に中心的な役割を果たすものと解釈されてきた。まさにその理由で、神経科学者のガレーゼはミラーニューロンを「共有された多様な相互主観性(shared manifold of intersubjectivity)」を構成するものと考える(Gallese 2001、44)。スチューバーは(2006, chap. 4)― 内的模倣としての共感というリップスの考え方に触発されながら ― ミラー・ニューロンを根本的な共感のメカニズムと見なしている。そのメカニズムのおかげで、われわれは、他者の情動を、その人の顔の表情によって直接把握できるのだし、他者の身体の動きを目的指向的な行為として、つまり、人がカップに手を伸ばすように外的な対象に向けられたものとして理解することができるのである。ミラー・ニューロンから得られるエビデンスは -— そして、他者を知覚するとき、われわれが、物理的な対象の知覚とはとても異なる神経生物学的メカニズムを使用しているという事実は —— われわれが世界と知覚的に遭遇するさいに、われわれはたんに物理的な対象に遭遇しているだけではということを示唆している。むしろ、この基本的なレベルでさえ、われわれは単なる物理的な対象ともっとわれわれに似ている対象とをすでに区別しているのである(Meltzoff and Brooks 2001)。基本的な共感のメカニズムは、デカルト主義や行動主義などの対立する立場によって共有される他者の心についての伝統的な哲学的議論の主要な前提の一つを解体する自然が与えてくれた方法と見なされなければならない。その解体されるべき前提とは、つまり、われわれが他者を主に物理的な対象として認識しているという前提であり、知覚的レベルでは、まだ、木などの物理的な対象と、われわれ自身のような心をもつ生き物を区別することはないという前提である。したがって、基本的な共感のメカニズムは、主体にも観察対象の他者にも適用できる相互主観的に接近可能な民間心理学的枠組みを提供するものとして解釈できるかもしれない(Stueber 2006、142–45)。


 ただし、このミラー・ニューロンの解釈は、ミラー・ニューロンの第一の機能が、他者の行為や情動の認知的把握を提供することにあるという前提に決定的に依存しているということは認める必要がある。しかし、この解釈は、神経共鳴は、他者の心の中で生じていることの理解を提供するというよりも、それを前提していると考える研究者や哲学者によって批判されてきた(Csibra 2007、Hickok 2008および2014)。その人々の指摘によると、他者の情動や行為を観察するとき、われわれは決して他者の神経刺激を完全に「映しとる(mirror)」ことはしない。神経科学者のジャン・ディセッティは、他者の痛みを観察するとき、われわれがわがことのように痛みを感じるときに刺激される脳領域は、痛みという現象的な特質に反応しているわけではないと主張した。むしろ、それが反応しているのは、「危険と脅威にさらされたときの嫌悪感や尻込みする気持ち」を指し示すものとしての痛みなのである(Decety and Cowell 2015、6、Decety 2010)。少なくとも痛みへの共感に関する限り、われわれの神経の共鳴は、観察対象の他者にわれわれがどれほど親密さを感じるか、痛みが道徳的に正しいとわれわれが見なすかどうか(たとえば、処罰の場合のように)、または医療的な処置などにおいて、われわれがその痛みを不可避で必要であると見なすかどうかといった多様な文脈的要因によって変ってしまうことがある(Singer and Lamm 2009; Allen 2010, Borg 2007, Debes 2010, Gallese 2016, Goldman 2009, Iacoboni 2011, Jacob 2008, Rizzolatti and Sinigaglia 2016,Stueber 2012a)。



 しかし、日常的に行われている「他者の心を読み取る」ことは基本的な共感の領域に限定されるわけではないということは注意すべきである。通常、われわれは他者が恐れていることや、特定の対象をとろうと手を伸ばしていることなどを認識するだけではない。われわれは、他者の行動を、もっと複雑な社会的文脈において、なぜあのように行為するのかという観点から、信念や欲望といった概念を含むありとあらゆる心理的概念を使用しながら、理解している。神経科学からのエビデンスが示すところによると、これらの内面的な課題は、内側前頭前野、側頭頭頂皮質、帯状皮質などの非常に異なるニューロン領域を含んでいる(Kain and Perner 2003; Frith and Frith 2003; Zaki and Ochsner 2012)。したがって、基本的な共感の領域での低レベルの「心の読み取り」は、高レベルの「心の読み取り」とは区別する必要がある(Goldman 2006)。他者を理解する低レベルの形式は、心理学的理論や複雑な心理学的概念を含まないために、比較的知識を欠いたものとして考えられなければならないことは明らかである。高レベルの「心を読み取る」能力をどれほど厳密に考えるべきか、それらが主として含むのは知識を欠くシミュレーション戦略なのか、あるいは知識に富む推論なのかどうかは、民間心理学の「心を読み取る」能力に関する現代の議論の中でも異論の余地のあることである(Davies and Stone 1995、Gopnik and Meltzoff 1997、 Gordon 1995、Currie and Ravenscroft 2002、Heal 2003、Nichols and Stich 2003、Goldman 2006、Stueber 2006)。ただし、シミュレーション理論の支持者の主張によると、他の動作主体を理解するさらに複雑な形式には、他者の観点を想像的に取り入れ、他者の思考プロセスを再現または再創造する認知的に複雑な能力を伴う共鳴現象が含まれるという(さまざまな形の観点の取入れについては、Coplan 2011、Goldie 2000を参照)。したがって、シミュレーションの理論家は、基本的な共感と再現的共感の区別(Stueber 2006)や、鏡像的な再現と再構築的な共感の区別(Goldman 2011)といった、さまざまなタイプの共感を区別する。興味深いことに、これらのより複雑な形の「心の読み取り」をどう考えるかについての議論は、共感が人間科学独特の方法なのかどうか、そして人間科学と自然科学の方法を厳密に区別しなければならないのかについての伝統的な議論と共鳴するのである。同じくらい注目に値するのは、現代の「心の理論」をめぐる議論において、現代の「心の理論」の論争が、社会的認知の本性を根本的に誤解していると主張する声が大きくなったという事実である。哲学における現象学および解釈学の伝統からの洞察という観点から、最も基本的なレベルでの共感は、共鳴現象としてではなく、一種の直接的な知覚として考えられるべきであると彼らは主張する(Zahavi 2010、Zahavi and Overgaard 2012を参照。それに対する応答としては、Jacob 2011を参照)。より複雑な形の社会的認知も、理論か共感/シミュレーションに基づいていると理解されるべきではなく、観察された行為をより大きな物語や文化的枠組みに直接フィットさせる能力としてより考えられるべきである(この議論については、 Gallagher 2012、Gallagher and Hutto 2008、Hutto 2008、Seemann 2011、Stueber 2011,2012a、Matravers and Waldow 2018。他者の視点との完全な同一化として理解された、共感的な観点の取り込みに対する懐疑論については、Goldie 2011を参照)。この特殊な論争をどのように見るかに関係なく、元来二〇世紀初頭に共感の支持者によって展開された「心の読み取り」に関する考え方は、もう簡単に退けられることはできず、真剣に受け止められなければならないことは明白であるだろう。

」(つづく)










コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。