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共感(empathy) その5 [探求(旧)]

 スタンフォード大学の哲学百科事典の「共感(Empathy)」の項目を紹介する第五回目。やはり時間の関係上、第五章の第二節をとばして、最終節(5-3)に行く(やはり、とばした部分は、いつか時間ができたら、補足したいと考えている)。ヒュームの心理学者版ともいえるスロットの論が批判的に紹介された後で、最後に、アダム・スミスの考え方が簡単に触れている。おそらく、その最後の論点が、筆者のもっとも最新の論文の内容とも重なっていることを考えると、けっこう大事なのではないかなと感じた。 


 
 Empathy  By Karsten Stueber
 https://plato.stanford.edu/entries/empathy/


「  5.3共感、道徳的判断、および道徳的規範の権威

これまでのところ、この項目は主に、共感と向社会的/道徳的行動または動機との関係を調べる研究を論じてきた。道徳的な事柄おける共感の役割を検討するための別の重要な領域は、共感が道徳的規範と慣習的規範を区別する能力や、道徳的判断を下すことにどのように寄与するか、そもそも寄与するのかどうか、また、そのような判断の規範的権威を説明する上で、共感にどのように訴えることができるかという問題に取り組むことに関わる。最初の質問を考察するとき、心理学者と哲学者は一般に道徳的規範を理解する上でトゥリエルに従って、道徳的規範を「権利、正義、および他人の福祉」に対する関心を表明するものとして(Turiel 1983、3)、また、それに結びつく特有の「応答パターン」をもつとして理解してきた(Kelly et。al。2007)。道徳的規範は一般に、それらの規範的妥当性が社会的権威または特定の社会的慣行や合意から独立していると考えられるという点で、慣習的規範よりも重要であると見なされている。それらの妥当範囲もまた、はるかに広いと判断されているし(たとえば、他の国でも妥当すると考えられている)、道徳的規範の違反は、一般的に、他の規範の違反よりも深刻な違反であると理解されている。ただし、道徳的規範と慣習的規範を区別するときに、被験者は、必ずしもカント的な意味での厳密な普遍性を道徳的規範に関連づけて、すべての理性的存在に適用できると見なすわけでもないことに注意すべきである。実際、たとえば、6〜9歳の子供は、道徳的/慣習的という区別をグループ内の個人の行動にのみ適用可能であると見なし、グループ外のメンバーに害を及ぼすことを禁じる規則を慣習的規範として見なすということには幾分かの証拠がある(Rhodes and Chalik 2013)。したがって、上で説明したように、共感がかなりのグループ内の偏りを示すからといって、そのことは、人間が社会的文脈の中で、道徳的規範と慣習的規範を区別するさいに共感が役割を果たしていることを否定する反証にはならない。

道徳的/慣習的という区別を把握することに共感が果たす役割を評価する上で最も重要なのは、サイコパスと自閉症の本性に関する研究であった。どちらの病理も、共感の違う次元に障害を含んでいると見られているが、精神病理学者だけが社会の道徳的基準を守ることがとても困難なのはサイコパスだけであり、当初はサイコパスだけが、道徳的規範と慣習的規範を適切に区別するのに困難を覚えると考えられていた(Blair 1995,1996 )。もっと具体的に言えば、サイコパスは、感情的または情動的共感に、特に「恐ろしげな、悲しげな、そしておそらくは嫌悪感に満ちた顔の表情を処理すること」に(Blair 2010、710)選択的な障害を示す。しかし、自閉症の人とは対照的に、サイコパスは、他者の観点を取り込むことや、「心の理論」の能力に似たような障害を示さない。したがって、ブレアは、1995年の論文で、サイコパスの道徳的障害と道徳的/慣習的という区別がつけられない原因として、暴力抑制メカニズム(VIM)の欠如を挙げる。そのメカニズムが、他人のうちに観察される苦痛の種に適切に対応することを可能にする、というのである。後の研究で、彼は、より幅広く、扁桃体で負の感情が適切に表象されなくなる障害によって引き起こされる、統合感情システム(IES)の機能障害について語っている (Blair, Mitchel, and Blair 2005、サイコパスの恐れの感情や認識におけるとても特殊な障害についての最近の研究については、Marsh 2014も参照)。それでも、サイコパスに関する経験的研究から道徳に対する共感の役割について明確な結論を導き出すには、非常に注意深く進む必要がある。経験的研究の結果は統一感があるどころではないし、同じ方向を向いてもいない(簡潔な概観については、Maibom 2017)。たとえば、最近の研究では、サイコパスは、改訂されたサイコパスのチェックリスト(PCL–R)の総合点で測ると、強制選択のパラダイムの下でテストした場合、道徳的規範と慣習的規範の違いを理解できることが示されている(Aharoni et. al 2012.)。それでも、その研究でさえ、サイコパスはどちらかといえばPCL–Rの感情的および反社会的側面にリンクされているので、感情的障害が、その区別を正確に行う際の欠陥の原因となっているという可能性を認めている。さまざまな研究の一貫性のない結果を考えると、他の研究者はサイコパスの非道徳性を共感の特有の欠陥ではなく、概して強い情動を感じることができないことや、彼らが概して冷血であることや、または合理的・打算的能力の不足によって引き起こされると理解するだろう。その観点から見れば、サイコパスはある種のことを行うのは道徳的に間違っていることを抽象的な仕方では理解できるが、道徳性や他人の福祉や自分自身などは気にしないというだけなのかもしれない (詳細については、Maibom 2005 and 2009, Nichols 2004, and Prinz 2011a,b)。同様の考察は、自閉症の被験者に関する研究にも当てはまる。ケネット(2002)の主張によると、想像力豊かなロールプレイや共感能力が低い自閉症の個人から得られた証拠は、共感が道徳的行為主体に必要であるという主張を支持しない。しかし、彼女の論証の中で、彼女は、自閉症の人が他人の立場に立つことが困難であるという事実だけを考慮し、彼らの表情によって明らかにされるように、他人の情動的状態に気づく能力があるように見えるということを考慮していない。さらに、自閉症の被験者は概して道徳的規範と慣習的規範を区別できるが、道徳的ジレンマについて考えたり、偶発的または意図的ではない規範の違反に遭遇したりすると、道徳的規範の違反の深刻さを評価するうえで柔軟性を欠いてしまうことはあるようである (McGeer 2008、Zalla et al 2011を参照。ただし、Kennett 2011,Leslie et al.2006の応答も参照)。

哲学者たちは、ある種の規範が道徳的地位をもつとわれわれが考える心理的根拠を解明するために共感に訴えることに興味をもっただけではなかった。道徳は他者や自分自身の行動に対するわれわれの情動的反応に概して関連していると見る道徳感情論という一般的な枠組みの中で、彼らはまた、もっと一般的に、道徳的判断の本性を解明する際に共感に訴えた(Kauppinen 2014 and 2017a)。たとえば、デイヴィッド・ヒュームは、道徳的な判断は、道徳的な承認と不承認という独特な感情に基づいていると述べているが、この感情は、他者の苦痛と快感に共感する能力 -または彼が同情(sympathy)と呼ぶもの - によって因果的に媒介されている(Sayre-Mcord 1994 and 2014)。もっと具体的に言えば、道徳的な承認の感情は、われわれが、他の人が感じる快楽や苦痛について考え、共感/同情の能力の助けを借りて活気づけるわれわれの能力に応じる形で発生する。しますそして行動は自分自身と他人に提供します。それでもヒュームは、われわれが他の人に共感する自然な意欲と能力に制限と偏りがあることに、ある程度気づいていた。したがって、承認の感情が道徳的な承認として考えることができるのは、共感/同情が「安定的で一般的な視点」(Hume 1739–40 [1978]、581/2 )と彼が呼ぶものによって規制・修正される場合に限られる、そして、同情の能力によってわれわれが「すべての人類が一致して感動」(Hume 1748 [1983]、75)できるようになる場合に限られる、とヒュームは主張した。ヒュームの提案に対して提起できる多くの問題が確かにある。ヒュームが最終的に何が悪いことで、何が道徳的に間違っているかについての判断をどのように区別できるかを完全に理解することは難しいと指摘するだけでここでは十分である。当然のことながら、自然災害は他者を引き起こす苦痛に対する共感/道場を引き起こすが、自然災害が道徳的に許容できないことについての判断にそのような同情が入り込んでいるわけではない。ヒューム自身は、道徳的承認の感情には独特の際だった特徴があると考えてこの問題を解決したと考えていたかもしれない(この点については特にDebes 2012を参照)。それでも、そのような感情の特異性を指摘することは、この難問に対する答えとしてはかなり不満が残るものであろう。

共感が道徳的判断の構成的役割を果たしているという現代的の主な支持者の一人であるマイケル・スロットは、被験者の喜びと苦痛に気づくことを可能にするという点で共感が道徳的役割を果たしているという点では、ヒュームに従わなかった。スロットは、フェミニズムのケア倫理に影響を受けているのだが(Slote 2007、2010)、彼によると、ある行為主体が他の被験者に対する共感的な関心から行為したかどうかは、傍観者としてのわれわれが共感とともに気づくことなのだから、共感が道徳的承認の中心であると主張する。ある行為の道徳的承認とは、ある行為主体の共感的な関心に共感するときの事後的で反省的な暖かさの感覚にあるのに対して、道徳的な不承認は、行為主体が共感的な関心なしに行為したと認識することによって生じる反省的な冷たい感情に等しい。であるならば、行為が道徳的に正・不正と判断されるのは、その行為が共感的な関心から行われたという点で、われわれが道徳的に承認する行為主体の行為として考えられるかどうかという観点からなのである。また、スロットは、上記の意味での共感は、完全にまたは十分に発達している場合にのみ道徳的承認を構成するものとして見なしているが、彼はヒュームに従うことなく、共感に当然ついてくる偏りをある程度修正するために、共感は修正される必要があるという点で、ヒュームに従わなかったことにも注意されたい。実際、スロットは、そのような偏見がわれわれの道徳的直観に反映されていると見なしているため、それは彼の説明の美点であると考えている。たとえば、彼は、われわれから離れている人々よりも、われわれの目の前にいる子供やわれわれの家族のメンバーを助けるより大きな道徳的義務をわれわれはもつ、スロットは考える。確かに、現代のメタ倫理において、道徳にとって共感が果たす役割についての議論を復活させた功績はスロットに帰されるべきである。それでも、共感と道徳の関係についての彼の考え方は、若干の懐疑論に遭遇した。まず第一に、ある人が正しいことを行っているという考えではなく、その人に対する共感的な関心という動機だけが本来の道徳的動機を構成しているということは疑問の余地がある。第二に、共感の偏りとそこに当然伴う欠点に関する上述の研究を踏まえると、共感の偏りのすべての側面がわれわれの道徳的直観によって是認されると主張するのは非常に疑わしいことである。したがって、何らかの形の是正メカニズムに訴えることなく、共感の道徳的役割をどう正当化できるかということも理解が難しいことである。第三に、現象学的に言えば、道徳的な不承認は必ずしも「冷たい」感情に基づいているというわけではない。ときに、われわれは、道徳規範が違反された場面に遭遇してとても動揺して怒ることだってあるからである。最後に、スロットの提案した道徳的承認の根底にある共感のメカニズムは、ある種の心理学的妥当性を欠いているように見える。スロットにとって、われわれがある行為を是認するのは、ある行為主体が被験者に対して感じる共感的な関心を再創造して、そのことでわれわれが行為主体に対して温かい感情を抱くようになるからである。しかし、ある行為についての肯定的な道徳的判断が、ある行為をするための動機や理由を提供することに結び付けられるならば、行為主体に対して温かい感情を抱くことに成り立つ道徳的承認が、その動機や理由を提供するのにどうして役立つのかを理解するのは困難である。スロットが正しければ、道徳的承認が与えてくれるのは、行為主体を称賛したり、その行為主体に好意を抱いたりする理由であるだろう(D’Arms 2011, Kauppinen 2014 and 2017a, Prinz 2001a,b, and Stueber 2011c)。


共感の道徳に対する寄与を議ずる際に考慮すべきもう一つの要素がある。哲学者は、なぜわれわれは道徳性に関心を払うのか、この点で共感はどのような因果的役割を果たしているのか、または、道徳的規範と慣習的規範を区別したり、道徳的な正不正を判断するときに共感は因果的にどのように貢献しているのか、そういった事実的・因果的問いに答えることだけに、哲学者は関心を抱いてきたわけではなかった。むしろ彼らはまた、なぜ道徳に関心を払うべきか、なぜ道徳的判断をわれわれに対して規範的な要求をするものと見なすべきなのかという問いに答えようとするときに、真に規範的な問いにも哲学者は関心を寄せてきた。他人を道徳的に非難する際に、われわれは彼らが人間としてある意味ですでにコミットしている基準に従って彼らの行動を評価するということをわれわれは前提としている。これらの基準は、われわれが外的な観点からかれらに課す基準というより、彼ら自身の基準であることを前提している。残念ながら、上で概観した共感の因果的役割に関するデイヴィッド・ヒュームやマイケル・スロットの説明に同意するとしても、それらの説明が真に規範的な問いに対して適切に答えるのに役立つかどうかは疑わしい。なぜ私は、他人が私と私の行為に対して抱くある種の情動的反応を、かりにそれが共感によって生じた温かい感情であるとしても、規範的に私に関係するものとして受け取らなければならないというのか? 確かにわれわれは皆、好かれることが好きだし、仲間のグループと一致しようと努めるが、その場合、道徳的な判断は、同調圧力を美化した言い方にすぎないものになるだろう。ヒュームならば、それは一般的な観点からの反応であるため、真摯に受け止めるべきだと答えるかもしれないが、その答え自体が、なぜそのような観点が、われわれの行動と性格を判断するための適切な規範的基準を明確化しているのかという問いをはぐらかしているにすぎない。だからこそ、カント的な傾向性をもつ哲学者は、概して、道徳感情論や、共感を道徳の基礎として考える立場には懐疑的なのである(カントの共感に対する批判的見方の素晴らしい説明については、Deimling 2017を参照)。しかし、現代のカント主義者は、ときに、たとえそれが道徳的行為主体を唯一構成するものではないにしても、共感と観点の取り込みが道徳的な熟慮にとって認識的に関連性をもつことを認める(Deigh 1996 and 2018; Darwall 2006、Shermann 1998、Oxley 2011)。興味深いことに、道徳感情論に共感する哲学者たちは、道徳についての共感に基づく説明を展開し、上述の規範性の問題に答えるためのインスピレーションを得るために、とりわけアダム・スミスに頼った。ヒュームとは対照的に、スミスは共感/同情を、知覚された情動や感情の活性化としてのみならず、想像力による観点の取り込みとして考えている。他人の視点を取り上げるとき、われわれはその人の状況に身を置き、彼がどのように状況に反応するか、彼がどのようにそれについて考え感じるかを想像する。このようにして他人の観点を「痛いほど判るように」なって、自分もあの人のように感じたり行為してもよかったのにと認識するならば、われわれはその他者の感情や行動を承認し、そうでない場合は、否認する。さらに、そのような承認が道徳的承認を構成するのは、われわれが公平な観客の観点から見てその他者に共感する場合である。この観点こそ、スミスが、ヒュームと同様に、共感に当然のように伴う欠陥を是正するために、訴えかけるものなのである。さらに重要なことに、スミスのこの枠組みの中に、あの規範性の問題に対する答えが見つけられると考える人もいる。公平な観客の視点とは、共感的な観点の取り込みの助けを借りて理性的で情動的な生き物としてお互いを理解するというわれわれの通常の習慣の暗黙の誓約として言い直すことができると考える者もいれば(Stueber 2017)、スミス的な「観点の取り込み」は、その感情的次元を含めた上での、人格の尊厳に対する準カント的な誓約を含むものだと主張する者もいる (Debes 2017, but see also Fricke 2005, Kauppinen 2017b, and Roughley 2018)。


」(一応終わり)。












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