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共感(empathy) その2

  スタンフォード大学の哲学百科事典の「共感(Empathy)」の項目を紹介する第二回目。第一章の全体を見ていく。主に、英米圏でこの語(=empathy)を初めて導入したリップスに焦点を当てた叙述である。 


 
 Empathy  By Karsten Stueber

 https://plato.stanford.edu/entries/empathy/


「   1.歴史的序論


 心理学者のエドワード・ティチェナー(1867–1927)が1909年にドイツ語の「感情移入(Einfühlung)」の訳語として「共感(empathy)」という用語を英語に導入する前は、´sympathy’という語が、共感に関連する現象を指し示すためによく使われていた。これらの現象を理解するための概念的な核心を指摘するには、「人々の心は互いに鏡像である」(Hume 1739–40 [1978], 365)というデビッド・ヒュームの言葉を挙げるのが最善であろう。なぜなら、他の人に出会うと、人は、認知的に複雑で多様な次元でその人が考えたり感じたりすることに共鳴したり、それを再現したりできるからである。後で見るように、共感についてのそうした共鳴的な捉え方を誰もが共有しているわけではないが(現象学的伝統にいる哲学者の中には、それを強く拒否する人もいる)、その考え方はセオドア・リップスの理解の中心をなしていた。ティチェナーが’Einfühlung’を’empathy’と翻訳したとき、彼が念頭においていたのはリップスだったのである。


 セオドア・リップス(1851〜1914)は、デイヴィッド・ヒュームの著作にも非常に精通していた。さらに重要なことは、empathy/Einfühlungを、一九世紀のドイツの美学の概念から、社会科学および人間科学の哲学の中心的なカテゴリーに転換したのはセオドア・リップスの書作だった、ということである。この転換を理解するには、まず、一九世紀の哲学者が自然の対象や人工物を美的に評価する能力を説明するために、なぜ共感に訴える必要があると考えたかを、われわれは理解する必要がある。


 現在支配的な(広く受け入れられているというわけではないが)実証主義的で経験主義的な考え方によれば、感覚に与えられているもの(=感覚与件(sense datum))が世界を研究するための根本的な基盤を構成する。しかし、現象学的な観点から見ると、われわれが美的な対象と知覚的に遭遇して、それらを美しいものとして評価すること — たとえば、美しい夕日に見惚れること — は、ある対象を赤いものとしてとか四角形として知覚するのと同じくらい直接的な経験であるように見える。現象学的には直接的に見えるこの経験を、共感の心理学的メカニズムに訴えることにより、哲学者は、対象の美的評価を説明的に捉えようとした。もっと具体的に言うと、リップスにとって、外的な対象に共感的に遭遇することによって、身体の動きを伴うさまざまな活動に携わるときに私がもつのと同じような経験を生み出す内的「プロセス」が引き起こされる。私の注意力は外的対象に知覚的に集中しているので、私はその経験を対象の内にあるかのように経験する -—または、私は自動的に自分の経験を対象に投影する。それらの経験が何らかの仕方でポジティヴに、ある意味で生を肯定するものであると評価されるとき、私はその対象を美しいものとして、そうでなければ醜いものとして知覚する。前者の場合、リップスはポジティブな共感について語る。後者の場合、リップスはネガティヴな共感について語る。(夕日に感銘を受ける例でいえば)われわれは知覚された対象にある「活力」や「生命のポテンシャル」に感銘を受けるのだから、リップスは、美の経験を「対象化された自己享受(objectified self-enjoyment)」とも特徴づけている(Lipps 1906、1903 a、b。美学における共感の現代的な議論については、以下を参照。Breithaupt 2009、Coplan and Goldie 2011(Part II)、Curtis&Koch 2009、Keen 2007。共感概念の最近の歴史については、Lanzoni 2018を参照)。

 リップスは、その著書『美学』において、われわれの美的知覚と、身体を備えた他者を心をもつ存在として知覚することを、密接に関連づけている。美的共感の本性はつねに「他の人間を経験すること」である(1905、49)。われわれが他の対象を美しいと評価するのは、共感が、その対象を他者の身体と類比的に見るようにさせるからである。同様に、われわれが別の生物を心をもつ生物として認識するのも共感の故なのである。この文脈での共感とは、より具体的には、「内面における模倣」の現象として理解されるのであって、そこで、私の心は、他者の身体的活動や顔の表情の観察に基づいて、他者の心的活動や経験を映し出している。共感は、最終的には、運動模倣の生まれつきの傾向性に基づいているのであって、この事実は、心理学の文献では定説になっているし、アダム・スミス(1853)がすでに認識していた。そのような傾向はつねに外的に顕在化するわけではないが、観察されたターゲットによって感じられるのと同じような運動感覚を観察者のうちに引き起こす内的な傾向としてつねに存在しているとリップスは主張する。他人の怒った顔を見ると、われわれは、本能的に、それを模倣し、その怒りを同じように「模倣」しようとする。われわれはそのような傾向に気づいていないので、人の顔に怒りを見るだけのように思われる(Lipps 1907)。リップスが共感について真っ先に挙げる例は、身体的な身振りや顔の表情に表出された情動の認識に集中しているという事実にもかかわらず、共感についての彼の考え方は、そのような場合に限定されるものと理解すべきではない。知的な共感についての彼の発言が示唆しているように(1903b / 05)、リップスは、心的活動のすべてを - それが人間的な努力を必要とする活動であるかぎりにおいて —、共感あるいは内的模倣に基づいたものとして見なしているのである(Stueber 2006の序章を参照)。




」(つづく)。







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