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悪の概念  その3 

 「悪の概念」の三回目。
 
 第二章全体を紹介する。「悪(evil)」という概念について、アウグスティヌスに由来する考え方、カントの考え方、アレントの問題提起が簡潔に述べられている。この問題が今後科学的にどう精緻に展開されていくとしても、「悪」の問題の核心部分は、やはり、ここにあるように思えるのだが。



The Concept of Evil
First published Tue Nov 26, 2013; substantive revision Tue Aug 21, 2018
by Todd Calder 

https://plato.stanford.edu/entries/concept-evil/#Mir







    2.悪の理論の歴史


第二次世界大戦前には、狭義の悪の概念については、ごくわずかの哲学的な文献しかなかった。しかし、広義の悪の本性と起源については、哲学者は古代から考察してきた。この項目は主に狭義の悪に関わっているが、広義の悪についての理論の歴史を概観しておくことは有用である。なぜなら、それらの理論は、狭義の悪についての理論がそこから展開してきた背景を提供してくれるからである。



2.1 悪についての二元論的理論と欠如理論


悪の理論の歴史は、悪の問題を解決しようとする試み、すなわち、(広い意味での)悪の存在を全知・全能で最善の神あるいは創造主と和解させる試みから始まった。哲学者と神学者は、悪の問題を解決するには悪の本性を理解することが重要であると認識した。ネオ・プラトニストのプロティノスが言ったように、「悪がどこから存在者のうちに、あるいはむしろ存在者のある種の秩序に入り込むのかを探る者は、まず第一に、まさしく悪が何であるかを明確にするならば、最良の始まりをすることになるだろう」(Plotinus, Enneads, I, 8, 1)。


悪の問題に対する解決策を提供する一つの悪の理論は、マニ教の二元論である。マニ教の二元論によると、宇宙は、神と闇の王子という二つの等しく共に永遠の第一原理の間でなされる絶え間ない戦いの産物なのである。これらの最初の原理から、支配権を求めてつねに闘っている善・悪の実体が生ずる。この宇宙的な闘いのうち、物質的世界は、悪の力が善の力を物質に閉じ込めた段階なのである。たとえば、人間の身体は悪であるが、人間の魂は善である。魂は、マニ教の教えを守ることで身体から解放されなければならない。悪の問題に対するマニ教の解決策は、神は全能でもないし、世界の唯一の創造者でもない、ということである。神は最高に善なるものであり、良いものだけを創造するが、闇の王子様が悪を創造するのを防ぐ力はない。(マニ教については、Coyel 2009および Lieu 1985を参照)。


 マニ教の二元論は、その誕生以来、その途轍もない宇宙論に対する経験的な拠り所をほとんど提供していないとして批判されてきた。第二の問題は、有神論者にしてみれば、神が全能で唯一の創造者ではないことは受け入れ難い、ということである。これらの理由から、最初はマニ教の悪の理論を受け入れていた聖アウグスティヌスのような、影響力のある中世の哲学者は、マニ教を拒絶してネオ・プラトン主義のアプローチを受け入れた。(See Augustine, Confessions; On the Morals of the Manichaeans; Reply to Manichaeus; Burt, Augustine’s World)


 ネオ・プラトニストによると、悪は実体あるいは属性としてではなく、実体、形相、善性の欠如として存在する(Plotinus, Enneads, I, 8; See also O’Brien 1996)。たとえば、病気という悪は健康の欠如にあり、罪という悪は徳の欠如にある。悪のネオ・プラトン主義の理論が悪の問題に対する解決策を提供すると言えるのは、悪が実体・形相・善性の欠如​​であるならば、神は悪を創造しないことになるからである。神が創造したものはすべて善であり、悪は存在と善性の欠如なのである。


 悪の問題に対する欠如理論の解決策の問題点の一つは、それが悪の問題に対する部分的な解決策しか提供していないという点にある。なぜなら、神が悪を創造したわけではないとしても、われわれはなぜ神が欠如的な悪が存在することを許したのかを説明しなければならないからである(See Calder 2007a; Kane 1980)。さらに重大な問題は、欠如理論は、ある種の典型的な悪を説明できないように思われるので、悪の理論としては失敗しているように思われることである。たとえば、苦痛という悪は喜びや何か別の感情の欠如と同一視することはできないように思われる。苦痛は明確な現象学的経験であり、単に善ではないだけでなく、積極的な意味で悪いものである。同様に、サディスティックな拷問者は、善でないだけではない。単に優しさや思いやりに欠けているというだけではない。快楽のために、犠牲者が苦しむのを望んでいるのである。これらは、拷問者が欠いている特質ではなく、持っている特質であって、だから拷問者は、善性をたんに欠いているだけではなく、積極的な意味で悪いのである(Calder 2007a; Kane 1980. See Anglin and Goetz 1982 and Grant 2015 for replies to these objections).



  2.2 カントの悪の理論


 イマヌエル・カントは、「たんなる理性の限界内における宗教」において、純粋に世俗的な悪の理論、つまり、超自然的な存在や神的な存在に言及することなく、悪の問題への答えとして展開されただけでもない理論を提供した最初の哲学者である。カントの関心は、人間の本性について明らかに対立しあう三つの真実、つまり、(1)我々は根源的に自由である、(2)われわれは生まれつき善に向かう傾向をもつ、(3)われわれは生まれつき悪に向かう傾向をもつ、という三つの真実を理解することであった。


 悪と道徳に関するカントの考えは、ハンナ・アレント、クラウディア・カード、リチャード・バーンスタインなどの悪の本性についての論文を書いたその後の哲学者に重要な影響を与えた。しかし、ほとんどの理論家が認めていることだが、カントの理論は、道徳的に最悪の行動や性格だけを選んでいるというわけではないので、狭義の悪についての理論としては残念なものにとどまっている(See, e.g., Card 2010, 37)。その代わりに、カントは悪を、完全に善ではない意志をもつことと同一視している。


 カントによると、道徳的に正しいがゆえに、道徳的に正しい行為をあえてする場合にかぎり、われわれは道徳的に善なる意志をもつ(Kant 1785, 4: 393–4:397; Kant 1793, Bk I)。カントの見解に立てば、道徳的に善なる意志をもっていない人は皆、悪の意志をもっていることになる。悪の三つの度合いがあって、そのそれぞれが、意志の腐敗のより悪の度合いが強くなる段階として見ることができる。最初に来るのが薄弱さである。意志薄弱な人は、道徳的に正しいからという理由で、道徳的に正しい行為をなそうと努めるが、意志が弱いためにその目論見をやり切ることが出来ない。意志の弱さのために、結局は間違ったことをしてしまうのである(Kant 1793, Bk I, 24–25)。


 腐敗の次の段階は不純さである。不純な意志をもつ人は、道徳的に正しいからという理由で、道徳的に正しい行為をなそうと試みることはしない。代わりに、その人が道徳的に正しい行為をなすのは、一部では、その行為が道徳的に正しいからだが、また一部には、何か別の誘因、たとえば、私利私欲のためである。不純な意志をもつ人も、道徳的に正しい行為をなすが、それが正しい理由からであるのはごく部分的である。カントは、意志のこの種の欠陥は意志薄弱よりも悪いと考える。たとえ、薄弱な人が不正な行いをして、不純な人が正しい行いをしていても、そうなのである。意志の不純は意志の虚弱よりも悪い。なぜなら、不純な人間は、道徳法則以外の誘因(インセンティヴ)が自分の行為を導くことを許可しているのに対して、意志薄弱な人間は、正しい理由で正しいことをしようと努めはするが、失敗するからである(Kant 1793、Bk I、25–26 )。


 腐敗の最終段階は倒錯または凶悪さである。倒錯的な意志をもつ人は、誘因の本来の順序を逆にする。他のすべての誘因よりも道徳法則を優先する代わりに、その人は、道徳法則よりも自己愛を優先する。だから、その人の行為が道徳法則に従うのは、それがその人の利益になる場合に限られる。倒錯的な意志をもつ人が、自分の利益をもっとも促進する行為が道徳法則に従っているという理由から、間違ったことは何もしないということはあるだろう。しかし、道徳的に正しい行為をする理由は自己愛であり、これらの行為が道徳的に正しいからという理由ではないのだから、その人の行為は何ら道徳的な価値をもたないし、カントによれば、その人の意志は、人間にとって可能なかぎり最悪の悪の形を示すことになる。カントは、倒錯的な意志をもつ人を邪悪な人と見なしている(Kant 1793, Bk I, 25)。

  現代の理論家のほとんどは、最悪の形態の悪は道徳法則よりも自己利益を優先することを伴うというカントの見解を拒絶する(See, e.g., Card 2010, 37 and 2002; Garrard 2002; Kekes 2005)。人間なりその意志なりが悪であるかどうか、そしてどの程度悪であるのかは、その人が道徳法則よりも自己利益を優先するかどうかだけでなく、その人の動機と、その人がもたらす危害の中身によるだろう。たとえば、サディスティックな快楽のために誰かを拷問にかけることは、良い評判を得るために真実を語ることよりもはるかに悪いように見える。実際、最初の行為(サディスティックな拷問)は邪悪な意志を示しているが、二番目の行為(自己利益のために真実を語る)は道徳的善良さをたんに欠いている意志を示している、と想定するのは合理的であるように見えるからである。しかし、カントにとっては、両者の行為は、ともに等しく邪悪な意志を示しているのである(この批判を問題にする試みとしては、以下を参照。 Garcia 2002, Goldberg 2017, and Timmons 2017)。

 カントは、「たんなる理性の限界内における宗教」において悪の本性について論争を巻き起こすようなさらに別の主張をいくつかしている。その主張の一つに、人間の本性には根源的な悪があるということがある。これにより彼が言いたいことは、すべての人間は道徳法則を自己利益に従属させる傾向があり、この傾向は根源的である、つまり、それは、根絶できないという意味で、人間の本性に根ざしたものであるというのである。カントはまた、この傾向のゆえにわれわれは悪の存在と見なしうると考える(Kant 1793, Bk I)。リチャード・バーンスタインによると、根源的にわれわれの内にあって取り除くことのできない傾向にわれわれは責任をもつことはできないのだから、カントはこれらの主張の両方を首尾一貫して保持することはできない(Bernstein 2002、11–35)。この重要な批判にもかかわらず、哲学者の中には、根源悪に関するカントの思考は悪の本性への重要な洞察を提供していると主張する者もいる。たとえば、ポール・フォルモサは、カントの根源悪についての考察のおかげで、最良の人間でさえも悪に逆戻りしてしまうことがありうること、だから、われわれの本性の根源悪にたえず警戒していなければならないことに、われわれは注意を払うようになった、と主張している (Formosa 2007. See also, Bernstein 2002 and Goldberg 2017)。


 
 『告白』においてアウグスティヌスは、ある日、何か不正なことをしたいという目的のために、梨を何個か盗んだことがあると述べている (Augustine, Confessions, II, v-x)。カントは、人間にはこのような動機づけがありうるという考え方を拒絶する(Kant 1793, Bk I, sect. 2)。カントにとって、人間は、つねに道徳法則か自己愛かのどちらかを、行為の誘因としてもつ。不正だからという理由で、不正なことができるのは悪魔だけである。(カントと悪魔的な悪については、以下を参照。Bernstein 2002, 36–42; Card 2010 and 2016, 36–61; Allison 2001, 86–100; and Timmons 2017, 319–327)。



  2.3  アレントの悪の分析


  狭義の悪の概念についての世俗的分析は、20世紀に入って、ハンナ・アレントの著作とともに始まった。悪の本性に関するアレントの考え方は、ナチスの死の収容所の恐怖を理解し評価しようとする試みに由来する。『全体主義の起源』(1951)において、アレントは、カントの「根源悪」を借用して、ホロコーストの悪を記述した。しかし、アレントがそれで言いたかったことは、カントが「根源悪」によって言いたかったことではない。代わりに、アレントは、他の道徳的概念では捉えられない新たな不正行為を指し示すために、この語を使った。アレントにとって、根源悪とは、人間を人間として不要なものにすることを含んでいる。このことは、人間が自発性や自由を欠いた生きた死体にされるときに達成される。アレントによると、根源悪の際立った特徴は、それが自己利益などの人間的に理解できる動機のためではなく、たんに、全体主義的支配とすべてが可能であるという観念を強化するためになされた、ということである(Arendt 1951、437–459; Bernstein 2002、 203–224)。

 『全体主義の起源』における悪についてのアレントの分析は、全体主義的政治体制のシステムに由来する悪に焦点を当てていた。彼女の分析は、悪の実行に加担する個々人の性格や罪を扱ったわけではなかった。個人が悪のために裁かれることにアレントが注意を向けたのは『エルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについての報告』においてであった。分析の対象はアドルフ・アイヒマンで、アイヒマンはユダヤ人の国外追放とナチスの強制・絶滅収容所への輸送業務を仕切った容疑でエルサレムで裁判にかけられた。アレントは、『ニューヨーカー』誌にアイヒマン裁判についてのリポートをするために、1961年にエルサレムに出向いた。『エルサレムのアイヒマン』で彼女は、アイヒマンのような「デスク殺人者(desk murderer:デスク・ワークとして殺人に加担する人の意)」は、悪魔的または化け物じみた動機によって動機づけられていなかったと主張する。その代わりに、「アイヒマンを当時の最大の犯罪者の一人となるように決定づけたのは、まったく何も考えないこと(sheer thoughtlessness)—— それは決して愚かさ(stupidity)と同じことではない —— であった」(Arendt 1963、287–288)。アレントによると、アイヒマンの動機や性格は、怪物的というよりも陳腐なものであった。彼女は彼を、自分が何をしているかを特に深く考えないだけの「恐ろしいほど普通の」人間であると記述した。


 アレントのアイヒマンについての考察や、悪の陳腐さというアレントの概念は、影響力があったしかつ論争を巻き起こしてきた(アレントの考えが今日特に重要になっていると考える理論家については、Bar On 2012 and Bernstein 2008を参照。論争について論じたものとしては、Young-Bruehl 1982) 。悪の陳腐さというアレントのテーゼを、説明されるべき前提として見なす理論家もいる。たとえば、社会心理学者のスタンリー・ミルグラム(1974)とフィリップ・ジンバルド(2007)は、社会的条件次第で、普通の人でも邪悪な行為に走るようになる経緯を説明しようと試みた。普通の人間が悪の通常の発生源になりうるというアレントの提案に異議を唱えた者もいる(Card 2010; Calder 2003 and 2009)。



」(つづく)




(3章以下で現代のアメリカの哲学者の議論が続くのであるが、都合により(別のトピックスを優先せざるをえないという事情があるため)、ここで一旦打ち切ることにしたい)。





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