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悪の概念  その2

 「悪の概念」の二回目。
 
 第一章全体を紹介する。「悪(evil)」という概念なんて要らないじゃないかという人が一方にいるのに対して、その概念がどうしても必要であると説くのが第一章の目的である。総じて読みやすく議論が進んでいく。



The Concept of Evil
First published Tue Nov 26, 2013; substantive revision Tue Aug 21, 2018
by Todd Calder 

https://plato.stanford.edu/entries/concept-evil/#Mir




「  1.悪に対する懐疑論と再興論

 悪に対する懐疑論者は、悪の概念を捨て去るべきだと考える。この見解に立てば、「悪さ(badness)」や「不正行為(wrongdoing)」といった平凡な道徳的概念を使えば、道徳的に卑劣な行為や性格や出来事を、もっと正確で、そしてもっと害のない形で理解し記述できる。対照的に、悪を再興したいと考える論者は、悪の概念は私たちの道徳的および政治的思考や言説のなかに確たる位置を占めていると考える。この見解にたてば、悪の概念は放棄されるのではなく、再興されるべきなのである(Russell 2006 and 2007)。

 道徳的な言説など完全に廃棄すべきだと考える人は、道徳懐疑論者とか道徳に関するニヒリストと呼ぶことができる。悪に対する懐疑論はそれほど幅広いわけではない。悪に対する懐疑論者は、悪の概念は特に問題があって放棄すべきだが、正・不正や善・悪などの道徳的概念は維持するに値すると考える。

 悪に対する懐疑論者は、悪の概念を放棄する3つの大きな理由を提供する。(1)悪の概念を認めると、怪しげな霊や、超自然的なものや、悪魔も認めなければならず、これは無用な形而上学的コミットメントというものである。(2)悪の概念は、説明的力を欠いているので、役に立たない。(3)悪の概念は、道徳的、政治的、法的文脈で使用されるとき有害だったり危険になることがあるので、それらの文脈では使用されるべきではない。


1.1 悪と超自然的なもの


 悪の概念は、しばしば、虚構的な文脈や宗教的な文脈では特に、超自然的な力や生き物に関連づけられる。吸血鬼、魔女、狼男などの虚構の怪物たちが、悪の典型と考えられている。これらの生き物は、科学的説明を受け付けない、そしておそらく人間の理解も受け付けないような力と能力をもっている。多くの大衆的なホラー映画は、悪を、暗黒の力や悪魔による憑依の結果として描く。「悪」という語が宗教的文脈で使用されるときも、超自然的な力や生き物に対する似たような言及が見出される。悪に対する懐疑論者の中には、悪の概念は必然的に超自然的な霊や暗黒の力や生き物を指示していると考える人もいる。これらの理論家によると、こうした霊や力や化け物が存在していると考えていないのであれば、虚構的な文脈でのみ「悪」という語を使用すべきだ、ということになる (Clendinnen 1999, 79–113; Cole 2006)。

 悪を再興したいと考えている論者は、悪の概念は超自然的な霊や暗黒の力や化け物に言及する必要はないと答える。虚構的または宗教的な考え方とは異なる世俗的な悪の概念というものがあって、「悪」という語が道徳的および政治的文脈で使用されるときにもっともしばしば意図されているのは、この世俗的な悪の概念の方なのである(Garrard 2002, 325; Card 2010, 10–17)。悪を再興しようと考える論者は、超自然的な霊や暗黒の力や化け物には言及せず、「悪」という語の世俗的な使用を充分に捉えるきちんとした悪の分析を提供しようとする。悪の再興論者は、超自然的なものに言及しない悪のきちんとした分析を提供できるならば、悪をもち出すのは必然的に無用の形而上学的なコミットメントを含むとする異議から、首尾よく悪の概念を擁護したことになるだろうと、考えるのである(悪についての世俗的説明については、3節と4節を参照されたい)。



 1.2 悪と説明の力



 悪に対する懐疑論者の中には、悪の概念は説明の力を欠いていて、したがって無用な概念であるため、悪の概念は放棄されるべきだと主張する者もいる(Clendinnen 1999, 79–113; Cole 2006))。悪の概念が説明の力をもつ、あるいは説明として有益であるのは、それが、なぜある種の行為がなされたかを説明できる、または、なぜそれらの行為が別の行為主体によってではなくある種の行為主体によってなされたかを説明できる場合であろう。インガ・クレンディーネンやフィリップ・コールなどの悪に対する懐疑論者は、悪の概念はこの種の説明を提供できないため、放棄されるべきだと主張している。


 クレンディーネンによると、悪の概念は、本質的に切り捨てる分類をする概念であるから、ある行為がなぜなされたかを説明することができないのだ、という。ある人、、またはある行為が悪であると言うことは、たんに、その人またはその行為が説明を受けつけないということ、あるいは、理解不可能だと言うことなのであると(Clendinnen 1999, 81; see also, Pocock 1985)。ジョエル・ファインバークもまた、邪悪な行為は本質的に理解不可能であると考えている(Joel Feinberg (2003) )。しかし彼は、この理由で悪の概念を放棄すべきだとは考えていない。

 同様に、コールも、なぜある行為がなされたのかに対する完全な説明をわれわれが欠いているときに、悪の概念がしばしば使われるのだと考える。たとえば、似たような遺伝的特質と養育環境をもつ別の10歳の男の子たちはほとんど危害を加えるようなことはしないのに、10歳の少年のロバート・トンプソンとジョン・ヴェネラブルズの2人が、2歳のジェームズ・バルガーを拷問したうえに殺害したのはなぜなのか、と私たちは考えてしまう。コールは、このようなケースでは、欠けている説明を提供するために悪の概念が用いられるのだと考える。しかし、コールによれば、悪の概念は真の説明を提供しない。なぜなら、ある行為が悪だと言うことは、その行為が超自然的な力に起因するか、その行為が謎であると言っているにすぎないからである。ある出来事が超自然的な力から生じたと言うことは、そんな力は存在しないのだから、その出来事についての真の説明を与えることではない。ある出来事が謎だと言うことは、その出来事についての真の説明を与えることではなく、むしろ、その出来事は説明できないということを示唆することである(少なくとも、現在入手可能な情報をもってしては、説明できない)(2006、6-9)。

 悪の再興論者は、悪の概念は説明的に無用なので放棄されるべきであるという異論に対していくつかの回答を提供してきた。よくある回答の一つは、悪の概念は説明的に有用ではないとしても、記述や規範を定めるという目的のために維持する価値がある、というものである(Garrard 2002、323–325; Russell 2009、268–269)。

 別のありがちな回答は、悪(evil)は善・悪(good,bad)や正・不正などの他の道徳的概念と同様に説明的に有用であると主張することである(Garrard 2002、322–326; Russell 2009、268–269)。悪の概念を放棄すべきであるならば、別のこうした道徳的な概念も放棄すべきである、というわけである。


 イヴ・ガラードとルーク・ラッセルはまた、悪の概念は、ある行為がなぜなされたについての完全な説明を提供できないとしても、部分的な説明ならば提供できると指摘している。たとえば、ガラードは、邪悪な行為は特定の種類の動機から生じると主張している。これをE-動機と呼ぼう。ある行為が悪であると言うことは、それがE-動機から生じたと言うことである。これが、ある行為がなされたのはなぜかについての部分的な説明を提供する、というのである。



 1.3 「悪」の危険


悪に対する懐疑論者の中には、悪の概念は有害すぎるあるいは危険すぎるので使えないという理由で、悪の概念は放棄しなければならないと考える人がいる(Cole 2006,21; Held 2001,107)。「悪」という語が誤用されたり、有害な形で使用されたり、複雑な歴史的・政治的背景に対する感度をもたないままに使用されると、有害または危険になりうるということは誰も否定できない。たとえば、テロリストたちを「悪人」と呼び、イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼ぶことで、前米国大統領ジョージ・W・ブッシュは、テロ容疑者が虐待される可能性を高め、イラク、イラン、北朝鮮の国民や政府とアメリカの国民や政府の間に平和的な関係が成り立つ可能性を低くした。

 しかし、悪の概念は、誤用されたり悪用されたりすると危害をもたらすという理由で、放棄されるべきなのだろうか? クラウディア・カードは、「ある概念のイデオロギー的濫用の見込みがあることがその概念を放棄する十分な理由となるのであれば、おそらく規範的概念はすべて放棄すべきであることになろうし、「正」・「不正」などは確実に放棄すべきことになる」と主張する(Card 2010、15)。しかし懐疑論者であっても、すべての規範的概念を放棄すべきだとは考えていない。であるならば、なぜ彼らは、悪の概念は放棄するべきだと考えるのであろうか?


 悪の概念は特に危険であり誤用されやすいので、悪の概念は放棄すべきだが、それ以外の規範的な概念は放棄すべきではない、と答える懐疑論者がいるかもしれない。悪(evil)の帰属は、不良さ(badness)悪行(wrongdoing)のような他の規範的概念の帰属よりも有害または危険であると考えられるいくつかの理由を見きわめることが出来る。第一に、悪の帰属は最大級の道徳的非難であるのだから、「悪」という語が誤用されるとき、私たちは不相応なまでに誰かをとくに厳しい判断に晒すことになる。さらに、悪人は最大級の道徳的非難だけでなく、最大級の罰にも値すると想定することは合理的である。すると、不当に告発された悪人は、厳しい判断に不相応なまでに晒されるだけでなく、不相応なまでに過酷な処罰を受けることもあります。


 悪の帰属が特に有害または危険になりうるもう一つの理由は、「悪」という語を使用するときに人々が何を意味しているのかが必ずしも明確ではないということである。イヴ・ギャレットが言うように、「この語は概して曖昧さに取りかこまれているので、悪という観念に訴えることをためらう思想家もいる」(Garrard 2002、322)。たとえば、誰かが邪悪な行為をしたと言うことは、その人が悪意からその行為をしたことを含意すると考える人もいるが(Kekes 2005)、悪の行為は多くの異なった動機から生じる、善良な動機から生じることさえある、と考える者もいる (Card 2002)。このような曖昧さがあるために、悪の帰属が悪の行為者に卑劣な心理的属性を帰しているのかどうかがハッキリしないこともあり、この曖昧さが過度に厳しい判断につながることもありうる。

 
 「悪」という語の意味に関する別の曖昧さが、さらにずっと有害になることがある。たとえば、悪についてのある種の考え方に立てば、悪の行為者は取りつかれており、非人道的で、矯正し難く、固定した性格特性をもっている(Cole 2006,1–21; Russell 2006,2010,2014; Haybron 2002a,2002b)。悪の行為者に関するこれらの形而上学的および心理学的なテーゼは議論の余地がある。「悪」という語を使用する人の多くは、悪人が取りつかれており、非人道的で、矯正し難く、固定した性格特性をもっているなどということを言いたいわけではない。しかし、そう考えるな人もいるのである。悪の行為者がこれらの特性をもっていて、われわれが何をしようと邪悪な行為をし続けるならば、唯一の適切な対応は、彼らを社会から隔離するか、処罰することである。しかし、悪の行為者がこれらの固定的な傾向性を持っていないのに、あたかも持っているかのように扱われるならば、それは虐待ということになるだろう。
 

 したがって、ほとんどの理論家は、悪の概念が有害または危険となりうることに同意しているが、この事実からどのような結論を引き出すべきかについてはかなりの意見の相違がある。悪に対する懐疑論者は、悪の概念は有害または危険であるため、それを放棄して、不良さ(badness)や不正行為(wrongdoing)などのそれほど危険ではない概念を採用すべきだと考える。悪の再興論者は、悪の概念は有害または危険であるため、曖昧さを解消したり、乱用や誤用の可能性を減らすために、より哲学的な作業を行う必要があると考える。カードやキーキスは、悪を理解しようとするよりも悪を無視する方が危険だと主張する(Card 2002 and 2010; Kekes 1990)。悪を理解しなければ、その源泉を根絶する態勢は不十分となるだろうし、将来悪が発生するのを防ぐこともできなくなるだろうからである。


1.3.1 悪に対するニーチェの攻撃


 悪に対する懐疑論者で最も有名ななのは19世紀のドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェであるが、彼も、悪の概念は危険だから放棄すべきだと主張する。しかし、悪の概念は危険だと考える彼の理由は、上で議論された理由とは異なっている。悪の概念は危険だとニーチェが考えるのは、それが、精神的な弱者を促し強者を抑えつけることによって、人間の可能性と生命力にネガティヴな影響を及ぼすためであった。『道徳の系譜』において、ニーチェは、悪の概念が羨望、憎悪、ルサンチマンといったネガティヴな感情から生じたと主張している(彼は、これらの要素を結合した態度を捉えるために、ルサンチマンというフランス語を使っている)。ニーチェは、無力で弱い者たちが、彼らを抑圧する者に復讐するために悪の概念を創造した、と主張する。ニーチェの考えによると、善悪の概念は、創造的な自己表現や偉業よりも苦しみの方が価値があると判断する不健康な人生観に寄与するものである。このため、ニーチェは、善悪の判断を超えていくように努めるべきだと考える(Nietzsche 1886 and 1887)。


 悪の概念に対するニーチェの懐疑的な攻撃に促されて、哲学者たちは、悪の本性と道徳的意義を無視して、それに代わって、「悪」という語を使用する動機に焦点を当てるようになった(Card 2002, 28)。


 その著作(Atrocity Paradigm)において、クラウディア・カードは、悪の概念をニーチェの懐疑的な攻撃から擁護している(Card 2002, 27–49)。カードは、悪を(誰かに)帰属させることは敵を悪魔と見なし、人生を否定するネガティヴな人生観を示すものだというニーチェの見解を拒絶する。代わりに、彼女は、悪の判断は、しばしば、自分が不当に扱われてきたという健全な認識を示していると主張する。イヴ・ギャラードとデビッド・マクノートンは、ニーチェの悪に対する懐疑論の拒絶をさらに進めて、凶悪犯罪の犠牲者による悪の帰属を疑問視することは道徳的に疑わしいと主張する(Garrard and McNaughton 2012, 11–14)。

 カードの主張によると、悪の概念を使う人々の動機を問う理由があるのと同じくらい、悪の概念を捨てるべきだと考える人々の動機を問う理由がある。悪の概念を放棄したいと考える人は、悪を理解し防止するという課題に手いっぱいであるが、むしろ、この語を使用する人の動機を問うというそれほど困難ではない課題に目を向けろと彼女は述べている(Card 2002、29)。


 1.4 悪の概念を擁護する論拠


 ある人々は、悪の概念だけが、サディスティックな拷問、連続殺人犯、ヒトラー、ホロコーストなどの行為・性格・出来事の道徳的意義を捉えることができるため、悪の概念は放棄すべきではないと考える。ダニエル・ヘイブロンが言うように、「「間違っている(wrong)」や「悪い(bad)」の前に好きなだけ多くの「非常に(very)」を付けてみても、まだ言い足りない場合がある。「悪(邪悪な)(evil)」という語だけでしか言えない場合がある」(Haybron 2002b、260)。この論証によれば、悪が存在することを否定するのは難しい。悪が存在するならば、この極端な不道徳を捉える概念が必要となる。イヴ・ギャラードとデビッド・マクノートンも同様に、悪の概念が道徳的現象の明確な一部分を捉えていると主張している。悪という語は、「私たちが道徳的恐怖心という反応しか持てないような不正行為を集約しているのである」(Garrard and McNaughton 2012, 13–17)。


 悪の概念を擁護する第二の論証は、悪に直面することによってのみ、つまり、その本性と起源を明らかにすることによってのみ、将来の悪の発生を防ぎ、良い生活を送ることができるようになる、ということである(Kekes 1990、Card 2010 )。


 悪の概念を維持する三番目の理由は、行為や慣習を悪として分類するならば、限られたエネルギーと資源を一点に集中できるようになる、ということである。悪が道徳上の最悪の不正であるならば、不当な不平等などの他の不正の削減よりも、悪の削減を優先すべきである。たとえば、カードは、女性と男性に対して等しい労働に対して等しい賃金が支払われることを確実にするよりも、家庭内暴力の悪を防ぐことの方が重要であると考えている(Card 2002, 96–117)。







 」(つづく)


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