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Arendt on Descartes

2009年6月26日
アレント on デカルト
ハンナ・アレント:『精神の生活 第一部 思考』P.56-60

  …デカルトは、人間の認識および知覚の器官に対するきわめて近代的な懐疑によって、レス・コギタンス(res cogitans、思考するもの)の性質として、古代人にまったく未知のものではなかったが、デカルトの時代になって初めて卓越した重要性を持つようになったいくつかの特徴を、彼以前の誰よりも明確に定義した。なかでもきわたっているのは自己充足、すなわち、この自我は「場所も必要としないし、なんらかの物体的なものにも依存しない」ということであった。第二に挙げられるのは、世界欠如、すなわち、自己洞察において、「私の状態を注意して吟味しながら」(examinant avec  attention ce que j’etais)、容易に「自分は肉体を持っておらず、自分がかつていた世界も場所もなかったかのように仮想する (feindre que je n’avais aucun corps et qu'il n'y avait aucun monde ni  aucun lieu ou je fusse)ことができるということであった。

 たしかにこういう発見の、いや、再発見のどれも、それ自体は、デカルトにとって大きな重要性を持ったものではなかった。彼が主に関心を寄せていたのは、疑いの余地なく、感覚知覚の錯覚を受け付けないような現実性をもったもの―ー思考する自我、彼の用語でいえば、la chose pensante{思考するもの〕――を見いだすことであった。全能の“欺く神”(Dieu  trompeur)の力をもってしても、すべての感覚経験から退きこもってしまった意識の持つ確実性を打ち砕くことはできないだろう、ということである。与えられたものはどれも幻想や夢であるかもしれないが、夢を見る人そのものは、夢の現実性を求めないことに同意するだけでも、現実に存在してなければならない。したがって、「私は考える、だから私は存在する」(Je pense.donc ie suis)°。一方では、思考する活動そのもの経験は大変に強烈なものであるし、他方で、新しい科学が「動く土」(la terre mouvante' 我々が立っているその場の流砂)を発見した後にも、確実性と持続する永続性を見いだそうという欲求は激しいものである。だから、デカルトにとっては、″思考作用″(cogitatio)や活動する自我の意識が、意識対象の現実性についての信念をすべて停止してしまい、もし実際に砂漠で生まれて身体もなければ「物質」もなく仲間もいなくて、自分が見たものは仲間も見ているとはっきり仲間が言ってくれるということがなかったならば、自分自身の現実性を自分に対して説得することも出来なかっただろう、などとは思いもよらないことであった。デカルトのレス・コギタンス〔思考するもの〕というこの仮構物は、身体も感覚もなくて孤独なものであるから、現実性というものがあるということ、また、現実のものと非現実のものとの区別や、覚醒した生活の共通な世界と夢の私的な非世界との区別がありうることを、知ることさえできないだろう。

・・・世界および自分自身が現実に存在していることに疑念を抱くようになるのはまさしく思考の活動――思考する自我の経験――なのである。思考の働きは、どのような現実的なものであっても、すなわち、事件であれ対象であれ、自分の思想であれ、それらをつかまえて捉えることはできる。しかし、それらが現実的であるということ{realness}だけは、どうしても思考の手が届かない唯一の一つの性質である。″ 私は考える、だから私は存在する″(cogito、ergo sum)が間違いであるのは、ニーチェが言ったように、″私は考える″(cogito)ということからはただ″思考作用″(cogitations)が実際に存在することが推論されるだけだ、という意味だけではない。″私は考える″ (cogito)は、″私は存在する″(sum)と同じ懐疑にさらされるのである。〈私は存在する〉は〈私は考える〉に前提されているからである。思考はこの前提を把握することはできるが、それを証明することも反証することもできない。(カントのデカルトヘの以下の反論もまったく正当なものである。「私は存在しない」という思考は「存在し得ない。というのは、もし私が存在しなかったら、私が存在しないということに気付くことができないということになってしまうからだ」。現実性は導出できるものではない。思考や反省は、それを受け入れるか拒絶するかしかできない。“欺く神”(Dieu trompeur)の観念から出発しているデカルトの懐疑は、洗練されヴェールを被った形での拒絶にすぎない。・・・・

現象するものはどれも〈私にはこう見える〉という仕方で知覚されるのだから、誤謬や錯覚の可能性があるのだが、現象そのものには、現実的であること{realness}をアプリオリに示すようなものがある。すべての感覚経験には、通常、はっきりとしたものではないにせよ、付随的な、現実性という感覚が伴っている。しかしながら、これは孤立化された感覚やものの脈絡からはずれた感覚対象によっては生みだされるものでない。

 私が知覚するものが現実的であるということは、一方では、私と同じように知覚する他人がいるこの世界と、この知覚されたものがつながっているということによって保証されるのである。もう一方では、私の五官の協働によっても保証される。トマス・アクィナス以来、共通感覚、センスス・コムニス(sensus communis)と呼ばれているものは、一種の第六官であって五官をとりまとめ、私が見たり、触れたり、味わったり、匂いを嗅ぎ、聞いたりするのが同じ対象にたいしてだということを保証するために必要なのである。それは「五官の対象すべてに拡がっていく一能力である」。同じ感官でありながら、身体器官としては場所を特定できないから神秘的なこの「第六官」が、厳密な意味では私の私的な五官-非常に私的なものなので、その感覚作用の質や程度を他人に伝えることができないーを他人と共有できるような共通世界に合わせていくのである。〈私にはこう見える〉という主観的な性格が矯正されていくのは、現れる仕方が異なっているにしても同じ対象が他人にも現象するという事実があるからである。(人間たちが同じ種族に属するものだと確信するのは、身体的な見かけが類似しているからというよりも世界が間主観的であることによる。個々の対象は各個人に異なった様相で現れるが、現れる脈絡は種族すべてに同一である。この意味で、どの動物種も自分固有の世界に生きており、個としての動物は自分の身体的特徴を仲間のものと比較しなくても、仲間を仲間として認識するのである。)誤謬と仮象に満ちた現象の世界では、たしかに現実であると保証されるのは以下の三重の共通点があるときである。すなわち、相互にまったく異なっている五官が同じ対象を共有していること、同じ種のメンバーが、どの個物にもそれ特有の意味を与える脈絡を共有していること、そして、感覚を持った別のあらゆる存在者が、この対象をまったく異なった視点から見ても、この対象が同じであるという点について同意すること、である。この三重の共通性から現実性の感覚が生じてくる。・・・
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