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Arendt on the Two-in-One

cahier litteraire (&papers &reports)

2009年6月26日
一者の中の二者(The-two-in-one)
① ・・・二つの積極的なソクラテスの主張とは以下のようなものである。第一には、「悪事をするよりは、される方がましだ」という主張であるが、それに対して、対話の相手であるカリクレスは、いかにもギリシア人的な返答をする。「不正を受けるなどという、そういう憂き目は、人間たるものの受けることではなくて、むしろ、生きているよりは死んだほうがましな、奴隷のような者の受けるべきことである。つまり、不正を受け、辱めをこうむっても、自分で自分自身を、また自分が面倒を見てやっている他の人を、助けることのできないような者があるとすれば、誰であろうと、そのような人間の受けるにふさわしいことだからである」。第二には、[私のリュラ琴や私の指揮する合唱隊が、調子が合わないで不協和な音を出すとか、また、世の大多数の人たちが私に同意しないで反対するとしても、そのほうが、一人でいる時、私が私自身と不調和であったり、自分に矛盾したことを言うよりもまだましなのだ」というのである。これに対してカリクレスが言うには、ソクラテスは「議論で気がおかしくなっている」のであり、ソクラテスが哲学をやめてしまうなら、その方が彼自身にとっても他のみなにとってもよいことだというのである。
 そしてこの点て彼は正しい。たしかに、哲学をしているからこそ、いやむしろ思考経験をしているからこそ、ソクラテスはこういうことを口にしたのである・・・・

②   ソクラテスの第一の発言が行なわれたときにそれにどれほど逆説的な響きがあったのか、リアルにつかみとるのは難しい。数千年間にわたって使用され誤用された後では、この言葉は安っぽい道徳に見える。さらに、第二の言葉がどう迫ってくるかを現代の読者が理解するのは難しいことだが、それをもっともあざやかに示しているのはキーワードである「一人でいる」(「私にとっては、世間の多数の人と一致できないでいるよりは、自分自身と不和である方がもっと悪いだろう」の前にくる)が近代語訳ではたいてい無視されているということである。第一の発言は主観的な発言である。悪事をするよりはされるほうが、私にとってはましだ、ということである。そして対話篇のその場で対置される発言のほうも同様に主観的な発言であり、もちろん後者のほうがまっとうに聞こえる。ここで明らかになるのは、カリクレスの語っている「私」とソクラテスが語っている「私」が別物だということである。そして一方にとって良いことが、もう一方にとっては悪いことなのである。



③・・・・第二の発言もまたすさまじく逆説的である。一人でいるときに、それゆえ自分自身と不調和であるわけにはいかないのだとソクラテスは言う。しかし、AはAであるというように、本当の意味で絶対的に一つであって自己同一的なものは、そもそも自分と調和しているとか調和していないとかいうことがありえないのである。和音を作るには少なくとも二つの音がなければならない。たしかに、私が姿を現わして他人にその姿を見られるときには私は一人の人物である。そうでなかったら、私が私だとわからないから。そして、他人と一緒にいて多少とも自分を意識している場合には、私という人間は他人に見えるとおりの人間である。ここで意識(consciousness)といっているのは(語源的には、「自分自身とともに知る」ということなのだが)、自分には自分があまり姿を現わさないのに、ある意味で自分にとっての私という奇妙な事実のことなのである。これでわかるように、ソクラテス的な意味で「一人である」ということは見かけ以上に問題を孕んでいる。私という人間は他人に対しているだけでなく私自身にも対しており、この後者の場合には明らかに私はたんに一人であるわけではない。私の一人であることの中に差異が持ち込まれているのである・・・・

 註  プラトンの対話篇『ソピステス』からの引用と解説


④・・・・自分自身であると同時に自分自身に対していることができるものがあるとすれば、〈一者のなかの二者〉以外にはない(Nothing can be itself and at the same time for itself but the-two-in-one)。この〈一者のなかの二者〉をソクラテスは思考の本質としてえぐり出し、プラトンは概念的言語に翻訳して「自分の自分自身との無言の対話」と言ったのである。しかし、ここでもまた、思考活動自体は、統一性をなしているわけではないし、〈一者のなかの二者〉を統一しているのでもない。それとは逆に、〈一者のなかの二者〉が一者になるのは、外部の世界が思考する者の中に侵入して思考過程を中断させたときである。自分の名前を呼ばれて現象界に呼び戻されたときにはつねに一者であり、思考過程がその人を二つに分断していたのにまるでピシャリと両者が再び合わさったかのようになる。実存的に見れば、思考することは孤独な仕事ではあるが、孤立した仕事ではない(Thinking is a solitary but not lonely business )。孤独(solitude)とは、自分が自分を仲間にしている状況のことである。一方、孤立(loneliness)とは、自分が〈一者のなかの二者〉に分けられることもできず、自分を仲間にすることもできない状況であって、ヤスパースがよく使った表現で言えば「自分自身を失っている」(lch  bleibe mir aus)のであり、表現を変えれば、私が一者であって仲間がいない状態なのである。


⑤ 人間が本質的に複数性において存在しているということを、おそらく何よりも雄弁に物語っているのは、孤独であることが、多分、われわれが高等動物と共有している単なる「自己についての意識」を、思考活動の間、二者性(duality)へと具体化するということにある。この自分自身との二者性があるからこそ、思考が真の活動たりうるのであって、私が問うものであると同時に答えるものにもなる。・・・・・


 註  「弁証法」の元来の意味。それは「(思考における)対話術」という意味であった。アリストテレスにとってこの「対話術」の犯すこと出来ない原則は「矛盾しないこと」であった。後にカントが、「自己自身と一致して、常に首尾一貫して思考すること」を「思考する者にとっての変更できない格率」としてあげたのも同じ趣旨である。


⑥・・・・思考する自我は二者性においてのみ存在しているからである。そしてこの自我――〈私は私である〉―-が同一性の内に差異性を経験するのは、まさに、自分自身にのみ係わっている-ときなのである。ちなみに、この根源的な二者性があるのだから、アイデンティティーを求める今流行の研究が不毛であるのもわかるというものである。現代におけるアイデンティテ-の危機が解決できるとすれば、手段としてはぜったいに一人にならずに絶対に考えないようにするしかあるまい。そのような元々の分裂がなければ、どう見ても一者であるような存在における調和なるものを扱ったソクラテスの発言は無意味になってしまうだろう。




⑦  ソクララテスにとって〈一者のなかの二者〉の二者性が持っている意味は、もし思考したいのであれば対話を行なう二人がいい関係にあって、パートナー同士が友人であるように配慮せよ、ということに他ならなかった。あなたが目覚めていて一人でいる時にやって来るパートナーは、(考えないでいる場合を除けば)あなたが絶対に別れることのできない唯一のパートナーである。悪事をするよりされるほうがましであるのは、被害者の友でいられるからである。殺人者の友であること、殺人者とともに生きることを望む人がいるだろうか? 結局、カントの定言命法がねらっているのも、自分と自分自身との間の同意が重要であることを比較的単純に捉えることにある。「あなたの格率がとりもなおさず普遍的な法になることを意志できるような格率に基づいて行動せよ」という命法の根底にあるのは、「自分自身と矛盾してはならない」という命令である。殺人者や泥棒でも、当然のことながら自分の命や財産は惜しいのだから、「汝殺すなかれ」とか「汝盗むなかれ」ということが普遍的な法であることを意志しないはずがない。自分をその例外だと考えるのなら、自分自身と矛盾したことになるのだから。


⑧  真作であるかどうか論争のある『大ヒッピアス』がもしプラトンによるものでない偽作であるとしても、それがソクラテスについての真正の証言であると考えて差し支えないだろう。その中で、ソクラテスは事態を簡潔にかつ正確に述べている。対話の最後、家に帰る箇所である。頭がとりわけ鈍いヒッピアスに向かってソクラテスは言う。あわれなソクラテスに比べたらきみのほうがどれほど「無上にも幸福」であるか、と。なぜならソクラテスには家に帰ると、鼻持ちならない連れが待っていて彼を徹底的に詮索してばかりいるからである。「その人は私と血のつながりが深くて、一つ屋根の下に住んでいるのだよ」。ソクラテスがヒッピアスの意見にコメントしているのを聞きつけて、その人が今度は尋ねるだろう。「人に問いかける以上、「美」という言葉の意味を知らないのは明白であるのに、美しい人生のあり方について語るなんてはずかしくないのか」と。ヒッピアスは、帰宅したときには一人である。一人暮らしではあるにしても、自分自身とつきあおうとしないからである。たしかに、意識を失っているわけではないが、意識を現実化させる習慣がないのである。ソクラテスは、帰宅すると一人ではなく、一人でいながら彼自身とともにいる。一つ屋根の下で生活しているのだから、彼を待ち受けているこの連れとなんらかの形で同意して折り合いをつけなければならないのは明らかである。仲間と別れた後でも一緒に生きていかなければならない唯一の連れとうまくいかないくらいだったら、世界全体とうまくいかないほうがよい。



⑨  ソクラテスが発見したのは、他人とつきあうのと同じように自分とつきあうこともできるということであり、この二種類のつきあいには相互関係があるということである。アリストテレスは友情について「友は第二の自己である」と述べているが、これは、自分自身を相手にするのとまったく同じように友を相手にして思考の対話をすることができるという意味である。これは依然としてソクラテス的伝統のなかにあるが、ソクラテスだったら「自己もまた一種の友である」と言ったことだろう。この問題で道しるべとなる経験は友情であって、自分との関係ではない。私はまず他者と語り合うのであって、その後、私は自分と語り合い、話題となっていたことを吟味し、そして、他者とだけでなく自分自身とも対話をすることができるということを発見する。しかしながら、共通のポイントとしてあるのは、思考の対話が友人の間でだけ行なわれるということであり、その基本となる基準、いわば至上の法は、「自分自身と矛盾するな」ということである。
            
     

⑩  「自分自身とかみあわない」のは「いやしい人」の特徴であり、連れを避けようとするのは邪悪な人の特徴である。彼らの魂は自分に反抗している。自分の魂がそれ自身と調和せずに争っているときには、自分自身とどのような対話が可能なのであろうか。シェイクスピアにおけるリチャード三世が一人でいるときに我々が耳にする対話がまさしくそれである。
  
  なにを恐れる? おれ自身をか? 他に誰もおらぬ。
  リチャードはリチャードを愛している。つまり、おれはおれだ。
  ここに人殺しがいるか? いない。いやたしかにいる、このおれだ。
  では逃げろ。何だと。このおれから? なぜ逃げねばならぬ?
  おれが復讐しないように。何だと。おれがおれに復讐する?
  だが、ああ、おれはおれを愛している。なぜ?      
  おれがおれになにかいいことをしたからか?
  とんでもない! おれはおれを憎んでいる。
  おれがおれに憎むべきかずかずの罪を犯したから!
  おれは悪党だ。いや、おれは嘘つきだからな、おれは悪党ではない。
  馬鹿め、自分のことを褒めろ、馬鹿め、見えすいたことを言うな。


 しかし、真夜中を過ぎると様相は一変する。そしてリチャードは自分との付き合いをやめて、もとの悪党に戻るのである。

  良心(Conscience)などというものは臆病者が使うことばにすぎぬ。
  もともとは強者を恐れしめるために作られたものだ


 町のにぎわう所が大好きだったソクラテスでさえ、家に帰らなければならない。そこで彼は、一人になり孤独になって、もう一人の連れと出あわなければならないのである。



⑪   私が『大ヒッピアス』におけるきわめて簡潔な箇所に注意を喚起したのは、そこで与えられている比喩が、困難であるがゆえにつねに過度の複雑化の危険をともなっている問題を、――過度に単純化し過ぎる危険はあるもののー―単純化するのに役立つからである。ソクラテスを家で待ち受けている連れに対して、その後の歴史は「良心」という名前を与えている。カント的な言葉を使えば、良心の法廷を前に我々は出頭し、自分自身を説明しなければならない。そして私が『リチャード三世』の文章を選んだのは、シェイクスピアの語彙には「良心」という語がありながら、彼がここでその語をいつものように使っていないからである。言語において「意識(conscious-ness)」と「良心(conscience)」が分離するのには長い時間がかかった。いまでも言語によっては、たとえばフランス語のように、両者が分離されていないこともある。道徳的あるいは法的な事象において理解されるような良心は、意識とちょうど同じように、つねに我々とともにあることになっている。そしてこの良心は我々に何をなすべきか、何を後悔すべきか、教えてくれると考えられている。それは、自然の光 (lumen naturale)、カントの実践理性になる以前には、神の声だったのである。

 このようにつきまとう良心とは違って、ソクラテスが話題にしている連れは家に残されている。『リチャード三世』の殺人者が良心をー―その場にいないものとして――恐れるように、ソクラテスは連れを恐れている。この場合の良心は「再考」として登場しており、リチャード自身の場合で言えば犯罪によって引き起こされたのであり、ソクラテスの場合で言えば吟味されていない意見によって引き起こされている。リチャードによって雇われた殺人者のように、「再考」を予期して恐れることであるかもしれない。このような良心は、我々の内なる神の声や自然の光と違って、積極的な処方瀋を出したりしない。(ソクラテスのダイモンや、その神的な声は、何をしてはいけないのかを教えるだけである。)シェイクスピアの言葉でいえば、「それは人間を障害だらけにしてしまう」。人がそれを恐がるのは、帰宅するときにだけ待ち受けている証人の出現を予期できるからである。シェイクスピアにおける殺人者は言う。「うまく生きようとする人は……それなしで生きようと……努める」。そしてそれはたやすいことである。なぜなら、我々が「思考」と呼んでいる無言の孤独な対話をけっして始めず、家に帰らず、物事を吟味しなければよいからである。これは頭がよいとか悪いとかいう問題でないように、凶悪さや善良さの問題ではない。(我々が自分の発言や行動を吟味する)無言の会話を知らない人は、自分自身と矛盾しても平気なのであり、自分の発言や行動を説明することができないし、そうするつもりもない。犯罪を犯しても平気な人は、そんなことはすぐに忘れられるだろうと決め込むだろう。悪人は「後悔の念」で一杯になるとアリストテレスは言っていたが、そんなことはないのである。



⑫   認識を目的とせず、専門化されたものでない意味での、人間生活における自然な欲求としての思考は、少数者の専売特許ではなく、能力としては万人につねに開かれている。それと同じく、考えることができないという状態は、知力の足りない人々のおかす失敗なのではなく可能性としては万人にとってつねに存在しており、科学者や学者のような精神的営為の専門家たちも例外ではない。自分自身との会話の可能性と重要性に最初に気づいたのはソクラテスであったが、誰だってそういう会話を避けたくなることもある。思考は生に伴うものであり、思考自体が生きることから物質的な面を取り除いた精髄なのである。人生は過程なのであるから、人生の精髄は実際の思考過程にこそあるのであって、出来上がった思考の結果とか特定の思想にあるわけではない。考えることのない人生も十分可能である。その場合には人生の本質を広げていくことはない。無意味であるだけではなく、十分に生きているともいえないのである。考えない人は夢遊病者と変わらないのである。・・・
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