今日の19日まで浅草寺境内で羽子板市が行われていた。
 
 新年を迎えるための品々を買い揃える「歳の市」がその元来の姿。その面影は、羽子板市よりも、浅草神社の脇で盆栽などの花卉・園芸品を売る露店にかすかに残っている。18日に散歩がてらぶらっと立ち寄ってみたらシクラメンが綺麗だったので、私は思わず赤と白のシクラメンを一鉢ずつ買ってしまった。








  そのついでに羽子板の露店も見て回ったのだが、そのときふと、飾られている羽子板にもまして、小屋のたたずまいやその顔とも言うべき暖簾のほうに目がいった。あぁ、暖簾は美しいなぁとしみじみ思いながら。

(写真は翌日の夜に撮影)





 



   




 羽子板の美は説明を要さない。華やかな美だが、一目見て判る美である。それに対して、暖簾の美は自自己主張しないことに現われる美だ。そのために容易に見過ごされてしまう。地味で質素だが、羽子板の華美をより艶やかにしてくれる美。簡素ではあるが、様式化されている簡素さ。日本の昔から育まれてきた美意識がそこに潜んでいる。羽子板には時代の変化が反映されるが、暖簾には、時が移っても変わらないものがある。暖簾に目をとめることは、その不易を思いやることだ。



 たぶん、多くの人が無意識にそう感じとっているのではないだろうか?  羽子板の小屋を初めて見た人が「わぁ」と声を上げて近くに駆け寄る光景を目にした。歓声をあげた人の目を打ったのは、実は、羽子板の華美と暖簾の一体となった姿だったはずなのだ。しかし、近寄った人の目には、おそらく、羽子板しか映っていないのである。



  




  まあ私は、三社祭の時も提灯の美にしか感じ入ることのないひねくれ者なので(「五月の浅草あるいは提灯の美」・・・http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-05-10)、この暖簾の美もそんなひねくれた見方の一つにすぎないのかもしれない。


  ちなみに、「暖簾(のれん)」とは、『小学館国語大辞典』によると、元来は「寒さを防ぐため簾(す)の隙聞をおおう布のとばりをいった」そうだ。つまり、風よけである。この日は、時おり強い風が吹いていたので、小屋の主は皆寒そうだった。暖簾はその本来の役を果たしていたようだった。