奴隷制の年代記
ドイツを代表する雑誌『シュピーゲル』が、なぜか今年になって、奴隷制をテーマにした特集号を出した。あの「ブラック・ライブズ・マター」や、それに付随する差別の歴史の見直しという機運の影響だろうか? 私も思うところあって、最近になって、奴隷制に興味を持ち始めた経緯があるので、少し読んでみた。ドイツの雑誌だから、ドイツがどれほど奴隷制に関りをもったかという点に重点が置かれているものの、それなりに面白い。ともあれ、年代記を紹介したい。
Sklaverei – der Mensch als Ware
19.09.2022, 18.00 Uhr • aus SPIEGEL Geschichte 5/2022
https://www.spiegel.de/geschichte/sklaverei-der-mensch-als-ware-chronik-a-660b8bc8-0002-0001-0000-000206671383?context=issue
「 奴隷制 - 商品としての人間
紀元前一万年以降
定住と耕作のために、労働力の所有が価値あるものとなる。
紛争で敗れた者は奴隷化され下男となり、女性と子供は所有物として召使となった。
紀元前4000年以降
都市文化が成立し、新たな奴隷制を伴うようになる。建築計画のために労働奴隷が必要とされるようになった。筋力が、豊かさを創造するエネルギー源となった。
(奴隷の贈与を証言するシュメールの粘土版 )
文書の証言が示すところによると、古代ギリシアには私的な家に属する奴隷も国家に属する奴隷もいた(アテナイ)。紀元前100年以降はローマにもいたことが判っている。人間は商品として扱われた。アリストテレスは奴隷制を理論的に基礎づける書物を著している。
紀元前73年
スパルタクスという奴隷が剣闘士の養成所の残酷さに対して反乱を起こす。この暴動は、数万の奴隷と貧農による対ローマ戦争に発展したが、おびただしい流血の末に鎮圧された。
7世紀以降
サハラでの奴隷売買: アラブの商人たちが、人間の売買を、地方の中間業者も交えた輸出入の業務として商業化する。奴隷経済が成立する。
8・9世紀
フランク人がヨーロッパ中で戦闘や略奪行為を働き、おもにスラブ人を奴隷化し、ビザンチンやイスラム教徒の顧客に売却した。
9世紀から12世紀
ヴァイキングが北西ヨーロッパ一帯で略奪行為を行い、奴隷商人の地位に躍り出る。
13世紀
ヴェネチア、ジェノバ、パレルモといったイタリアの諸都市が、東ヨーロッパや中央アジアの奴隷をイスラム教徒やキリスト教徒に販売する活気ある交易センターに発展する。
1400年代
1444
ポルトガル人が、ラゴスで、初めての奴隷オークションを開催し235人のアフリカ人を売買する。ポルトガルは奴隷売買を収益性の高い商売に発展させ、それが全ヨーロッパにいきわたる。
1452
ローマ教皇ニコラウス五世は教皇勅書「ドゥム・ディウェルサス(Dum Diversas)」で異教徒を隷属化することを許可する - 彼が念頭に置いていたのは地中海のイスラム教徒だった。
1455
ローマ教皇ニコラウス五世は続けて教皇勅書「ロマーヌス・ポンティフェクス(Romanus Pontifex)」を発し、ポルトガル王アルフォンス五世とその後継、およびエンリケ航海王子に、キリスト教の敵を「未来永劫にわたって奴隷にすること」を許可する。
(16世紀のポルトガルの奴隷船 )
1493
三度にわたる教皇勅書において、アレクサンドル六世は、スぺインとポルトガルに、新世界の獲得権を認める。ほとんど財産を没収された現地民はキリスト教徒にされるべきだと。
15世紀から19世紀まで
約1100万のアフリカ人が故郷から北米・南米に連れ去られた。その多く - 553万人 - はブラジルに運ばれた。
1500年代
1530年から1780年まで
北アフリカの海賊が、概算で数十万ものヨーロッパ人を、今日のモロッコ、チュニジア、アルジェリア、リビアに連れ去った。スペインの著述家ミゲル・デ・セルヴァンテスは、1575年からアルジェリアで奴隷として働かねばならず、金銭的に自由の身になれたのはようやく5年後のことだった。
( ミゲル・デ・セルヴァンテス )
1537年
ローマ教皇パウルス三世は教皇勅書「スブリミス・デウス(Sublimis Deus)」で、アメリカの原住民を「奴隷状態に転化させること」を禁じた。彼らは、その代わり、キリスト教徒にされるべきだとした。
1600年
フッガー家の銅貨が奴隷売買の支払い手段となり、フッガー家の財政状態を向上させた。ヴェルザー家は南アメリカに植民地を創設し原住民を奴隷化した。
1682年
ブランデンブルク・アフリカ会社が、ブランデンブルクの国旗のもとで奴隷貿易にのり出す。この事業は1711年に、腐敗、放漫経営、強大な競合相手のゆえに失敗に終わる。
1685年
フランス国王ルイ14世は、奴隷との関わりを定めた「黒人法(Code Noir)」を発布(1848年まで有効だった)。この法は奴隷をフランスの臣民と定めたが、武器の携行は禁じ、集会や法廷への立ち入りも認めなかった。それでも、同法は、奴隷を鞭打ったり不法に殺害する所有者に対する罰則を盛り込んでいた。
1695年
ブラジルのパルマレスでは逃亡奴隷が土地を開拓し、約2万人が暮らしていた。彼らは、数十年生存していたが、制圧・殺害された。
1700年代
1780年頃
奴隷売買に対する抗議活動が起こる。ドイツ語圏では奴隷所有は法的に規制されていなかった - たいていは見て見ぬふりという扱いだったが、貴族や上流市民の家庭では日常的に行われていた。ただし、奴隷所有と呼ばれなかっただけである。
(「人間は自由に生まれたが、いたる所で鎖につながれている」(ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』1762)
18・19世紀
ドイツ人の商人や企業家も大西洋の向こう側の奴隷システムで利益を上げ、それが労働市場となって職人や専門家にも利益をもたらした。シュレジアの職人は、プランテーションの奴隷たちが着る衣服の原料であるリンネルを輸出した。
(1823年アンティグアの砂糖プランテーションで働く奴隷たち )
1783年
奴隷船ゾング号で起きた出来事をめぐる訴訟と、溺死した奴隷に対する保険金の賠償は、奴隷廃止運動の先駆けとなった。
1788年
イギリスは、最初の「奴隷貿易法」で、奴隷の輸送に規制をかけた。奴隷船の船内での奴隷の数は1トン当たり1.67人に制限された。この措置により輸送中の死者数は減少した。
1789年
オラウダ・イクイアーノが自伝『オラウダ・イクイアーノあるいはアフリカ人グスタファス・ヴァッソー自身が書く彼の生涯の興味深い物語』を出版し奴隷船での移送の驚愕の事実を描く。
(ある船の船倉における奴隷たち 1800年頃 )
サント・ドミンゴで奴隷の反乱が勃発。植民地はフランスから決別し、1804年、独立した国家になる。それがハイチである。
(ドミニカにおける原住民の自由人 1758年頃 )
1792年
デンマークが奴隷売買を禁止する最初の国家となる。禁止法案の発議をしたのは、ドイツ系デンマーク人の政治家であり商人であり奴隷所有者でもあったハインリッヒ・エルンスト・フォン・シメルマン。この禁止法は、遅延行為に遭ったため、1803年になったようやく発効した。
1800年代
19世紀初頭
ドイツ諸州では農奴制の廃止は徐々にしか進まなかった。プロイセンで奴隷制が法的に禁止されたのは1857年になってからのである。
1807年
大英帝国は二番目の「奴隷貿易法」で奴隷売買を禁止したが、東インド会社に対しては例外が認められた。1833年に続く「奴隷廃止法」では、インドとセイロンをあらゆるイギリスの所有地での奴隷所有は、1834年8月1日までに廃止されなければならないと明記した。
1837年
ブレーメン政府は、奴隷売買を法的に罰則に処するものと定めた。それにもかかわらず、ブレーメンの商人は後になっても奴隷の商売に関わっていた。
1838年
北米カトリックのイエスズ会士は、自分たちが設立したジョージタウン大学を経営危機から守るために、奴隷を売却することにした。272人を売却して得た収益は115000ドルだった。
1839年
グレゴリウス16世は、教皇として初めて、明確かつ一般論という形で、いかなる奴隷制にも反対する声明を発した。
(「疑いもなく奴隷制は、これまでの人類に降りかかて来たあらゆる悪の中でも最大のものである」。アレクサンダー・フンボルト:1889年に発表された『キューバ島の政治的状態についての試論』)
1850年
リオ・デ・ジャネイロは世界で最大の奴隷貿易港である。その街には約20万人が暮らしていたが、その40パーセントは奴隷であった。
1857年
奴隷状態はプロイセンの領土内で法的に廃止された。
1861年から1865年まで
合衆国では、奴隷制の問題をめぐって、北部諸州と南部諸州が市民戦争に突入。戦争の終わりとともに奴隷制が廃止された。
(ヴァージニアにおける解放奴隷の集団 1865年頃 )
1884/85年
コンゴ会議でヨーロッパの大国がアフリカの広大な領土を植民地として分割した。彼らの言い分は、アフリカの内部にある奴隷制を終わらせ、アフリカ人をキリスト教徒に改宗させたいからというものだった。
1900年代
1901年から1904年まで
ドイツの植民地に対する政令として、奴隷を担保にすることが禁じられ、奴隷の新生児は自由人とするよう定められた。
1926年と1930年
国際連盟は、奴隷制及び奴隷売買を終わらせる「奴隷-協定」を締結。1930年には、国際労働機関(ILO)が、署名国に強制労働を終わらせるように義務づける「条約29」を締結。
(オランダ領ギアナでフレームに吊るされる奴隷 )
1939年から1945年まで
第二次世界大戦ではとくにドイツと日本が大々的に強制労働を利用した。
1950
ヨーロッパ人権条約が、条項4で、奴隷制と強制労働の全般的禁止を明記。
1974年
国連人権委員会は強制売春を一種の奴隷労働として認定。
1992年
ヨハネ・パウロ二世は、アフリカ訪問の途上で、キリスト教徒のアフリカおよびアフリカ人に対するこれまでの関り方は「恥ずべきもの」だったと告白したが、教会の役割のことで謝罪することはなかった。
今日
2021年
イエスズ会は、奴隷の子孫と一億ドルで示談すると申し出た - 子孫たちの要求額は10億ドルだったのだが。2022年の8月までに教団が集めたのは総額の三分の一にすぎない。
今日
人権機関「ウォーク・フリー(Walk Free)」の「グローバル奴隷労働インデクス(Global Slavery Index)」は、2018年の最新の調査において、奴隷労働を強いられている人は世界全体で4030万人にのぼると試算している。そのうちの71%が女性で、2490万人が強制労働を強いられている。
」(おわり)
Sklaverei – der Mensch als Ware
19.09.2022, 18.00 Uhr • aus SPIEGEL Geschichte 5/2022
https://www.spiegel.de/geschichte/sklaverei-der-mensch-als-ware-chronik-a-660b8bc8-0002-0001-0000-000206671383?context=issue
「 奴隷制 - 商品としての人間
紀元前一万年以降
定住と耕作のために、労働力の所有が価値あるものとなる。
紛争で敗れた者は奴隷化され下男となり、女性と子供は所有物として召使となった。
紀元前4000年以降
都市文化が成立し、新たな奴隷制を伴うようになる。建築計画のために労働奴隷が必要とされるようになった。筋力が、豊かさを創造するエネルギー源となった。
(奴隷の贈与を証言するシュメールの粘土版 )
文書の証言が示すところによると、古代ギリシアには私的な家に属する奴隷も国家に属する奴隷もいた(アテナイ)。紀元前100年以降はローマにもいたことが判っている。人間は商品として扱われた。アリストテレスは奴隷制を理論的に基礎づける書物を著している。
紀元前73年
スパルタクスという奴隷が剣闘士の養成所の残酷さに対して反乱を起こす。この暴動は、数万の奴隷と貧農による対ローマ戦争に発展したが、おびただしい流血の末に鎮圧された。
7世紀以降
サハラでの奴隷売買: アラブの商人たちが、人間の売買を、地方の中間業者も交えた輸出入の業務として商業化する。奴隷経済が成立する。
8・9世紀
フランク人がヨーロッパ中で戦闘や略奪行為を働き、おもにスラブ人を奴隷化し、ビザンチンやイスラム教徒の顧客に売却した。
9世紀から12世紀
ヴァイキングが北西ヨーロッパ一帯で略奪行為を行い、奴隷商人の地位に躍り出る。
13世紀
ヴェネチア、ジェノバ、パレルモといったイタリアの諸都市が、東ヨーロッパや中央アジアの奴隷をイスラム教徒やキリスト教徒に販売する活気ある交易センターに発展する。
1400年代
1444
ポルトガル人が、ラゴスで、初めての奴隷オークションを開催し235人のアフリカ人を売買する。ポルトガルは奴隷売買を収益性の高い商売に発展させ、それが全ヨーロッパにいきわたる。
1452
ローマ教皇ニコラウス五世は教皇勅書「ドゥム・ディウェルサス(Dum Diversas)」で異教徒を隷属化することを許可する - 彼が念頭に置いていたのは地中海のイスラム教徒だった。
1455
ローマ教皇ニコラウス五世は続けて教皇勅書「ロマーヌス・ポンティフェクス(Romanus Pontifex)」を発し、ポルトガル王アルフォンス五世とその後継、およびエンリケ航海王子に、キリスト教の敵を「未来永劫にわたって奴隷にすること」を許可する。
(16世紀のポルトガルの奴隷船 )
1493
三度にわたる教皇勅書において、アレクサンドル六世は、スぺインとポルトガルに、新世界の獲得権を認める。ほとんど財産を没収された現地民はキリスト教徒にされるべきだと。
15世紀から19世紀まで
約1100万のアフリカ人が故郷から北米・南米に連れ去られた。その多く - 553万人 - はブラジルに運ばれた。
1500年代
1530年から1780年まで
北アフリカの海賊が、概算で数十万ものヨーロッパ人を、今日のモロッコ、チュニジア、アルジェリア、リビアに連れ去った。スペインの著述家ミゲル・デ・セルヴァンテスは、1575年からアルジェリアで奴隷として働かねばならず、金銭的に自由の身になれたのはようやく5年後のことだった。
( ミゲル・デ・セルヴァンテス )
1537年
ローマ教皇パウルス三世は教皇勅書「スブリミス・デウス(Sublimis Deus)」で、アメリカの原住民を「奴隷状態に転化させること」を禁じた。彼らは、その代わり、キリスト教徒にされるべきだとした。
1600年
フッガー家の銅貨が奴隷売買の支払い手段となり、フッガー家の財政状態を向上させた。ヴェルザー家は南アメリカに植民地を創設し原住民を奴隷化した。
1682年
ブランデンブルク・アフリカ会社が、ブランデンブルクの国旗のもとで奴隷貿易にのり出す。この事業は1711年に、腐敗、放漫経営、強大な競合相手のゆえに失敗に終わる。
1685年
フランス国王ルイ14世は、奴隷との関わりを定めた「黒人法(Code Noir)」を発布(1848年まで有効だった)。この法は奴隷をフランスの臣民と定めたが、武器の携行は禁じ、集会や法廷への立ち入りも認めなかった。それでも、同法は、奴隷を鞭打ったり不法に殺害する所有者に対する罰則を盛り込んでいた。
1695年
ブラジルのパルマレスでは逃亡奴隷が土地を開拓し、約2万人が暮らしていた。彼らは、数十年生存していたが、制圧・殺害された。
1700年代
1780年頃
奴隷売買に対する抗議活動が起こる。ドイツ語圏では奴隷所有は法的に規制されていなかった - たいていは見て見ぬふりという扱いだったが、貴族や上流市民の家庭では日常的に行われていた。ただし、奴隷所有と呼ばれなかっただけである。
(「人間は自由に生まれたが、いたる所で鎖につながれている」(ジャン・ジャック・ルソー『社会契約論』1762)
18・19世紀
ドイツ人の商人や企業家も大西洋の向こう側の奴隷システムで利益を上げ、それが労働市場となって職人や専門家にも利益をもたらした。シュレジアの職人は、プランテーションの奴隷たちが着る衣服の原料であるリンネルを輸出した。
(1823年アンティグアの砂糖プランテーションで働く奴隷たち )
1783年
奴隷船ゾング号で起きた出来事をめぐる訴訟と、溺死した奴隷に対する保険金の賠償は、奴隷廃止運動の先駆けとなった。
1788年
イギリスは、最初の「奴隷貿易法」で、奴隷の輸送に規制をかけた。奴隷船の船内での奴隷の数は1トン当たり1.67人に制限された。この措置により輸送中の死者数は減少した。
1789年
オラウダ・イクイアーノが自伝『オラウダ・イクイアーノあるいはアフリカ人グスタファス・ヴァッソー自身が書く彼の生涯の興味深い物語』を出版し奴隷船での移送の驚愕の事実を描く。
(ある船の船倉における奴隷たち 1800年頃 )
サント・ドミンゴで奴隷の反乱が勃発。植民地はフランスから決別し、1804年、独立した国家になる。それがハイチである。
(ドミニカにおける原住民の自由人 1758年頃 )
1792年
デンマークが奴隷売買を禁止する最初の国家となる。禁止法案の発議をしたのは、ドイツ系デンマーク人の政治家であり商人であり奴隷所有者でもあったハインリッヒ・エルンスト・フォン・シメルマン。この禁止法は、遅延行為に遭ったため、1803年になったようやく発効した。
1800年代
19世紀初頭
ドイツ諸州では農奴制の廃止は徐々にしか進まなかった。プロイセンで奴隷制が法的に禁止されたのは1857年になってからのである。
1807年
大英帝国は二番目の「奴隷貿易法」で奴隷売買を禁止したが、東インド会社に対しては例外が認められた。1833年に続く「奴隷廃止法」では、インドとセイロンをあらゆるイギリスの所有地での奴隷所有は、1834年8月1日までに廃止されなければならないと明記した。
1837年
ブレーメン政府は、奴隷売買を法的に罰則に処するものと定めた。それにもかかわらず、ブレーメンの商人は後になっても奴隷の商売に関わっていた。
1838年
北米カトリックのイエスズ会士は、自分たちが設立したジョージタウン大学を経営危機から守るために、奴隷を売却することにした。272人を売却して得た収益は115000ドルだった。
1839年
グレゴリウス16世は、教皇として初めて、明確かつ一般論という形で、いかなる奴隷制にも反対する声明を発した。
(「疑いもなく奴隷制は、これまでの人類に降りかかて来たあらゆる悪の中でも最大のものである」。アレクサンダー・フンボルト:1889年に発表された『キューバ島の政治的状態についての試論』)
1850年
リオ・デ・ジャネイロは世界で最大の奴隷貿易港である。その街には約20万人が暮らしていたが、その40パーセントは奴隷であった。
1857年
奴隷状態はプロイセンの領土内で法的に廃止された。
1861年から1865年まで
合衆国では、奴隷制の問題をめぐって、北部諸州と南部諸州が市民戦争に突入。戦争の終わりとともに奴隷制が廃止された。
(ヴァージニアにおける解放奴隷の集団 1865年頃 )
1884/85年
コンゴ会議でヨーロッパの大国がアフリカの広大な領土を植民地として分割した。彼らの言い分は、アフリカの内部にある奴隷制を終わらせ、アフリカ人をキリスト教徒に改宗させたいからというものだった。
1900年代
1901年から1904年まで
ドイツの植民地に対する政令として、奴隷を担保にすることが禁じられ、奴隷の新生児は自由人とするよう定められた。
1926年と1930年
国際連盟は、奴隷制及び奴隷売買を終わらせる「奴隷-協定」を締結。1930年には、国際労働機関(ILO)が、署名国に強制労働を終わらせるように義務づける「条約29」を締結。
(オランダ領ギアナでフレームに吊るされる奴隷 )
1939年から1945年まで
第二次世界大戦ではとくにドイツと日本が大々的に強制労働を利用した。
1950
ヨーロッパ人権条約が、条項4で、奴隷制と強制労働の全般的禁止を明記。
1974年
国連人権委員会は強制売春を一種の奴隷労働として認定。
1992年
ヨハネ・パウロ二世は、アフリカ訪問の途上で、キリスト教徒のアフリカおよびアフリカ人に対するこれまでの関り方は「恥ずべきもの」だったと告白したが、教会の役割のことで謝罪することはなかった。
今日
2021年
イエスズ会は、奴隷の子孫と一億ドルで示談すると申し出た - 子孫たちの要求額は10億ドルだったのだが。2022年の8月までに教団が集めたのは総額の三分の一にすぎない。
今日
人権機関「ウォーク・フリー(Walk Free)」の「グローバル奴隷労働インデクス(Global Slavery Index)」は、2018年の最新の調査において、奴隷労働を強いられている人は世界全体で4030万人にのぼると試算している。そのうちの71%が女性で、2490万人が強制労働を強いられている。
」(おわり)
2022-10-29 13:53
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