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悪 その8 : 悪を説明することは可能か? [海外メディア記事]

 クレア・カーライル女史による「悪」の本性について考えるシリーズの8回目にして最終回。

 少し長すぎたかな。もう一度最初から読み返さないと、どういう流れだったか自分でも把握しきれていないほどだ。まあ、分析が浅いところもあるけれど、「悪」について考えるためには手ごろな見取り図を与えてくれるのではないかと思う。






Evil, part 8: is it possible to explain evil?



Clare Carlisle
guardian.co.uk, Monday 3 December 2012 10.30 GMT

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/dec/03/explaining-evil-concept







悪 その8 : 悪を説明することは可能か?

科学は悪が概念として有効であることを疑問視するが、言語において悪が修辞的な力をもっていることが、なぜ私たちがそれについて考える必要があるかを示している。



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アダムとイブに対する蛇の問いかけ――「知識の木の実を食べてはいけないと神は言いましたか?」――が、ヘブライ語聖書の最初の問いだった。





  このシリーズは、私たちはいかにして悪について考えることができるか? と尋ねることによって始まった。少なくとも私にとって、この問いは気の滅入る問いだったし、私は自分がそれに対する明確な答えをもっていると感じていないのも確かだった。過去7回にわたって、悪の問題に答えた哲学者や神学者や心理学者から私たちは学んできた。多種多様なアプローチや見解から、とくに重要な一つの問いが前面に浮かび上がった。その問いとは、そもそも悪を説明することは可能かという問いである。



  私たちが検討した思想家の多くは、それぞれ違った理由からではあるが、悪は説明不可能であると主張している。しばしばその根底にある考え方は、悪を説明しようと試みること自体が悪の本質を理解していないことだ、という考え方であるように見える。つまりその試みはカテゴリー・ミステイクなのだ、なぜなら悪とは説明できるようなものではまったくないからだ、という考え方である。アウグスティヌスは悪を非-存在として定義した。つまり、積極的な実体や性質というより、善の欠如なのである。この悪の定義によれば、説明される必要のある実質的なものは何もないことになる――もっともアウグスティヌスは、原罪の概念を解明することによって、私たちが善から逸脱していったことの説明を与えているのだが。


  ある点でアウグスティヌスの哲学に似ているカントにとっても、悪の原因を探すことは不適切なのだ。原因を探すということは、その原因が因果律(=原因と結果の法則)に従う自然の秩序に属していることを含意する。しかし、悪は道徳的なカテゴリーであり(道徳と相いれないものは悪にもなりえないという意味で)、したがって、人間の自由に属する概念なのだが、人間の自由は因果的次元とは別個のものだとカントは主張する。サルトルも、自分の行動を合理化したり説明するのは、自由の否定や責任の回避に等しいのだから自己欺瞞なのだと言うとき、カントと似た見解を述べているのである。


  科学的な観点から見ても、悪を説明する困難は、悪という概念の有用性についての疑いに導くのだ。『ゼロ度の共感』の著者サイモン・バロン=コーエン(Simon Baron-Cohen)は、 「悪」という語を「共感の衰退」や「共感欠乏」によって置き換えようと望んでいる。悪とは違って、共感は精神科医や神経科学者によって測定することができるからだ。それは、扁桃体と呼ばれる脳のアーモンド形の部分に存在するが、その部分は、その動作が共感の欠如を示すような人にあっては異常に小さいのだという。小児期のネグレクトや虐待が扁桃体の発達を阻害したということは考えられることだ。この考え方によれば、私たちが残酷さと攻撃性の説明に近づくにつれて、悪の概念はますます疑わしいものとなるのだという。



 バロン=コーエンと同様に、フィリップ・ジンバルドー――1971年にスタンフォードの監獄実験を行った人だが――は、悪人という観念は、人間の残酷さを説明するもっとハッキリした要因を曖昧にしてまだ個人に焦点を当て、性格というかなり伝統的な概念についての科学的な説明を提供しているが、ジンバルドーは社会的・政治的な問題に焦点を移してしまう。彼の主張によると、私たちは悪い性格や性質や性向に強調を置きすぎていることを彼の研究は示したのだ。私たちの個人主義的な文化の一症状なのだという。ジンバルドーは、善良な人々が残酷で無情な振る舞いに出そうな状況や条件を指摘する。多くの組織で系統的に提供されている諸条件(階層関係、固定した社会的役割、暴力の正当性、均一性、匿名性)が加害者と被害者双方に非人間的な効果を及ぼすと彼は指摘するのだ。



 しかし、彼の分析は悪の概念に別の難問があることを示唆した。この概念そのものが非人間的な効力をもっていて――、私たちを暴力に傾斜させることがあるのではないか? もしそうなら、「悪」という語そのものが、皮肉なことに、他の人間の尊厳と脆弱さについての感覚を狂わせ、道徳の通常の基準を停止させることにつながる条件の形成に貢献しているかもしれないのだ。2002年にジョージ・W・ブッシュが――まるで彼が、顔の見えない宇宙人のような闇の勢力に対して十字軍を指揮しているかのように――イラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んだときに、私たちはこうした事態が生ずるのを見た。



 「悪」という語の修辞的な力は多大なもので、十年以上もたった今でも、私たちはこのフレーズを覚えているほどだ。哲学的な観点から見れば、言葉は私たちの思考や私たちの共有された世界を形成するものだから――そして私たちをさ迷わせるポテンシャルをもっているのだから――言葉の力に関心を注ぐことは大事なことだ。実は、ここで私たちはまた楽園追放の話に逆戻りするのだ。この話は、人間の罪深さの説明としては説得力がもうないのかもしれない。しかし、キルケゴールが創世記の物語りを再読したときに指摘したように、この物語りは、言語を使用する能力がいかに人間の道徳的な運命を形成しているかについて重要なことを語っているのである。



 
  アダムとイブに対する蛇の問い――「知識の木の実を食べてはいけないと神は言いましたか?」という問い――は、ヘブライ語聖書の最初の問いである。その問いは、言葉と現実のギャップが現われる瞬間を表わしている。それに先立って、神の言葉は神の創造と完全に合致していた。キルケゴールにとって、人間の言語の誕生と人間の自由の誕生は同時に起こることであり、人間の自由が開くギャップは、可能性や不確実性や曖昧さや誘惑や欲望の空間である。この物語りにおける蛇――捉えがたく、二枚舌で、誘惑的な生き物――が言語そのものを表しているのだとすれば、どうだろうか?



 
 ひょっとしたら、そうかもしれない。しかし、ほとんどの物語りと同様に、この物語もさまざまに解釈できる(この話自体捉えがたく、あいまいだ)。これによって提起される問題は、私たちの説明――悪についての説明も含む――が、自由とは神話にすぎないことを示しているのか、それとも自由を回避しその土台を掘り崩そうとしているのか、あるいは単にある種の説明を求めるが別の説明は求めないという自由を表明しているだけなのか、という問題だ。現代の科学は、薬物治療や刑法改革などの実際に役立つ答えを示唆する「悪」の説得力ある説明を提唱している。しかし、言語や自由や正義や道徳的責任に関する問いが提起され知的に議論できるように、科学の外側で反省的な姿勢をとり続けることが重要だ。言いかえれば、哲学者や神学者は悪について考え続ける必要があるのだ。





」(おわり)

















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