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Facebook幻想 [海外メディア記事]

  色々メディアで取り上げられ話題になった割には、あっけなくしぼんでしまったFacebookの株価について考察した『ニューヨーク・タイムズ』紙のop-ed欄のコラムを紹介する。

  読んで一々もっともだと思うのだが、逆になぜあれほどFacebookが期待されたのかが不思議に思えて来るほどだ。
 





The Facebook Illusion
By ROSS DOUTHAT
Published: May 26, 2012

http://www.nytimes.com/2012/05/27/opinion/sunday/douthat-the-facebook-illusion.html?src=me&ref=general






 Facebook幻想



21世紀の最初の10年間には、アメリカ経済に関する大きな幻想が二つあった。一つは、住宅価格が、普通の経済動向と連動することはもはやなく、ひたすら上昇し続けるだろうという考え方。もう一つは、Web2.0の時代になれば、インターネット上で大金をかせぐ方法が見つかるだろうという考え方だ。


 前者の考え方は、2007年と2008年に住宅価格と株式市場とともに崩れ去った。しかし、Web 2.0幻想の方は、先週、Facebookの新規株式公開(IPO)において、だまされやすい投資家がちょっとした大金を失うほどに長く生き残ったのであった。


 正直に言うが、私は、公開5日目にしてこのIPOを「この10年間で最大の失敗」と「ブルームバーグ・ビジネスウィーク」に言わしめたFacebookの波乱の船出を見て、ある種の陰気な喜びを覚えたものだった。インターネット時代に楽しみを提供してくれる大きな拠点の中で、マーク・ザッカ―バーグのSNSは最も有害なものの一つであるといつも私には映っていた。その成功は、オンライン生活の負の側面、たとえば、たえず自分をファッション化したり自分を宣伝することに熱心で、(本物とはうわべだけしか似ていない)バ―チャルな「コミュニティー」や「友情」を追い求め、私的な領域を思いきって切りつめてまでも広告の報酬を得ようとするといった負の側面に依存しているからである。


 

 しかし、Facebookが大好きだったり、少なくとも、それなしの生活を想像することができないような読者でも、株式市場でのFacebookの失敗をインターネットの商業的限界を示すものと見るはずだ。『ニューヨーカー』誌のジョン・キャシディ(John Cassidy)が株式公開前の洞察力のある記事の一つで指摘したように、問題はFacebookがもうからないということではない。Facebookが騒がれるほど大した収益を上げないこと、それが(多くのオンラインの企業と同様に)数百万と増え続けるユーザーを効率的に収益に結びつける方法を考え出していないために、そこからそれに見合う増益を上げる明白な方法をもっていないことが問題なのである。その結果、確かに企業としては成功したが、そのバランスシートは、その企業がオンラインのいたる所に存在している割には全然大したことはない、ということになるのである。



 この「影響力は巨大だが、収益は限られている(huge reach,limited profitability)」という問題は、デジタル経済全体の特徴である。ジョージ・メイソン大学の経済学者タイラー・コーウェン(Tyler Cowen)が2011年に著した電子書籍『大いなる停滞(The Great Stagnation)』で書いたように、インターネットは「安あがりの娯楽」を生み出すという点では素晴らしいものである。しかし、「その産物の多くは無料で」、そしてよくあるWeb上の企業の作品の多くは「多かれ少なかれソフトウェアとサーバによって自動的に行われるので」、オンライの世界は、雇用の増大を生み出すという段になると、大した力を発揮できないのである。


 この点で雄弁に語っているのは、デジタル時代の成功例として非常によく挙げられるアップルやアマゾンといった企業が、どちらも、バーチャルではない商品の生産や配送にしっかりと根ざしているビジネス・モデルをもっていることだ。アップルの中核となる能力(core competency)は、いっそう良質でいっそう美しくなる製品を作り上げることだ。アマゾンのそれは、電化製品やDVDからオムツにいたるあらゆるものをいっそう素早くいっそう安く各家庭に届けることである。


 それとは対照的に、企業の製品が純粋にデジタルなものになればなるほど、それが創出する雇用は少なくなる傾向があり、それがユーザー1人当たり得ることができる収益も少なくなるのだ――ジャーナリストはこの10年間で馴染みになっていたが、Facebookの投資家は先週になってようやくその現実にぶつかったのだ。この規則にも例外はあるが、しかし、それほど多くはない。ポルノグラフィーは、長い間インターネットで最も金を稼いできたジャンルの一つであったが、そのポルノグラフィーでさえ、アマチュアのサイトやビデオがはびこり「プロ」が独占を失うにつれ、着実に上げる収益を減らしているのである。


 ドイツの哲学者のヨゼフ・ピーパー(Josef Pieper)は1952年に『余暇:文化の基礎』と題された書物を著した。ピーパーは、現在オンラインで活況を呈している文化には失望しただろうが、余暇がインターネットの基礎であることは明らかだ。低俗なものから高尚なものにいたるまで、匿名掲示板からWikipediaにいたるまで、膨大な量のインターネット・コンテンツは報酬を何も期待しない人々によって作成されている。この意味で、「ニュー・エコノミー」は、収益を上げる経済になるのもおぼつかないのだ。『スレート(Slate)』誌のマシュー・イグレシアス( Matthew Yglesias)が示唆しているように、「ニュー・エコノミー」とは趣味人の楽園、それが次第に取って代わると想定されていた「オールド・エコノミー」からの余剰金で助成される趣味人の楽園なのである。


 労働統計局が最近発表した失業数を一目見るだけでも、これが現実であることが判るはずだ。ここ20年間の「ドット・コム」ブームにもかかわらず、情報セクターは、他の経済セクターに比べるといまだ非常に小さい。そのセクターの失業率は、現在のわが国では高い方にあり、しかも、昨年一年間で失業数が増えた数少ないセクターの一つであるのだ。


 こうしたことがあるからといって、インターネットの革命的性格が薄まるわけでは決してない。だが、それが生み出したのは経済的な革命というより文化的な革命だったのだ。ツイッタ―はフォード・モーターではない。グーグルはゼネラル・エレクトリックではない。わずかなお金につられて広告を眺めるときを除けば、われわれがマーク・ザッカ―バーグのために働く日がいつかやって来ることはないのである。





」(おわり)



 






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