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死は悪いものか? [海外メディア記事]

 「死」についてずいぶん古典的な議論を見つけたので紹介しよう。『クロニクル・レヴュー(The Chronicle Review)』誌に載った一文だが、末尾に記されているように著書からの抜粋・改変である。


  おそらく死は悪いものなのだろう。 たとえば、「機会費用(opportunity costs)」の概念に基づくならばそう言えそうである。ちなみに、「機会費用」とは「ある行動を選択することで失われる、他の選択肢を選んでいたら得られたであろう利益のこと」。死なないで得られた利益を考えるならば、死はつねに損失を意味するのだから、死は悪いものなのだ。

 しかし、その悪を感じとる主体はもう死んでいるのだから、その悪が感じ取られることはなく、したがって悪としての死もないことになる。したがって、死は何ら悪いものではない。

 これはわれわれの感覚に反することなので、何か前提を変えなければいけない。しかし、前提を変えても、やはり可笑しい結論が導き出されてしまうようだ。こうして死についての議論が袋小路に陥ることが、「剥奪説」や「存在条件」といった、少し難しそうな概念を使いながら論証されていく。


 途中で出てくるエピクロスのパラドクスが印象的である。「死とは、最も恐ろしいものであるが、われわれにとっては無に等しい。なぜなら、われわれが存在している限り、死がわれわれと共にあることはないからだ。しかし、死がやって来るとき、われわれは存在しない。死は、生きている者にも死者にも関わることはない。生きている者にとって死はないからだし、死者はもはや存在しないからだ」。

 結局、死は恐れるべきものではないということを、ここに読み取るべきなのだろうか?

 ちなみに、使用されている写真のオリジナルは、イングマール・ベルイマンの傑作『第七の封印』に由来する。元来は恐ろしい死神がそこにいるのだが、しかし、そのようなものは実は存在しないのだという意図を込めたものだろうか?



 

Is Death Bad for You?

By Shelly Kagan

May 13, 2012



http://chronicle.com/article/article-content/131818/






  死は悪いものか?



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  われわれは皆、死が悪いものであると思っている。しかし、なぜ死は悪いのか?

 この問題を考えるに当たって、私は単に、私の肉体の死が、人間として私が存在していることの終わりであると仮定するつもりだ。しかし、死が私の最後であるならば、私が死ぬことがどうしてそれほど悪いものになりうるのか? 結局のところ、私が死んだら、私は存在しない。私が存在していないなら、死んでいる状態が私にとって悪いことにどうしてなりえようか?


 死は死んでいる人にとって悪いものではないと答える人が時々いる。しかし、その答えは、死の何が悪いのかという問いにとって肝心なことではありえないと私は思っている。以下の二つのストーリーを比較してみよう。


 ストーリー1。 あなたの友人は、遠くの太陽系を探索するために地球の100年に相当する旅に出かける宇宙船に乗りこむところだ。宇宙船が戻ってくる頃には、あなたはとっくに死んでいるだろう。さらに悪いことに、宇宙船が打ち上げられて20分後に、地球と宇宙船のすべての無線連絡が、それが帰還する100年後まで途絶えてしまったとしよう。あなたは親友とのコンタクトをすべて失った。


 ストーリー2。 宇宙船は打ち上げられたが、打ち上げ25分後に爆発してしまい、乗組員は全員即死した。



 ストーリー2の方が悪いはずだ。だが、なぜだろう? 離別は理由になりえない。なぜならストーリー1にも離別はあったからだ。ストーリー2の方が悪いのは、あなたの友人が死んだからだ。それがあなたにとって悪いのは、あなたは友人のことを心配しているからだ。でも、死の知らせを聞いてあなたの心が乱れるのは、死んだことがその親友にとっても悪いからなのだ。しかし、死ぬ人にとって死が悪いものだということがどうしてありえようか? 


 
 この問題を考えるに当たって、われわれが何を問題にしているのかについて明確にしておくことが大事だ。特に、われわれは、死のプロセスが悪いものになりうるかどうか、悪いとしたらどれくらい悪くなるのか、という点を問題にしているわけではない。死のプロセスに痛みを伴うことがありうるということにはまったく議論の余地はない――まったく不可解でない――と私は思っているからだ。しかし、死が痛みを伴うものである必要はない。結局、私ならば睡眠中に安らかに死にたいと思っている。同様に、自分が死ぬときのことを思い描くことは不快な経験だろう。だが、それが意味をなすのは、死がそれ自体として悪いものだとわれわれが見なす場合に限るのだ。とはいえ、まったくの非存在(sheer nonexistence)は、どうして悪いことなのか?



 多分、非存在(nonexistence)が私にとって悪いのは、痛みのように内在的な意味においてではないし、失業が貧困を招き、それが今度は苦痛や悩みをもたらすという道具的な意味においてでもなく、比較的な意味においてだ――それは経済学者が機会費用(opportunity costs)と呼ぶものだ。死が比較的な意味において私にとって悪いものであるのは、私が死んでいる時、生が私に欠落している(I lack life)からだ――もっと具体的にいえば、生の中の良いものが私に欠落している(I lack the good things in life)からなのだ。死がなぜ悪いかについてのこの説明は、剥奪説(deprivation account)として知られている。



 剥奪説は概して正しいように見えるが、それでもそれですべてが説明できるわけではない。一つ考えなければならないことは、何かが正しいならば、それが正しい時がなければならないように思えるという点だ。しかし、死が私にとって悪いものならば、いつ死は私にとって悪いものになるのか? それは、今ではない。私は今死んでいないからだ。私が死んだ時はどうだろう? しかし、死んでいるなら、私は存在していないだろう。古代ギリシャの哲学者エピクロスはつぎのように書いた。 「だから、死とは、害悪の中で最も恐ろしいものであるが、われわれにとっては無に等しいものだ。なぜなら、われわれが存在している限り、死がわれわれと共にあることはないからだ。しかし、死がやって来るとき、われわれは存在しない。死は、生きている者にも死者にも関わることはない。生きている者にとって死はないからだし、死者はもはや存在しないからだ」。


 もし死が私にとって悪いものになる時をもたないのであれば、多分それは私にとって悪いものではないのだ。あるいは、すべての事実にはそれにふさわしい時刻を特定できるという仮定を疑問視するべきなのかもしれない。時刻を特定できない事実というものもありうるのではないか?


 月曜日に私はジョンを撃ち殺したとしよう。私は、銃から発射される弾丸によって彼を傷つけたが、出血はスローで水曜日まで彼は死ななかった。一方、火曜日に私は心臓発作を起こし死んでしまう。私はジョンを殺したが、それはいつのことか? 満足のいく答えはないように思える! だから、時刻を特定できない事実は存在するし、死が私にとって悪いものだということも、そういう事実の一つなのである。


 あるいは、すべての事実の時刻が特定できるのであれば、いつ死が私にとって悪いものになるのかを言う必要が出てくる。おそらくわれわれは、死が悪いものになるのは私が死んだ時だ、と主張すべきなのかもしれない。しかし、そう主張するならば、以前のあの難問に逆戻りしてしまう。私が存在しないときに、どうして死が私にとって悪いものとなりえよう? あなたにとって何かが悪いものとなりうるのは、あなたが存在している場合に限る、ということは正しくないだろうか? この考え方を存在条件(existence requirement)と呼ぼう。


 われわれはこの存在条件を拒否すべきであろうか? 確かに、典型的なケース――痛みを伴ったり、失明したり、職を失ったり等々のケース――では、あなたにとって悪い事態が生ずるのは、あなたが存在している限りのことである。しかし、多分、何かがあなたにとって悪いものになるために、あなたが存在する必要はない場合もあるのだ。比較的な意味で剥奪が悪いと言えるような例がそのような場合に当たる。

 
 残念ながら、存在条件の拒否は、受け入れがたい意味合いを伴っているのだ。なぜなら、非存在がある人――その人が存在しなくても――にとって悪いものでありうるならば、非存在は決して存在しない人にとっても悪いものになりうるからだ。それは、単に可能的な人間(a merely possible person)、存在したかもしれないが実際には生まれることがなかった人間にとっても、悪いものになりうるのである。


 そのような人について考えることは難しい。しかし、試みてみよう、その人をラリーと呼んでみよう。今、われわれのどれくらいがラリーに同情を感じているだろう? おそらく誰も感じてはいないだろう。われわれが存在条件をあきらめるなら、ラリーに対して同情を禁じる理由はなくなる。運が悪いことに、私はもうじき死ぬだろう。しかし、ラリーはもっと運が悪い。彼は一度も生命を得たことがなかったのだから。


 おまけに、単に可能的な人間はたくさんいる。どの位いるだろうか? 非常に大まかに見積もって、現在地球上に70億人がいることを考えるならば、およそ10の32乗人の可能な子孫がいることになる――そのほとんどは存在することは決してないだろう! 3世代も数えれば、既知の宇宙にある粒子よりも可能的な人間の数は多くなるだろうし、しかも、そのほとんどすべては生まれる必要もないのだ。



 それは言いようもない巨大な道徳的悲劇だと言いたくないのであれば、存在条件に立ち戻ることによってこの結論を避けることはできよう。しもし、そうするならば、もちろんエピクロスの議論が待ちうけているのだ。われわれは、実際、哲学の袋小路に陥ったのではないだろうか? もし私が存在条件を受け入れれば、死は私にとって悪いものではなくなるのだが、それはかなり信じがたい。あるいは、存在条件を放棄することによって、死は私にとって悪いものだという主張を維持することはできる。しかしそのとき、ラリーやその他の10の32乗もの無数の人々が決して生まれることがないことは実に悲劇的なことだと私は言わなければならなくなる。それも、先の対案と同じくらい受け入れ難いように思われるのだ。

 
 われわれは存在条件を誤解したのかもしれない。それは、われわれが理解したほどのことを求めてはいないのかもしれない。存在条件の二つのバージョンを区別して、大胆なバージョンと穏やかなバージョンを考えてみよう。穏やかなバージョンとは、何かがあなたにとって悪いものになりうるのは、あなたが何らかの時点に存在している場合に限る、と主張する。大胆なバージョンは、何かがあなたにとって悪いものになりうるのは、あなたがその何かと同じ時点に存在している場合に限る、と主張するものとする。 

 
 もしわれわれが穏やかな条件を受け入れるならば、あなたは、悪いことが起こるのと同じ時点に存在する必要はない。しかし、穏やかなバージョンは、非存在がラリーにとって悪いものだということも意味しなくなる――なぜならラリーはそもそも存在していないからだ!  対照的に、先週10歳で死んだ子供のことを気の毒だと思うことはできるが、それはその子供が、短期間ではあれ、実際に存在したからだ。だから、穏やかな存在条件を受け入れれば、われわれは二つの極端な結論を避けることができる。しかし、それもまた直観に反する意味合いをもつのだ。


 ある人が素敵で長寿の人生を送っているとしよう。その人は今90歳だ。さて、その人が50年しか生きれなかったと想像してほしい。その方が彼にとってより悪いものであるのは明らかだ。そしてもしわれわれが穏やかな存在条件を受け入れるならば、われわれは確かにそう言うことができるのだ。なぜなら、50年生きようが90年生きようが、何らかの時点で存在しているのは確かだからだ。さらに40年生きれたはずなのに、それを失ったとしたら、それはあなたにとって悪いことだ。しかし、今、50年生きるかわりに、その人がたった10年しか生きられなかったと想像してみよう。それはさらに悪いことだろう。その人が生後1年で死んだと想像してみよう。それはさらに悪いことだろう。生後1時間では? さらに悪いことだろう。最後に、その人がまったく存在しなかったことにしてみよう。ああ、それは悪いことではない、となるのだ。


 でも、待ってくれ。それが悪くないとどうして言えるのか? しかし、それこそ穏やかな存在条件を受け入れたことに含まれるのだ。もし私が誰かの生命を縮めていった末に、完全に縮めてしまってその人がまったく生まれなかったことになるならば、その人は、何らかの時点で存在したという条件を満たさなくなる。だから、われわれが生命を縮めていくにつれて事態を一層悪いものにしたのだが、最後に残った1秒の何分の1かを切り捨てたとき、われわれは事態をさらに悪いものにはしなかったのだ。今われわれは疑わしいことは何もしなかった。穏やかな存在条件を受け入れるならば、そう言わなければならないように思われるのだ。


 もちろん、存在条件をまったくもっていないならば、この世に生れて来なかったことは最悪のことだと言うことはできるだろう。しかし、もしあなたがそう言うならば、あなたはラリーやあの生まれなかった数知れぬ人々のことを気の毒に感じる状況に逆戻りしているのだ。 ………(以下略)






 シェリー・ケイガンはイェール大学の哲学の教授である。このエッセイは、エール大学出版社から先月出版された彼の著書『死(Death)』から抜粋・改変したもの。



」(おわり)





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