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意味のある人生とは? (2) [海外メディア記事]

  「人生の意味」について考えるエッセイの後半を紹介する。
 

  こういう内容の文章に慣れていない人のために、かいつまんで概要を示しておこう。

 ・ 人生の意味は、主観的な価値と客観的な価値がふれあう所にあるはずだ。つまり、単に主観的に「俺の人生は有意義だった!」と凶悪な殺人者が言い張っても、それに同調する人がほとんどいなければ(実際、同調する人は多くはいないと思うが)、その人生には意味がないことになる。




 ・ だから、ある程度、誰もがそこに何らかの価値を認めてくれるもの(ウルフが言う「客観的な美点」)を「意味ある人生」は持っていなければならない。

 ・ もっとも、価値や美点といっても、それは道徳的なものである必要はないし、道徳的に疑わしいものであってもよい。物語りのテーマとなりうるような美点であればいいのだ。

 ・ しかし、いまの時代は経済的な損得勘定を人生のメイン・テーマとする人が増えてしまった。いかに儲けるか・いかに良い商品を手に入れるか、などという物語的なテーマにならないことをテーマとして追及している人が多数になっている現代は、かえって意味ある人生は得がたいものになっているので、だからこそ哲学が率先してこの問題を考えるべきなのである・・・・



 ・・・・まあ、こんな感じだろうか? 人生の有意味性を物語性の方向で理解しようとすることが、筆者であるTodd May氏のアイディアのようだ。

  人生を送るうえでパンやお金がなければ大変困ったことになるだろう。だけど人生に物語りがなくなり語るべき何ごともなくなってしまうことも、それに劣らず困ったことだ。無意味の砂漠が一面に広がっているだけの風景に、人は長くとどまることは出来ないからだ。

 うろ覚えだが、シモーヌ・ヴェーユがどこかで「詩のない状態こそ最大の不幸」というようなことを言っていたような気がするが、ヴェーユの「詩」をTodd Mayの「物語り」に置き換えてみれば、Todd Mayの真意がよりはっきりするのかもしれない。




September 11, 2011, 5:45 PM
The Meaningfulness of Lives
By TODD MAY

http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/09/11/the-meaningfulness-of-lives/




人生の有意味性 (2)



何が人生を意味あるものにするのかを理解するポイントは何か? 単に人生をやり過ごすだけで良いのではないか?





 私たちが良い物語りやその登場人物には結びつけるが、私たちが良い道徳に結びつける価値とは違う価値というものが存在する。フィクションの登場人物は情熱的だったり、冒険好きだったり、どっしり構えていたり捉えどころがなかったりする。『白鯨』におけるイシュマエルの冒険心、『イングリッシュ・ペイシェント』におけるキップの静かな情熱、『響きと怒り』におけるディルジーのどっしりした態度や『見えない都市』におけるマルコ・ポーロの捉えどころのなさをここで考えてもらいたい。こうしたフィクションの登場人物について言えることは、私たちの人生にも言えるのだ。ある人生がこうした価値の一つまたはそれ以上を具体化していてその人生を生きている人にとって魅力的に感じられるとき、その人生は、その限りで有意味的なのだ。人の人生によって表わされる物語的な価値というものがあって、それは道徳的な価値には還元できない。またそれは幸福にも還元できない。そうした物語的な価値は単に主観的な感じ方の問題ではない。物語的な価値は単に感じられるものなのではなく、生きられるものであるからだ。物語的な価値はそれ独自の領域を構成するが、その領域は人生の有意味性について反省する哲学者によって概して認識されてこなかったものである。


 たとえば、情熱的な人生は自由奔放に過ごすことができる。夢中になれることを次から次へと開拓して乗り換える人もいれば、たった一つのことに夢中になってこだわる人もいるが、いずれにしても、何もためらうことなく、人はそれに跳びこんでいく。情熱的な人は水泳や詩やコミュニティー作りや募金活動に身を投げだす(ときにはそれら全部に打ちこむことがあるかもしれない)。そのような人生は、多分、意味のある人生だろう。それが完全には道徳的な人生ではないかもしれない場合であっても、そう言えるのである。

 私たちはこのような人々を知っている。その情熱のゆえに道徳的には信用ならないと言えそうな行動に走るような人々を。情熱的な愛し方をする人は、愛の残り火が冷え始めているときでも、肉体的な関係を続けることがある。強い選手が最良のチームメイトでないこともある。このような人々に対する私たちの態度は葛藤をはらむ。私たちはある意味では彼らを賞賛するが、ある意味では賞賛しない。これは、意味のある人生が良い人生とは必ずしも一致しないからだ。道徳的に良い人生が、その人生を送っている人にとって意味あるものと感じられないことがあるように、意味のある人生も道徳的に信用ならない人生になりうるのである。


 以上のことを誤解して、有意味性と道徳性とは何の関係もないのだと受け取ってはならない。その両者は、ある種の道徳的な限界点では一致するのである。邪悪な人生は、それがどれほど情熱的であったり確固としたものであっても、私たちはそれを有意味的と呼ぼうとはしない。しかし、道徳的な制限内であれば、有意味的な人生と道徳的な人生との関係は複雑になる。両者はぴったり重なりあうことはないのである。



 こうしたことはなぜ重要なのか? 何が人生を意味あるものにするのかを理解するポイントは何なのか? 単に人生をやり過ごすだけで良いのではないか? あるレベルでは、それに対する答えははっきりしている。もし私たちが意味のある人生を送りたいと思うのであれば、私たちは、何が人生を意味あるものにするのかについて何ごとかを知りたいと思うだろう。そう思わないのであれば、盲目的に振る舞っているだけになってしまう。とにかく、私たちのほとんどにとって、それを知ろうとすることは、自分の人となり(who we are)の一部にすぎないのだ。それは、私たちが夜中に眠れないままベッドに横になっている原因の一つなのである。


 別の理由もある。その理由は、私たちが生きている時代にもっと結びついている理由である。以前のコラムの中で、私は、現在の私たちは自分自身を買い手としてか売り手としてかのいずれかとして考えるようにせかされている、と書いた。私たちは、商品の売り手か、リターンを求める投資家になるように言われている。どちらの人生のタイプも、現在の人生を支配するキャラクターであるとしても、私には特に意味あるものとは映らないのである。それは、そうした物語のテーマ――買うこと、投資すること――が、そこから説得力のある人生の物語りが作られる素材になることは滅多にないからなのだ(私が「滅多にない」と言うのは、たとえば、情熱的だが道徳的に信用のおけない(しかし道徳的な限界を超えてしまって無意味になることのない)投資の人生というケースもあるにはあるだろうからである)。そこには、ウルフが「客観的な美点」と呼ぶものが欠けている。確かに、私たちはあれこれの物を買わなければならないし、ショッピングを楽しむことだってある。それに、限りあるエネルギーや金銭をどこに投入するかに全く無関心でいられるはずがない。しかし、そんなことが意味のある人生のテーマになるだろうか? 私たちは、ネットやショッピングが得意な人について、だからその人は本当に生きる術を知っている人だ、と言うだろうか? 


 私はいまの時代を経済の時代と呼んでいるのだが、こういう時代だからこそ、意味のある人生についての問い――それはどの点にあるのか、どのように意味ある人生を送ればいいのか、といった問い――を発することがますます重要になってきているのだ。哲学は、私たち一人一人が持つべき意味ある人生という独特のあり方を定めることはできない。哲学は、私たち一人一人に、私たちに割り当てされた軌跡をどのようにたどったらいいのかを語ることはできない。しかし、哲学は、私たちがこれらの問いを考察するための枠組みについて反省し、そうすることによって、ひょっとしたら手にすることができないかもしれない明晰さを提供することができるし、提供すべきなのである。これこそが哲学のあるべき姿である。哲学は、私たちが自分の人生についてどう考えたらいいのかを理解するうえで――その人生のすごし方については私たち一人一人に任せるほどの謙虚さをもちながら――手助けをすることができるのである。



」(おわり)







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