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高まる貧困問題に直面する日本 [海外メディア記事]

    久しぶりに日本の地方に足を運んだ MARTIN FACKLER氏。やはり彼の記事は読ませますね。
   しかし、ため息が出るような現実。北海道に行かなくたって、これが至る所で見られる現実であることは、念を押すまでもないでしょう。 

http://www.nytimes.com/2010/04/22/world/asia/22poverty.html

「  高まる貧困問題に直面しようとする日本


午前中はボックス・ランチを作る
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午後は新聞配達
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芽室、日本―――51歳の寡婦であるサトウ・サトミは、二つの職から得ている17,000ドル(=158万1000円)足らずの年収で10代の娘を育てていくのは辛いと身にしみて感じていた。でも、昨年秋、政府が初めて公式に貧困ラインを発表したとき彼女は驚いた――彼女は貧困ライン以下だったからである。

 
 「貧困という言葉は使いたくないのですが、確かにうちは貧困家庭です」とサトウさんは言う。彼女は、午前中は、ボックス・ランチを作る仕事をし、夕方になると新聞配達をする。「貧困という言葉は日本ではあまり使われないんですけどね」。

 何年間も経済の停滞と収入格差の広がりが続いた今になってようやく、かつては平等を誇っていたこの国は、自国に多くの貧しい国民がいること、しかもその数が増大しつつあるという事実に目覚めつつある。昨年10月に厚労省は、2007年、日本人の6人に1人、つまり2000万人が貧困状態にあったことを明らかにしたが、それは国民を唖然とさせ、可能な対処策についての論争に火をつけたが、それは一向に収まる気配を見せていない。


 多くの日本人は、自国民が一様に中流であるというお馴染みの神話にしがみついているので、15.7%という日本の貧困率がアメリカの17.1%というOECDの数字に近いものであることにショックを受けた。アメリカ社会が誰の目にも不平等であることは、日本では蔑みと憐れみの目をもって見られていたからである。


 しかし、それと同じくらい驚くべきことは、政府が1998年以降ずっと密かに貧困の統計をとり続けていながら、問題があることを否定していた(そうではないことを示すエピソードが度々あったにもかかわらず)ことを認めたことだった。政府高官や貧困問題の専門家によれば、こうした秘密主義は、鳩山首相率いる左寄りの政権が、日本の伝説ともなった秘密主義的な官僚たちをもっとオープンにしてみせる(社会問題に関しては特に)という公約を掲げて、昨年夏、長年この国を支配してきた自民党にとって代ったときに、終焉を迎えた。


 「政府は貧困問題については知っていたのですが、それを隠していたのです」と、非営利団体反貧困ネットワークの代表湯浅誠は言う。「現実に直面するのを恐れていたのです」。

 
 国際的に認められた公式にしたがって、厚労省は貧困ラインを、日本の平均的家計収入の半分である22,000ドル(=204万円)に設定した(4人家族に対して)。研究者の推定では、1990年代初頭に不動産と株式市場が崩壊して、20年に及ぶ収入の停滞と下落をもたらしてからというもの、日本の貧困率は2倍になったらしい。

 厚労省の発表は、合衆国のような高い犯罪率も、都市部の腐敗も、厳しい人種の分裂もない比較的均質的な日本では容易に見過ごされやすい(とソーシャル・ワーカーが言う)問題を浮き彫りにするのに役立った。専門家やソーシャル・ワーカーによれば、日本の貧困層は、中流の快適を享受しているかのような外見を取り繕うとするので、見た目で見きわめるのが難しいのだという。


 日本の貧困層のほとんどは、貧者の烙印を押されるのを恐れて、自分の窮状を認めたがらない。サトウさんのように、日本のシングル・マザーの半分以上は貧しい――合衆国の数字とほぼ肩を並べる水準である――が、サトウさんにしても彼女の一人娘マユさん(17歳)にしても、自分が貧しいことを必死で隠そうとする。2人とも表向きはニコニコしているが、友達や親戚が休暇のこと――それは2人にはかなわぬ贅沢なのだ――を話題にするとき、「心では泣いているのです」と彼女は語る。


 「わが家は貧しいのと言ってしまうと世間の目が集まるでしょ、だから隠していたいのです」とサトウさんは言う。彼女は、アメリカの中西部を思わせる平坦で、木が一本も見当たらない農地に囲まれたこの小さな町の積み木のような公営住宅に住んでいる。

 彼女によれば、建設機械の技師だった夫が3年前に肺がんで亡くなったとき、手もとにはほとんどお金がなかったという。一家の困窮は1990年代の終わりに始まったという。日本の地方の多くでもそうだったように、この北の北海道でも景気の後退が深刻化していた時期だった。


 一日に二つの仕事をこなしても、関節の痛みだとか目まいだとかますます多くなる健康不安に対処するために医者にかかったり薬を買う余裕はないのだという。昨年、彼女の娘が高校に入学するとき学校の制服を買う(ここでは、みんなそうする必要がある)ために700ドル要したとき、彼女は一日2食に切りつめて、そのお金を貯めたのだった。


 貧困の専門家は、サトウさんのケースを典型的と呼ぶ。彼らによると、日本の貧困層の80%以上はいわゆるワーキング・プア、つまり社会保障は何もなく年金給付もほとんど出ない低賃金のパート労働をしている。食べていけるだけのお金はもらえるが、友達と外食したり映画を見に行ったりという普通の活動に参加するほどのお金ではないのである。

 
 「繁栄した社会における貧困とは、ぼろぼろの服を着て汚らしい床の上で生活するということではありません」。そう語るのは、社会福祉が専門のイワタ・マサミ日本女子大学教授。「彼らは携帯電話や車をもっているのですが、社会のそれ以外の人々から切り離されてしまっているのです」。


 労働市場の規制緩和や低賃金の中国との競争が何年も続いたおかげで、日本にはこうした低賃金の職があふれてしまった、と経済学者たちは言う。こうした職の多くが、時代遅れの社会的セーフティ・ネット(それは、ほとんどの人が終身雇用を期待できた時代にあって最後の頼みの綱として何十年も前に制定されたものだ)による保障の対象外であるという事実が、事態をさらにいっそう悪化させているのである。


 このことが巨大な亀裂を生み出し、そこに何百万という日本人が吸い込まれていった。ヨコハマ・マサミ(60歳)もその1人で、彼は、離婚後うつ病と戦っていた10年前に終身雇用の職を失った。3年前まで転職するたびに賃金が低くなっていく職を転々とした挙句、東京の路上でホームレスに転落したのだ。
 
 
 それでも、都の生活保護の担当官は、まだ働ける肉体をもった男性であるという理由で、彼の生活保護の申請を三度にわたって却下した。「日本では一度転落したら、それを受け止めてくれる人はいません」とヨコハマ氏は言う。彼はやっとわずかな政府援助金を受け取り、夜警としてパートの職を見つけた。


 日本で大きな注目を浴びたのは、7人に1人の子どもが貧困の状態にあるということを示す数字だった。これは、新政権が子ども1人につき月額270ドルの手当てを支給したり高校の教育費を削減すると約束した理由の一つになった。


 けれども、ソーシャル・ワーカーたちは、貧困層が学習塾の費用や、日本のプレッシャーのかかる教育制度のなかで子どもたちが競っていくことができるようにするための他の費用を賄うことはできないだろうし、いつまでも続く低賃金労働のサイクルに子どもたちを委ねるしかないのではないかという懸念を抱いている。


 「慢性的な下流層が生み出される恐れがあります」。東京に本拠を置き貧しい子どもや孤児を支援している非営利団体「あしなが基金」の理事のクドー・トシヒコ氏はそう語った。



 サトウさんも、娘のマユに関して似たような懸念を口にした。マユは専門学校に行ってアニメの声優になりたいのだと言っているが、サトウさんは、年間1万ドルの授業料はとても払えないと言った。


 それでも、彼女は、表向きは元気である(たとえ、心の中では諦めているとしても)。最大の問題は話し相手が1人もいないことだと言う。こんな小さな町でも自分と似たような苦境に直面している家族は他にもたくさんいるはずだと彼女は言ったが、誰も自分の貧困を認めようとしないので、そういう家族を見つけるのは不可能なのだ。


 「夜ベットに入ると、こう思うんです。「どうしてこんな状態になってしまったのだろう? どうしてこれほど一人ぼっちなのだろう? 」」とサトウさんは言った。「でもいつも、考えないようにしているんですよ」。



 







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