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イェルサレムという場所 (2) [海外メディア記事]

 三部構成の記事である「宗教の発生地」の第二部です。純粋に学問的な話で終始するかと思いきや、最後は、やはり、どうにもならない政治的な話題に戻ってしまいますね。イェルサレムでは、政治的でないものは何一つないということを再確認させられた次第です。しかしロシアの政商の名前まで出る展開になるとは予想外です。やはりユダヤ人のネットワークはすごいというか・・・

 蛇足ながら、「シオニズム」のもとになった「シオン」は、文中にも書かれているように、元来はエブス人の丘(城砦)の名前。これだけからも、「シオニズム」の独善性が判るはずです。   

26.05.2009 Von Clemens Hoges
http://www.spiegel.de/spiegelgeschichte/0,1518,628373-2,00.html



「 第二部:「わたしたちのアイデンティティーも問題なのです」 

  しかしダヴィデ王がかつて実際に存在していたことになれば、伝説の背後に真実が隠されていたことになるのだろうか? 聖書は千回以上もダヴィデ王に言及しているが、それ以外の場所でダヴィデ王を示唆するものは何もなかった――しかしついに、1993年に考古学者がイスラエルの北部で二つの碑文を刻んだ石碑を発見した。その一つは「ダヴィデの家」に言及し、第二の碑文には「イスラエルの王」という文字が並んでいたのである。

 その発見の10年前に同僚の考古学者たちは、今日のイェルサレムの旧市街の真南のところに巨大な土台を、そしてその下にトンネルにつながる長い入り口を発掘した。城壁はおそらく征服された都市のものだったのだろう。4000人ほどのエブス人が3000年前この丘の上に暮らしていた、彼らはこの城を「シオン」と呼んでいた。

 聖書によるとダヴィデ王はこの城砦の弱点を見て取った。それが「チソール」、つまり、エブス人が包囲されたときにケデロン渓谷の水源から水を引っぱってくるのに用いた秘密の地下水路だった。出撃隊がこの地下水路を通って都市の中に入り込み、シオンは陥落し――イェルサレムが誕生した。ダヴィデ王はすぐにこの都市を拡げ始めた。真っ先に彼がしたのは、宮殿を建設させることだった。


 ダヴィデ王が実在の人物でありこの丘の廃墟がかつてのシオンであるならば、王の痕跡も発見されるに違いない、と考古学者のエイラート・マザールは考えた。

 彼女は、スコップと発掘現場のほこりと聖書とともに大人になったような人だった。彼女の祖父は建国してまだ間もないイスラエルの考古学者のリーダー格と見なされていた。エイラート・マザールは今ではがっしりした金髪の女性である、彼女は女手一つで四人の子供を育てた、不信に陥るような暇はなかった。そして今でも聖書を信じている。「片方の手に聖書を、もう片方の手に発掘道具をもって仕事をしてるんですよ」。

 
 1997年、彼女はぺリシテ人がダヴィデ王の都市を攻撃する『サムエル記』のところを読んでいた。「攻撃の直前、ダヴィデ王は要塞へ降りていった」という一節がマザールの注意をひいた。「どこから降りていったのかしら?」とマザールは自問した。王は宮殿から出るしかなかったわけで、そうすると宮殿は少し高いところにあったはずである。

 
 1997年彼女は自分の理論を、エブス人の要塞の設計図を図解にして、専門誌『ビブリカル・アルケオロジー・レヴュー(Biblical Archaeology Review)』に発表した。図の中に彼女は一本の矢を書き込んだ。その矢は今日の神殿の丘の南にある一点を指していた。その下にはこう書かれていた。「ここに彼がいるに違いない」。

 
 考古学は時間のかかる仕事であるが、2005年にマザールは発掘を開始することができた。発掘して数ヶ月して、彼女は巨大な建造物の壁に突き当たった。5メートルもあるぶ厚い壁だった。その他に陶磁器や、地下水路、聖書に出てくる宰相の名前を刻む陶土の印章などが発見された。


 考古学者達は彼女の発見と発見場所に番号をつけていった。3000年前に人間ダヴィデがここで暮らしていたというマザールの理論の核心をなすのは"Locus 47”と呼ばれる場所である。それは壁のわずかな亀裂なのだが、キッチンタオルで覆い隠そうとすればできるほどのわずかな亀裂である。いま、"Locus 47”にはつぶれたプラスティックのコップが置いてあり、岩の割れ目から雑草が顔を覗かせている。しかし、マザールがそこで発見した陶器の破片を分析したり建造様式から推測して、彼女はこの廃墟の年代を正確に測定できると信じている。それは紀元前1000年である。これこそダヴィデ王の宮殿の一角なのだというのである。


 この年代測定を疑う考古学者もいるが、それよりも大きな問題がある。マザールや彼女にしたがう同僚の学者達は、これまで古代都市のほんのわずかの部分しか発掘できなかった。というのも、ダヴィデ王の息子ソロモンがすでに都市の中心を北部の隣接する丘へと移し替えたからである。もっと後になるとバビロニア人がきてダヴィデ王の街を焼き払ってしまった。 

 
 マザールは地中に埋まっていた地下水路に、たぶん古代イェルサレムの最後のユダヤ人が、敵から逃れようとした際に持っていたランプを当時のままの形で見つけた。「そこで生が終わったのです」と、シュピールマンは言う。


 何百年もの間、この丘は放置されたまま、ゴミ捨て場になり、オリーブが植えられ、山羊が草を食む牧草地となった。そしてアラブ人が廃墟の上に建物を建てた。彼らの居住地は周囲の谷に広がり、アラブ人たちはそこをシルワンと名づけた。今日、そこには5万人のパレスチナ人が暮らしている。古代のイェルサレムは、パレスチナ人の家々の下にある。それを発掘しようと望むものは、そこに暮らす人間を追い払わなければならない。第二の問題は、イスラエルの古代史を管轄する役所は発掘作業に金を払うことはできない。しかしエラードという名のユダヤ人入植運動を進める組織は金をもっている。シュピールマンのプロジェクト『イル・ダヴィデ』のバックにいるのもエラードである。右派のグループが役所勤めの考古学者たちに金を払っているのである。何百万ドルもの金がどこから出るのか、シュピールマンは明かさない。しかし、新たな観光センターの竣工式のときに主賓として招かれたのはユダヤ系ロシア人で寡頭資本家のロマン・アブラモヴィッチだった。


 シュピールマンの部下はどんどん前に進んでいる。パレスチナ人から家を買い取ることもあるが、それができなければ没収するのだ。イスラエルにはこうしたことに対する実用的な法律があって、たとえば、パレスチナ人が長期間住んでいない家は没収することができるという法律がそれである。それに、イェルサレムのアラブ人は住宅の建築許可を決してもらえないに等しいので、多くのアラブ人が自宅を形式的には非合法的に建ててきたということも、こうした事態を生み出す一因になっているのである」。(つづく)
 






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