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イェルサレムという場所(3) [海外メディア記事]

 シュピーゲルの特集記事「ここにくるとわれわれの胸は高鳴る」の最終回です。それぞれ重い宿命を背負った、ここで登場する3人、ジャワド・シーヤム、ドロン・シュピールマン、ヨニ・ミズラッチの顔写真がスライド・ショウ(記事の中に割り込む形の写真)で見ることができます。

http://www.spiegel.de/spiegelgeschichte/0,1518,628373-3,00.html


 「 第3部 「私はここで暮らしていたいのです」


 イェルサレム、イスラエル、エラードは連携して作業しており、「シルワン」という地名はすでにパレスチナ人から奪い取られてしまった。いまでは、「シルワン」だった地区は「イル・ダヴィデ」と、大通りのワディ・ヒルワー通りは「イル・ダヴィデ登坂道」と呼ばれている。


 空いている土地があれば掘削が開始され、そこに建てられる家にエラードのシンパが移住することもある。移住者は、テロリストが電話線を切断する場合に備えて、屋根に無線アンテナを取りつけ、街灯にはカメラを設置している。安息日の散歩に際しては自動小銃を携行し、車体に張り巡らされた金網が彼らのオフロード車を守っているが、こうして不恰好になった車はまるで亀のように見える。


 シュピールマンにとって重要なことは、ここが常にユダヤ人の土地であったし、ダヴィデ王の後は何もやって来なかった、少なくともシャベルですぐに片づけられないようなものは何もやって来なかったことを示すことである。彼の配下の考古学者たちはイスラム風の建物を一つとして残さなかったし、数百年を経た墓地を骨と一緒にパワーショベルでさらい上げさえしたのである。

 「私たちは定住地のない民でした。今日でもメッカやメジナに相当する場所をもっていないのです。私たちに残されているのは、地上のこの小さな一区画、イスラエルだけなのです。それはとても危うい存在なのです」。だから、できるだけ深く根を張らなければならない、できれば、今後3000年にわたって根が成長できるほど深く、というのである。

 
 「彼らは考古学を自分たちの計画の道具として利用しているのです」と語るのは考古学者のヨニ・ミズラッチ。本来、考古学者はあらゆる文化の痕跡を調べるはずのものです。しかし彼らは、この土地が彼らのものであるという証拠のみを探しているのです」。
   

 ミズラッチは髪を後ろで束ね、白髪がそろそろ目立ってきており、敵対者は古くから知っている。「エイラート・マザールは優秀だが」と彼は言う、「彼女は連中のスケジュールどおり動いている。彼女は聖書を証明したいのだろうけど」。

 ミズラッチ自身、長い間、文化遺産の役所のために発掘作業をしてきたし、しかもパレスチナの土地で発掘作業をしたこともあった。ボディーガードに守ってもらわなければならなかった。「考古学者は人々の目に映るものを変えるだけではなく、それがどう見えるかも変えてしまうのです。それは絶大な権力ですよ」。そしてその権力はしばしば誤用されるのだという。

 それゆえ、ミズラッチは自らの職を投げ出してしまった。「決断したわけですが、その後の人生も決断つづきです」。今、彼はエッセイを書いたり、ダヴィデ王の街の廃墟を観光客に案内している。どの石がどんな物語を語っているかを、観光客に伝えるのである。しかしまた、どこで歴史的真実が終わりどこで政治的な虚構が始まるのかも伝えている。去年一年間、ミズラッチや彼の仲間とともに廃墟を巡り歩いたのは1500人だったが、シュピールマンの観光ガイドによって、ダヴィデ王理論を真実として吹き込まれた観光客は50万人にのぼる。


 友人のジャワド・シーヤムがいなければ、ミズラッチにチャンスはなかっただろう。シーヤムの人生は複雑である。彼の妻はドイツのパスポートをもってボスニアからやってきたキリスト教徒のセルビア人である。彼自身も大きなアラブ人一族の出だが、大学教育はとりわけベルリンで受けた。彼は5ヶ国語を話し、博士論文(アメリカ研究)はもう頭の中で出来上がっている。しかし彼にはパスポートがない、イェルサレムの第三種居住者であることを証明するカードしかないのである。彼は税金を払う義務があり、選挙権はなく、イェルサレムは彼の住む地区を荒廃するにまかせている。

 シーヤムは抵抗勢力を組織している、長い時間をかけてそのための手筈を学んできたのだ。インティファーダのときまだ少年だったが、彼は石を投げ、その後ファタハの一員となって(彼の言葉を借りると)帝国主義と戦った。

 彼はもう石を投げない、いま彼には弁護士がいる。彼は、イスラエルの非合法的な進撃について講演を開き、『ワシントン・ポスト』紙と中東政策についてのインタビューを行い、観光客のグループと話し合う。シーヤムは、証人がいることを望んでいるのだ。彼がまた石を投げてくれれば良いのに、そのほうが話が早く済むのだから、と願うイスラエル人もいる。


 シーヤムは、イスラエル人とパレスチナ人とともに、ある団体を設立し、家を一軒共同で借りた。鉄筋がむき出しになっていて、ヤモリがざらついた壁をすばやく横切ったりする所だが、ここでは教師が女性たちに、日常の暮らしで勝手が判るように、ヘブライ語を教えてくれる。彼らは新聞や、ウェブサイトを作っており、時にはサーカスがやって来ることもある。「私たちはシルワンでの生活に意義を与えようと思っているのです。ここは、ただきれいにすれば良いだけのゴミの山ではないのです」。


 パレスチナ人は、どんな家、どんな1平方メートルの土地をめぐっても争う。どの家族も自ら進んであきらめることはしないが、最近になってまた、覆面をした特殊部隊の兵士に守られたブルドーザーがやって来るようになった。警官が家族を家から無理やり連れ出し、キャタピラが家の壁を砕いていった。

 
 いつもこの調子なのだが、それでもシーヤムは弱気になったりはしない。「私はここで暮らしていたいのです」と彼は言う。ここが父の家なのだから。そこはダヴィデ王の街の中心地のほぼ近くなのである。「私たちのアイデンティティーも問題なのですから」とシーヤムは言う。どうして妥協が成り立ちうるだろうか?

 
 ジャワド・シーヤムは39歳。エラードのドロン・シュピールマンは35歳、考古学者のヨニ・ミズラッチは38歳。彼らは同じ世代に属しており、この世代が中東の未来を決めるのだろう。しかし、この世代が平和を締結できるとは、いまのところ見えないのである」。
















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