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ピカソとセザンヌ [海外メディア記事]

 エクス=アン=プロヴァンスで開催されている『ピカソ-セザンヌ』展についての、『ル・モンド』紙の批評です。読めばわかりますが、ものすごく手厳しい。こんなこと書いていいの? と誰もが思うのではないでしょうか?
http://www.lemonde.fr/culture/article/2009/05/25/picasso-et-cezanne-une-confrontation-en-manque-d-oeuvres-majeures_1197699_3246.html

 この批評記事で『ル・モンド』がビビったわけでもないでしょうが、もっと穏やかな紹介コーナーが追加されたので、口直しにそちらもどうぞ。ほとんど絵だけのスライドショーです。
http://www.lemonde.fr/culture/portfolio/2009/05/26/comment-cezanne-a-nourri-picasso_1198267_3246.html#ens_id=1197776


「 ピカソとセザンヌ  名画なき比較

  この冬にパリのグラン・パレで好評を博した『ピカソと巨匠たち』展では、セザンヌはほとんど不在と言ってもいい扱いだった。このことは、1906年から9年までセザンヌがピカソにとって持っていた意義を考えると、それにまた、このスペインの天才の作品に時どき現われる人気のないエクス=アン=プロヴァンスに対する暗示を考えるならば、不可解なことであった。

 忘れ去られていたわけではない。場所の割り振りの結果なのである。この二人の画家の関係を扱うべきは、パリではなく、セザンヌの生れ故郷エクス=アン=プロヴァンスでひと夏をかけて行われる展示会においてであるということは了解済みだったのである。

 両者をめぐる問題は、キュビズムの分析家の多大な関心の的であったのだが、それは、ブラック、ドゥラン、ピカソが1907年以降行った幾何学的手法が、彼らが当時発見した―1906年のセザンヌの死をうけて、大規模な回顧展がサロン・ドートンヌで開催されたのは1907年―セザンヌの風景画や裸婦画から引き出されたからである。三人の若き画家たちは、風景や女性の肉体を形成する諸要素を角ばったり紡錘形の立体によって表わそうと試みた。彼らは、肌や石には黄や茶のオークル、葉や影には暗い緑といったセザンヌの絵の主調を模範とした。彼らはセザンヌの静物を眺め、ブラックとピカソはそれを単純化することから始め―対象を減らし、平面も減らしていき―、1909年以降はそれらを解体し断片化していくことで、急速にセザンヌから遠ざかっていった。

 このプロセスを示すための策は、誰が見ても描かれる対象や共謀関係や違いに気がつくように、縁のあるカンバスを並べることである。それが出来るには重要な絵画がなければならない。ロンドンとフィラデルフィアにあるセザンヌの『女性大水浴図 (Les Grandes baigneuses)』は、ニューヨークにあるピカソの『アヴィニヨンの娘たち』と同じくらい門外不出の作品である。同じ問題は、もっとも重要な風景画や静物画にも当てはまる。

 さて、エクス=アン=プロヴァンスの展示会には、近代絵画のこの決定的な時期を解明してくれるような傑作は非常に乏しい。この展示会は、セザンヌの絵が乏しく、最初の会場で訪問者に提供してくれるのは、断片的な逸話のみである。その手の話に馴染んでいないならば、その逸話を再構成することにとても苦労するだろう。わずかな絵画を目にすることはできるし、そのうちのいくつかは一級品であるが、それら作品間の関係は明瞭に設定されているわけではない。

 さらに先に進んで、この二人の画家の間の更なる関係、間隔もあるし省略に満ちた関係に捧げられた展示でも同じ曖昧さの印象はついて回る。そこでも、ピカソの年譜をそらんじられる人でもなければ、カード遊びをする男たちや、アルルカンや、画家とそのモデルをめぐって何がなされているのかを把握するのは難しい。平行関係は、時には正確だが、時にはこじつけめいている。ピカソがバテシバに興味を覚えた時、それはセザンヌを通してというよりは、クラナッハとレンブラントを通してであった。それに、1960年代の初めピカソの念頭にあったのは、セザンヌの女性大水浴図よりは、マネの草上の昼食だった。



 部屋の飾りつけのために

 1959年から1961年にかけて、ピカソはヴォーヴナルグ城で生活し仕事をしていた。そこはセザンヌがあれほど頻繁に描いたサン-ヴィクトワール山に近いところではあるが、セザンヌは、城からの観点で描いたわけではない。ピカソはセザンヌの故郷にいたのだから、セザンヌのことを思っていたと主張できるだろうか? カンバスははっきり逆のことを語っている。1959年4月に描かれたサン-ヴィクトワール山の風景画三点は、構図的にも手法的にもセザンヌ的ではない。部屋の飾りつけのために手に入れたアンリ2世の食器棚にピカソが捧げたカンバスも、ジャックリーヌの肖像画と同様にセザンヌ的ではない。ヴォーヴナルグの時期にセザンヌは不在だったのではないかと問いかけるほうが、無理やり認める振りをするよりもまだましだっただろう。

 もちろん、そんなことをすれば展示会の大いなる存在理由は薄弱なものになっただろう。つまり、観光客を呼び寄せ収入アップをはかるという存在理由である。2006年、グラネ美術館とエクス=アン=プロヴァンス市は、多くの人を惹きつけるセザンヌ展を開催することで、うるわしの名誉回復作戦を成功させた。セザンヌは、生前、同郷人から嘲けられ侮蔑されていた。しかし今や、セザンヌは同郷人の子孫たちにとって収入源の一つとなった。2006年セザンヌのおかげでエクス=アン=プロヴァンス市とその地方に入る収入は6000万ユーロにのぼると、エクス=アン=プロヴァンス市長マリーズ・ジョワッサン・マジーニは、その就任演説で振り返った。市長の夢はかなえられたのか? 今年はピカソが同程度の収入をもたらしてくれるという夢が? この観点からみると、展示会があいまいな印象しか与えないことやキュビズムの発生状況などは無視できる問題なのである」。












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