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最期の言葉 [海外メディア記事]

 人生の最期に何を言い残すか。何も言わないか。選択肢はいろいろあるが…。そのことを取材したエッセイの一部が『ニューヨーク・タイムズ』に載っていた。少し前のものだが、記憶に残るものなので紹介することにした。

 

 
Exit Lines


By BRUCE FEILER
Published: December 28, 2012

http://www.nytimes.com/2012/12/30/fashion/finding-the-words-or-not-to-say-goodbye.html?pagewanted=all






 最期の言葉



 私の父は、50年間毎日、大学時代のルームメイトと話をしていた。二人は800マイルも離れた違う州で暮らしていたが、ビジネス・パートナーであり、相談相手であり友達だったからだ。ある日、父が電話をかけたところ、友達は出なかった。彼は、前日の晩、末期の病で亡くなっていたのだ。彼は父に病のことを語ってはいなかった。二人が別れの言葉を交わすことはなかった。





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「言葉は役に立たない」。ジーン・シスケル(左)とロジャー・イーバート(右)。二人は別れの言葉を交わさなかった。





 私がこの夏にこのエピソードを思い出したのは、話術で有名な映画監督で(どんな点から考えても)友人だったノーラ・エフロン(Nora Ephron)が死んだときだった。彼女も、ほとんどすべての友人に末期の病であることを伏せて亡くなったのだ。メリル・ストリープは多くの人のやるせない思いを代弁した。「私たちは不意打ちを食らったのです」と、彼女はエフロンの追悼式で語った。「亡くなった人に怒りを覚えることは本当に愚かしいこと、でも私はそんな感情を押さえるのに必死だった」。フランク・リッチは『ニューヨーク』誌でこうつけ加えた。「われわれの中には――そこには私も入っているだろうが――腹を立てるものもいた」。後になって、私は父に電話をかけた。あの友人に怒りは感じなかったな、と彼は言った。最後の会話は難しいものなのだと。翌日、彼は私に鋭いワン・センテンスの電子メールを送ってきてくれた。「別れの言葉を交わした後、何と言ったらいいんだ?」


 私はそれ以来、この問題について考えをめぐらしてきた。別れの会話をもっとストレスがないようにし、もっと有意義にするにはどうしたらいいかについての最善の考え方は何だろうかと。



 何も言わない:  東洋の文化でも西洋の文化でも、最期の言葉にはほとんど神秘的な意義がこもるものだが、それは、最期の言葉が、深い洞察を明らかしたり人生の意義を覆っているベールをとり去る可能性を秘めているからでもある。日本の詩人は死に臨んで俳句を書いた。イエスは十字架上で神に対して素直に受け入れる言葉を発したと言われている。


 しかし、末期の患者が実験的な薬を試みたり、しばしば延命装置にいつまでもつなぎ止められたりしている最近では、いつのやりとりが最後になるかを見きわめるのはしばしば不可能である。患者自身がそうした会話をしたいかどうかを決めるべきだと言う専門家もいる。サンタ・フェにある「ウパヤ・禅センター(Upaya Zen Center)」の修道院長で『死にゆく者とともにいる(Being With Dying)』の著者であるジョアン・ハリファックス(Joan Halifax)は、自分の意見は「死にゆく者にまかせる」ですと述べた。


 「いやだと言っているのに医療の論理でそれを認めないとしたら、それは残酷なことです」と彼女は言った。何も言わないことも、時にはまったく問題ないのだ。


 ガンのために何度も手術を受け一度は死亡宣言を受けた映画評論家のロジャー・イーバート(Roger Ebert)もそれに同意する。彼は、電子メールのインタビューで、映画での死のシーンが、私たちに深い言葉を残すようにという現実的でないプレッシャーを与えている、と述べた。「結局のところ、そういうシーンは、プロが上手い脚本を書き監督をし演技したものですからね」と彼は書いた。(彼の好きな(最期を描いた)映画は『愛と追憶の日々』、『カールじいさんの空飛ぶ家』、そして2012年のパルム・ドール受賞作の『アムール』)。



 彼のテレビ番組のパートナーだったジーン・シスケル(Gene Siskel)の死期が迫ったとき、二人は別れの言葉を交わさなかった。「家族、とくに子供に気苦労をかけたくなかったので、彼は病状を公表しなかったのです」とイーバート氏は書いた。「それは死にゆく人の特権だし、それを私は尊重しますよ」。「ほかに何をやってもうまくいかないときは、言葉も役に立たないでしょ」とイーバート氏はつけ加えた。



手遅れになる前に何かを言う:  末期の患者をしばしば苦しめる劣化の問題のみならず、タイミングの問題を回避するために、多くの専門家は、みんながまだ健在のうちに、重要なやりとりをしておくことを勧めている。イェール大学で哲学を教えていて『死(Death)』の著作があるシェリー・ケーガン(Shelly Kagan)は、いつが最後の会話になるのかが判る確率は「限りなくゼロに近い」ので、前もって重要な会話を進んですることで後悔の可能性を避けるべきだと述べた。これには、当人がどんな医療の介入を望んでいるか、当人があなたにとってどんな意味をもっていたかの告白が含まれる。



 「人生の終わりに近づくにつれ、人は一種の清算をするものなのです」と彼は言った。「そんな会話の中でできることの一つは、その人が自分に何をしてくれたかを語ることです。その人が自分に何を教えてくれたのか。それに対する感謝の気持ちを持つことで、その人は自分の人生が良かったものだという感覚を深めることができますからね」。


 ケーガン博士によると、博士の母親が死んだとき、彼女は最期の床では会話ができる状態ではなかった。後になって、子供たちは彼女が書き残した手紙を発見した。そのうち一通は孫に宛てたもので、幸せな人生を願うものだった。それは、母の心がまだ強かったときに、有意義な会話をする彼女なりの方法だったのです、とケーガン博士は述べた。家族は葬儀の後で声に出してその手紙を読んだそうだ。



当たり前のことを言う:  会話をしなければというプレッシャーを緩和する一つの方法は、雄弁でなければならないという思い込みを減らすことだ。結局、映画批評家のイーバート氏から良い評価を得ようとしているわけではないからだ。深い感情の一瞬から最大限のことを伝えようとしているだけであるからだ。ダートマス・ヒッチコック医療センターの緩和ケアの所長で『最善のケア(The Best Care Possible )』を著したアイラ・バイアック(Ira Byock)は、愛する人は自分自身や患者から過大な期待をすべきではないと述べた。



 30年以上にわたり末期の患者に付き添ってきたバイオック博士は4つの簡単な表現を勧めた。「私をゆるしてください(Please forgive me)」。「あなたをゆるします(I forgive you)」。「ありがとう(Thank you)」。「愛しています(I love you)」。



 言い残したことを言ったら、別れの言葉を言うかどうかはあまり大したことではないですね」とバイオック博士は言った。「私の経験では、何もかも言ってしまったら、二人でいる時間に祝福のような気分が入り込んきますよ、だって、いっしょに時間を過ごす有難さを喜ぶこと以外に何もすることはありませんからね」。



 行為で言う:  もっと簡単なアプローチは言葉などすっかり忘れて、あなたがどのように感じているかを示すことを、患者のためにあるいは患者といっしょにすることです。TVをつけて野球の試合を見る、好きな曲を聴く、古い手紙を読む、ポーチに座って雨を見る、スクラップブックをめくる。


 ハリファックスさんのお勧めはペットを用いること。これはホスピスでもたまに使うテクニックだ。「ベッドに犬を置くのです」と彼女は言った。「私たちの人間関係には重い感情が立ちこめているので、猫やコッカ・スパニエルがベッドにやってくるだけで、患者の気持ちは晴れるmのです。自分は安全で裁かれるわけではないと感じるからです。介護者は手を差し出してペットをなで始めて、そしてそれから、その手はゆっくりと死にゆく人へと向かうことになります」。



 もう聞きとることができない人にも言う:  もし患者が意思を伝えることができない場合は、どうしたらいいか? 一方通行の会話しかない時でも、別れの会話をするべきなのか? 私が話を聞いた誰もが、そうすべきだと答えた。「何はともあれ、そう言うべきです」とバイオック博士は言った。「たぶん、ちょっとしたものをプレゼントするような気持ちでね。原則として、どんな関係でも、あなたが配慮できるのは、その関係の自分側だけですからね。どんな応答が返ってくるかは予想などできるものではありません」。



 ケーガン博士によれば、多くの証拠から判断して、無理にでも声に出して言えば、そうしないと言葉にならない考えをハッキリさせられるのだという。「受け手の反応があるときの方が、その可能性は高いでしょうけど」と彼は言った。「反応がない場合でも、声に出すことは何かの役には立つのです。そうしないと思いつかなかった考えが浮かんでくるかもしれません」。


 最後のエッセイの一つで、ノーラ・エフロンは69歳で亡くなった友人のジュディの死を嘆いた。「私は死についてジュディと話し合うするつもりだった」と彼女は書いた。「私達のどちらかが病気になったり死ぬ前に、あけすけな会話をして、不測の事態が起きたときあなたはどうしてほしいかを話し合うつもりだったのに」。しかし、「あの腫瘍が見つかってからは、話し合うことはできなかった」。



 エフロンにとっても、私の父にとっても、多くの私たちにとっても、愛する人が死にゆくときに別れの言葉をかけるのは、もっとも辛いことの一つである。だから、元は簡単な挨拶だった言い回し――「神のご加護がありますように」――が、無力さの合い言葉となったのだ。カート・ヴォネガットが言ったように、「さよなら(Goodbye)はすべての人間のメッセージのうちで最も空虚だが最も内容のつまったものだ」。多分、その言葉を忘れるのが最善なのだろう。たぶん、感謝の方がより良い感情なのだろう。


 ハリファックスさんによると、彼女の父親が死の最終段階に入ったとき、彼の苦しみは深く、その光景は見ていて辛かった。「父にかけてやる言葉はありませんでした」と彼女は言った。「でも、何かとても単純で自然にわき上がるようなものが込みあげてきて、私は祈りのようにそれを繰り返していました。「ありがとう、パパ(Thank you,Daddy )」と」。






」(おわり)




















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