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被官神社(2)――狐の領分

 まずは、被官神社に関係する写真をアップしておこう。

1.「被官稲荷神社」と刻印された額束(がくづか)

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2.台東区教育委員会による被官神社の説明が記されたプレート

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3.祀られるお稲荷様(1)

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4.祀られるお稲荷様(2)

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5.油揚げの奉納

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  額束(がくづか)には「被官稲荷神社」と刻印されている。「被官」の民が「稲荷神社」に信心を寄せることによってできたわけだが、台東区教育委員会のプレートに書かれているような新門某がたまたま稲荷神社に祈願に行ったという由来譚は疑わしく、いやそれ自体は正しいとしても、それ以前から浅草寺の下男衆と稲荷社との結びつきがあったはずである。「稲荷」も「被官」も歴史的に由緒あるものだが、「稲荷」のほうが歴史は古い(稲荷社は渡来系秦氏の創建によると言われている)。それに対して、「被官」は中世から近世以降の身分階層に由来するものである。

  「被官」とは、台東区教育委員会の説明に書かれているようなものではなく、隷属民、売られてやって来た下男・下女の類のことだろう。小学館の『日本国語大辞典』によると、「被官」の項目の③には「(中世・近世)地頭に隷属する百姓」、④には「(近世)町家の下男・下女のこと」とあって、「夜るの物を売りては冬の夜すがら凍果て、子共を人の被官になして」(『仮名草子 浮世物語』)の一節をひいている。人身売買の結果として下男・下女として隷属的な生を送らざるを得なかった人々が心の拠り所を寄せたのが稲荷神社だったのだろう。こうしたことは、実際に「被官神社」に行って、(浅草神社と比べて)そのあまりの狭さを見て直感的に理解できるのではないかと思う。いや、狭いだけではない。浅草神社の奥の日の当たらない所に、それこそ申し訳程度に存在しているのである。その立地自体が、この神社を奉じる人々の立場を物語っているのである。

 (なぜ、稲荷神社がこういう意味合いを持つようになったか、つまり最下層民の信仰の対象になったかということは歴史的に興味深い。おそらく、渡来系の氏族の(ひいては古代の天皇制の)大々的な地盤沈下が関係しているはずだが、こうしたことはいずれ網野善彦あたりの著作をよく読んでからでないときちんとしたことは言えそうもないので、ここら辺でやめておく)。


  私が上の写真を撮りに行ったとき、油揚げが奉納されていた。いつもこうなのか、たまたまなのかは知らない。だけど、この神社がまだ打ち捨てられずに信心の対象になっているのを目撃できて心温まるものを感じた。












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