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フォートフッド事件の容疑者についての錯綜した手がかり(3) [海外メディア記事]

  フォートフッド事件の容疑者が、宗教的に過激になってから、アフガン行きを命ぜられて乱射事件を起こす当日の朝までの様子が簡潔に描かれています。これで記事は終わりですが、ハサン少佐の最後の言葉は訳していて久しぶりに悪寒のようなものを感じました。 

 ちなみに、少佐は、警察との銃撃戦の結果、一命は取りとめたものの一生半身不随だろうと言われるほどの傷を負ったようです。写真は、永別のラッパが奏でられる中敬礼をする兵士たち(http://www.guardian.co.uk/world/gallery/2009/nov/10/fort-hood-shootings-barack-obama?picture=355435151)と、犠牲者一人一人に哀悼の意をささげるオバマ大統領夫妻(http://www.guardian.co.uk/world/gallery/2009/nov/10/fort-hood-shootings-barack-obama?picture=355435153)。 

 Tangle of Clues About Suspect At Fort Hood
 By SCOTT SHANE AND JAMES DAO; REPORTING WAS CONTRIBUTED BY BENEDICT CAREY AND ERICA GOODE IN NEW YORK, DAVID JOHNSTON AND JANIE LORBER IN WASHINGTON, AND SERGE F. KOVALESKI AND JAMES C. MCKINLEY JR. AT FORT HOOD. Published: November 15, 2009
  
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9903EED8153BF936A25752C1A96F9C8B63&sec=&spon=&pagewanted=3
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9903EED8153BF936A25752C1A96F9C8B63&sec=&spon=&pagewanted=4



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 「フォートフッド事件の容疑者についての錯綜した手がかり(3)

「もし(イスラム教徒の)兵士が良心的徴兵忌避者の資格を得られないならば、「有害な出来事」が起こるかもしれないと彼は警告し、ハサン・アクバル軍曹の事件を引き合いに出した。ハサン・アクバルは、2003年クウェートで、兵士たちが眠るテントに手榴弾を投げつけ銃を乱射することによって、2人を殺害し14人を負傷させたことで有罪判決を受けた。

 その発表を聞いて研修医たちはざわめいた。そのイスラム過激派的な思想の見本と思われるものによってある者はショックを受け、ある者は怒り出した。しかし、別の研修医や学部のメンバーは、その発表をイスラム教に対するアメリカ軍の対決姿勢の分りやすい分析と見なしたし、イスラム教の文化に対して鈍感だと見られないように警戒するようになった、と言う者もいた。

 
 公衆衛生の修士課程での講座で、ハサン少佐は、「なぜ対テロ戦争が対イスラム戦争となるのか」という題の講義を、環境衛生の授業でおこなった。不適切で理解できないと思う同級生もいたし、少なくとも一人の学生は教授のところに不平を言いに行ったわ、と以前の学生は語った。

 2008年までには、ウォルター・リードの年長の教員の中には、ハサン少佐の精神科医としての能力のみならず、国家に対する忠誠心をも問題視する者もいたと、彼のことを知っている人々は言った。誰かがその問題を軍の上官のところにもって行ったかどうかは不明である。また、適切な指導をほどこせば、ハサンは有能な精神科医になれたし、イスラム教徒の兵士が直面するプレッシャーに関する彼の理解力があったのだから、軍にとっての貴重な研究者にもなれたはずだと主張する者もいた。


 今年の3月から5月にかけて、ハサン少佐はウォルター・リードの精神科の入院病棟での勤務に戻されたが、同僚たちはそれを救済期間と見なした。看護師のエリック・ノトキン中尉は、しばしば回診をともにし、自殺の脅迫や自殺未遂をしてイラクやアフガニスタンから本国に送還された患者を見て回った。


 「私たちが見た中で最悪だったのは、頭や顔を撃ち抜いたのに生き延びた患者たちです」とノトキン中尉は言った。「手足を固定された恰好で、私たちのところに運ばれて来るのです」。 


 ノトキン中尉は、物静かで控えめなこの精神科医がだんだん好きになった。彼は他の医師とちがってデスクをもたず、看護師や技師と一緒に長いテーブルでカルテを書いていたからだ。イスラエルに旅行に行った後で、ハサン少佐とイスラエル-パレスチナの紛争や、9.11のテロ攻撃やイスラム教への偏見について話し合ったことを彼は覚えていた。彼には、過激思想のかけらも見当たらなかった。


 モスクでも、ハサン少佐は長続きする友人関係を作らなかった。そこでボランティアで働いていた非-イスラム教徒のデビー・シャンクマンは、インドから移住してきたばかりで英語がまったく話せないために取り乱した女性をなだめながらハサンと一時間ほどすごしたことを覚えていた。


 「あの時は知的で、思いやりがあって人助けを進んでするタイプに見えました」とシャンクマン氏は語った。「妙だなと思ったのは、彼が二度と私に話しかけなかったことです」。 


 
 フォート・フッドでの新生活


 7月、ハサン少佐は異動でフォート・フッドにやって来た。戦争の仕事で慌しく、質店やペイデイ・ローン用の小売店、酒場や入れ墨店といった、基地の街には欠かせないむさ苦しい店に囲まれた陸軍最大の基地である。

 
 最初の数週間、ハサン少佐は長期的な計画を練っているようだった。彼は、イスラム教徒の兵士にとっての連絡窓口としての仕事に応募した。彼は、夜間セラピストとして開業するためのフォート・フッドの住所を記した名刺を印刷した。そうした副業は、上官が認めるならば陸軍の規則で許可されているのである。


 彼はキーリーンのモスクの常連となり、しばしばイスラム教徒の兵士にはイスラム教国での戦闘は求められるべきではないという自説を披露した。彼は1日に5度祈った、彼を知る人々は語った。あるとき、彼は自分がアフガニスタンに派遣されることを知った。


 9月までに、ハサン少佐は拳銃を購入し、ガン・ショップの隣のストリップ・クラブに通い始めた。クラブの支配人のマシュー・ジョーンズは、わずかだったが彼がやって来るたびに、個室でラップダンスをするための料金を払って6~7時間はずっといた、と語った。


 乱射事件の前日、ハサン少佐は、食料、衣服、家具を含む持ち物を人にあげ始めた。隣人の一人パトリシア・ヴィラに、彼は、まだドライ・クリーニングの包みに入っているスポーツ用のコート2着とビジネス・スーツ1着をあげた。「売ってもいいよ」と彼は言った。売れなかったら救世軍にあげて、とも。

 
 乱射事件の朝、彼は、もう一人の隣人のレナ・ブラウンの家に立ち寄った。彼女が友人とコーヒーを分け合っていたときだった。彼は二人に新しい版のコーランをあげて、マルヤム(Maryam)、つまり、処女マリアの物語りのモハメッド版であるマルヤムの所を読むようにと勧めた。   
 「彼にこれからどこへ行くのと尋ねたら、アフガニスタンですと言ったわ」。ブラウンさんはそう語った。それでどんなお気持ち? と彼女が尋ねると、彼は答える前に一息ついた。

 「私は神の仕事を果たすつもりです」と彼は答えたのだった。」


   
  

 






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