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ジャコメッティ展 [海外メディア記事]

 スイスのバーゼルにあるバイエラー財団美術館で「ジャコメッティ」展が開催されています(10月11日まで)。『ルモンド』紙の記事から。時間が許せば、行ってみたいですね(しかし、たぶん無理)。

 ちなみに、デニーズ・コロンによるジャコメッティの写真(ただし、この記事の記者の念頭にあったものとは違う写真でしょう)と「荷車の女」を下に掲げておきました。
  

 
Harry Bellet
Article paru dans l'édition du 02.07.09.


http://www.lemonde.fr/culture/article/2009/07/01/alberto-giacometti-l-eblouissement-dans-la-distance_1213946_3246.html#ens_id=1214033

 「アルベルト・ジャコメッティ 魅了する距離

 入り口から、驚きの声があがる。「部屋を間違えたわ」。訪れた女性がそう叫んだ。バイエラー財団は実に気前がよく、複数の展示会を、しばしば同時に開催することがある。アルベルト・ジャコメッティと彼のか細い彫刻を見に来た人は、非常に色彩豊かで、ほとんどフォーヴィズム的な絵画が飾られているのを見てびっくりするかもしれない。高地の牧場を描写した「山羊や羊のいる日の当たる斜面」や「ピッツ・ドゥアン登山」もある。しかしこれらはジャコメッティの作品なのだ。最初の絵はアルベルトの父ジョバンニ(1877-1933)の1900年の作品で、二番目の絵はジョバンニの従兄弟オーギュスト(1877-1947)の1912年の作品なのである。 

 アルベルトは、その二つの作品に挟まれた1901年に生まれた。画家の息子であり、画家の従兄弟でもあった彼は、ディエゴ(1902-1985)の兄でもあった。ディエゴはやがて驚くべき家具を作り出す。サン・ポール・ド・ヴァンスにあるマーグ財団美術館のスナック・バーの客が腰掛ける不便だがとても美しいイスがその一例である。

 しかし、ヒーローはアルベルト(1901-1966)である。1991年にパリ近代美術館で、画家のレミー・ツォーグ、建築家のジャン-フランソワ・ボーダンとともにジャコメッティ展を開催したシュザンヌ・パジェに言わせると「これこそ今日なしうる最高の回顧展です」。

 
 この言葉の当否は、次の点を顧慮して判断していただきたい。出展された作品は150点、そしてその多くが、最近ジャコメッティ展が何度か開催されたにもかかわらず(一つはベルリン、次いでチューリッヒで行われた、エジプト芸術がジャコメッティに与えた影響をテーマにした展示会。いま一つは、ジュネーブのラート美術館での展示会。三つ目は、2008年ジョルジュ・ポンピドー・センターで行われた、パリ・ジャコメッティ財団のコレクションに焦点を合わせた展示会)、めったに出展されたことのないものであるか、これまで一度も出展されたことのない作品なのである。パリのジャコメッティ財団が20作品、チューリッヒのジャコメッティ財団が35作品を貸与した。その他の作品は様々な美術館、個人のコレクション、エルンスト・バイエラー自身に由来する。バーゼルの財団の創始者であるこの美術商は、実に300を越えるジャコメッティ作品を所蔵していた。バイエラーは、まだその内のいくつかは自分の手許に置いているという。そしてその他の作品もどこにあるかは把握しているという。


 
  取りつかれたようなデッサン


 この回顧展を訪れようとする人には、人出の多い時間帯は避けるように忠告したい。というのも、ここで(そしてここでのみ)明らかになることがあって、それは作品の展示や配置に最大限の工夫が凝らされているために、バイエラー財団美術館を構想したレンゾ・ピアノの建築が差し込むことを許す自然光が、ブロンズ像の光沢や、ジャコメッティが絵画で展開する取りつかれたようなデッサンを最もよく浮かび上がらせてくれる、ということである。ここで、この彫刻家の天分が明らかになるのだが、同時に、回顧展の主任ウルフ・キュスターの天分も明らかになるのだ。財団の理事長サミュエル・ケラーとともに、キュスターは細部のもつ意味を深いところまで追い求めた。ジャコメッティの作品ほど「台座におく」ことが難しいものはないのだが、台座を使った結果は、単純さと知性によって見るものを驚かせずにはおかないものとなった。

 
 こうした展示方法には、ジャコメッティの画家としての生涯を通して、苦しみの中で生み出された作品を思わせるものがある。家族の励ましをうけながらであっても、最良のアトリエ(その一つが、1922年1月パリにやって来てから通ったブールデルのアトリエであるが)ですごしたとしても、ジャコメッティは、14区の朽ちかけたアトリエで長い間貧しい暮らしをしていた。当時の写真(中でもデニーズ・コロンの写真は印象に残る)には、大きすぎるツイードの背広を着て、ぼろぼろの壁の部屋の中にいて、これから造形しようとする湿っぽい何本もの粘土の山に埋もれるようにして、視線を遠くに投げかけているジャコメッティの姿が写っている。視線が遠くに向いていたのは、彼が大酒呑みだったからという理由ばかりではないだろう。

 
  
 彼のモデルになった人はみな口をそろえて言う。ジャコメッティは、絶えず、自分の仕事を疑問に付していたと。彼と付きあいのあった最後の画商エメ・マーグは、ジャコメッティに自分の作品をやり直すのを止めさせる唯一の手段は、それを銅の像に鋳造しようと提案すること以外にはなかったほどだった。どの彫刻のことを言ってるんだと尋ねるジャコメッティに対して、マーグは、「全部ですよ」と答えたという。こうしたことは、当時としてはめったにあることではなかった。モデルに相対している息子を描いたジョバンニの絵「彫刻家」を前にすると、自然とそうしたエピソードが脳裏に浮かんでくるだろう。「彫刻家」は1923年の作品である。


 当時、ジャコメッティはシューレアリストになろうとしている時期だった。奇妙な寄せ集めのような作品、時に不快だったり、しばしば意味が判然とせず、モデルの入り込む余地のないような作品を作った。かと思うと、あるものを非常にクローズアップしたような作品を作った。一生涯ずっと関心の中心にあったのは、自分の強迫観念だったのだろう。画面いっぱいに描きなさいと教わっているのに、洋ナシをあまりに小さく描く息子を見ていらだち、「見えるように描いたらどうなんだ!」と声を荒げて言った父親に対して、アルベルトは、僕には実際こういう大きさに見えるんだと答えたという。自分の目とモデルとのこのありそうもない距離感はずっと彼に付きまとった。このことは、「荷車の女(La Femme au chariot)」(現実の機能的な車輪のおかげで、女性を意のままに小さくしたり大きくしたりできた)から、「台座上の4体の女性立像(Quatre figurines sur piédestal)」(ニューヨークの画商のピエール・マチス宛の手紙が教えてくれるのだが、女性立像の釣り合いは、創作意欲をかきたてたキャバレーの舞台と踊り子たちから彼を隔てる乗り越えがたい距離によって課されたものだったという)に至るまでの作品で確認できるだろう。この距離、これらの距離を、ウルフ・キュスターは展示会場の隅々にまでそのまま再現することができた。これが、あまり人出の多くないときにこの回顧展に行くさらなる理由である。人出が多いと味わえないものだからである」。
 

giacometti.jpg
chariot.jpg











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