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僧院生活の書の冒頭

 『時祷集』

 僧院生活の書

時間が近づき私に触れる。
澄んだ、金属的な鐘の音とともに。
私の五感は震えだす。私は感じる。私にはできるということを―
私は世界を造形するための一日をこの手に抱きしめる。

私が観て取るまで、何物も完成されたものはなかった。
すべての生成が、私のまなざしを受け取るために、静止していた。
いま、私のまなざしは成熟した、
私のまなざしが望む事物は、まるで花嫁が花婿のもとにやって来るように、私のまなざしのもとにやって来る。 

私には小さすぎるものは何もなく、小さすぎても私は愛し
それを黄金の地に大きく描き
それを高く掲げる、そして誰かは判らぬ
誰かの魂をそれは解き放つ・・・


私は私の生を生きる、
事物の上で次第に大きくなる輪を描きながら。
最後の輪を終えることはないだろう
だが試みるつもりだ。

私はめぐる、神の周りを、太古の塔の周りを
もう何千年の長きにわたり、めぐりつづけている。
まだ私には判らない、自分が鷹なのか
嵐なのか、大いなる歌なのかを。



(原文)

Erstes Buch

Das Buch von mönchischen Leben(1899)


Da neigt sich die Stunde und rührt mich an
mit klarem,metallenem Schlag:
mir zittern die Sinne. Ich fühle: ich kann --
und ich fasse den plastischen Tag.

Nichts war noch vollendet, eh ich es erschaut,
ein jedes Werden stand still.
Meine Blicke sind reif, und wie eine Braut
kommt jedem das Ding, das er will・・・

Nichts ist mir zu klein und ich lieb es trotzdem
und mal es auf Goldgrund und gross,
und halte es hoch,und ich weiss nicht wem
löst es die Seele los…

Ich lebe mein Leben in wachsenden Ringen,
die sich über die Dinge ziehn.
Ich werde den letzten vielleicht nicht vollbringen,
aber versuchen will ich ihn.

Ich kreise um Gott,um den uralten Turm,
und ich kreise jahrtausendelang;
und ich weiss noch nicht: bin ich ein Falke,ein Sturm
oder ein grosser Gesang.






  中学か高校の時分、格別文学好きというわけでもないのに、なぜか、リルケの詩集を時折読んだことがあった。だいぶ多くの時間が経過した後になって、もう一度、折に触れて、リルケの詩に向き合いたくなった。しばらく、気の向くまま彼の詩を取り上げて、下手な感想なぞを付け加えようと思う。私訳も掲げるが、これは、言うまでもないが、あくまで、自分の個人的な雑記の延長のようなものである。





 『時祷集』(Stunden-buch、the book of hours)とは、個人が一日の決まった時間に礼拝する時に使われた書のことで、中世には豪華な装丁の時祷書が数多く作られたようである。リルケは、『第一部 僧院生活の書』では、僧院でイコン(聖像画)の創作に没頭するロシアの修道士に語らせる形で、自分の詩作を進めていった。造形への腐心と、神への謙虚な祈りが一体となっているような表現の形式が、リルケの「文学空間」の始まりだった。

   
 'neigt sich die Stunde'・・・・これは、普通に訳せば「時間は傾き」だが、日の傾き、時計の針の傾き、鐘の傾きなどが複合しての「傾き」なのだろうか? しかし「近づく」とも訳すことはできる。「近づき、私に触れる」も捨てがたい。いずれにせよ、修道士のすぐ上で時を告げる鐘が響いているのであろう。

 
 'den plastischen Tag'・・・「造形的な一日」と訳すしかない所だが、そう訳すのは芸がないとも考えられる?  
 
 'Nichts war noch vollendet' ・・・・ 私が見ないうちは、何物もまだ未完成であるという予感。私が完成をもたらすという予感。こうした芸術家ならではの高揚した自負と、修道僧としての(神の前での)謙虚さという両極端の感情の間の振幅によって、これ以下の詩が展開していく。
 
 この詩の英訳者によれば、ここには「相互性」の意識があるのだという。「宇宙におけるわれわれの存在は相互的プロセスの一部である。事物は、現実的になるために見られる必要がある。われわれもそうであるし、神もそうである」。

’Goldgrund’・・・イコンならではの黄金の地。代表的な絵柄の作品を一つ掲げておく。

 イコン.jpg
 










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