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拒食症と自閉症は別物ではない [海外メディア記事]

 拒食症と自閉症とは遺伝的につながっているのではないかという記事を『タイム』誌から。 

By Maia Szalavitz Friday, Jun. 19, 2009

http://www.time.com/time/health/article/0,8599,1904999,00.html


「 拒食症と自閉症との遺伝的つながり?

 ロンドンのモーズリー・ホスピタルの摂食障害科では、拒食症は社会的障害とは見なされていない――そもそも心理的な障害とは見なされていないのだ。アメリカの治療者の大半は、(機能不全の行動の中でも特に)摂食障害の責任を完璧を求める親や、頬のこけた女優をメディアが理想化することに求めるけれど、モーズリーの研究者によると、根本の原因は社会からのプレッシャーとはほとんど関係がない。むしろ、拒食症は遺伝によって――おそらく、自閉症に結びつけられるのと同じ何らかの遺伝子によって――よりよく説明される、と彼らは考えている。


 ロンドンの研究者はこれら二つの病気の共通性を数年にわたって調べてきた。見かけ上、これら二つの病気はまったく異なっているように見えるが――自閉症の場合、患者は外の世界の人々とつながりをもつことが困難であるのに対して、拒食症に苦しむ人は他者に見られることによってへとへとに疲れてしまうように見える――モーズリーの研究者は、それぞれの疾病に顕著な特徴は類似していると指摘する。

 たとえば、拒食症の患者も自閉症の患者も偏執的に行動したり、硬直した考え方に苦しむ傾向がある。チック障害は、自閉症児によく表われるものだが、重度の拒食症の患者の27%にも見出される。どちらの病気の患者も、セット・シフティング(set-shifting)、すなわち事態の変化に応じて心の中で柔軟に行動を変えていくことに困難を覚えるのである。

 「自閉症スペクトラムの病気と拒食症が共有しているのは、注意の狭い焦点、変化に対する抵抗、細部への並はずれた注意です」。そう語るのは、ケンブリッジ大学自閉症研究センターの所長のサイモン・バロン・コーエン。彼は今回のモーズリー研究には加わっていない。

 過去の研究が示唆していることによると、拒食症の患者の約15%から20%は、自閉症スペクトラム障害の一つであるアスペルガー症候群をもっていると、モーズリー摂食障害科の科長のジャネット・トレジャーは言う。研究の示すところによると、これらの病気は、たまたまとはいえないような頻度で、一緒に生ずるのだという。自閉症と拒食症に対する同じ遺伝的素因が性に応じて違った形で現れることも考えられる、と彼女は言う。

 アスペルガー症候群と診断される少年は少女に比べて約15倍多く、拒食症を発症する少女は、少年に比べてほとんど10倍多い。どうして、女性において完璧を求める過度な意識がスリムであること――社会は女性の外見に関心があるのだから――に対する不健康なまでの執着となるのに対して、男性は、自閉症の子供によくあるように車や電車に執着するのかは容易に理解できる。「アスペルガーという診断が女性において少ない理由は、それが違った形をとるからなのでしょう。拒食症はその形の一つにすぎません」。そうバロン・コーエンは語り、それに付け加えて、拒食症に至るルートはいくつもあり、自閉症的な特徴がそれらすべてに現れるわけではないのかもしれないと語った。

 トレジャーの発見によると、飢餓状態そのものが硬直した思考や強迫観念のような自閉症的特徴を強化するのだという。この現象はあらゆる人に当てはまるが、拒食症の人々にはとりわけ当てはまるのだという。「拒食症の人は、体重が減少すると、自閉症の人のようになります」とトレジャーは言う。「他人の感情を解釈することができなくなり、自分自身の感情を制御できず、怖がったり怒ったりすると、その感情に圧倒されてしまうのです」。

 事実、専門誌『臨床心理学と心理療法( Clinical Psychology and Psychotherapy)』に今月発表した研究において、トレジャーと共同研究者たちが発見したところによると、体重が減った拒食症患者は、自閉症スペクトラム障害の人々の欠陥を調べるためにバロン・コーエンが考案した感情理解の標準的なテストにかけてみると、成績は思わしくなかった。そこで考え出された理論によると、空腹は脳を食物を得ようという課題に集中させるので、ストレスの原因となる他の要因と同じく、他人の感情を読み取るといった高度な認知の機能を閉ざしてしまうというものであった。


 ニューヨークのモンテフィオーレ・メディカル・センターの精神科に勤務する自閉症の専門家エリック・ホランダー博士によると、自閉症と拒食症をともに特徴づける「反復的な思考や行動、硬直した日課や儀式化した行為、完璧主義」は脳の同じ領域にたどれることを示す証拠があるという。どちらかの病気をもつ人をスキャニングによって調べたら、混乱によって強迫的行動や異常な社会的行動が生み出された時、前頭皮質のような脳の領域の活動に変動が見られたのである。


 「拒食症は高い確率で遺伝しますし、世代から世代に受けつがれます。それが不安や完璧主義のような(人生の早い段階における)一連のもろさによって引き起こされることは今となっては明らかです。こうしたもろさをもっていないならば、拒食症を発症することはないでしょう」。そう語るのは、カリフォルニア大学、サン・ディエゴ校で摂食障害プログラムの指揮をとるウォルター・ケイ博士。


 実用面を意識して言えば、このことが意味するのは、拒食症を発症する恐れのある子どもを特定するのに役立つ早期のリスク要因を研究者がピンポイントで指摘できるようになる――専門家が生後12か月くらいで自閉症の兆候を認識できるのとまったく同様に――かもしれない、ということである。「私たちは、自閉症が20年前に置かれていた状況に、いるのです。あの頃も同じ議論があって、母親が子供を自閉症児にしてしまうのだとうことが言われていましたし、ほとんどの理論や治療もそういう考え方に基づいていました」。ケイ博士は、自閉症は冷たく、怠惰で「冷蔵庫のような」母親によって引き起こされるという古い考え方を引き合いに出しながら、そう言った。「拒食症は自閉症と同様に生物学的な要因によって起こると私は思います。研究という点では、拒食症は20年遅れています」。 


 モーズリー・ホスピタルのトレジャーとその同僚によると、現在の治療も同様に時代遅れなのだという。1980年代後半、イギリスの研究者たちの最初期の研究は、10代の拒食症患者を治療するモーズリー方式として知られるようになったものを記述することだった。そしてそれが、対照標準のある試験において有効であると認められた唯一の治療法である。拒食症は環境の要因や低い自尊感情によって引き起こされ、しばしば入院型の治療センターでの集中的な治療を必要とするということを前提していた伝統的な治療とは違って、外来型のモズリー方式は心理学的療法や「親と子の分離」に重点を置かない。


 その代りに、研究者は患者や家族に食事を薬だと見なしなさいと説いて、介護者には、患者の体重を回復させるためにご褒美やポジティヴな圧力を用いるように勧められる。車を使ったり、10代の子が望む別の活動に行かせることは、食事を規則的に食べきるための動機となるだろう。プロザックのような、セロトニンのレベルに影響を及ぼし拒食症患者の強迫的思考を低減してくれる抗ウツ剤の投与は後にずらした方が良く、患者が健康的な体重に達するまでは駄目である――脳に十分栄養が行きわたらないと、投薬は上手くいかないのである。


 肝心な点だけを述べるならば、トレジャーとその同僚たちは、家族の機能不全が摂食障害を引き起こすという考え方を放棄したのであり、その代りに、家族には患者の回復を導くための手助けをするようにと要請する。ごく最近になって、モーズリー方式は新たなタイプの認知行動療法を取り入れた。それは、自閉症とのつながりに基づいて、拒食症の狭い思考法による日課を広げようと試みるものである。「われわれとしては、彼らがもっと柔軟になってもらうように試みているのです。彼らは自分の硬直した習慣を手放したくないし、われわれは、彼らがそこから脱却してもっと大きな視野をもてるようにしたいのです」。


 この治療は、2002年に拒食症を発症したラウラ・コリンズさんの14歳になる娘には上手くいった。「彼女はリンゴを食べているとき、自分の腕が大きくなるのが目に見えるように判ると思ったのです」。コリンズさんは、自分の娘の病気がおしゃれでスリムであることに対する強迫観念以上のものであることは明らかでした、と言う。コリンズさんは、モーズリー方式についての新聞記事を読み、それを積極的に試している医師を探した。「アメリカでは、ほとんどすべての治療法は、親を責めたり過小評価したりすることに基づいていますね」とコリンズさんは言う。今日、彼女の娘は大学で優秀な成績を収めており、コリンズさんは、摂食障害のための根拠に基づいた治療を家族が見つける支援をしているFEASTという団体を運営している。


 ケイ博士や似た考えの研究者は、モーズリー方式ともっと伝統的な家族療法を比較するための、臨床試験を6つの施設で開始した。カリフォルニア大学サン・ディエゴ校で、ケイ博士のグループは自閉症の患者を抱える家族に、1週間集中的にモーズリー方式を試してみる機会を提供している。彼によれば、「最初は」こんな短期間の治療が役に立つなんて「馬鹿げている」と思ったそうである。しかし「今は私も信者です。だれにでも効くというわけじゃないけれど、ともかく効くんですよ」」。








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イェルサレムという場所(3) [海外メディア記事]

 シュピーゲルの特集記事「ここにくるとわれわれの胸は高鳴る」の最終回です。それぞれ重い宿命を背負った、ここで登場する3人、ジャワド・シーヤム、ドロン・シュピールマン、ヨニ・ミズラッチの顔写真がスライド・ショウ(記事の中に割り込む形の写真)で見ることができます。

http://www.spiegel.de/spiegelgeschichte/0,1518,628373-3,00.html


 「 第3部 「私はここで暮らしていたいのです」


 イェルサレム、イスラエル、エラードは連携して作業しており、「シルワン」という地名はすでにパレスチナ人から奪い取られてしまった。いまでは、「シルワン」だった地区は「イル・ダヴィデ」と、大通りのワディ・ヒルワー通りは「イル・ダヴィデ登坂道」と呼ばれている。


 空いている土地があれば掘削が開始され、そこに建てられる家にエラードのシンパが移住することもある。移住者は、テロリストが電話線を切断する場合に備えて、屋根に無線アンテナを取りつけ、街灯にはカメラを設置している。安息日の散歩に際しては自動小銃を携行し、車体に張り巡らされた金網が彼らのオフロード車を守っているが、こうして不恰好になった車はまるで亀のように見える。


 シュピールマンにとって重要なことは、ここが常にユダヤ人の土地であったし、ダヴィデ王の後は何もやって来なかった、少なくともシャベルですぐに片づけられないようなものは何もやって来なかったことを示すことである。彼の配下の考古学者たちはイスラム風の建物を一つとして残さなかったし、数百年を経た墓地を骨と一緒にパワーショベルでさらい上げさえしたのである。

 「私たちは定住地のない民でした。今日でもメッカやメジナに相当する場所をもっていないのです。私たちに残されているのは、地上のこの小さな一区画、イスラエルだけなのです。それはとても危うい存在なのです」。だから、できるだけ深く根を張らなければならない、できれば、今後3000年にわたって根が成長できるほど深く、というのである。

 
 「彼らは考古学を自分たちの計画の道具として利用しているのです」と語るのは考古学者のヨニ・ミズラッチ。本来、考古学者はあらゆる文化の痕跡を調べるはずのものです。しかし彼らは、この土地が彼らのものであるという証拠のみを探しているのです」。
   

 ミズラッチは髪を後ろで束ね、白髪がそろそろ目立ってきており、敵対者は古くから知っている。「エイラート・マザールは優秀だが」と彼は言う、「彼女は連中のスケジュールどおり動いている。彼女は聖書を証明したいのだろうけど」。

 ミズラッチ自身、長い間、文化遺産の役所のために発掘作業をしてきたし、しかもパレスチナの土地で発掘作業をしたこともあった。ボディーガードに守ってもらわなければならなかった。「考古学者は人々の目に映るものを変えるだけではなく、それがどう見えるかも変えてしまうのです。それは絶大な権力ですよ」。そしてその権力はしばしば誤用されるのだという。

 それゆえ、ミズラッチは自らの職を投げ出してしまった。「決断したわけですが、その後の人生も決断つづきです」。今、彼はエッセイを書いたり、ダヴィデ王の街の廃墟を観光客に案内している。どの石がどんな物語を語っているかを、観光客に伝えるのである。しかしまた、どこで歴史的真実が終わりどこで政治的な虚構が始まるのかも伝えている。去年一年間、ミズラッチや彼の仲間とともに廃墟を巡り歩いたのは1500人だったが、シュピールマンの観光ガイドによって、ダヴィデ王理論を真実として吹き込まれた観光客は50万人にのぼる。


 友人のジャワド・シーヤムがいなければ、ミズラッチにチャンスはなかっただろう。シーヤムの人生は複雑である。彼の妻はドイツのパスポートをもってボスニアからやってきたキリスト教徒のセルビア人である。彼自身も大きなアラブ人一族の出だが、大学教育はとりわけベルリンで受けた。彼は5ヶ国語を話し、博士論文(アメリカ研究)はもう頭の中で出来上がっている。しかし彼にはパスポートがない、イェルサレムの第三種居住者であることを証明するカードしかないのである。彼は税金を払う義務があり、選挙権はなく、イェルサレムは彼の住む地区を荒廃するにまかせている。

 シーヤムは抵抗勢力を組織している、長い時間をかけてそのための手筈を学んできたのだ。インティファーダのときまだ少年だったが、彼は石を投げ、その後ファタハの一員となって(彼の言葉を借りると)帝国主義と戦った。

 彼はもう石を投げない、いま彼には弁護士がいる。彼は、イスラエルの非合法的な進撃について講演を開き、『ワシントン・ポスト』紙と中東政策についてのインタビューを行い、観光客のグループと話し合う。シーヤムは、証人がいることを望んでいるのだ。彼がまた石を投げてくれれば良いのに、そのほうが話が早く済むのだから、と願うイスラエル人もいる。


 シーヤムは、イスラエル人とパレスチナ人とともに、ある団体を設立し、家を一軒共同で借りた。鉄筋がむき出しになっていて、ヤモリがざらついた壁をすばやく横切ったりする所だが、ここでは教師が女性たちに、日常の暮らしで勝手が判るように、ヘブライ語を教えてくれる。彼らは新聞や、ウェブサイトを作っており、時にはサーカスがやって来ることもある。「私たちはシルワンでの生活に意義を与えようと思っているのです。ここは、ただきれいにすれば良いだけのゴミの山ではないのです」。


 パレスチナ人は、どんな家、どんな1平方メートルの土地をめぐっても争う。どの家族も自ら進んであきらめることはしないが、最近になってまた、覆面をした特殊部隊の兵士に守られたブルドーザーがやって来るようになった。警官が家族を家から無理やり連れ出し、キャタピラが家の壁を砕いていった。

 
 いつもこの調子なのだが、それでもシーヤムは弱気になったりはしない。「私はここで暮らしていたいのです」と彼は言う。ここが父の家なのだから。そこはダヴィデ王の街の中心地のほぼ近くなのである。「私たちのアイデンティティーも問題なのですから」とシーヤムは言う。どうして妥協が成り立ちうるだろうか?

 
 ジャワド・シーヤムは39歳。エラードのドロン・シュピールマンは35歳、考古学者のヨニ・ミズラッチは38歳。彼らは同じ世代に属しており、この世代が中東の未来を決めるのだろう。しかし、この世代が平和を締結できるとは、いまのところ見えないのである」。
















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イェルサレムという場所 (2) [海外メディア記事]

 三部構成の記事である「宗教の発生地」の第二部です。純粋に学問的な話で終始するかと思いきや、最後は、やはり、どうにもならない政治的な話題に戻ってしまいますね。イェルサレムでは、政治的でないものは何一つないということを再確認させられた次第です。しかしロシアの政商の名前まで出る展開になるとは予想外です。やはりユダヤ人のネットワークはすごいというか・・・

 蛇足ながら、「シオニズム」のもとになった「シオン」は、文中にも書かれているように、元来はエブス人の丘(城砦)の名前。これだけからも、「シオニズム」の独善性が判るはずです。   

26.05.2009 Von Clemens Hoges
http://www.spiegel.de/spiegelgeschichte/0,1518,628373-2,00.html



「 第二部:「わたしたちのアイデンティティーも問題なのです」 

  しかしダヴィデ王がかつて実際に存在していたことになれば、伝説の背後に真実が隠されていたことになるのだろうか? 聖書は千回以上もダヴィデ王に言及しているが、それ以外の場所でダヴィデ王を示唆するものは何もなかった――しかしついに、1993年に考古学者がイスラエルの北部で二つの碑文を刻んだ石碑を発見した。その一つは「ダヴィデの家」に言及し、第二の碑文には「イスラエルの王」という文字が並んでいたのである。

 その発見の10年前に同僚の考古学者たちは、今日のイェルサレムの旧市街の真南のところに巨大な土台を、そしてその下にトンネルにつながる長い入り口を発掘した。城壁はおそらく征服された都市のものだったのだろう。4000人ほどのエブス人が3000年前この丘の上に暮らしていた、彼らはこの城を「シオン」と呼んでいた。

 聖書によるとダヴィデ王はこの城砦の弱点を見て取った。それが「チソール」、つまり、エブス人が包囲されたときにケデロン渓谷の水源から水を引っぱってくるのに用いた秘密の地下水路だった。出撃隊がこの地下水路を通って都市の中に入り込み、シオンは陥落し――イェルサレムが誕生した。ダヴィデ王はすぐにこの都市を拡げ始めた。真っ先に彼がしたのは、宮殿を建設させることだった。


 ダヴィデ王が実在の人物でありこの丘の廃墟がかつてのシオンであるならば、王の痕跡も発見されるに違いない、と考古学者のエイラート・マザールは考えた。

 彼女は、スコップと発掘現場のほこりと聖書とともに大人になったような人だった。彼女の祖父は建国してまだ間もないイスラエルの考古学者のリーダー格と見なされていた。エイラート・マザールは今ではがっしりした金髪の女性である、彼女は女手一つで四人の子供を育てた、不信に陥るような暇はなかった。そして今でも聖書を信じている。「片方の手に聖書を、もう片方の手に発掘道具をもって仕事をしてるんですよ」。

 
 1997年、彼女はぺリシテ人がダヴィデ王の都市を攻撃する『サムエル記』のところを読んでいた。「攻撃の直前、ダヴィデ王は要塞へ降りていった」という一節がマザールの注意をひいた。「どこから降りていったのかしら?」とマザールは自問した。王は宮殿から出るしかなかったわけで、そうすると宮殿は少し高いところにあったはずである。

 
 1997年彼女は自分の理論を、エブス人の要塞の設計図を図解にして、専門誌『ビブリカル・アルケオロジー・レヴュー(Biblical Archaeology Review)』に発表した。図の中に彼女は一本の矢を書き込んだ。その矢は今日の神殿の丘の南にある一点を指していた。その下にはこう書かれていた。「ここに彼がいるに違いない」。

 
 考古学は時間のかかる仕事であるが、2005年にマザールは発掘を開始することができた。発掘して数ヶ月して、彼女は巨大な建造物の壁に突き当たった。5メートルもあるぶ厚い壁だった。その他に陶磁器や、地下水路、聖書に出てくる宰相の名前を刻む陶土の印章などが発見された。


 考古学者達は彼女の発見と発見場所に番号をつけていった。3000年前に人間ダヴィデがここで暮らしていたというマザールの理論の核心をなすのは"Locus 47”と呼ばれる場所である。それは壁のわずかな亀裂なのだが、キッチンタオルで覆い隠そうとすればできるほどのわずかな亀裂である。いま、"Locus 47”にはつぶれたプラスティックのコップが置いてあり、岩の割れ目から雑草が顔を覗かせている。しかし、マザールがそこで発見した陶器の破片を分析したり建造様式から推測して、彼女はこの廃墟の年代を正確に測定できると信じている。それは紀元前1000年である。これこそダヴィデ王の宮殿の一角なのだというのである。


 この年代測定を疑う考古学者もいるが、それよりも大きな問題がある。マザールや彼女にしたがう同僚の学者達は、これまで古代都市のほんのわずかの部分しか発掘できなかった。というのも、ダヴィデ王の息子ソロモンがすでに都市の中心を北部の隣接する丘へと移し替えたからである。もっと後になるとバビロニア人がきてダヴィデ王の街を焼き払ってしまった。 

 
 マザールは地中に埋まっていた地下水路に、たぶん古代イェルサレムの最後のユダヤ人が、敵から逃れようとした際に持っていたランプを当時のままの形で見つけた。「そこで生が終わったのです」と、シュピールマンは言う。


 何百年もの間、この丘は放置されたまま、ゴミ捨て場になり、オリーブが植えられ、山羊が草を食む牧草地となった。そしてアラブ人が廃墟の上に建物を建てた。彼らの居住地は周囲の谷に広がり、アラブ人たちはそこをシルワンと名づけた。今日、そこには5万人のパレスチナ人が暮らしている。古代のイェルサレムは、パレスチナ人の家々の下にある。それを発掘しようと望むものは、そこに暮らす人間を追い払わなければならない。第二の問題は、イスラエルの古代史を管轄する役所は発掘作業に金を払うことはできない。しかしエラードという名のユダヤ人入植運動を進める組織は金をもっている。シュピールマンのプロジェクト『イル・ダヴィデ』のバックにいるのもエラードである。右派のグループが役所勤めの考古学者たちに金を払っているのである。何百万ドルもの金がどこから出るのか、シュピールマンは明かさない。しかし、新たな観光センターの竣工式のときに主賓として招かれたのはユダヤ系ロシア人で寡頭資本家のロマン・アブラモヴィッチだった。


 シュピールマンの部下はどんどん前に進んでいる。パレスチナ人から家を買い取ることもあるが、それができなければ没収するのだ。イスラエルにはこうしたことに対する実用的な法律があって、たとえば、パレスチナ人が長期間住んでいない家は没収することができるという法律がそれである。それに、イェルサレムのアラブ人は住宅の建築許可を決してもらえないに等しいので、多くのアラブ人が自宅を形式的には非合法的に建ててきたということも、こうした事態を生み出す一因になっているのである」。(つづく)
 






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イェルサレムという場所(1) [海外メディア記事]

 『シュピーゲル』がイェルサレムについて特集した本の中から、「宗教の発生地」というタイトルがつけられた記事を紹介します(「発生地」は複数形です)。   

26.05.2009 Von Clemens Höges

http://www.spiegel.de/spiegelgeschichte/0,1518,628373,00.html


「 ここにくると、われわれの胸は高鳴る

 秘密のトンネル、数メートルもの厚さの壁、3000年前の刻印: 考古学者たちはイェルサレムの起源を求めてダヴィデ王の宮殿を発見したと主張している――ただし、アラブ人地区にである。

 ジャワド・シーヤムは、再三イスラエルに拘禁された経験があるので、喫煙に慣れてしまった。たびたび囚われの身になったので、もういつのことだったか思い出せないほどだ。シーヤムはゴロワーズに火をつけ、いつものようにサングラスを短く刈った頭上に押し上げ、まぶしい日中の日差しに目を細めた。


 このパレスチナ人が通りを見上げると、イェルサレムの神殿の丘が、自宅から約300メートル離れたところに見える。眼差しを通りに戻すと、そこで考古学者たちはパレスチナ側の坑道にも通じる坑道を掘ったのだ。網状に組み上げられた鉄パイプの上にはイスラエル国旗がはためいている。民家の屋根には武器をもった男たちが見張っている。もし彼が何かへまをしたら、男たちは彼に向けて発砲するだろう。しかし彼はへまはしない、もう二度と。「私たちは暴力を望んではいません」と彼は言う。しかし「この土地は私たちにとって神聖な土地なのです」。


 少し後になって、そこから100メートルも行かない所で、ドロン・シュピールマンは網のように張り巡らせた鉄パイプの向こうを見ていた。部下の労働者たちが太古の壁を通ってこの鉄パイプのところにたどり着いたのだ。イスラエルのこうした光景はテレビの報道番組を通して世界中の人が知っている。最近のガザ侵攻のときに、ドロン・シュピールマン隊長はたいてい燃えさかるパレスチナの街並みを背景に語った。軍の広報官として、彼は、なぜイスラエルが攻撃しなければならないかを、世界に向かって説明しようと試みていたのである。


 シュピールマンはテレビ映りがよく、決然として、ハンサムで、非常にアメリカ的である。彼は中西部なまりのある英語を話す、彼はデトロイト生まれで、数年前初めてイスラエルにやって来たのだ。それ以降、イスラエルのために戦うことが彼の人生なのである。どの前線に立つかは問題ではない。

 「ここが、すべての始まりの場所です」とシュピールマンは言う。自分の足元の廃墟のことを言っているらしい。ユダヤ人はどこに流れ着こうと、「ここにくると、われわれの胸は高鳴る」。軍務がないとき、彼は、『イル・ダヴィデ』という名前の組織の長として、大勢の労働者や考古学者を率いている。

 彼らが発掘しているのは、3000年前のユダヤ人の初めての王であるダヴィデの宮殿であるに違いないと信じるものもいる。ダヴィデ王の都市も探求の対象であり、『イル・ダヴィデ』とはまさにそのこと、つまり最初のイェルサレム、いわゆる旧市街よりももっと古いイェルサレムを指すのである。

 パレスチナ人のシーヤムとイスラエル人のシュピールマンが語り合うことはない。彼らは互いを知っているが、互いに監視しあっているのだ。なぜなら発砲がなされていなくとも、この二人の男たちは戦っているのである――3000年前に始まった戦いを。


 問題なのは、ここが三つの宗教の聖地の始まりだったということだけではない。ユダヤ人のアイデンティティーとユダヤ人としての証明が問題なのであり、それを考古学者達はもたらそうとしているのだという。さらに、イェルサレムにおける、イスラエルにおける権力関係が問題なのであり、パレスチナ人自身の国家や国際政治が問題である。だから、アメリカの新たな国務長官のヒラリー・クリントンが新たなイスラエル政府と、ジャワド・シーヤムがそのために戦っている家々のことで言い争っている最中なのである。EUも数週間前、ここで起こったことは和平交渉にとって「現実的な危機」であるという警告を発したのである。


 なぜならシュピールマンと考古学者たちは旧約聖書のイェルサレムをよりによってシルワン地区――イェルサレムの東部のパレスチナ人居住地区――の下に発見したと主張しているからである。シルワンはいつ頃からかパレスチナ人の首都の一部になっていた。そこで、国際的な交渉にしたがって起草された多くの文書にはそう明記されているのである。

 しかし今イスラエルの保守派は家族単位でパレスチナ人の追い出しを計っている。民家は壊され、考古学者たちは神殿の丘に隣接する丘の上にある地区を掘り崩している。一億ドルをかけて聖書ディズニーランドが計画されている――イスラエルはダヴィデ王の都市を明け渡すことはしないだろうし、パレスチナ人もシルワンを諦めることはないだろう。かくして、かつての王が明日の平和の障害となっているのである。


 なぜなら、イェルサレムでは、他の場所とは違って時間は過ぎ去らないからである。数千年前に起こったことは数十年前に起こったことと変わりはしない。過ぎ去るものは何もないし、忘れられるものも何一つとしてない。今日の人間は、どうすることもできないまま、先人たちの戦いに引きずり込まれるのである。

 最も最近の戦闘は1993年に始まった。当時までダヴィデ王は神話的な人物とみなされていた。ダヴィデ王は、聖書の時代の計算によれば紀元前1000年頃に巨人戦士ゴリアテを倒した羊使いの若者であり、策略によって周囲の部族を一つにまとめ上げた外交的手腕にたけたトリックスターであった。彼はまた詩篇を創作する王であり、新たな民族のために首都イェルサレムを征服する戦士であった。「イスラエルの子供はみんなダヴィデ王になりたがるのです」とシュピールマンは言う」(つづく)。
 








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「動かぬ証拠」は見つからず [海外メディア記事]

 北朝鮮による核爆発の「動かぬ証拠」はついに見つからなかったようです。これが何を意味するか? どうも藪の中のようです。この記事は、表題とは別に、「爆発のミステリー」という別の見出しをもっているのですが、後者の見出しの方が、この一件についての今ひとつハッキリしない状況を語っているように思います。BBCの記事から。   

Susan Watts | 20:35 UK time, Wednesday, 10 June 2009

http://www.bbc.co.uk/blogs/newsnight/susanwatts/


「 北朝鮮からの希ガスはまったく検出されず
 
 ウィーンのホフブルク宮殿の大広間が、今朝、800人の科学者、外交官、ジャーナリストで一杯になり始めたとき、子供たちが一列になって壇上に進んだ。やや緊張した面持ちで各人がその国の衣装に身を包んだ子供たちは、世界平和についての感動的な歌を歌うことで、この核実験に関する科学者会議のオープニングを飾ったのであった。

 この会議の目指すところは、公式には、世界の至る所で生じる爆発を検知・理解して、その爆発やそのような爆発が核実験であるかもしれない可能性について、世界中の政治家に警告を発する上で科学がどれほど首尾よい成果をあげているかを報告することにある。

 そのツールは包括的核実験禁止条約(CTBT)を下から支えている科学者たちのネットワークであり、賛同者によれば、この条約こそ核実験のない世界を創造する上で、そしていつの日か、核兵器のない世界を創造する上で、鍵となる役割をはたすものなのである。

 しかし、この大広間に居たすべての者が知りたがっていたことが一つあった。それは、センサーのネットワークが二週間前の北朝鮮の爆発から放射性核種を検出したか、ということだった。出席していた地震学者によれば、あの爆発が核実験だったことは自信をもって言えるが、その「動かぬ証拠」となるのが放射性ガスという形で放射性核種の証拠を検出することである。そしてそこでのビッグニュースは、彼らがそのシグナルを見つけられなかった、ということだった。

 おまけに、科学者たちはその理由を本当に知って居るようには見えない。放射性核種検出の専門家であるスウェーデンの代表は、2006年の北朝鮮の核実験の後、センサーのネットワークがどれほど高い成果をあげたかを会議に向けて語った。あの出来事の12日後、ネットワークは、カナダでキセノン133という希ガスの原子を数百個検出した。彼は、今回は、今のところ、何も検出されていないことに「驚いている」と正直に認めた。彼は、センサーがしっかり作動していることは確信していると述べた。なぜシグナルがないのか? そしてそれは重要なことだろうか?

 コロンビア大学の著名な地震学者ポール・リチャーズ教授は、それは大して重要ではないと言いたいようだった。このネットワークは各種のテクノロジーを含んでいる――地震検知、インフラサウンド、水中音響、放射性核種のテクノロジーを使い、リチャーズ教授が「もろもろの矢からなる一つの振動」と呼ぶものを世界に発信する。もしある矢がターゲットに当たらなくても、別の矢が当たるだろう。つまり、もし一つの検出装置には核実験のシグナルが見えなくとも、別の装置には見えるだろう、ということである。そして彼の個人的見解は、今回の爆発が核実験であった可能性はきわめて高いというものである。

 だから、北朝鮮による爆発の封じ込めの慎重な試みがあったのではないか? それとも爆発は偶然封じ込められたのだろうか? 爆発力の大きい核爆発では、周辺の岩石が「溶けて」しまうことがしばしばあり、そうなると漏れ出る希ガスは少なくなる。希ガスのシグナルがないことを説明する試みは、目下のところ科学的な推量にとどまっている。この会議の表向きの声明では、だからこそ包括的核実験禁止条約が発効して、現地の調査チームが乗り込んでこのような実験をチェックできるように、より多くの国がこの条約を批准する必要性があるのだということになる。

 だが、この会議に出席している科学者たちで、何かがすぐ出てくることを祈っている者もいるかもしれないが、しかし彼らはすでに諦めていて、もう何も出てこないという可能性を受け入れているように思われる。

 ワシントンやその他の場所にいて、CTBTのような条約に何の価値も認めていない人々は、この事態を別のように、たとえば脆弱性の一例として見ているかもしれない。5月の爆発に由来する希ガスを検出する機会は閉ざされようとしている。もう一週間もすれば、手遅れになるだろう。放射性物質はあまりに広く拡散してしまうか、放射性という性質を失ってしまって、もう検出できなくなるからである。

 今朝歌った子供たちは、聴衆に「友達の輪」に加わるように誘ったが、聴衆の脳裏には、世界に平和をもたらしてくれる魔法の歌が浮かんだはずである。冷笑的になるのは簡単だろう。しかし、このモニタリングのネットワークを、たぶん楽観的にではあるが、「子供たちへの平和の約束」と捉えたオーストリアの外相は、お返しのメッセージを与えたのである。

 結局、この会議に出席した科学者たちによれば、かれらのゴールは、最良のデータを世界に与えることであり、政治家たちにどうすればいいかを決定させることである。少なくとも、北朝鮮によるこの第二回目の核爆発のデータは、同日にでも安全保障理事会が招集されることができるように、すぐに鍵を握っている人々のもとに届けられた。しかし、世界は、次に(もしあるとすれば)起こることを静観しているだけなのである」。






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風が弱まったのは・・・ [海外メディア記事]

 気温が上がると風が弱まり風力発電の将来にかげりが?
しかしこうした研究はまだまだ初期の段階にすぎないので研究者も断定は避けているようです。AP通信の記事です。  

http://news.yahoo.com/s/ap/20090610/ap_on_sc/us_sci_diminishing_winds


「 風はかつてほど強くない:風速が弱まりつつあることを研究は示唆している


グリーン・エネルギー運動に好まれる電力源である風力は全米中で勢いを失いつつあるようだ。しかもその原因は、皮肉なことに、地球温暖化―まさに風力発電が解決しようとする問題―かもしれないというのである。

 風力が弱まっているかもしれないという考えはまだ実証されたものではないし、それが進行中であるかどうかについて科学者の意見は一致していない。だがこの分野の第一人者の研究が示唆するところによると、平均風速と最高風速は、1973年以降、特に中西部と東部においては、目に見えて下落の一途をたどってきたのである。

 「とても大きな影響をもつ調査結果ですよ」。そう語るのは共同研究者で、アイオワ州立大学の大気科学のユージーン・テイクル教授。中西部では10年間のトレンドの示すところでは10パーセントかそれ以上下落した地域があるという。この地域の平均風速が時速10~12マイルであるならば、つじつまが合う数字である。

 この研究の主任で、インディアナ大学の大気研究者のサラ・プライアーによると、中西部で風が弱い、または無風の日数は大幅に増えた。

 プライアーが全米の地図上に書き記した風速の計測値を見ると、風速がミシシッピ川沿いとその東側で下落していることがわかる。テキサス州西部や大平原地帯西部のような風力発電に頼っている地域のいくつかでは、風力がそれほど低下したわけではない。しかし、オハイオ、インディアナ、ミシガン、イリノイ、カンザス、ヴァージニア、ジョージアの各州や、メーン州北部とモンタナ州西部は風速の落ち込みが最大である地域に数えられる。

 「五大湖に接しているステーションが最大の変化を経験したように思われます」と、プライヤーは火曜日に語った。それはたぶん、湖の氷が減少したからで、風は水面上よりも氷上のほうが速く進むからです、と彼女は言う。
 
 しかし、この研究は、8月に同業者の論評つきで『ジャーナル・オブ・ジェオフィジカル・リサーチ(Journal of Geophysical Research)』に掲載される予定だが、これはまだ予備的な調査にすぎないのだという。まだ難問が山積していて、研究書の著者自身でさえも、これが現実のトレンドなのかどうか知るのは時期尚早であると言っているのである。だがこの研究は、地球温暖化のかつて調査されたことのない新たな副作用を提起しているのである。
 
 プライアーによると、この結果の曖昧さは、長年の間に風速を計る計器が変わってしまったためらしい。しかも、実際の計測値によれば風速は下落しているのに、気候に関するある種のコンピュータ・モデルでは―それは直接の観察ではないのだが―そうなっていないと彼女は言う。

 けれども、以前なされた研究のいくつかがオーストラリアとヨーロッパでの風速の減少を発見しており、アメリカでの発見が現実のものであるという希望を与えてくれると、プライアーとテイクルは言う。

 テイクルによれば、天候と気候がどのように作用するかという点に基づいても、この発見は意味をなすものであるそうだ。地球が温暖化する場合、極地はその他の地域以上にそして急速に温暖化するもので、気温の記録、特に北極の気温の記録がそのことを示している。このことは、極地と赤道との温度差が縮まり、それに伴って、それら二つの地域における気圧の差も縮まることを意味する。気圧の差が強風を生み出す主な原因である。それゆえ、気圧の差の減少は風の減少を意味するわけである。

 そうであったとしても、あの情報は、風速の低下を地球温暖化に結びつけるために科学が必要とする決定的証拠を提供してはいない、と今回の研究報告書の著者たちは言う。気候変動科学においては、ある結果を地球温暖化に帰するためには、この科学特有の厳格な方法―それは、あらゆる可能的な原因を視野に入れてそのそれぞれに特有の結果を描く方法なのだが―があるのだという。結局は風に関してもその方法がとられなければならないと科学者たちは言う。


 大気科学者のジェフ・フリードマンは同じテーマを研究してきたが、まだその結果を科学雑誌に発表していない。彼は、自分の研究では地表の風速が低減したことを示す決定的なトレンドはなんら発見されなかったと言う。

 プライアーが自分の研究について認める問題の一つは、長年の間に、風速を計る計器付近の条件が変わってしまったために、データが歪んでしまうことはありうるということである。風速計のそばで樹木が成長していたりビルが建てられたならば、風速の計測値が下がってしまうかもしれない。

 外部の専門家には、風速が低下している兆候があり、おそらくは地球温暖化が犯人だろうという点でおおむね賛同するものもいる。

 この新たな研究「が示している―私の考えではかなり確定的に―ことは、最近の数十年間で全米各地で平均風速と最大風速が減少したということである」と語るのは、ペンシルヴェニア州立大学の地球システム科学センター所長マイケル・マン。

 否定的なのは、ニュー・ヨーク在住のナサの気候科学者ゲイビン・シュミット。彼は、この研究結果が、地球温暖化による結果をなんら示さない気候モデルと矛盾していると述べた。それに彼は、風速が仮に落ちているとしても、それが風力にそれほど影響をもつことはないだろうとしている。    
 しかし別の専門家である、ジェームズ・マジソン大学のジョナサン・マイルズは、風速が10年間で10パーセント減少すれば「電力生産に多大な影響を及ぼすだろう」と述べた。

 プライアーによれば、最大風速が10パーセント変われば、発電量が30パーセント変わることを意味する。しかし研究はまだ非常に初期の段階なので、「現時点で風力エネルギー開発計画を修正したりするのは時期尚早でしょう」と彼女は言う。

 アメリカ風力エネルギー協会の政策局長のロバート・グラムリッチは、風力が低下したかもしれないという考えは初耳だと述べた。心配するのは別の研究による検証を見てからにしたいそうである」。







 

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私はいっぱい [海外メディア記事]

 少し前のことになりますが、『シュピーゲル』誌が「いかにして私は成立するのか」という特集を組んで、いくつかの記事をアップしたことがありましたが、その第一弾を紹介します。題名は「私はいっぱい」という一風変わったもの。これは‘Ich bin viele’を訳したものです(英語にすれば ‘I am many ’)。

 ちなみに、最後のほうでなぜか「声」が話題になっていますが、これは調和や気分や声が、ドイツ語では‘Stimm’という語幹に関係した言葉であることに由来しています。
http://wissen.spiegel.de/wissen/dokument/dokument.html
?id=65111033&top=SPIEGEL


「 私はいっぱい

 神経学者、脳研究者、心理学者、哲学者――かつてないほど多くの学問分野が、同一性や人格がどのように成立したのかを解明しようと試みている。
 
 人生の事柄は、たいていの場合、一見してそう見えるようなものではない。「なぜこんなに多くのことが上手くいかないのかと自問していらっしゃるんですね? それは人間がいっぱいでいたいと思っているからですよ。文字通りの意味ですよ。たくさんのものでいたいんです。いっぱいでね。いくつもの人生がほしいんです。ただそれは上辺だけのことで、心の奥底ではそうでないことを望んでいる。結局のところ、一つになることをみんな目指しますからね。自分と一つになる、すべてと一つになるのをね」。

 聞いていてイライラするような話をするのは、ダニエル・ケールマンの小説("Ruhm"(名声))に出てくる謎のタクシー・ドライヴァー。この本では、現実の見せかけだけの側面と、男性または女性の「私」がもちうるさまざまな顔が問題となっている。

 「私」を求めているのは物書きだけではない。進化生物学者、医学者、哲学者、心理学者、脳科学者、神経科学者、生物学者――かつてないほど多くの学問分野が人間という謎を追っている。

 というのも、人間は奇妙な生き物であるからだ。人間は、生を色彩豊かにする(同時に複雑にもする)もの―たとえば、銃、精神分析、iPodなど―を休むことなく作り出したり、暗い広間に座って動く画像に感動して涙を流したり、長円形のプラスティック板に乗って山を滑り降りたり、月に行ってそこに小さな旗をたてたりする。

 女性は女性で、靴やハンドバッグを大量に買ったりウェストや目尻のしわを気に病んだりする。

 こうした活動に加えて、人間は、飽くことなく自己の探求に没頭する唯一の生き物である。人間は、今あるような自分がいかにして生じたのかを知りたがるのである。

 急速に変貌する社会にあって、人間は自己の確証を求め、自己自身を探求し、次のように問うのだ。どうして私は私になったのか、と。遺伝子、両親、学校の先生、文化環境や社会環境は、「私」が形成される際にどのくらいの役割をもつのか?

 弱く、優柔不断な「私」を誰も望まない、誰もが、人生に満足し成功し健全でいられるための前提として、強い自己があることを自分に望む。それなのに、なぜ、私たちは、今いるとおりの姿でいるのか? なぜ、おどおどした人がいるかとおもえば勇気ある人もいるのか、そして、思いやりのない人がいる一方で、進んで手助けをして協調性のある人もいるのはなぜか? せっかちな人もいる一方で落ち着いて気長に構えていられる人もいるのはなぜか?

 そして、ヴィネンデン銃乱射事件直後の今は心が痛む問いだが、子供が成長してティム・クレッチマーのような殺人者になるのはなぜか(訳者註――ヴィネンデン銃乱射事件は2009年3月11日にドイツのヴィネンデンで起きた銃撃事件。15人が殺害された。犯人は17歳の少年のティム・クレッチマーと見られるが、彼は自殺した)。赤ん坊が大きくなって近親相姦の父親ジョゼフ・フリッツェルのような犯罪者になるものもいればアルバート・アインシュタインのような天才になるものもいるのはなぜか? (訳者註――ジョゼフ・フリッツェルは娘を24年間地下室に監禁し7人の子供を産ませた)。

 親の教育や影響や手本となるような親の姿があったから?  そんなことは全部でたらめ――教育の終わりをアメリカの心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、数年前、声高に叫んだ。遺伝子と同年代の仲間が子供の発達に最大の影響をもつのだからと。遺伝的素質と友人のサークルからなる産物としてのみ自己を捉える――大抵の人はそんなことは信じないだろうし、それは正しいのである。

 なぜなら、そうなると自己責任とモラルの余地がどこにもないことになるからだ。今日ではアイデンティティー管理とも好んで呼ばれたりしているが、幸福と自己実現の追求が可能なのは、自分の人格に集中して向き合うことがある場合に限られる。

 16世紀の終わりに詩人ミシェル・ドゥ・モンテーニュがすでに見いだしていたように、私とは「たんなるつぎ布やボロキレからひどく乱雑で不恰好に作られたので、いつ何時でも布の一枚一枚が勝手に踊りだしてしまうような」作り事なのだろうか? 多くの人にとってはそうであろう――多くの人は自分自身に対して居心地の悪さを感じており、人と違った点をなくそうとして、その代わりに何らかの美点を得ようと思うのだ。

 自分の性格に満足しない大人は、どの程度まで性格を変えることができるのだろうか? 私たちは、望みさえすれば、別人になれるのだろうか? 限界はどこかにあるのだろうか?  特定の行動パターンや関係のパターンは固定しているが、それ以外は固定していないということなのだろうか? 

 そもそも骨組みがしっかりしていて、はっきりとした輪郭をもつ自己なるものは存在するのだろうか? むしろ、私たちの生を規定している多様な私の状態や役割を考えるならば、「私はいっぱいある」のほうが正しいのではないか? そして、自分自身の自己にいたる道は、それゆえ、終わりのない探求プロセスであり、しかもそのプロセスは現代のテクノロジーによって難しくされているのではないだろうか?

 自分のプロフィールを公開し、最適化し、比較することは、現代の人間に課された義務である。リアリティーTV、TVの安易なドキュメンタリー、結婚紹介所、ウェブポータルやコミュニティーなどが自分のアイデンティティー形成のために混乱するほど多くの機会を提供している。

 ネットやテレビも、自分自身を表現するためのこの上ないほど多様な形式にとってのインスピレーションの源になっている。「ドイツの次のトップモデル」や「ビッグ・ブラザー」(どちらもTVのオーディション番組―訳者註)や、インターネットのFacebookやMyfaceにおける今流行の自己の売り込みやアイデンティティーの演出がどれほど自己に影響力を及ぼすかどうかは、簡単には言えない。人に見られたとき、わずかな注目や認知しかえられない「私」は、どれほど安定できるのか、それとも傷ついて壊れてしまうことさえあるのではないか?

 … 私は何を知りうるか、私は何をすべきか、私は何を望んでいいのか、これらの問いは、哲学者で著述家のリヒャルト・ダヴィッド・プレヒトが彼のベストセラー『私は誰か、そして私はどれくらいたくさんあるのか』で導きの糸とした問いである。

 プレヒトの楽しい哲学的な読み物がベストセラーの一覧に載って約15ヶ月経つが、それはこれまでで最も成功した実用といっていいだろう。いつまで経っても需要がなくならないのは、自分の真の自己に対する人間の渇望がいかに強いものであるかを証明するものである。

 真の自己が見つかったと思っても、それは批判的鑑定にかけられて懐疑の内で改善されなければならない。かくして、何年も前から各種の入門書が書店にあふれ、それと平行してコーチの人材市場がふくれあがった。

 週刊誌『Die Zeit』の試算によると、指導的立場にある人の二人に一人にはサポートしてくれるコーチがついているらしい。ドイツだけでも約35,000人の専門のコーチが活動しているが、専門家によればしっかりしているのはそのうち5,000人程度にすぎないらしい。

 儲かる商売としてのみならず、まじめな問いかけとしての私の探求には伝統がある。19世紀の終わりにはもう、科学としての心理学が発達しており、私たちがいかにして「私」と呼ばれるものになるのか、感情と記憶はいかにして成立するのか、私たちの行動をコントロールしているのは何かを基礎づけようと試みていた。

 近年では、とりわけ神経科学が、人間の精神や意識、性格や人格の成立を基礎づけようという野心に燃えている。「われ思う、ゆえにわれあり」と、17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは言った。それに対して、「存在が意識を規定する」とカール・マルクスは考えた。しかし意識が存在を規定することもあるのではないだろうか? または、「存在は意識の調子を狂わせる」という命題や、ウッディー・アレンが言ったように、「すべては幻想にすぎず何も存在しないとしたらどうだろう。もしそうなら、じゅうたんにお金を払いすぎちゃったよ」という命題も正しいのではないだろうか?

 ジョン-ディラン・ハインズは変わった経験を通して心理学にたどり着いた。彼は、問題に取りかかっているときは問題が解けないのに、まったく別のことに関わっているときに解答が苦もなく意識に現われた、ということが再三あった。

 「それでこう自問したんです。いったい僕の代わりにこの問題を解いたのは誰なんだ?」。ベルリンの計算論的神経科学ベルンシュタイン・センターで研究グループのリーダーをしているハインズはそう言う。

 ハインズの確信によると、私たちの意識は特定の思考プロセスのきっかけを与えはするが、しばしば決定的で創造的な刺激を与えるのは無意識のほうである。そのことが脳の中でいかに行われるかを、ハインズは研究しその発見によって世界的な評価を得た。

 すでに精神分析の創始者であるジグムント・フロイト(1856~1939)は「無意識が指導的特質をもっていること」を確信していた。彼は、「私」の意識を、エス、自我、超自我の三つの部分に分けた。エスの部分には食欲や性欲の衝動や、愛や憎しみといった感情もあり、その対立物である超自我には教育によって内面化された規範、規則、理想像がある。
 
 自我、つまり、私たちが意識している部分であるが、それはうかうかしていられないのである。強力な無意識と厳格な超自我といかにすれば折り合いがつけられるかを考慮しなければならないからである。理性的な自我は感情的なエスに対して勝つ見込みがないこともしばしばある。「私は感じる、ゆえに私は存在する」。アメリカの脳研究者で意識の解明について何冊もの書物を書いたアントニオ・ダマッシオは―哲学者ルードヴィッヒ・フォイエルバッハ(1804~1872)に倣って―自分の信条をそう述べている。

 私たちの感情が行動に影響を及ぼしたり身体的な行為に反映したりするということは確証済みの事柄である。自分の感情を一貫して否認する人は、自分の自己に対していわば裏切りを行っているのである。感情が人格を引き裂いて現われてはどれほど容赦なく人を破壊するものであるかは、すでにジェーン・オースティン(1775~1817)が印象深い形で描いていた。

 『分別と多感』であれ『自負と偏見』であれ、このイギリスの作者は人間の感情をこの上なく巧みに描写した。感情は抑圧されればされるほど、それだけ強烈に表面下では燃え上がるものだし、激しく否定されればされるほど、それだけ勢いよく広がっていくのである。

 感情の研究者ポール・エクマンは、サンフランシスコ大学の心理学の教授だが、世界でもっとも成功した虚言の専門家と見なされている。ずいぶん前から彼は、喜び、悲しみ、怒り、不安、嫌悪感、驚き、軽蔑、好奇心といった感情を顔のうちに認識する授業をしている。

 「私がビル・クリントンをテレビで初めて見たとき、彼の顔の表情が私の注意を引きました」と、エクマンは『南ドイツ新聞』とのインタビューで述べた。「私はそれを「クッキーの缶に手を突っ込んでいる現場を取り押さえられてもママは僕のことが大好きだもんねという顔」と呼びたいものものでした」。クリントンが後に大統領でありながら実習生のモニカ・ルウィンスキーとの情事にのめりこんだことは、エクマンには少しも驚きではなかった。

 色恋沙汰にまめな傾向は顔に出るのかもしれないが――それにしても、ある人間の人格がまさにそのように構成されるのはなぜかという点について識者の見解は分かれている。哲学者、心理学者、神経科学者は活発な対話を交わし、時として反駁しあい、人間の本性をこれ以上はないくらい別様に解釈する。

 たとえばイタリアの医師のヴァレンチン・ブライテンベルグは神経学や精神分析に対して次のように問う。「意識は脳の中に探すことができるのでしょうか? 酔っている状態は? 肥満の状態は? 外国人であることは? 熟睡している状態は? 愚かなことは? みんなそのことをよく考えてみるべきでしょう。それだけでプラスになるのです」。

 ケンブリッジのハーバード医科大学の精神科の教授ジョン・レイティーは脳を生態系として見ている。それは、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画にも、民主主義の創造にも、原子爆弾の創造にも、精神病にも責任をもつが、最初の休暇のときやホットドックの味の記憶にも責任をもつ。 

 「この器官がこれほど多種多様な能力を包括しているなんてどうしてできるでしょう?」とレイティーは問う。

 ライプツィヒ大学政治科学インスティチュートの倫理学、政治学、修辞学の教授で、社会学者のウルリッヒ・ブレークリンクは、一種の多様なる自己としての企業家的な自己について語る。「その自己は、本来は統合できない多くの私を自分のうちに統合しなくてはなりません。したがって、アイデンティティーとは、今日では、競合したり協同したり、相互に争い合ったり相互に結合したり、相互に意思を交し合ったり互いに無視し合う多くのアイデンティティーからなる領野なのです」。

 なにやら複雑なパッチワーク式のアイデンティティーのようにも聞こえるし、内部に駆り立てるものがいて、ゲームの規則に従いながら、絶えずよりよい私を求めているようにも聞こえる。しかし、「私」がバランスを崩し、自分が自分自身と調和していないように感じるならば、どうだろう?

 「声とアイデンティティーは密接につながっています」。そう説明するのは、デュッセルドルフで声や話し方のトレーニングをしているカタリーナ・パードルシャットさん。経済危機以来、個別トレーニングのために彼女のもとを訪れる経営者や企業家が増えているという。彼らは、パードルシャットさんによれば、自分自身に投資をしているのであり、振る舞いや声やボディ・ランゲージを最大化しようとしているのだという。「声は心の聞こえる表現なのです」とパードルシャットさんは言う。声はかすれて、苦しそうで、圧迫され、押しつぶされ、わざとらしくかつ繊細に聞こえることもあれば、明瞭で、堂々として、確信を持って、力強く、自信に満ちているように聞こえることもある。

 「あなたは有能だ。しかしそれは耳に入ってこないのです」。そんな説明を女性の従業員にする主任がいるのだという。パードルシャットさんによれば、こうした女性は大抵呼吸が浅く、自分の能力に不安を抱いていて、特定の屈服のポーズを表わすボディ・ランゲージを習慣的にしてしまうのだという。パードルシャットさんは男性たちに、再び正しく呼吸をして全身を声の器官として利用するように教え込んでいる。 

 肉体的練習と発声トレーニングによって自分の振る舞いをより「調和の取れた姿に」作り上げることは、大抵の人間にとっては、長期間のセラピーにかかるよりも、容易に見える。しかし、自己が欝やバーンアウトや他の心的障害によってぐらついているときは、セラピーに通うことは避けがたいのである。

 わざとらしい自己演出や否定とは無関係の所で、「私」の探求を一生涯の関心事としてした人々がいる。先ごろ亡くなったアメリカの偉大な小説家ジョン・アップダイクは自分のことを自分自身の人生の主催者と見ていた。自己の探求こそ大事なことで、彼は自分が老いることを次のようなものとして体験した。それは、まるで自分が頭の中にいくつもの穴をもっていて、「そこにはかつて電気や物質があったのだが、そして僕はいま自問している、僕の頭にはもう一つしか穴がないことになったら、いまよりも苦痛に満ちた喪失感をもつだろうかどうかと・・・・知らないことは一種の祝福であり、老いることは酒による酩酊のようなものだ。どちらも、当事者以上に、他の人々に面倒をかけるものだからである」。

 





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戦争と利他主義 [海外メディア記事]

 戦争は利他主義を生み、利他主義的考えを持ったメンバーをより多くもつ集団が、進化のサバイバルゲームで生き残っていく…

 集団選択の考え方は古くからあります。利己的遺伝子説によって一旦は完全に息の根を止められてしまったように見えましたが、80年代後半からまたリバイバル傾向にあります(実は、理論的にどっちが正しいかどうかという論争はもうあまり意味がないはず。そういう意味で、この記事の記者はすこし遅れていると感じますね)。

 さほど考えなくともわかるように、狩猟採取民として人類がすごした年月に比べると、農耕が始まって以降の時間は微々たるものなので、狩猟民としてすごしたときに人間が得た特性にもう少し焦点を当てなければならないと常々思ってきたので(かつて、ブルケルトについて書いたことを参照されたい)、こういう研究が出てくるのは個人的に喜ばしいし、自分でも読んでみたいと思います。
 
 『インディペンデント』紙の記事です。
http://www.independent.co.uk/news/science/war-what-is-it-good-for-it-made-us-less-selfish-1697321.html

「 戦争、それは何のためになるのか? それはわれわれを利己的でないようにしたのである

 争いに満ちた20万年という歳月の間に利他主義がいかに発展したのかを科学者が説明する。
 人間であることを特徴づけるものの一つに、集団のために自分の生命をなげうつ個人的犠牲という崇高な行為があるが―そのような利他主義がダーウィン的進化の結果としてわれわれの遺伝子に組み込まれたということはありうるだろうか? 

 生物学者たちはここ何十年もの間、利他主義の進化について論じてきたが、似たような遺伝子を共有する血縁上の近親者のサバイバルを手助けすることに直接関わる行為を除けば、ダーウィン流の自然選択は崇高な個人的犠牲の行為を説明することはできないという結論に、生物学者はとうの昔にたどり着いていた。

 しかし、いま、ある研究が示唆するところによると、先史時代の人間社会の利他主義は、結局、狩猟採取者の競合する部族間のほとんど絶えることのない戦争状態によって引き起こされた一種の自然選択に由来したとのことだが、これはダーウィン自身が1873年の書物『人間の由来』で初めて示唆した考え方でもあった。


 ある科学者の示唆によると、人類の歴史の20万年という歳月の大部分は、一万年足らず前の農業の発明に先立つ狩猟-採集の局面であったのだから、進化の歴史におけるこの長い期間がわれわれの社会的行動を形作ったことになる。おまけに、その科学者によれば、個人の犠牲的行為こそ、ある集団が他の集団に対して勝利を収めることを可能にする鍵だったのだから、利他主義は部族間の戦争の結果として直接進化したのかもしれないのである。

 ニュー・メキシコ州のサンタ・フェ・インスティチュートのサムエル・ボウレスは次のように言う。「戦争は十分一般的で、私たちの祖先に死をもたらすものだったので、私がローカルな利他主義と呼ぶもの、つまり、集団のメンバーに対しては協力的だが外部の人間には敵対的である傾向のことですが、そういう利他主義の進化に有利に働いたのです」。

 「遺伝的な近親者に対する援助を除けば、利他的に振舞う―自分を犠牲してでも他人を手助けする―遺伝的傾向が進化しうるということを生物学者や経済学者は疑ってきました」。

 『サイエンス』誌に掲載された彼の研究で、ボウレス博士は、自然選択は、単なる個人に対してというよりも、相互に共同する人々の集団に対して作用を及ぼすと提案することによって、人間の進化についての利己的遺伝子説の論者たちに論戦を挑んでいる。

 石器時代の考古学的データや、もっと最近の狩猟-採取者の部族の民族誌的研究に依拠しながら、ボウレス博士は利他主義がダーウィン的選択によって進化したことは可能である、もし競合する部族間の戦争が十分激しいもので、そうした人間集団間の遺伝的差異が十分あるならば可能である、と結論づけた。

 彼は、人間の集団間の遺伝的差異はこれまで考えられていた以上に大きなものであり、戦争は初期の人間の社会的行動を形作ったに違いないほとんど絶えることのない活動であった、ということを示した。結果として、個人が犠牲になる利他的行為のおかげで、ある集団が生き残ったり別の集団が滅んだりした、と彼は言う。

 ボウレス博士によれば、「利他的な戦士」説は初期の人間社会における利他主義の進化を説明するシナリオの一つにすぎない。「戦士として死のリスクを進んで取ろうとする態度が利他主義の唯一の形式なのではありません…より利他的で、したがってより協調性のある集団はより生産的になるでしょうし、たとえば、より健康的だったり、より力強かったり、より多くのメンバーを擁するでしょうし、情報をより効率的に利用するでしょう」と、彼は言う。

 ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジの人類学者ルース・メイスによると、ボウレス博士の研究は、自然選択は個体のレベルではなく集団のレベルで作用するという提案をはるか昔に拒絶した利己的遺伝子説の一般的な考え方に反しているという。

 「社会的進化についての最近の文献は、特にヒトのような文化を形成する種においては集団選択が重要である場合もあると主張することによって、論争を再燃させたのです」と彼女は言う。

 『サイエンス』誌に載った別の研究では、人間であることを特徴づける別の性質――精巧な道具を製作したり、芸術や文化を発展させること――の進化をもたらした鍵となる因子は、生物学的変異に由来するというよりも集団の人口増加に由来したという科学者の提唱があった。

 ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジの科学者によれば、芸術のような人間の文化的形質が突然出現したのは、人口密度がある種の限界を超えて、観念の自由な交換を可能にしたときだったというのである」。  












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カー・フリー社会をめぐって(2) [海外メディア記事]

 「カー・フリー(car-free)」社会についての後半。

 ドイツの、それも若干特殊な背景の町で行われている「カー・フリー」の街づくり。それが、世界に広まるか? という以前に、アメリカで成功するモデル地区が出てくるか? ということがこの記事のテーマなのでしょうが、締めくくり方を見ると、この記者(ELISABETH ROSENTHAL)はあまり期待していないように受け取れます。

 それはともかく、日本でもこうしたモデル地区が出ないものでしょうか? 私が住む東京の都心などは、少なくとも自家用車はまったく不要だと思います。 
 

 『ニューヨークタイムズ』紙の記事の後半部分です。
http://www.nytimes.com/2009/05/12/science/earth/12suburb.html?pagewanted=2&_r=2&em


「 ドイツの郊外で、車なしの生活が進んでいる

 
 メルセデス-ベンツとオートバーンの国ドイツでは、ヴォーバンのような自動車を低減させた場所での暮らしには、それなりのいびつさがついて回る。この町は縦長で比較的狭いので、フライブルク行きの市街電車にはどの家からも歩いてすぐ行けるようになっている。店やレストラン、銀行や学校は、住宅地のなかにあって、典型的な郊外の街よりもあちこちに点在している。ヴァルターさんのようなたいていの住民は、ショッピングに出かけたり子供たちを遊び場に連れて行くために、自転車の後ろにカートを取りつけている。
 
 イケアのような店に出かけたりスキー場にいくために、複数の家族が共同で車を購入したり、ヴォーバンのカー・シェアリング・クラブが貸し出している共同使用の車を使うことになる。ヴァルターさんは、以前は合衆国とフライブルクで―自家用車と一緒に―暮らしたことがある。

 「車があると、どうしても使ってしまいますよね」と彼女は言う。「ここに越してきてすぐに引っ越してしまって人もいます―近くに車がないとさびしいのでしょう」。

 ヴォーバンは、かつてはナチスの軍の基地があった場所で、第二次世界大戦から20年前のドイツ統合まではフランス軍が駐留していた。基地として建設されたので、道路網は民間の車の使用に合うように意図して作られたわけではなかった。「道路」は兵舎の間を通る狭い廊下のようだった。

 元々の建物ははるか以前に倒壊された。それに換わるスタイリッシュな低い家々は、ヒート・ロスを抑えエネルギー効率を最大化するようにデザインされ、外来の木と凝ったバルコニーで飾り立てられた4~5階建てのビルである。一戸建ては禁じられている。

 ヴォーバンで家を買った人々は、環境のためなら進んで実験台に立とうとする人々である――実際、住民の半数以上は緑の党に投票している。しかし、多くは、生活の質が良いからここに住み続けているのだと言っている。

 科学者のヘンク・シュルツさんは、先月のとある昼時に自分の3歳になる子供がヴォーバンのあちこちを歩き回っているのを眺めていたとき、初めて車買ったときにどれほど興奮したかを思い出したという。今は、車のないところで子供を育ていることに喜びを感じています、と彼は言った。通りでの子供の安全にあまり気にかけることがないからである。

 ここ数年で、ヴォーバンは、ドイツで類似の実験をするコミュニティをまだ生み出してはいないけれど、ニッチな街としてすっかり有名になった。しかし、このコンセプトがカリフォルニアで上手くいくかどうかは判らない。

 100人以上のオーナーがベイ・エリアの「車低減社会」であるケーリー・ヴィレッジの家を買う契約をしたし、ルイス氏は、このプロジェクトを上手く開始させるさせるために初期資金として200万ドルの追加を期待している。

 しかしもし上手くいかない場合、彼の代替案は、同じ土地にまったく自由な車の使用を許す開発地区を作ることである。その土地はヴィラージュ・ディターリア(Village d’Italia=イタリア村)と名づけられるだろうというのである。  
 」。  

  


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カー・フリー社会をめぐって(1) [海外メディア記事]

 「カー・フリー(car-free)」社会の実験が、ドイツのフライブルク市の郊外で進行中だそうである。ついに車も文明のトレンドから弾かれることになるのか? まさか? しかし、あのアメリカにおいても、わずかながらとはいえ、そういう気運が高まりつつあるみたいです。

 ちなみに、日本は、都市部を除けば、いつしか車がなければ何もできないような車社会になってしまいました。郊外の巨大なショッピングモールは依然(これからますます?)花盛り。日本は環境先進国? いえいえ、この点ではとてつもなく遅れています。
 

 『ニューヨークタイムズ』紙の記事の前半部分です。
http://www.nytimes.com/2009/05/12/science/earth/12suburb.html?_r=1&em


 ドイツの郊外で、車なしの生活が進んでいる

 ドイツ、ヴォーバン――この高所得者層が住む街の住人たちは郊外居住のパイオニアであり、サッカー・ママや車で通勤する企業幹部がかつて行ったことのないところに行こうとしている。彼らは車を放棄したのだ。

 路上駐車、私設車道、家庭用のガレージは、フランスとスイスの国境に近いフライブルク市郊外のこの実験的な新しい地区では、原則的に禁止されている。ヴォーバンの通りは完全に「カー・フリー」なのである――ただし、フライブルクの中心街に向かう市外電車が通る目抜き通りや、この地区の周縁部にある少数の通りは例外である。車の所有は認められるが、駐車できる場所は二箇所しかない。この新興住宅地のはずれにある大きなガレージがそれで、そこに車の所有者は、40,000ドルを出して、家付きのスペースを買うことになる。
 結果として、ヴォーバンの家庭の70㌫は車を所有していないし、57㌫はここに引っ越すために車を売り払ったのである。「車をもっていたとき、私はいつもピリピリしてましたよ。車がなくなってずっと幸せです」と言うのは、メディア・トレーナーで二児の母のヘインドラム・ヴァルターさん。彼女が歩く緑あふれる通りは、自転車の風切る音や歩き回る子供たちのはしゃぎ声のおかげで、時折遠くを通る車の音が聞きとれないほどである。

 ヴォーバンは2006年完成した街であるが、ヨーロッパ、アメリカ等で高まりつつある、郊外生活を車の利用から切り離そうとするトレンドの一例である(そのトレンドは「スマート・プランニング(smart planning)」と呼ばれる運動の一要素である)。

 郊外といえば、上海からシカゴにいたるまでの世界中の中流家庭が居住する場所であり、車はそうした郊外居住者にとっての必需品である。そしてこのことが、車からの温室効果ガスの排出量を劇的に抑えて、それにより地球温暖化を低減しようとする現在の努力に対する大きな障害となっていた、と専門家は指摘する。ヨーロッパでの温室効果ガスの排出量の12㌫は乗用車に帰せられるし―欧州環境機構によると、このパーセンテージは増加しつつある―、合衆国の車依存の高い地域では、その数字が50㌫にはね上がる所もある。

 ここ20年間で都市をコンパクトにしてもっと歩くのに適した場所にする試みがなされてきたが、都市計画者たちはそのコンセプトを郊外に適用し、とくに排出量低減のような環境にプラスとなる政策に焦点を置きつつある。1平方マイルの長方形の土地に5,500人の居住者が暮らすヴォーバンは、低自動車型郊外生活の最も先進的な実験場であるだろう。しかし、その根本的な指針は、郊外をもっとコンパクトにし、もっと公共機関の交通の便をよくし、駐車スペースをもっと少なくしようとする努力として、世界中で採用されつつある。この新たなアプローチでは、商店は、遠いハイウェイ沿いにあるショッピング・モールというよりは、歩いていける、メイン・ストリート上にある。

 「第二次世界大戦以降の発展のすべては車を中心にしてきたのですが、それは変わらなければならないでしょう」と語るのはデイヴィッド・ゴールドバーグ氏。彼は、合衆国の何百もの団体―そこには、環境団体も、市長連合も、全米退職者連合も含まれる―の連合体である’Transportation for America’の役員であるが、車にあまり依存しない新たなコミュニティーづくりを推進している。ゴールドバーグ氏はこう付け加えた。「車をどれくらい利用するかは、ハイブリッド・カーを持っているかどうかと同じくらい重要です」。


 レビットタウンやスカールスデールといった、開放型の家と私用のガレージが並ぶニューヨーク郊外の住宅地は、1950年代では夢の住宅地であったし、いまでも強力な魅力を及ぼしている。しかし、新たな郊外の住宅地でヴォーガン型のように見える所も出現してきているのだが、それは先進国だけではなく、急成長する中流階級が所有する自家用車が増大し、そこからの排気ガスによって街の空気が悪化している発展途上国においても見られることなのである。
 
 合衆国では、環境保護庁が「車を減らすコミュニティー」づくりを推進しており、議員たちも、慎重にではあるが、法案の作成に取り掛かり始めた。多くの専門家は、今年可決される予定の今後6年間の連邦輸送法案において、公共交通機関の一翼を担う郊外の街々がこれまで以上の役割をはたしてくれることを期待している、とゴールドバーグ氏は語った。以前の法案では、予算割り当て額の80㌫は法的にハイウェイに流れてしまい、それ以外の交通機関には20㌫しか流れなかったのである。
 

 カリフォルニアでは、ヘイワード地域計画組合(Hayward Area Planning Association)がヴォーガンに似たケイリー・ヴィレッジというコミュニティをオークランド郊外に建設中で、そこからは車なしで通勤用高速鉄道(Bay Area Rapid Transit system)やヘイワードのカリフォルニア州立大学に行くことができるのである。

 同大学の名誉教授でこの組合のリーダーであるシャーマン・ルイスは、「引越しするまで待っていられない」と言い、ケイリー・ヴィレッジのおかげで家の車が2台から1台になり、できればゼロになることを希望しているという。しかし住宅ローンの会社は50万ドルもしながら車の余地のない家の再販売価格を気にするし、合衆国のたいていの建築基準法は住宅ユニットあたり二つの駐車スペースを要求しているので、現在の制度はこのプロジェクトに大変不利に働いている、とルイス氏は言う。ケイリー・ヴィレッジは、ヘイワード地区から特例措置を貰ったのである。

 おまけに、車を諦めるように説得することはしばしば非常に困難である。「合衆国の人々は、車を所有しないようにしようという考え方、または所有している車を減らそうという考え方に対しては、信じられないほどの不信感を抱くものです」と語るのは、「カーフリーシティーUSA(CarFree City USA)」運動の共同創始者のデイヴィッド・シーザー氏。氏によると、ヴォーバン程度の規模の郊外地でなされたカーフリーのプロジェクトで成功した例は、これまで全米に一つもないという。

 ヨーロッパでは国家規模で考えている政府もある。2000年、イギリスは都市計画を改良して、これからの開発地は公共の交通機関で行けるように求めることで、車の使用を減らそうとする包括的な努力を開始した。

 「土地開発を構成するさまざまな仕事、ショッピング、レジャー、サービスは、車が大多数の人にとっての唯一の現実的な移動手段であるという前提のもとで考案され位置づけられるべきではない」と述べるのは、イギリス政府の革命的な2001年都市計画文書であるPPG13。ショッピング・モール、ファスト・フード・レストラン、マンションなどからなる数十にも及ぶ複合施設が、この新たなイギリス政府の方針に基づいて、建築許可を拒否されたのであった」。(後半に続く)  

 




 


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