SSブログ
 
海外メディア記事 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

「ラロックの聖母」日本上陸 [海外メディア記事]

 この記事を目にするまで、日本でこの聖母が話題になっていることすら、私は知りませんでした。検索してみて、某テレビ局が騒いでいるにすぎないことが判りましたが、いずれにせよ、この間の経緯を簡潔に伝える『フィガロ』紙の記事を紹介します。フランスの地方の美術愛好家の発見に端を発し、フランス国内ではたぶん見向きもされなかったところ(ルーブルの関係者が関わりを持ちたがらないのはなぜでしょう?)、日本のテレビ局が油を注いで火を大きくしようとしている、といったところでしょうか。こういうことは専門家に任せるべきで、マスコミが関与するのはどうかと私は思いますが、さて、皆さんはどう思いますか?
ちなみに某局がこのマドンナのために解説したサイトもあわせてどうぞ(http://laroque.exblog.jp/)。

Laroque.jpg
 
 
De notre correspondant à Montpellier, Christian Goutorbe 22/07/2009 | Mise à jour : 08:40
http://www.lefigaro.fr/culture/2009/07/22/03004-20090722ARTFIG00009-mysterieuse-passion-japonaise-pour-un-petit-tableau-francais-.php


「 謎に満ちたセヴノールの聖母に夢中になる日本


 セキュリティーも温度管理も万全な小さいガラスケースにたった一枚納められた形で、小さな絵が何百万という日本人の好奇心と対面する。11年も調査したにもかかわらず、この絵がレオナルド・ダ・ヴィンチの作品かどうかは依然として判明していない。

 三日前から、ラロックの聖母の伝説は、日本語で書かれるおとぎ話になった。7月18日、この絵は東京にあるフジ・テレビ本社ビルの象徴ともいうべきその最上階に展示された。 セキュリティーも温度管理も万全な小さいガラスケースの中にたった一枚納められた形で、この絵は、昨年の秋以降、1500年頃レオナルド・ダ・ヴィンチのミラノにあるアトリエでポプラの板の上に描かれたこの小さな絵のうるわしい物語を仕込んだ何百万という日本人の好奇心と対面する。


 1998年10月、この絵が売買されたとき、(エロー県)ガンジュ川に近いラロック村の古物商で1500フラン(230ユーロ)の値札が付けらた二束三文の小さな絵にすぎなかった。二人の子供をかかえたこの聖母から発する独特の光彩が三人の美術愛好家の目を引きつけたのだ。買った後で、じっくり観察したところ、この絵がとても古いものであるという結論に達した。三人は、絵画を扱う大きな研究所をいくつも訪ねた。この絵画の作者を見いだそうとする調査が始まってもう11年になる。まだ決着はついていない。この絵を買った三人の負担で調査は続けられてきた。「私たちはすべての費用を自腹で払ってきたのです。市場で出回っている絵の中で、これほどの歴史的調査と科学的分析にかけられた絵がたった一枚でもありますか?」。そう問いかけるのは、三人の所有者の一人フランソワ・ルクレー氏。二人の子供を抱くこの謎に満ちた聖母を描くこの小さな絵は、これまで一度もフランスで展示されてこなかった。一度だけ公開されたことはあるが、それは象徴的なことに、巨匠レオナルドが1452年に洗礼を受けたヴィンチ村のサンタ・クローチェ教会でのことだった。この期間のすべてにわたって、ルーブルの専門家はこの絵を調査することをずっと拒んできた。こうした懐疑的な空気があるにもかかわらず、三人組は、時の経過とともに集めた情報や断言をゆがめることなく進め、そしてついに去年の秋、とある美術史家のマイク・フォクト・リュエルセン女史は、この絵がたしかにレオナルドの手によるものであると断定するにいたった。彼女は、この絵が、1496年から1515年の期間にレオナルドの近くにいたイザベル・ディ・アラゴンの顔を描いたものだと断言している。


 例外的なほど多くの視聴者を得た放送

 
 この絵が巨匠のアトリエで製作されたものであると見なす別の専門家はいたが、一線を越えてレオナルドの絵だと断定したのは今のところリュエルセン女史ただ一人である。絵にまつわる確信などどれほど大事だろうか? 昨年の11月、日本人は、フランソワ・ルクレー、ギー・ファダ、ジャック・プルーストのセヴェンヌ地方のこの三人の信じられない話を発見した。日本のフジテレビグループは、プライムタイムで、この話をドキュメンタリー番組にして放映した。この放送は例外的なまでの視聴者を得た。日本では、この聖母の話はダ・ヴィンチ・コードよりも大きな成功を博した。日本人は科学的な要素があれば夢中になるのである。ありとあらゆる要素がこの話には詰め込まれていた。この最初の放送の視聴者の要望や、この放送が一般大衆に引き起こした関心や好奇心が相まって、この聖母を初めて東京で展示してはどうかという発想が生まれた。ドキュメンタリーの監督をしたフランソワ・トリュファールが、熱狂的美術愛好家である三人のフランス人と日本のプロデューサーとの縁を取りもった。この日から8月の31日まで、40万以上ものファンが、5世紀もの間何の関心も払われなかった後で、よみがえり息づき始めた絵である「ラロックの聖母」の足もとに訪れることになるのである」。
 





コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

消滅の危機に立つ日本の地方 [海外メディア記事]

  なぜか『ガーディアン』紙が、日本における地方の過疎化(少子高齢化)のことを取り上げていたので、見てみることにしようと思いました。折りしも日本は選挙に突入しようとしているわけですが、消滅の危機と戦っているこうした地方が数多くあるということが、どれほど選挙戦で話題になるのでしょうか? 私は東京在住者ですが、東京に人口も富も集中するのはもう止めてくれ、と叫びたい気持ちをここ数年ずっと抱きつづけてきました。一極集中の首都圏と地方とのアンバランスがあまりにもひど過ぎるので、こういう清里の現状を報告する記事にはため息しか出ません。 
 


Japan: Towns face extinction as young people desert roots and head for cities

* Justin McCurry in Kiyosato, Hokkaido
* guardian.co.uk, Monday 20 July 2009 19.46 BST

http://www.guardian.co.uk/world/2009/jul/20/japan-towns-face-extinction


「 日本:若者が故郷を離れ都会に向かうにつれ、地方の町は消滅の危機に直面している


 
 世界の人口は急速に増大しており年金生活者の数もかつてないほど急速に増えている。しかし高齢化の皮肉な点は、世界が人間で一杯になることではなく、世界の広大な地帯で人口減少が起こりつつあることなのである。

 一見すると、清里町は生き残りに苦心している場所のようには見えない。ジャガイモやトウモロコシやビートの広大な畑が広がる中に、新築の家が立ち並びコミュニティー・センターも建っているからである。

 しかし、トラクターのかすかな音をのぞけば、町はシーンとしており、通りにはほとんど誰もいない。清里町はかろうじて生き長らえている状態なのである。そして政府によれば、6万以上の日本の町が、出生率の低下と平均寿命の上昇――現在、女性は86.05才、男性は72.29才――による二重の攻撃を受けた結果としての人口減少によって、死滅の危機にあるのだという。

 日本は、65才以上の人が占める割合――その1億2700万人の22.5%――が世界で最も大きい国の一つであり、15才以下の人が占める割合が13%で、世界で最も少ない国の一つである。地方の自治体に暮らす5人に2人以上が65才以上であり、高齢者が人口の半分以上を占める町村は、推定で8.000にのぼる。人口統計学者は、現在の1億2700万人という人口が、今後50年で1億人に減少するだろうと見積もっている。

 約200の町村が過去10年で消滅した。消滅の脅威が最も大きな規模に広がっているのが北海道で、そこでは、ほぼ10%の町が危機的状態にあり、今後10年で消滅すると予測されている町の半分が北海道に集まっている。

 清里町の人口は、ピーク時の1960年代初頭の11,000人から急降下をたどり、今日ではわずか4,675人である。住民のほぼ3分の1は65才以上で、国の平均を10%も上回っている。5つある町立の小学校には合計318人の生徒が通っているが、最も小さい小学校には48人しか通っていない。

 「高齢者の死亡者を含めると、年間約70名ずつ減少しています」と言うのは、清里商工会の事務局長のオクヤマ・ヒデアキ氏。日本の低い出生率を考えるならば、清里の農民にとって将来はますます望みのないものに映る。カツマタ・タケシ氏(55)は、自分がリタイアするとき、3世代にわたってジャガイモや他の作物を育ててきた30ヘクタールの農場は手放すことになるだろうと、ほとんど覚悟を決めている。

 「14才になる娘が跡を継ぎたいと思っているかどうかは分かりません」とカツマタ氏は言う。彼の農場は祖父が開拓したものである。「現実的に考えると、私がわが家の4代目にこの農場を手渡せるとは思っていません」。

 
 人口を増やす試みとして、清里町は数百万もいる60才台のサラリーマンとその家族にターゲットを絞り、ここに住居を用意する見返りとして退職後に田園暮らしを当地でしてもらえたらと期待をこめる。

 地元の関係者は、2006年に5億ドルの隠れ債務をかかえて破綻した北海道のかつての炭鉱の町、夕張市の二の舞は避けたいと必死である。炭鉱が1960年代に閉鎖されてからというもの、夕張市の人口は12万人から1万2000人まで落ち込み、その債務は、国際的な観光スポットに変貌を遂げようとする失敗に終わった試みに何年間にもわたって浪費し続けたせいだった。 

 北海道には、政府のとあるレポートで「瀬戸際に立たされている」と述べられている町がまだいくつかある。ある町は、三年以内にその町に移住し正式の市民として登録することに同意した人々に何区画かの土地を無料で譲渡しているが、いまのところ成功しているとは言い難い。別の町は、子供の数が劇的に減少しているために、今年度の初頭、その小学校のいくつかをヤフーのオークションに出品せざるを得ない羽目に追い込まれた。意義深いことに、そのうちの1校は高齢者のための介護施設に転用された。

  
 清里町が救われるかどうかは、若い都市居住者を呼び戻して、田舎にある自分のルーツを再発見できるようにさせられるかどうかにあるのかもしれない。ヤマシタ・ケンゴ氏は、10年前に妻と二人の子供とともに清里町に移住したのだが、いまでは、元の都市生活に戻ろうなどと想像することも出来ないと言う。

 
 「埼玉に戻るたびに、いつも真っ先に僕の心をとらえるのは、あまりに人が多すぎるということです」。斜里岳近くのロッジのオーナーでガイドもしているヤマシタ氏はそう語る。「一刻も早く清里に戻りたくなります」。


 「ライフスタイルの変化を望んでいる人は多いし、再スタートを切るために今の職場を辞めて田舎に行こうと思っている人だって多いですよ。しかし、日本の企業文化には、キャリア半ばにして辞めるということはないのです。辞めたいと思っている人も、どう踏ん切りをつければいいか判らないのでしょう」。

 
 清里町は、移住を前向きに考えている人に、使用料を大幅に引き下げて、一ヶ月間まで、広々とした家で暮らしてもらうような事業を行っている。昨年の夏以降この体験プログラムに数十人が参加したが、そのうち永住を決めた人はまだ一人もいない。

 
 「人口問題は一朝一夕に解決できるわけではないことは判っていますので、私たちは数値目標を課したりしませんでした」とオクヤマ氏は言う。「人口の減少に歯止めをかけられれば良いのですが」」。






コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

狂気と創造性 [海外メディア記事]

 狂気と創造性との関連というと、昔から研究対象になっていたし、あまり今では顧みられないテーマであるように思っていましたが、この記事を読むと、まだ追求するに値すると思われているようです。この研究自体は、まだそれなりの結果にはいたっていない訳ですが、こうした分野は、個人的にはとても興味を持っており、できれば引き続き注目していきたい、と思っています。『ニュー・サイエンティスト』という科学誌の記事です。 

 
 
16 July 2009 by Ewen Callaway, in NewScientist

http://www.newscientist.com/article/dn17474-artistic-tendencies-linked-to-schizophrenia-gene.html?DCMP=OTC-rss&nsref=online-news


「 芸術の素質は「統合失調症遺伝子」に関係あり



 苦悩する芸術家というステレオタイプはみんな知っていることだ。サルバドール・ダリの様々な障害や、シルビア・プラスの鬱病を思い浮かべる人もいるだろう。さて、新たな研究がその理由を示してくれたようだ。精神病や統合失調症に関連づけられている遺伝子変異体が創造性にも影響を及ぼしているというのである。

 この発見は、統合失調症や双極性症候群のような精神病を発現させるリスクを増やす変異体が、人間の進化の過程でなぜ保存され、それどころか優遇されてきたのか、その理由を説明することに貢献するだろうと、この研究を行ったハンガリーのブダペストにあるセンメルワイス大学のサボルチュ・ケリ博士は言う。

 ケリ博士は、これまでの研究でも統合失調症のリスクを若干高めるのではないかと考えられてきたニューレグリン1(neuregulin 1)と呼ばれる脳の発達にかかわる遺伝子を調べた。脳の中でどれほど多くのニューレグリン1タンパクが作られるかに影響を及ぼすDNAのたった一文字の突然変異が、精神病や記憶障害や批判過敏症に関連づけられた。

 健康なヨーロッパ人の約50%はこの変異体を1部だけ持っているが、15%は2部所有している。


  創造的思考
 
 こうした変異体が創造性にどのような影響を及ぼすかを見きわめるために、ケリ博士は、創造的で一芸をもつボランティアを募集する広告に応募した200人の成人に対して遺伝子解析を行った。彼はまた、ボランティアに、創造的思考を見る二つのテストを行い、特許を出願したり本を書くといった創造的な仕事に関して客観的に採点する方法を考案した。

 ニューレグリン1変異体を2部もつ人――この研究の参加者の約12%――は、変異体を1部か全然もっていない他のボランティアに比べて、創造性という点では、目だって高い得点をとる傾向があった。変異体を1部もつ人々は、変異体をもたない人よりも、平均して創造性に富んでいるといると判定された。全体的に見て、この変異体によって、創造性の違いの3%から8%までが説明できるとケリ博士は言う。
 
 ニューレグリン1が創造性にどのような影響を及ぼすかは、明らかではない。変異体を2部もっているボランティアは、そうでない人と同様、パラノイア、奇妙な口癖、不適切な感情といったいわゆる分裂気質の特徴を所有しているようには見えなかった。このことは、この変異が精神病と結びついているからといって、この変異と創造性との結びつきが説明されるわけでは必ずしもないことを示唆している、とケリ博士は言う。

 
 脳を鈍磨させる

 この変異体は、むしろ、前頭葉皮質と呼ばれ、気分や行動を制御する脳の部位を鈍磨させるのではないかとケリ博士は見ている。この変化が、ある人においては創造的なポテンシャルを、別の人々においては精神病的な障害を解き放つのではないかというのである。

ニューレグリン1の変異が創造性を高めるのか、それとも精神病に寄与するかを決定する一つの要因は知性であるらしい。ケリ博士のボタンティアたちは平均よりも頭がよい傾向にあった。逆に、統合失調症の歴史をもつ家族についての別の研究の発見によると、同じ変異は低い知性と精神病の徴候に結びつけられていた。

 「私の臨床経験から判断すると、精神病に罹患しながら高いIQをもつ人は、精神病的経験に対処する知的能力をより多くもっていると言えます」とケリ博士は言う。「そうした{精神病の徴候に伴う――訳者註}感じを経験するだけでは充分ではなく、それを人に伝えなければならないのです{高いIQを持つ人は、伝達することで何とか精神病的経験に対処している、ということを言いたいのか?――訳者コメント}」。

知性の影響

  ニューレグリン1の変異と精神病との関連を発見したイギリス・エジンバラ大学の遺伝学者ジェレミー・ホールは、遺伝子の作用が、知性のような認知的要因によって影響を及ぼされることに同意している。

 だからといって、そのこは精神病と創造性が同じものであるということを意味するわけではない。「狂気と天才が同じコインの両面であるというややロマンティックな考え方はいつの世にもありました。その考えはどれくらい正しいかですって? 狂気が狂気にすぎないことはしばしばですし、知性との遺伝的な結びつきをそれほどもっているわけでもありませんからね」とホール博士は言う。

 カナダの、ブリティッシュ・コロンビア州、バーナビーにあるサイモン・フレーザー大学の行動遺伝学者バーナード・クレプシ博士は、今はまだこの研究に対しては賞賛を控えている。「これは、かなり重大な結果を伴うとても興味深い研究ですが、この結果が信頼とともに受け入れられるには、研究者との関連のない地域で同種の研究が繰り返されなければならないでしょう」と彼は言う」。
 









コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

レイプ、殺人、浮気を進化論的に考える(3)   [海外メディア記事]

 これほど長大な記事になると、最初にすべてを読み通した上で訳し始めるのができないことがしばしばあり、そのため、後になって訳の不都合に気づくということも間々あるのですが、一つそういう不都合を発見してしまいました。タイトルに現われていた「乱交」は「浮気」に改めました。お詫びします。


 なお、文中に出てくるアンナ・ニコル・スミスとJ・ハワード・マーシャルとは誰?  調べたら、なんと、Wikiに載っていたのには驚きました。かいつまんで紹介すると、アンナ・ニコル・スミスは、アメリカ合衆国の月刊誌『PLAYBOY』の元プレイメイトでモデル、女優。アメリカ合衆国テキサス州ヒューストン出身。・・・1991年10月ヒューストンのナイトクラブ「ジジズ」でストリッパーとして働いていた店に客として出入りしていたテキサスの石油大富豪、J・ハワード・マーシャル(J. Howard Marshall)と出会い、63歳年上の大富豪との結婚に世間を騒がせた。1994年6月27日に結婚し、翌1995年8月4日にJ・ハワード・マーシャルが死去。遺産をめぐって法廷闘争に発展…という二人だそうです。


 今回は、原文の3と4を合併して紹介します。進化心理学の現状を批判的に見て、ついにそれが全うな学問になることに失敗した経緯が簡潔に述べられています。訳しながら、私も色々勉強になりました。


By Sharon Begley | NEWSWEEK Published Jun 20, 2009
http://www.newsweek.com/id/202789/page/3
http://www.newsweek.com/id/202789/page/4


「 なぜわれわれはレイプ、殺人、不貞をするのか?


 しかし、これらの研究は批判にさらされたのだが、その理由を書き出せば長いリストになるほどである。たとえば、子供福祉関係の記録は、虐待者が誰なのかを示さないものが多い。 義理の子供が虐待される場合でも、義父ではなく母親が手を下しているケースがあることは、2005年の『児童虐待およびネグレクトの全国発生率調査(National Incidence Study of Child Abuse and Neglect )』lが報告している通りである。そのことが示唆するのは、記録上、義父による虐待の事例数が水増しされているということである。また、当局も義父を怪しいと思いがちなのである。義父の家庭で子供が虐待で死亡すると、生物学的な親だけの家庭で死亡事故が発生した場合に比べて、当局が死亡原因を父親に帰した報告書を書く確率は9倍も高いことが、1990年から1998年までにコロラドで死んだすべての子供の報告書を調べ上げたバラーの2002年の研究で明らかになった。つまり、児童虐待のデータは生物学的父親による虐待の事例を見落としている、ということである。最後に、2008年のスウェ-デンでのとある研究は、義理の子供を殺す男性の多くが(驚くべきことに)精神障害の持ち主であることを明らかにした。シングル・マザーが再婚する場合、義理の子供が増えることはないと想定しても大過ない。シングル・マザーの再婚相手が麻薬常習者で、大酒のみで精神病者であるならば、義理の子供に降りかかるさらなるリスクはその事実を反映しているだけであって、新たな女性の連れ子を虐待せよと男たちに命ずる普遍的な心的モジュールを反映しているわけではない。カナダのマックマスター大学のマーティン・デイリーとマーゴ・ウィルソンは、かつての著作で男性は義理の子供をネグレクトする心的モジュールをもつという見解に至りついたのだが、いまでは、そうした虐待がかつては適応的だったという主張を否認している。しかし、デイリーに言わせると「{義理の父親であること}が虐待のリスク要因であることを否認する試みは馬鹿げていますし、時には、デイヴィッド・バラーの著作のように、不正直でもあります」。


 義理の父親による児童虐待についてのデータが矛盾しているように見えるとすれば、まさにそこが重要な点だからであるかもしれない。他の男の子供を排除することが適応的であるような場合が実際あるかもしれないのである。やはり、それは場合による、としか言えない。アメリカの都市とアフリカの狩猟採集民の村といったさまざまな場所で行われた調査が示しているのだが、男性が義理の子供の面倒を見たり養育することは普通のことである。こうした状況ならではの特徴と思われることは、結婚生活の不安定さであるとヒルは言う。つまり、男女が一緒になり、子供をもち、そして分かれる。このような状況で、柔軟な人間の心は「母親をひきつけたり、母親と性交するためのアクセスを維持する」方法を見つけ出す、とヒルは説明する。品のない言い方をすれば、女性の子供に優しくすれば、女性はあなたと寝てくれるだろうし、あなたの適応度を最大限にしてくれるだろう。女性の子供を殺してしまえば、女性は恨めしく思い、あなたを寄せつけず、あなたの精子がそのダーウィン的使命を果たすことを不可能にしてしまうだろう。しかも、親戚に頼って子供の養育を手伝ってもらうような社会で、「10歳の義理の子供を殺すことは、その子だって手伝ってくれるのであるから、意味をなしません」とヒルは指摘する。義理の子供を、その子が手伝えるようになる年頃まで養育することの適応度に及ぼすコストは、進化論的生物学者が主張するよりもずっと、ずっと小さい
のです。生物学は、義理の子供を殺すことは人の適応度を高める適応の事例であると述べる単純なシナリオよりもずっと複雑なのです」。


 勇敢な戦士であることは、男性が女性を獲得し多くの子孫を残すことに利するという考え方でさえ否定された。エクアドルのアマゾン川流域のワオラミ族は、1958年に伝道師が入り込むまで、科学的に知られる限り、最も高い殺人率をほこっていた。女性の39%と男性の54%が、他のワオラミ族のメンバーに殺されたのであり、しかもしばしば、数世代続く血なまぐさい抗争の中で殺された。「知恵ある言葉として伝えられたものに、男性はより多くの奇襲に参加すればするほど、より多くの妻を得られるし、より多くの子孫を残せるというものがありました」と述べるのは、ペンシルベニア州立大学の人類学者ステファン・ベッカーマン。しかし、95人の戦士の家族の歴史と襲撃と殺戮の記録を苦労して構成してみたところ、ベッカーマンとその同僚はその信念を覆さざるをえなかった、と彼らは先月の『米国アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences)』で報告した。「気性の荒い男は夫になるには非常に不向きです」とベッカーマンは言う。「女性はそういう男を夫として選びませんし、彼らは反撃の標的となるので、その巻き添えを食らって妻や子供も殺される傾向にあるからです」。結果として、スーパー戦士になればなるほど残せる子孫は、それほど攻撃的ではない男性よりも少なくなるのである。タフ・ガイの行動はある環境では適応をもたらしただろうが、別の環境ではそうではなかっただろう。やはり、場合によりけりなのだ。「進化心理学の人々に対するメッセージは、ヒトが進化した単一の環境などというものはなかったということであり」したがって単一の人間本性というものもなかったということです、とベッカーマンは言う。



 わたしは、嫉妬に言及せずに、科学的な精査のもとで崩れさった進化心理学の主張のリストを終えることはできない。進化心理学の主張によれば、嫉妬も、それ独自のモジュールを備えた適応の事例であって、生殖の成功に対して脅威となるものを見つけて邪魔をするためのものであった。しかし、男性の嫉妬モジュールと女性の嫉妬モジュールは異なっているとされた。男性のものは、性的不貞を見つけ出すためのものである。別の男がはらませることを許す女性は、自分の子宮を少なくとも9ヶ月間は使用不可能にしてしまい、自分の夫から生殖の機会を奪ってしまうからである。女性の嫉妬モジュールは精神的不貞には敏感だが、夫が不実であってもあまり気にしない。男性は、見境のないところがあるので、たとえ性的に不実であっても、ナンバー1の妻とその子供から離れたりはしないだろうが、別の女性と本当に恋仲になったならば、妻や子供を見捨てるかもしれないからである。



 夫が他の多くの女性と寝ても大して気にしないように妻はプログラム化されていると(概して男性の)進化心理学者が主張するときにどんな動機をもっているのかと、せんさくするのはやめて、その代わりに証拠を求めるようにしよう。アンケートをとって、精神的不貞よりも性的不実のほうが動揺するだろうと答えたのは女性より男性のほうが多く、その比率は2対1以上の割合だったことは、テキサス大学のデイヴィッド・バスがアメリカの大学生を対象にした以前の研究で発見したことである。しかし、どちらの種類の不貞が自分をより動揺させるかという点では、男性の意見は半々に割れた。半数は、自分の彼女が別の男と恋仲になることを考えただけでも動揺すると答えた。半数は、彼女が別の男と寝ることを考えただけでも動揺すると答えた。男性のほうが性的不貞をより気にかけるという主張にはさほど強力な証拠があるわけではないのである。しかもある国、特にドイツとオランダでは、精神的な不貞よりも性的不貞のほうに同様させられると見なす男性のパーセンテージは28%と23%だった。このことが示唆するのは、何度も言うことだが、すべては状況次第ということである。女性の性について鷹揚な見解をもっている文化では、女性が、つかの間の、深い意味があるわけではない情事をしたとしても、男性はそれほど動揺しない。女性が自分のもとを去ってしまうという前兆ではないからである。男性も女性も彼らの絆を脅かすような行動を見つける要にできているということはもっとありそうなことだが、その行動が何であるかは文化によって違う。不倫が夫婦関係の終わりの前兆となる社会では、男性はそのことに気を配る。それが大したことではない社会では、男性は気を配っていないはずだし、気を配っていないように見える。女性の嫉妬心の引き金をひくものについての新たなデータは、単純な進化心理学がくりだすストーリーの信憑性を下げるものだった。自分の彼氏が別の女性とアクロバティックなセックスをするか、その女と恋に落ちるかの情景を想像してもらって、そのどちらの方が動揺するかと尋ねられて、後者の方と答えたのは、アメリカの女性では13%、オランダの女性では12%、ドイツの女性では8%にすぎなかった。あのよくありがちな「彼女は俺が他の女と寝ても気にしない性質なのさ」という言い訳については、これくらいで充分であろう。 


 進化心理学の批判者は、男性も女性も嫉妬心を抱くようにできていることを疑ってはいない。不貞をキャッチするレーダーのようなものがあれば、それは本当に適応に貢献するだろう。しかし証拠が指し示しているのは性的に中立的なものである。男性も女性も、相手を捨てる前兆となる行動とそうではない行動を区別し、前者にのみ動揺するという能力を発達させてきた。どの行動がどちらなのかは社会次第なのである。


 進化心理学の行く手は平坦ではない。それは、ほぼこの20年間、話題、とくにメディアでの話題を独占してきた。それは主に、今は亡き進化生物学者ステファン・ジェイ・グールドをリーダーとする初期の批判者たちが、進化論の約19人の専門家を除くすべての人に理解される議論によって攻撃したからであった。進化心理学は、まだ主導権を手放そうとはしない。ソーンヒルは、レイプが適応の一事例であるという点については、ヒルのアチェ族の研究結果にもかかわらず、譲歩するつもりはない。「もしある形質なり行動が何かをするために組織されたのであれば」、そしてレイプがそうなのだと彼は信じているのだが、「それは適応の一事例なのであり、進化によってそれが残るように選択されたのです」と彼は私に言った。そして新たな『スペント(Spent)』という本で、ニュー・メキシコ大学のジョフリー・ミラーは進化心理学の基本的考えを繰り返して、次のように力説している。「オスは、メスよりも、多様なパートナーとの多くの性交によってずっと多くのことを得る」のであるし、「人間の配偶者選択の基準には普遍的な性差があって、男性は若く多産の女性を好み、女性は年上で、身分が上で、金持ちの男性を好む」。



 その点について言えば、男性は女性よりも成熟が遅いという点を考慮に入れるならば、両性とも自分と同年齢の相手を好むということを示唆する証拠があるのである。もし男性の心が適応の結果、もっとも多産的である女性を好むようにできているならば、全米退職者協会に入る資格のある男性は23歳の女性と結婚してもいいはずだが――アンナ・ニコル・スミスとJ・ハワード・マーシャルという実例があるにもかかわらず――そんなことはせず、出産の適齢期をはるかに過ぎた女性を選ぶ。しかも、興味深いことに、ミラーが本を売ろうとすることよりも科学に焦点を絞るとき、彼は、「人間の配偶者選択は、男性が若くて美しい女性だけを好み、女性が身分と富を好むということ以上のものである」ことを認めるのである。このことは、彼が私にメールで語ってくれた。


 しかし、進化心理学は、依然として、メディアや大学のキャンパスでは大人気なのだが、その理由は明らかである。それが問題にしているのは「とてもセクシーなトピックス」なのだから、とヒルは言う。「要は、セックスと暴力を扱っているからです」。それは、ヒルが言うところの「太古の昔のなぜなぜ物語りに対する強迫観念」である。しかも、進化心理学の信憑性を揺るがす経験的データと理論的根拠について知る人はほとんどいないし、それを知る科学者もほとんどいない。「たいていの科学者は忙しすぎて、自分自身の狭い研究分野の外にある研究書を読んだりはしませんからね」と彼は言う。


 進化心理学者たちは、譲歩するどころか、戦場を科学の分野(そこで彼らはあやふやな根拠の上に立っている)から、イデオロギー(そこでは、声高に叫んだり悪口を言うことが非常に大きな成功を収めることがある)へと移したようである。たとえば、ニュー・メキシコ大学のミラーは、「批評家たちが教養ある層のかなりの部分を説き伏せて、進化心理学は悪質な右翼の陰謀であると信じ込ませた」と不平を言ったり、進化心理学を信じることは「保守主義的で不愉快で利己的であることの指標」と見なされていると不平をもらしている。悲しいことだが、このようにして、あまりにも多くの論争がやり過ごされてきたのである。「批評家たちには、お前たちは進化心理学に対する憎悪によって駆り立てられたマルクス主義者にすぎないという悪口雑言が投げつけられました」とバラーは言う。「それが、私がこの分野をもう追求していない理由の一つです。科学が行われている仕方が、ここでは、政治運動のようなところがあるからです」。


 では、進化心理学が失墜した今、人間の本性という観念はどうなるのだろうか? 行動生態学はそれを「環境次第である」に置き換えた。つまり、人間本性の核心は可変性と柔軟性であり、環境の社会的、物理的要求に合わせて行動を形作る能力なのである。バラーが言うように、人間における変異はシステムにおけるノイズなのではない。たしかに、シンボルの言語、文化、道具の使用、感情、感情表現のような形質は、確かに、人間の内にある普遍的要素であるように見える。一般大衆の想像力を捉える行動――手当たり次第に女と寝る男性、一夫一婦制的女性、義理の子供を殺す男性等々――は、人間の内にある普遍的要素ではないことが判明した。進化心理学を納める棺に打ち込む最後の釘として、遺伝学者の発見を引き合いに出すが、それによると、人間の遺伝子は、進化心理学が考案された頃、誰もが「現代の」人間は5万年前の人々のDNAとほぼ同じDNAをもっていると想定していた頃、誰もが想像していたよりも、ずっと急速に進化するものである。わずか1万歳としか見えない遺伝子もあれば、それよりも若い遺伝子もあるかもしれないのである。


 この発見が進化心理学のもっとも熱烈な擁護者の注意を引いたのだが、それは、環境が急激に変化しつつあるとき――農耕が考案されたり都市国家が勃興したときのように――は、自然選択が遺伝子プールの内に最も劇的な変化を生み出すときでだからである。しかし、この分野の指導的な人々の大半は、「人間の進化にかかわる遺伝学のここ10年における驚くべき進歩に追いついていない」とニュー・メキシコ大学のミラーも認めている。石器時代のケイブマンほど古い遺伝子ではなく、農耕や都市国家のような新しい遺伝子の発見が意味しているのは、人間の不変的要素があるという主張やそれらが石器時代の脳の産物であるということから始めて、「私たちが進化心理学の根底をなす前提を考え直さなければならない」ということである、とミラーは言う。進化が人間の脳を形作ったのは事実である。しかし、進化はその作用を、石のような硬いものにではなく、可塑的なプラスティク状のものに及ぼしたのであり、その結果として、世界を吟味してからそれに適応することができるような柔軟な心を私たちに残してくれたのである」。
 









コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

レイプ、殺人、浮気を進化論的に考える(2) [海外メディア記事]

 生成途上にある学問の一分野を追った『ニューズ・ウィ-ク』誌の記事の第二回目。追い詰められる進化心理学に焦点を当てていますが、議論のあり方が「生得主義」に関する当否になっているのが、意外に思えます。つまり、ずいぶん古臭い論争の蒸し返しになっているように感じられるからです。

 難しい用語がちりばめられているため、議論全体が難しく思える人にとっては、たとえば、Wikiの「進化心理学」の項目が多少は役立つかもしれません(http://www.newsweek.com/id/202789/page/2)。「モジュール」についての説明もあります。
 文中に言及のある「クーガー(現象)」とは、ヒット映画の「セックス・アンド・ザ・シティ」で脚光をあびた、うんと年下の男とつきあう年上女性のことを指すもののようです。クーガーを含む文脈で「日本」に対する言及がありますが、これには異議を唱えたい人が少なからずいるのではないかと思われますね。

By Sharon Begley | NEWSWEEK Published Jun 20, 2009
http://www.newsweek.com/id/202789/page/2 



「 なぜわれわれはレイプ、殺人、浮気をするのか?


こうした状況は変わりつつある。進化心理学は2005年に最初の大打撃を受けた。その年に、ノーザン・イリノイ大学のバラーが自著『適応する心』で示したように、進化心理学の主張の根底にある重要な研究の中に次々と致命的な欠点が暴きたてられたからである。ヒルがアチェ族に関して行ったような人類学的研究が続々と生み出され、われわれがレイプするようあらかじめプログラム化されているという考え方に対する批判が相次いだ。そして脳科学者たちも、脳の灰白質が進化心理学者たちの主張するような仕方で、数百もの専門化され、予めプログラム化されたモジュールによって、組織化されているという証拠が何もないことを指摘した。カリフォルニア大学サン・ディエゴ校の神経科学者ロジャー・ビンガムは、かつては熱心な「進化心理学教会の会員」だったと自己紹介しているが(1996年彼は、何百万ドルもかけて進化心理学を賛美するPBSのシリーズ番組を作り司会役を買って出た)、今では進化心理学に対して真っ向から反対の論陣を張っていて、「福音主義的な」情熱をもっていると言ってその支持者の幾人かを非難している。ストーニー・ブルック大学の進化生物学者マッシモ・ピリウッチは「人間の行動についての進化論的ストーリーは、素敵な物語にはなりますが、素敵な科学にはなりませんね」と言っている。


 他の批判者と同様、彼も進化が人間の脳を形づくったことに疑いの念を抱いてはいない。進化が人間の他のあらゆる器官を形づくったのであれば、それ以外にどう考えられよう? しかし、人間の行動は、石器時代に硬化した心的モジュールによる制約をうけているという進化心理学の主張が意味をなすのは、環境からの働きかけが非常に静的であるために、ある進化時期の間に本能が形成されるような場合にかぎる、とピリウッチは指摘する。しかし環境 (社会的環境も含む)が静的というよりも動的な場合――あらゆる証拠がそうであることを示唆している――ヒトを進化上の適者とする唯一の種類の心とは、可塑的で環境の変動に対応できる心であり、社会的・物理的にどのような環境にいようとも、妥協点を探って、生き延び、繁栄し再生産することのできるような心である。女性が財力のある男性を求めることが適応的である環境があるかもしれない。義理の父親が義理の子供を殺すことが適応的である環境があるかもしれない。男性が手当たり次第に女と寝ることが適応的である環境もあるかもしれない。だがすべての環境においてそうだということにはならない。そしてもしそうならば、進化心理学者が定義するような普遍的な人間の本性は存在しない、ということになる。


 それこそ、人間の普遍性についての主張を至る所でつぶしながら、新たなトレンドの研究が発見しつつあることである。一般の人々の想像力を捉えたある進化心理学の主張――それは『ニューズ・ウィーク』誌の1996年のカヴァー・ストーリーになった――によると、男性は、ウェストとヒップの割合が0.7の女性(たとえば、36‐25‐36のスリーサイズ)を好むようにさせる心的モジュールをもつのだという。このおかげで、影響を受けやすい若い女性たちがメジャーや食べ過ぎ防止のハウツー本を急いで買いに行きはしまいかと心配して、社会科学者や政治家は、そのメッセージがいかに有害であるかをただただまくし立て、それが科学的に間違っているとは一言も言えなかったのは、レイプ論争の再現と言うべきものだろう。それに対して、この主張の支持者たちは、自説に有利となるデータを大量に持っていた。おなじみの実験台――アメリカの大学に通う学生――を使って、彼らは、男性が、違った体型の女性の写真を見せられたとき、36‐25‐36のスリーサイズの女性を性的な理想として選ぶものであることを発見した。しかし、こうした研究は、その選好が生得的――人間の本性にもとづくもの――ではなく、むしろ、マスコミ文化と、それが美的なものについて流すメッセージに日々さらされてある結果だという可能性を排除できなかった。ビンガムによると、このような根本的欠陥があったために「こうした実験の多くは新たな学問分野の根拠となるほどの厳密さをもってはいないという不平不満の声があがった」。

 
 その後の研究はほとんど何の注目も集めなかったが、それによると、ペルーやタンザニアの孤立した地域の男性たちは砂時計のような体型の女性を病弱に見えると考えた。彼らは、0.9の女性――よりどっしりした女性を選んだ。そして去年12月、ユタ大学の人類学者エリザベス・キャシュダンが専門誌『カレント・アンソロポロジー(Current Anthropology)』で報告したことだが、女性が経済的に独立する傾向にある国々(イギリスとデンマーク)や女性が食料を見つけ出す責任を負う非‐西欧的社会では、男性は砂時計的でない体型を好むのだという。男性がバービー人形のような女性に強い愛着を抱くのは、女性が男性に経済的に依存している国(日本やギリシアやポルトガル)だけである(アメリカは中間にある)。キャシュダンは次のように言う。男性がどのような体型を好むかは「男性が相手の女性に強く、たくましく、経済的に成功して政治的に競争相手にもなりうることをどれほど望んでいるかに依存しているはずである」。


 依存している? まさにこのフレーズは、人間の普遍的な本性という教義の大敵である。しかし、これは、いま現れつつある、進化心理学とは競合するはずである新たな学問分野の本質なのである。行動生態学と呼ばれるその分野は、社会および環境から及ぼされる諸力が、ある環境における人間の適応度を最大化するような行動に有利になるような作用を及ぼすという前提から出発する。環境が違えば、行動も違う――そして人間の「本性」も違ってくる。だから、ある文化では(少し誇張して言えば、女性が飾り物であるような文化では)36‐25‐36のスリーサイズの女性が好まれるが、別の文化では(女性が家に給料やジャングルで集めた食べ物をもってくるような文化では)そういう女性は好まれない、ということである。


 また、だからこそ、男性は若くて美しい女性を選ぶようにさせる遺伝的な心的モジュールをもつが、女性は年上の財力のある男性を選ぶようにさせる遺伝的な心的モジュールをもつという進化心理学の見解は崩壊してしまったのである。21世紀の西欧の女性は職業的な成功を勝ち取り、経済的に独立を獲得するにつれて、男性に対する女性の好みも変化するだろう。スコットランドのセント・アンドリュー大学のフィオナ・ムーアをリーダーとする科学者たちは、2006年に、専門誌『エヴォルーション・アンド・ヒューマン・ビヘイヴィア(Evolution and Human Behaviour)』でそのように報告した。女性が経済的に独立すればするほど、女性は男性を銀行の預金残高よりも外見に基づいて選ぶことになるだろう――いまの(ある種の)男性と同じように。(そう、経済の領域で両性間の平等が高まることは、女性も、クーガー現象が示唆しているように、相手がどれほど性的に刺激的であるかということに基づいて、自由にパートナーを選べるということを意味する)。この発見は進化心理学の価値を引き下げ、あの「依存」を主張する行動生態学の学派を支持するものだった。その学派は、自然選択が一般的な知性と柔軟性を選択するものであって、選好と行動によって予めプログラム化されている心的モジュールを選択するわけではないと主張しているからである。「進化心理学は脳が適応度を最大化する万能のメカニズムになるように進化したという考え方を嘲っています。しかし、これこそまさに私たちが再三発見し続けていることなのです」とヒルは言う。


 進化心理学の醜い主張の一つは、男性が義理の子供を無視したり殺しさえする心的モジュールをもっているということである。こうした行動はヒトが発展途上にあったときにはまだ適応的だった、なぜなら義理の子供に投資する男性は、生物学上の子供に費やすこともできる資源を無駄にしてしまうのだから、と俗受けしやすいヴァージョンの論証はそう説く。そんな思いやりのある男性は、時がたてば、自分自身の子孫がより少なくなってしまうので、「義理の子供を援助せよ」という遺伝子は消滅してしまうというのである。「義理の子供は見捨てろ」という心的モジュールを形成する遺伝子をもつ男性のほうが進化論的には適応度が高く、だから、その子孫――つまり、今日のわたしたち――もそのような予めプログラム化されたモジュールをもつのだという。この主張を支える決定的証拠は、5歳以下の子供は、生物学的な子供よりも虐待される可能性が40倍も高いという研究に由来している」(つづく)。 









コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

レイプ、殺人、浮気を進化論的に考える(1) [海外メディア記事]

  「なぜわれわれはレイプ、殺人、浮気をするのか? 」という刺激的なタイトルで発表された『ニューズウィーク』誌の長大な論文を紹介します。社会生物学からもちこされた論点が、少し視点を変えながら今日までも論争の的になり続けている様子が、興味深く描かれています(もっとも、このトピックスに馴染みがない人には難しく見えるかもしれませんが、判らないところは適当に飛ばしながら読んでも、論点は伝わると思います)。3~4回に分けてお伝えします。

 ちなみに、この記事を書いているSharon Begleyという人、科学ジャーナリストかと思いきや(専門的な本が翻訳されています)、単なる(?)編集記者のようです。科学の領域がバックボーンにあるみたいですが、『ウォールストリート・ジャーナル』に籍を置いていたこともあるという。向こうのジャーナリズムは、やはり、懐が深い。(Begleyの人となりについては、http://www.newsweek.com/id/32249)。


By Sharon Begley | NEWSWEEK Published Jun 20, 2009
http://www.newsweek.com/id/202789


「 この春ニュー・メキシコ大学に集まった科学者の間ではレイプの話題でもちきりだった。出席していた教授の一人、生物学者のランディ・ソーンヒルが、共同著者の一人として、『レイプの博物学:性の強制の生物学的基盤』を出版したばかりであったからであり、その本はレイプが(進化生物学の言葉で言えば)一つの適応であって、その形質が遺伝子によってコード化され、その遺伝子を所有するものにはアドバンテージが与えられる、と主張しているからであった。10万年前の更新世末期にさかのぼってみると、レイプ遺伝子をもっている男性は、レイプ遺伝子をもっていない男性に対して、繁殖の点でも進化の点でも優位性をもっていたというのである。それらの男性は、望む相手と子供を作っただけでなく、望まない相手とも子供を作ることによって、より多くの子孫(それらもレイプ遺伝子をもっている)をもつようになり、それらの子孫も、同様に、レイプ遺伝子をもたないヒトよりも生き延び子孫を多く残す確率が高かっただろうし、そしてこのプロセスがn世代くり返されて、今のわれわれがあるというわけである。だからわれわれは今日レイプ遺伝子をもっている。レイプ遺伝子を欠いた先史時代の男性の系図はジリ貧の道をたどりやがて消滅してしまった、というわけである。


 この議論は、進化心理学の枠内にもうまく収まるものである。社会生物学の廃墟の跡に1980年代の終わりに創始されたこの学問分野は、現在のヒトが進化の途上にあった時代に適応上のアドバンテージを与えた行動は、脳の中であらかじめプログラム化された遺伝的に基礎づけられた何百という認知的な「モジュール」の結果であると主張する。こうしたモジュールとそれがコード化する行動は、遺伝的なものであるから、相続されうる――未来の世代に継承されうる――し、マンハッタンのナイトクラブからアーミッシュの農場にいたるまで、ニューギニアの原住民の掘っ立て小屋からカラチのイスラム神学校にいたるまでの人々の考え方、感じ方、行動の仕方を規定する普遍的な人間本性を構成している、というのである。進化心理学者は、当然ながら、タイムマシーンを持っているわけではない。だから、どんな形質が石器時代の間に適応上のアドバンテージになり、ゆえに疑わしい家法のようにわれわれに伝えられたのかを理解するために、彼らは論理的な推論をする。当時、見境なく性交をした男性の方が進化論的適応度は上だっただろう、なぜなら種を広く蒔いた男性の方がより多くの子孫を残しただろうから、と研究者は推論した。同様の論理で、進化心理学者によれば、一夫一婦的な女性の方がより適応度は上だった。相手に関して選り好みをして、好ましい遺伝子をもつ相手だけを選ぶことで、女性はより健康的な子供をもつことができた。若く、体が魅力的な女性に惹かれる男性の方がより適応度は上だった。そうした女性はもっとも多産であるからだった。みすぼらしい、不妊の女性の相手をすることは、大きな家系図を生み出す良い方法ではない。身分が高い、裕福な男性に惹かれる女性の方が適応度は上だった。そうした男性は子供たちに最善の備えを提供してくれ、子供たちは、飢えを免れ、成長してたくさんの子供を生んでくれるからである。義理の子供を無視したり殺したりする(不実な妻を殺す)男性は、親族でもないものに自らの資源を浪費することがないので、より大きな適応度をもっていた。こうして話を広げていけば、レイプの適応度を高める価値に行きつわけである。21世紀のわれわれは、石器時代の心をもって活動しているのだ、と進化心理学者は主張する。


 何年もの間、こうした論証は、進化心理学は根拠薄弱で、そこから発せられるメッセージ(ノーザン・イリノイ大学の哲学者デイヴィッド・バトラーが、凶悪な行動に対する「刑務所釈放カード」と呼ぶもの)は有害であると考える多くの批評家の関心を引き寄せてきた。しかし今回のレイプ本に対する反応はまったく次元の違ったものだった。スタンフォード大学の生物学者ジョアン・ラフガーデンは、その本を「進化心理学者が犯罪行動に対して行った最新の「進化のせいで俺はそれをやったんだ」的な弁明」と呼んだ。フェミニスト、性犯罪の訴追者や社会科学者たちは、集会やテレビや新聞でこの本を弾劾したのである。


 この春にもちあがったレイプ論争に関わった人に人類学者のキム・ヒルがいる。彼は、当時はニュー・メキシコ大学でソーンヒルの同僚だったが現在はアリゾナ州立大学に所属している。ヒルは、何十年もの間、パラグアイの狩猟採取民であるアチェ族を研究してきた。「しょっちゅうソーンヒルとは会ってましたよ」。4月のアリゾナ州立大学での会議で、ヒルは私にそう語った。「レイプは特殊な認識上の適応行動だと自分は思うと彼はずっと言ってましたが、それを示す論証は、進化心理学者の手によるずさんな思考のように見えました」。しかし、レイプが人間の適応度を高めたという主張は、どうしたら検証できるのか?構想され始めたときから、進化心理学は、10万年前には進化論的に優位をもたらした行動(たとえば、甘党であること)は、今日ではサバイバルにとって悪しきことであるかもしれない(肥満を、したがって不妊を引き起こすかもしれない)と警告していた。だから、その形質が、今日、人々を進化論的により良く適応させてくれるものであるかどうかを考えてもまったく意味がない。かりに今日はそうでなくても、その形質はずっと前は適応度を高めるものだったかもしれないし、したがって今でも私たちの遺伝的な遺産の一つなのかもしれない、と進化心理学者たちは主張する。不幸な遺産であるだろうが、私たちが受け継いだ遺産であることに変わりがない。タイムマシーンがないかぎり、この仮説を反証することは不可能である。ゲーム・セット、進化心理学の勝ち。


 あるいは、そう思われたのだが、ヒルにはタイムマシーンとほぼ同様のものがあった。彼には、10万年前のヒトと同じような暮らし方をしているアチェ族がいた。ヒルと彼の二人の同僚は、レイプが25歳のアチェ族の人の進化の見通しにどれくらい影響を及ぼすかを計算した。(アチェ族にはレイプは見られなかったが、たとえば、ある特定の日に女性が身ごもることができる確率の測定に基づく場合分けの計算をしたのである)。科学者たちは、適応としてのレイプという主張に寛大で、現実には10歳にも満たない少女や60歳以上の女性もレイプの被害者になるものだが、レイプ実行者は子供が生める年齢の女性だけをターゲットにすると仮定した。そして彼らはレイプの適応度のコストと便益を計算した。もし被害者の夫や他の親戚がレイプ犯を殺すならば、レイプをすることで適応ポイントは失われる。また、もし母親がレイプによって生まれた子供の養育を拒んだり、レイプ犯として知られる(小さい狩猟採集の部族では、レイプやレイプ犯は皆が知っていることである)ために、レイプ犯が食料を見つけるのを他者が手助けしてくれる可能性は低くなるならば、レイプ犯は適応ポイントを失う。レイプの被害者は子供を生むことができるという確率(15%)、被害者が妊娠する確率(7%)、被害者が流産しない確率(90%)、そして被害者がレイプの子であっても赤ん坊を死なせない確率(90%)、これらの確率に基づくならば、レイプは男性の進化の適応度を高める、という結果になった。ヒルは、次に、レイプの生殖上のコストと便益にその数字を当てはめた。すると接戦にすらならなかった。コストが便益を10倍も上回ったのである。「これを見る限り、レイプが進化における適応の一例であるという見込みはきわめて低いものになりました」とヒルは言う。「更新世の男性であってもレイプを生殖の戦略として用いるのは意味をなさなかったでしょう。だからそれが私たちの遺伝子にプログラム化されて伝わっているという議論は成り立ちません」。


 最近は進化心理学者にとっては旗色が良くないようである。ここ何年もの間、最も声高に批判を繰り広げたのは、人間はレイプをしたり、不実な恋人を殺したり等々のことをするよう予めプログラム化されているのだという議論に憤慨した社会科学者、フェミニスト、リベラル派の人々であった。(これは、1970年代から80年代にかけてのあの激しかった社会生物学論争の蒸し返しだった。ハーバード大学の生物学者エドワード・O・ウィルソンが生物学的に基礎づけられた人間の本性が存在する、そしてその中には軍国主義や男の女性支配が含まれると提唱したとき、左翼の活動家――ウィルソンがいた学部のすぐれた生物学者も含む――は、「階級、人種、性別にしたがって、現状や、ある種の集団に対して現在与えられている特権の遺伝的正当化を提供する」試み、ナチスの優生学にも似た試みとして、ウィルソンの提案を攻撃したのである)。ソーンヒルが「トゥデイ・ショウ(Today Show)」に出演して自分のレイプ本について語ったとき、彼は性犯罪の訴追者とペアにされて登場したのだが、この演出は、正義感を振りかざす人ならば彼のテーゼが好きになれないだろうという印象を与えはしたが、そうした扱いがどれほど科学的に健全ではないかという点には暗示的にも触れずじまだったのである」(つづく)。
 











コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

20世紀トップ5 画家編(フィガロ紙の読者投票) [海外メディア記事]

『フィガロ』紙が、20世紀の絵画芸術のカテゴリーを4つに分けて、そのトップ5を投票によって決めるという企画を立て、そして、このたび結果が出たようです。まあ、たいした意味はないなあと思いつつ、ついのぞいてしまいました。

 
 まずメインの記事を紹介します。トップ5の結果一覧は後に載せておきました。

 この記事の最後で言及されている「バイエラー財団美術館のジャコメッティ回顧展」については、この場でも紹介しましたが(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-07-04)、やはり話題になっているのでしょうね。途中に出てくる「カルチエ-ブレッソンによってコートをかぶった立像のような写真に撮られたジャコメッティ」は有名らしく、画像検索で簡単に見つけることが出来ました。せっかくなので添付しておきます。

 
 
Valerie Duponchelle  06/07/2009

http://www.lefigaro.fr/culture/2009/07/06/03004-20090706ARTFIG00328-palmares-du-xxe-siecle-place-aux-peintres-.php



 「 読者アンケート - 『フィガロ』インターネット版の読者に、「20世紀の芸術家のベスト」について尋ねてみた。読者はセザンヌ、ベーコン、スーラージュ、ジャコメッティを選んだ。投票を分析してみよう。


 「そして第一位は」…。20世紀アートでは、モダニズムの創始者ポール・セザンヌが、この先駆者の芸術を利用してミノタウロスのような20世紀をつかみ取ろうとしたパブロ・ピカソをわずかに抑えた(24,55 % 対 24,08 %)。「戦後」アートでは、感覚的苦痛、バラ色の地に浮かび上がる不安や人間の騒乱を描いたフランシス・ベーコンが、ポップ・アートの神秘の巨匠で、アラン・カフがグラン・パレで回顧展を開いたばかりの有名人の死体防腐処理人アンディ・ウォーホールを抑えた(20,42 % 対 19,73 %)。

 コンテンポラリー・アートでは、ウォーホールより10歳年上であるが、生気ある「黒い光」に魅入られた画家、フランス人ピエール・スーラージュが、壮大な作品で知られるアンゼルム・キーファーや、「ロック・スター」になった「悪たれ」芸術家ダミアン・ハーストを大きく引き離した(25,6 % 対 8,04 % 、5,85 %)。「彫刻およびインスタレーション」という大きなカテゴリーでは、一個人としても類まれだった彫刻の名手アルベルト・ジャコメッティが、あの驚嘆すべきコンスタンティン・ブランクーシを引き離し(35,15 % 対 18,33 %)、アメリカ人のカルダーやリチャード・セラに大差をつけた(35,15 % 対 11,31 % 、 6,46 %)。カルチエ-ブレッソンによってコートをかぶった立像のような写真に撮られたジャコメッティは、頭からつま先まで全身芸術家というイメージを一般にも受け入れられる形で具現化しているのである。 
 
 一般の人々に、流行や相場、大講堂での講義や教養ある見解などには見向きもせずに、自分なりの美術の歴史を書き換えて整理する権利が与えられたのである。フィガロ紙の読者やインターネット利用者に、われわれのサイト(lefigaro.fr)で、6月15日から7月3日にかけて大量の投票をしてもらい、かくして20世紀ベストが出来上がった。そのためには、まず、20世紀開幕から現在に至るまでを飾る40名の芸術家を、重要性が低減する順序で分けなければならなかった。10人の芸術家からなる4つのカテゴリー――20世紀アート、「戦後」アート、コンテンポラリー・アート、彫刻およびインスタレーション――が、世紀を代表する40の名前を分類するための評決にゆだねられた。(投票総数は23914票で、9864票が20世紀アートに、5392票が戦後アートに、4140票がコンテンポラリー・アートに、4518票が彫刻およびインスタレーションに投票された)。

 驚きの結果もあれば、予想通りという結果もあった。歴史に名を残す芸術家でも、簡素すぎたり、有名すぎたり、概念的すぎたり、あるいは単なる型破りと判断された芸術家は得票が少なかった。マルセル・デュシャンの攻撃的ユーモアやピエ・モンドリアンの人目をあざむく単純さであっても得点は伸びなかった(20世紀アートの得票の3,15 %と、1,88 % )。しかし、心の琴線や感覚に触れる画家、とくに芸術によって安楽の幻想や幸福感を与えるような画家は、最も高い予想得票を超える得票だった。このことは、ボーブールでの『カンジンスキー展』や、パリ近代美術館での『ジョルジオ・デ・キリコ』展や、グラン・パレでの『ピカソと巨匠たち』展が成功したことが証明していることでもある。われわれの読者アンケートでは、セザンヌ、ベーコン、スーラージュが、同じカテゴリーの他の芸術家の頭を軽やかに飛び越えているように見える。ちなみに、アートと絵画はフランスでは依然として同義語なのである。

 「ジャコメッティがブランクーシより上ですか。このことが示しているのは、美術史的にはブランクーシの方が重要ですが、一般の人々の多くは、ブランクーシの内に彫刻の理念を掴み、そこに人間的な要素を付け加えた人の方を好むということですね。判る、俺も似たようなことをしているから、とジャコメッティは思ったんですよ」。そう強調するのは、サザビーズ・フランスのコンテンポラリー部の若き部長グレゴワール・ビロー(彼は、モンドリアン、ベーコン、カッテラン、カルダーに投票した)。胸が引き裂かれるほど美しいバイエラー財団美術館のジャコメッティ回顧展を見るだけで、これが芸術なんだということが判るはずである」。
 


投票結果の表を見てみましょう http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/palmares_artiste_xxsiecle.pdf)。

  20世紀アート:トップ5
 1.ポール・セザンヌ          24.55%
 2.パブロ・ピカソ            24.08%
 3.サルヴァドール・ダリ    13.46%
 4.アンリ・マチス    10.18%
 5.ワシリー・カンジンスキー   7.41%

 「戦後」アート:トップ5
 1.フランシス・ベーコン       20.42%
 2.エドワード・ホッパー       20.01%
 3.アンディ・ウォーホール  19.73%
 4.マーク・ロスコ    11.07%
 5.ジャクソン・ポロック      8.22%

彫刻およびインスタレーション:トップ5
1.アルベルト・ジャコメッティ     35.15%
 2.コンスタンティン・ブランクーシ  18.33%
 3.アレクサンダー・カルダー   11.31%
 4.セザール       7.37%
 5.ヘンリー・ムーア        6.93%

 コンテンポラリー・アート:トップ5
 1.ピエール・スーラージュ      25.60%
 2.ルシアン・フロイト         20.05%
 3.ヤン・ペイ・ミン   10.14%
 4.ソフィ・カル       10.10%
 5.アンゼルム・キーファー     8.04%


 一人の画家につき一点ずつですが、各カテゴリーのトップ3の作品がスライドショー形式で紹介されています。

 http://www.lefigaro.fr/photos/2009/07/02/01013-20090702DIMWWW00446-palmares-du-meilleur-artiste.php


全身芸術家
images-22f44.jpg










コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

ポジティヴ・シンキングは逆効果 [海外メディア記事]

 一頃やたらと「ポジティヴ・シンキング」なる言葉を目に(耳に)しましたが、こういう記事が出るということは、世界のどこでも似たような流行があったのでしょう。そして、おそらく少なからずの人が、そんな流行に懐疑的だったのだろうと思われます。そこでこういう実験が出てきたのでしょうが、この簡単な記事からでは良くわからないものの、この実験自体もポジティヴ・シンキングに劣らないくらい疑わしいのでは? と思いたくなるところもありますが、結論は誰もがうすうす感じていることではないでしょうか? ともかく、『シュピーゲル』誌の記事より。
 
06.07.2009

http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,634510,00.html



 「ポジティヴな思考で具合が悪くなる

 少しはポジティヴに考えたらどうなの! このおなじみのセリフは逆効果になることがあるということがアメリカの心理学者によって確かめられた。自己暗示は、本来は、際立った自己意識がない人に効くものだと思われていたが、そうした人はそこから得られるものはないし、むしろ逆の結果になることが判明した。

 自己暗示とは本当に驚くべき結果をもたらすはずのものである。「私は愛されるにふさわしい人間だ」という言葉に意識を集中しさえすれば、もう人生は成功ですよと、色んな指南書はそのように進言する。しかし、いわゆるポジティヴな思考は反生産的にもなりうる。本来、このテクニックで助かるはずの弱い自己意識しかもっていない人が、自分は愛されるにふさわしい人間だと繰り返し自分に言い聞かせても、何の足しにもならないのだという。

 それどころか、そういう人は自己暗示がない場合よりもかえって具合が悪くなることが、アメリカの心理学によって実証されたのである。むしろ、自分の非常に具体的な性質に集中して、一般的な命題ではなく、そうした具体的な性質を際立たせたほうが良い、とウォータールー大学のジョアンヌ・ウッドとその共同研究者たちは専門誌『サイコロジカル・サイエンス(Psychological Science)』で書いている。

 研究者たちは、その研究において、一連の指南書によれば自己意識を強化し人生に対するポジティヴな態度を促してくれる命題を分析している。そこから彼らは、「私は愛されるにふさわしい人間だ」という命題を選んだのだが、それは、自分自身を愛する能力が良好な自己意識の不可欠な部分だから、という理由だった。一連のテストで、彼らは、この命題が実験に参加したボランティアの気分と感情に影響を及ぼすか、及ぼすとしたらいかなる影響なのかを調べた。


 そのために彼らは、実験参加者を自己意識の大きな人々のグループと自己意識のあまり目立たない人々のグループに分けた。両方のグループには、その後いろいろな課題が与えられ、自分の考えていることや感じていることを書き記したり、質問に答えたり、様々な楽しい活動に参加したいと思うかどうかを述べたりしてもらった。被験者の一部には、15秒ごとにゴングを鳴らせて、その度ごとに「私は愛されるにふさわしい人間だ」という命題を自分に言い聞かせるようにしてもらった。

 実験の分析が示したことは、自己意識が目立たない参加者において、その命題を口にすることは、参加者の気分や楽観的見通しや、活動に積極的に参加したいという気持ちなどを、はっきりわかる形で悪化させた、ということであった。それに対して、良好な自己意識をもつ人々は、自己暗示によって得るものはあったにしても、その結果がはっきりわかるようなものではなかった。

 研究者はこの結果を次のように解釈している。おそらくこの命題は、どっちみち自分に疑念をもっていた人においては、この命題にまったく対応しない自分の行動の実例を記憶に呼び覚ましてしまったことでしょう。ですから、自分自身の行動と内的に求めようとしている基準との違いを際立たせ、「私は愛されるにふさわしい人間だが、自分でそうなりたいと思っているほど愛されるにふさわしいわけではない」と思わせるのでしょう。それに、人間は、たとえそれがネガティヴなものであっても、一度つくった自己イメージに固執する傾向がありますからね。そのために、無意識的に抵抗が起こるのです、と研究者たちは言う。


 研究者たちの総括によると、この実験結果は、自尊感情を最も必要としている人々は、こうした自己暗示のテクニックによって得られるものが最も少ない、ということを示しているそうである。自己暗示をするとしても、「私は気前のよい人間だ」といったひどく一般的な言い方をするよりは、「私は素敵な贈り物を見つけるのがとても上手い」といったように自分の性格に対応するような具体的な言明を用いるほうが建設的なのだという」。
 






コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

ジャパン・エクスポ フランスを席巻するオタク文化 [海外メディア記事]

 毎年7月フランス・パリ近郊で行われるジャパン・エクスポ(JAPAN EXPO)を取材した『フィガロ』紙の記事から。訳文でも注意をしましたが、記事の原文には、途中何度か動画で、エクスポの様子が再現されているのですが、なぜかこの再現がうまく行かず、すぐに止まってしまいます。特に最後のインタビューは、聞き取りたかったのですが、それは出来ませんでした。まあ、「なぜ日本なのか」なんて真面目くさって問いかけるほどのことでもないと思うので、個人的には、あまり残念でもありませんが、興味のある方は自分で試してみてください。。
  

  Samuel Laurent le 3 juillet 2009 15h02
http://blog.lefigaro.fr/hightech/2009/07/japan-expo-fascinations-nippon.html

 「ジャパン・エクスポ:魅了する日本文化の数々

 フランス全土から人が押し寄せ、時には、フランス以外の国から来た者も混じっていた。何万という単位で彼らはヴィルパントに殺到したのだが、そこでは日本文化の展示会としてはヨーロッパで最大のジャパン・エクスポが日曜まで開催されているのである。

 マンガやアニメはもちろんだが、それだけではない。何千とある数メートル四方の展示台の上には、ありとあらゆるもの、日本に関係するものならとにかく何でも見いだせる:食べ物、多くのヒーロー物、日本刀の台、武道や指圧や生け花の実演、日本語や着付けの講座…、要するに、この比類なき文化のファンを魅了するものはすべてここにある。ジャパン・エクスポで見いだされるものを音楽にのせてちょっと再現してみた{ 原文のこの箇所には、エクスポの内容を動画で見ることが出来るようになっています――訳者註 }。


 マンガ、止まることのない成功

 昨年、ジャパン・エクスポを訪れたファンは134.467名にものぼった。ファンの大部分は青年期の若者で、彼らはマンガとともに成長したのだ。彼らの親がタンタンやアステリクスやフランス・ベルギーのマンガの黄金時代とともに成長したのと同じように。彼らのヒーローの名はナルトうずまきや、モンキー・D・ ルフィや、黒崎一護である。彼らは、小説のように侵略者を追いかけたりはしないし、月面に行ったりはしないが、忍者一族間の争いに関わったり、海賊の王になろうとしたり、様々な霊の殺害者だったりする。


 日本を除くと、フランスは世界でマンガが最も読まれている国である。同じシリーズのマンガ本は版を重ね、翻訳ものは急激に増えている。さっき挙げた古典的マンガは少年漫画というジャンルに分類されるが、それ以外でも、信じられないほど多様なシリーズものがあって、セックスから料理、はては無料の基本ソフトUbuntuにいたるまでのありとあらゆるテーマが扱われている。展示会のもっとも大きな喫茶スタンドの一つ「マンガ・カフェ」のオーナーのベンが説明しているように、編集者にはうれしい状況であるだろう。{ インタヴューに答えるベンの動画 ――訳者註}

 
 「コスプレは、自分が望むキャラクターを具体化すること」

 1980から1990年の間に再三提起されたマンガについての論争はいまや過去のものになったように思われるが、コスプレという新たな現象がマンガにかわって、論争の種になったようだ。少なくとも子供時代をすぎた人間が、房飾りのあるドレスに身を包んだレポーターとか攻撃的なガリア人に変装したりするのは、われらオタク(日本で、マンガやアニメのファンを指してこう呼ぶ)青年たちの親には思いもよらないことだっただろう。しかし、マンガやアニメの主人公に扮することは、彼らの子供たちにおいては、まっとうな趣味なのである。


 だから、ジャパン・エクスポの会場では、ナルトやその敵の暁には何十人と出会うし、モンキー・D・ ルフィも大量にいれば、『BLEACH』や『Death Note』に由来する別のありとあらゆるヒーローたちにも出くわす(なぜか『スター・ウォーズ』のヒーローもいたが)。どうしてそんな風に変装するのだろうか。彼らの答えを聞いてみよう。 { コスプレ姿の若者に記者がインタビューしている動画 ――訳者註}



  なぜ日本なのか?

 ジャパン・エクスポの会場での数時間の間に何度も提起してみた質問は、なぜ日本はヨーロッパの若者をこれほど魅了するのかという質問であった。斬新だから? 異国趣味? 価値観が違うから? 日本人であれ日本文化をよく知る大人であれ、関係者のだれかれにこの質問をしてみたが、返ってくる答えは曖昧なものばかりであった。答えを得るために若者自身にこの質問をしにいかなければならなかった。 すると驚くべき答えが・・・。 { ここでとある日本人男性へのインタビューで「驚くべき答え」が返ってくる、という構成になっています――訳者註} 」。


  蛇足ですが、『ルモンド』紙にも「ジャパン・エクスポ」の模様を伝えるスライドショーがアップされています。どこも、それほど関心を払ってないように見えて、何となく気になるという扱いでしょうか?

 http://www.lemonde.fr/culture/portfolio/2009/07/03/japan-expo-episode-10_1214956_3246.html#ens_id=1215415
 












コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

ジャコメッティ展 [海外メディア記事]

 スイスのバーゼルにあるバイエラー財団美術館で「ジャコメッティ」展が開催されています(10月11日まで)。『ルモンド』紙の記事から。時間が許せば、行ってみたいですね(しかし、たぶん無理)。

 ちなみに、デニーズ・コロンによるジャコメッティの写真(ただし、この記事の記者の念頭にあったものとは違う写真でしょう)と「荷車の女」を下に掲げておきました。
  

 
Harry Bellet
Article paru dans l'édition du 02.07.09.


http://www.lemonde.fr/culture/article/2009/07/01/alberto-giacometti-l-eblouissement-dans-la-distance_1213946_3246.html#ens_id=1214033

 「アルベルト・ジャコメッティ 魅了する距離

 入り口から、驚きの声があがる。「部屋を間違えたわ」。訪れた女性がそう叫んだ。バイエラー財団は実に気前がよく、複数の展示会を、しばしば同時に開催することがある。アルベルト・ジャコメッティと彼のか細い彫刻を見に来た人は、非常に色彩豊かで、ほとんどフォーヴィズム的な絵画が飾られているのを見てびっくりするかもしれない。高地の牧場を描写した「山羊や羊のいる日の当たる斜面」や「ピッツ・ドゥアン登山」もある。しかしこれらはジャコメッティの作品なのだ。最初の絵はアルベルトの父ジョバンニ(1877-1933)の1900年の作品で、二番目の絵はジョバンニの従兄弟オーギュスト(1877-1947)の1912年の作品なのである。 

 アルベルトは、その二つの作品に挟まれた1901年に生まれた。画家の息子であり、画家の従兄弟でもあった彼は、ディエゴ(1902-1985)の兄でもあった。ディエゴはやがて驚くべき家具を作り出す。サン・ポール・ド・ヴァンスにあるマーグ財団美術館のスナック・バーの客が腰掛ける不便だがとても美しいイスがその一例である。

 しかし、ヒーローはアルベルト(1901-1966)である。1991年にパリ近代美術館で、画家のレミー・ツォーグ、建築家のジャン-フランソワ・ボーダンとともにジャコメッティ展を開催したシュザンヌ・パジェに言わせると「これこそ今日なしうる最高の回顧展です」。

 
 この言葉の当否は、次の点を顧慮して判断していただきたい。出展された作品は150点、そしてその多くが、最近ジャコメッティ展が何度か開催されたにもかかわらず(一つはベルリン、次いでチューリッヒで行われた、エジプト芸術がジャコメッティに与えた影響をテーマにした展示会。いま一つは、ジュネーブのラート美術館での展示会。三つ目は、2008年ジョルジュ・ポンピドー・センターで行われた、パリ・ジャコメッティ財団のコレクションに焦点を合わせた展示会)、めったに出展されたことのないものであるか、これまで一度も出展されたことのない作品なのである。パリのジャコメッティ財団が20作品、チューリッヒのジャコメッティ財団が35作品を貸与した。その他の作品は様々な美術館、個人のコレクション、エルンスト・バイエラー自身に由来する。バーゼルの財団の創始者であるこの美術商は、実に300を越えるジャコメッティ作品を所蔵していた。バイエラーは、まだその内のいくつかは自分の手許に置いているという。そしてその他の作品もどこにあるかは把握しているという。


 
  取りつかれたようなデッサン


 この回顧展を訪れようとする人には、人出の多い時間帯は避けるように忠告したい。というのも、ここで(そしてここでのみ)明らかになることがあって、それは作品の展示や配置に最大限の工夫が凝らされているために、バイエラー財団美術館を構想したレンゾ・ピアノの建築が差し込むことを許す自然光が、ブロンズ像の光沢や、ジャコメッティが絵画で展開する取りつかれたようなデッサンを最もよく浮かび上がらせてくれる、ということである。ここで、この彫刻家の天分が明らかになるのだが、同時に、回顧展の主任ウルフ・キュスターの天分も明らかになるのだ。財団の理事長サミュエル・ケラーとともに、キュスターは細部のもつ意味を深いところまで追い求めた。ジャコメッティの作品ほど「台座におく」ことが難しいものはないのだが、台座を使った結果は、単純さと知性によって見るものを驚かせずにはおかないものとなった。

 
 こうした展示方法には、ジャコメッティの画家としての生涯を通して、苦しみの中で生み出された作品を思わせるものがある。家族の励ましをうけながらであっても、最良のアトリエ(その一つが、1922年1月パリにやって来てから通ったブールデルのアトリエであるが)ですごしたとしても、ジャコメッティは、14区の朽ちかけたアトリエで長い間貧しい暮らしをしていた。当時の写真(中でもデニーズ・コロンの写真は印象に残る)には、大きすぎるツイードの背広を着て、ぼろぼろの壁の部屋の中にいて、これから造形しようとする湿っぽい何本もの粘土の山に埋もれるようにして、視線を遠くに投げかけているジャコメッティの姿が写っている。視線が遠くに向いていたのは、彼が大酒呑みだったからという理由ばかりではないだろう。

 
  
 彼のモデルになった人はみな口をそろえて言う。ジャコメッティは、絶えず、自分の仕事を疑問に付していたと。彼と付きあいのあった最後の画商エメ・マーグは、ジャコメッティに自分の作品をやり直すのを止めさせる唯一の手段は、それを銅の像に鋳造しようと提案すること以外にはなかったほどだった。どの彫刻のことを言ってるんだと尋ねるジャコメッティに対して、マーグは、「全部ですよ」と答えたという。こうしたことは、当時としてはめったにあることではなかった。モデルに相対している息子を描いたジョバンニの絵「彫刻家」を前にすると、自然とそうしたエピソードが脳裏に浮かんでくるだろう。「彫刻家」は1923年の作品である。


 当時、ジャコメッティはシューレアリストになろうとしている時期だった。奇妙な寄せ集めのような作品、時に不快だったり、しばしば意味が判然とせず、モデルの入り込む余地のないような作品を作った。かと思うと、あるものを非常にクローズアップしたような作品を作った。一生涯ずっと関心の中心にあったのは、自分の強迫観念だったのだろう。画面いっぱいに描きなさいと教わっているのに、洋ナシをあまりに小さく描く息子を見ていらだち、「見えるように描いたらどうなんだ!」と声を荒げて言った父親に対して、アルベルトは、僕には実際こういう大きさに見えるんだと答えたという。自分の目とモデルとのこのありそうもない距離感はずっと彼に付きまとった。このことは、「荷車の女(La Femme au chariot)」(現実の機能的な車輪のおかげで、女性を意のままに小さくしたり大きくしたりできた)から、「台座上の4体の女性立像(Quatre figurines sur piédestal)」(ニューヨークの画商のピエール・マチス宛の手紙が教えてくれるのだが、女性立像の釣り合いは、創作意欲をかきたてたキャバレーの舞台と踊り子たちから彼を隔てる乗り越えがたい距離によって課されたものだったという)に至るまでの作品で確認できるだろう。この距離、これらの距離を、ウルフ・キュスターは展示会場の隅々にまでそのまま再現することができた。これが、あまり人出の多くないときにこの回顧展に行くさらなる理由である。人出が多いと味わえないものだからである」。
 

giacometti.jpg
chariot.jpg











コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース
前の10件 | 次の10件 海外メディア記事 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。