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パウロの足取りを追う その一 [探求]


 私にとって、パウロは、よく分からない、そして、あまり追求したいという気持ちの湧かない人物であった。しかし、事情が少し変わり、やはりパウロについて調べる必要がありそうだと思うようになった。どうしてそう思うようになったかは、やがて詳しく述べていくことにして、しばらくの間、パウロの足跡やその背景となる事情をたどっていくことにする。

 パウロがバルナバと別れて独自の道を歩みだしたのは48年の終わりごろだと考えられている。「使徒行伝」は、マルコと呼ばれるヨハネをめぐる扱いが離別の原因であるかのように書いているが(15:38)、そのような個人的な問題が元で彼らが袂を分かったとは考え難い。「エルサレムの使徒と長老」が定めた規定(16:4)についての見解の相違が、パウロを独自の行動に駆り立てた主な原因だと考える研究者が多いようだ。

  アンチオキアの伝道はパレスティナ、シリア、小アジアの南東部に限定されていたが、パウロは小アジアの西部やギリシアに目を向ける。そして最終的に、ローマやスペインまども伝道の計画に入れることになる(ローマ15:22-23)。つまり、パウロは当時の地中海世界の中心を視野に収めるようになった。最初の伝道はシリアの砂漠地帯や故郷のキリキアでほぼ何の成果もあげられずに終わったのだが(ガラティア1:21)、それ以降、諸国を伝道するうちに普遍的な見通しを次第に持ち、ローマ帝国全体をカバーするようなパースペクティヴで考えるようになった(「エルサレムからイリュリコンに至るまで」(ローマ15:19)、「マケドニアとアカイア」で(ローマ15:26)。彼は、ローマ世界の諸都市を「凱旋行進」で巡る将軍であるかのような気持ちだった(第二コリントス2:14)。彼は、自分が神に召された使徒であり(ローマ1:1)、キリストの代わりの使者であると理解し、全世界に向かって、比類なき福音を延べ伝えるのであった。「あなた方は神と和解しなさい」(第二コリントス5:20)。







 
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