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トルストイ『私の宗教』について 2 [探求(旧)]

 「汝らは「目には目を、歯には歯を」と言われたのを聞いたことがある。しかし、私は汝らに言う「悪人に逆らうな」」(マタイ5:38-39)。

 トルストイは「山上の教え」をキリスト教解釈の中心に置くのだが、その中でも、この戒めをもっとも核心部分に据える。つまり彼の解釈を単純化して言えば、イエスの教えの核心には悪の問題がある、そして、悪については、太古より、悪には悪をもって対処するのが自明とされてきたが、その慣行を断ち切って、無抵抗という形で対処しようしようではないか、と考えた、とまとめることができる。

 ちなみに、「山上の教え」の詳しい解釈は、『わが宗教』の第6章で行なっているが、今その結果だけを吸い取ることにしよう。トルストイが理解した形での「山上の教え」の「五つの戒め」は、以下の通りである。

1.「あらゆる人々と平和にくらせ。怒りを何らかの機会で正当化できるものと見なすな、決して人間を無価値なものとか馬鹿と見なすな、自分が怒りを控えるだけではなく、他人の自分に対する怒りも空しいものと見なすな」(マタイ5:21-26)。

2.「性的放縦には注意せよ。正当な形で性的関係に参入するあらゆる男性は一人の妻しかもてないし、あらゆる妻も一人の夫しかもてない。そしていかなる口実があろうとも、この結合が男あるいは女のどちかによって侵害されてはならない」(マタイ5:27-32)。

3.「一切誓うな。誓いは、悪しき目的に奉仕するためになされるものである。国家や軍隊のような組織に誓うな。法廷でも誓うな」(マタイ5:33-37)。


4.「悪人には逆らうな。この世は悪に対して、悪をもって報いるという原則によって成り立っている。しかし、それで悪は減るどころか、増える一方である。悪によって悪を押さえつけることなどできない。火は火を消すことはできない、それと同様に、悪は悪を廃棄することはできない。悪を廃棄するためには、悪を犯すことを避けなければいけない」(マタイ5:37-42)。

5.「人々が、同郷人を隣人と見なし外人を敵とみなす習慣をやめろ。外人に対する敵対心を慎み、戦争や戦争に参加すること、戦争のために準備することをやめろ」(マタイ5:43-48)。


 ここで、2だけは少し特殊なので除外すると、それ以外は、悪にどう対処するかという問題と深く関連していることが判る。悪に対して、悪をもって対処するならば、それ自体悪に加担することになるのであるから、それはやめろと第四の戒めは説く。しかし、世界は、この悪に対して悪をもってするという原則に上にその正義の観念を築いてしまった。そして、その正義を具体的に執行しているのが、警察であり、法廷であり、国家である。それらの組織に参加するための最初の手続きが「宣誓」であり「誓い」である。したがって、「一切誓うな」という第三の戒めが引き出される。さらに、自分を基準にして、異質な他者に敵対感情を抱いたり、更にそれを国家レベルに拡大して、自国以外の国民を敵対視することは、悪のない所に悪を認めることである。3と4が、悪に対してどう対処するかという原則を述べているのに対して、1と5は、悪が生み出される原因を指摘したものだ、と言えるかもしれない。

 これらの解釈は、私個人としては、部分的に、反論したい箇所もあるのだが、その点には、今は立ち入らない。しかし、イエスの内に悪に対する無抵抗の抵抗という姿勢を読み取るという原則に基づく限り、実に首尾一貫しているし、「山上の教え」の基調にも合致したものと言っていいと思う。

 しかし、トルストイが自ら認めているように、1800年というキリスト教の歴史において、このような解釈は一度もなされなかった。

 クリュソストモス以降の注釈者は、みな一様に、悪人に逆らうなという原則を認めると、社会の存続が危うくなるという理由で、「山上の教え」の「五つの戒め」に制限を加えたり(「怒るな」を「理由なく怒るな」に変えたり)、例外を設けたり語句の意味をねじ曲げたりして(「離婚するな」に「ただし、女が不貞行為をした場合は別」と都合よく例外があるかのように解釈したり)、イエスの意図を骨抜きにし、裏切り続けてきたとトルストイは言う。イエスの教えなどより、社会の秩序の方が大事だ、と言わんばかりの態度である。結局、キリスト教の権威者であっても、社会の歯車の一つであり、役人の一種にすぎない、ということなのだろう。そうした権威者が払った苦心は、いかにイエスの教えを文字通り読まないかということに帰着するようだ。トルストイを憤懣が爆発させている箇所を一つだけ紹介しよう。


 「我々は社会秩序を築き上げてきた、そしてそれを大事にしそれを神聖なものと見なしている。我々はイエスを神と認識しているが、そのイエスがやって来たのは、我々の社会組織は間違っていると言うためであった。我々は彼を神と認識しているが、我々は自分たちの社会制度を放棄しようとは思わない。ではどうすればいいのか? もしできるならば、「怒るな」という命令を無用なものにするために、「理由もなく」という語を付け加えればいいのである。絶対的に離婚を禁ずる命令の代わりに、離婚を認める文言を置き換えることで、厚かましい嘘つき達がしてきたように、法の意味を台無しにしてしまえばいいのである。そして、「裁くな、断罪するな、一切誓うな」といった命令の場合のように、曖昧な意味を導き出す手立てがないならば、最大限の厚かましさをもって、規則に従っていると断言しながら、その規則を破ればいいのである。実は、福音書がありとあらゆる誓いを禁じているという真理を理解することにとって大きな障害となるのは、偽のキリスト教注釈者たち自身が前例のない厚かましさをもって福音書そのものに誓いを立てるという事実のうちにある。彼らは福音書にかけて人々に誓わせている、すなわち、彼らは福音書が命ずることの正反対のことをしているのである。十字架や福音書にかけて誓いをさせられる人間に、十字架が神聖なものとされたのは一切の誓いを禁じた者の死のおかげであったということがどうして思い浮かぶだろうか? そして、そんな人間に、神聖なる書物にキスをするとき、彼は、一切誓うなという明確で直接的な戒めが記されているまさにそのページに、自分の唇を押し当てているのだということがどうして思い浮かぶだろうか?」。


 こういう矛盾が平気で許容されたということは、どう考えればいいのか? 一つの(一番辛辣な)考え方としては、要するに、福音書など、ほとんど誰も本気で読まなかったし、かりに本気で読んだとしても、現実との矛盾がある場合には、現実を正すのではなく、福音書の語句や解釈を正すという形で、キリスト教は受容されてきた、ということになるだろうか? 注釈者や教会の権威者を含む誰もが、キリスト教を受け入れたが、それは、イエスの言葉に多大な注意を払うという仕方での受容ではなかった、ということなのだろうか? それほどまでに、悪の問題は、西洋のキリスト教の核心の盲点となっていた、ということなのだろうか?
 

 この点は、「山上の教え」をどう解釈するかという狭い問題を飛び越えて、(イエスではなく)キリスト教は悪の問題にどう対処してきたか、そもそも、悪の問題をどうとらえればいいかということを考えるように誘う。どうしたら、それを簡明かつ一般性のある形で表現できるか、それが問題である。                  (つづく)





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