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トルストイ『私の宗教』について 1

 しばらく前から、トルストイの『私の宗教』の英訳本を読んで、授業でも利用している関係で、自分で翻訳していたのだが(ワードについているディクテーションを活用しているが、なかなか便利。精度がいまいちだけどね)、その中で、とくに注意をひく部分を中心に、ここで紹介してみようという気持ちになった。

 この『私の宗教』は、『わが信仰はいづれにありや』という題ですでに翻訳されているが(トルストイ全集15)、文語調でだいぶ古臭く、しかも英訳と比較すると、かなり(というか、非常に、いちじるしく)食い違っている。私はロシア語ができないので、原文に当たることができないのが残念だが、ただ一つ言えることは、日本語訳は理解できない部分があまりにも多いのに対して、英訳ではそれがほとんどない、ということ。だからトルストイのこの著作を理解したいならば、英訳を読むしかないなと思った。英訳の題は”My Religion”なので、ここでは『私の宗教』として話を進めていく。(私が参考にした英訳は、My Religion - What I Believe, White Crow Books; Free age press ed版 .訳者はHuntington Smith。Smithもフランス語訳から英訳したようだが、詳しいことは書かれていない)。

 現在、約半分程度を訳し終えたのだが、それだけでも、あーこういう意味だったんだ、こういう真意が込められていたんだ、という発見が随所にあって面白い。一般的に、トルストイは、ドストエフスキーに比べると、理想主義的だと言われることが多い。理想主義とは、言いかえれば、「きれいごと」に終始するほどのことか? だが、既成の教会との関係を考えると、両者の立ち位置がはっきりする。ドストエフスキーの著作は、ロシア正教会から推薦図書のような扱いを受けていると聞く。いってみれば、「文科省推薦優良図書」のようなもの。良い子は、皆、読みましょうという本。それに対して、トルストイの著作は、発行直後ただちに発禁処分になって、彼自身は正教会から破門された(本当は、もう少し複雑なようだが、私にはどうでもいいことなので、深入りしない)。理想主義どころではない。たしかに理想は掲げられているが、その理想は、現実に真っ向から対峙する理想、現実を容赦しない理想であって、「理想主義」という語が内包する「きれいごとでお茶を濁す、毒にも薬にもならない無内容な主張」とは訳が違うということは、読んですぐに判る。だから、トルストイに対して「理想主義」という言葉を使う人は、トルストイを読んでいないにちがいない、と思う。


 さて、紹介といっても、すべてをここに載せるわけにいかないので、要所だけをピックアップしていくことにしよう。(第一章の全翻訳の全体は、別のところにアップしたので(https://miksil.blog.ss-blog.jp/2020-07-03)、関心のある方はURLをクリックしてご覧ください)。




 トルストイは、その著作が世界的に知られるようになった50才前後から、文学的成功とは逆比例する形で生きる意味が希薄化していくことに悩まされる。『私の宗教』第一章で、正教会に入信した経緯が簡単に語られるが、おそらく50才前後のことだったのだろう。教会に入れば、迷いも消え、再び生きる意味を見つけられるだろうと希望してのことだった。

 しかし、その希望が満たされないことを知るのにそれほどの時間はかからなかった。もう一度、トルストイが何を求めていたのかを、私訳で紹介する。無宗教の状態にピリオドを打って、入信した頃のことを書いた箇所では、次のように述べられている。


「教会は、私が教会に期待していたことを与えてくれなかった。私がニヒリズムから教会に移行したのは、私は宗教なしに生きることは不可能だと思ったからである。すなわち、動物的な本能を越えた善悪の知識なしに生きることは不可能だと思ったからである。私はキリスト教の中にこの知識を見出そうと望んだ。しかし、キリスト教は、当時の私には、曖昧な霊的傾向をもつものとしてしか見えなかったし、そこからは、何か明確で決定的な人生の指針のための規則といったものを引き出すことは不可能だった。だが、私が求めていたのは、まさにそういうものであったし、私が教会から求めていたのも、まさにそういうものだった。教会が私に提供した規則は、キリスト教徒としての生の実践を教えてくれないばかりか、そのような実践をますます困難にしてしまうようなものであった」。


 トルストイが求めていたのは、「動物的な本能を越えた善悪の知識」、「人生の指針のための規則」である。その規則は、あえて単純化すれば、どう生きればいいかについての道徳的な規則というものだろう。しかし、教会が提供するものは、そのような規則ではなく「曖昧で霊的な」規則だけだった。


 ここに、すでに、トルストイと教会の対立の要点が出ている。トルストイは、あくまで生きるための知恵を求めていたのだが、教会が差し出すのは、死ぬための準備、死後の配慮、簡単に言えば、死についての諸々の規則である。ドルストイの言葉をもじって言えば、教会は、「動物的な本能を越えた善悪の知識」を何も与えてくれないことから判断して、人間が「動物」として生きることを許容しているかのように見える。「動物」とは、ここでは、一種の「悪」の状態、ということである。教会の言葉で言えば、「罪」の状態、ということである。だから、その罪から救われるための「霊的」規則(= 信仰箇条、教義、サクラメント(=秘跡)の遵守、断食、祈祷に関する規則)が必要なのだ、というのが教会の理屈であろう。しかし、そうではなく、もっと直接的に、生きるための指針を与えてくれた方が手っ取り早いのではないか? 

 しかも、教会は、なぜか、現実世界で起こる数々の悲惨な出来事にたいした関心をもたないばかりか、国が行う戦争や虐殺に賛同していることも
トルストイの疑念を高めた。


 「人類の不幸、互いに裁き合ったり国々や諸宗教に判決を下す習慣、そしてそこから結果する戦争や大虐殺、これらすべてが、教会の賛同とともに行われたことに、私は大変困惑した。イエスの教義(裁くな、謙虚になれ、罪を許せ、自己を否定せよ、愛せ)は、教会によって言葉の上でだけは称賛されていたが、同時に教会は、その教義とは両立しがたいことを是認していた。イエスの教義がそのような矛盾を容認するということがありうるのだろうか? 私にはそのようには思えなかった」。


 現実に多くの悪がなされていることは、直接・間接に確かめることができる。トルストイにとって、そのような悪に対して断固たる態度で取り組むのが、キリスト教のあるべき態度だと思えたのに、教会はそんな態度には無縁であるばかりか、戦争や虐殺といった悪に賛同しているではないか。


 上の引用文から明らかなように、トルストイにとって、善悪の問題が大事なのである。いかにすれば、善・悪を峻別して、悪をなくせるのかという問題である。教会は、そのような問題には鈍感であるばかりか、むしろ、悪に積極的に加担しているようにさえ、トルストイには映った。そしてすぐに、トルストイは、教会に見切りをつけて、自分で福音書を読むしかないと心に決めるのである。             (つづく)


















 
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