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権力機構と化したキリスト教とドストエフスキーの批判

  前期の授業が急にオンライン形式となって4月末からひたすらパワー・ポイント(=ppt)の制作に従事してきたのだが、約25回分の講義のpptを制作してそれに音声を入れるのは、意外にしんどく辛い作業だった。それもようやく終わりに近づいたので、ようやく一息つけるようになった。
 
 しかし、オンラインの授業といっても、講義の素材の作成自体は手作りなので、デジタル形式の素材であっても、やっていることは「家内制手工業」の手作業に近い。だから、どこか少し滑稽な気がする・・・

 それはともかく、イエス運動と、キリスト教の(堕落の)歴史の概要をテーマにした講義の一つを、紹介しようかと思った。第12回目の内容なので、理解できない部分もあるかとは思うが、とばし読みしてほしい。元来の形式はpptであるが、それをテキストに直してお伝えする。



 「  権力機構と化したキリスト教とドストエフスキーの批判


1.キリスト教にはいくつかの転換点がある。 
  そもそも最初にあった転換点はイエス運動が変貌したこと。それは宗教運動としてというよりも、社会運動として開始されたと考えるべきだと私は思っている。それは世界の価値観の転倒を目指す運動であったから、最初から激しく迫害・弾圧された。しかし、それが、イエスの死後、「復活したイエス」を核とするキリスト教という「宗教」に徐々に変貌していった。それが第一の転換点だった。その「宗教」は、やはりローマ帝国領内で、迫害の憂き目にあいながらも、徐々に信者の数を増やしていく。
 
 そしてコンスタンティヌス帝の改宗(312年)を期に、キリスト教は公認され、380年にはローマ帝国の国教となる。おそらく、このことが第二の転回点となった。


2.それ以降、キリスト教(というよりも、ローマ・カトリック)が、世俗権力の補完的な存在として、ときには、世俗的な権力者を凌駕する存在として、ときには、十字軍派遣や異端根絶を主導するヨーロッパの一大勢力として、ヨーロッパの歴史の表舞台に君臨し続けたことは、言うまでもない。
 だが、出発点を思い出してみよう。イエス運動は、世の価値観を転倒する運動として始まったのであるから、それが、世界の権力の一端を担うことになるなどとは、イエス運動の参加者は誰一人として夢にも思っていなかっただろう。

 十字架に架けられた罪人を「神の子」として仰いだ人々は、時の権力者に背を向けた人々であった。福音書も反-ローマの精神で書かれた。イエス運動の思想は、簡単に言えば、反-権力の思想であった。

3. 「敵を愛せ」もイエス運動の思想の一つであった。それが、とくに中世以降、キリスト教は他宗教は言うまでもなく、キリスト教内でも異端の存在を一切容赦しない考え方に堕していった。
 中世の異端審問の本を読むならば、ヴァルド派、カタリ派、フィオレのヨアキムの終末論、フランチェスコ会聖霊派、使徒兄弟団、自由神霊派、ウィクリフとフスなどが異端として扱われ、その運動は徹底的に弾圧された。
 ローマ・カトリックに対する批判というと、ルターに始まる宗教改革が有名だが、その素地は中世のヨーロッパにそれ以前から連綿として存在していた。


4.何が問題なのか? トルストイは、そもそもコンスタンティヌス1世によるキリスト教公認にまで問題の根を遡らせている。
 ローマ帝国の国教になったことは、キリスト教に重大な影響を及ぼした。それ以降、キリスト教は、イエス運動にあった反権力的な要素を抑え込むようになる。現実世界の問題は、世俗の権力者に任せて、たとえば、死後の救いの問題のような形而上学的な問題だけに注意を向けるようになる。いわば神学的な側面だけに勤(いそ)しむようになる。そして、儀式的なことだけに精力をつぎ込む。その傾向は、「墓の宗教」として揶揄されたそれ以前からあったのだが、その傾向がますます著しくなる。神学化と礼拝的な勤行という形で、世界との接点を失っていく。だから、キリスト教内部の人間にとって、イエス運動の精神に関わることは、むしろタブーに近いものとなった。

5.先に挙げた、中世の異端の運動を担った人々にとっての理想は、使徒たちの一切を捨てた貧困と放浪の生活だった。それはイエス運動の原初の姿に戻ろうという切実な(そして、もっともな)動機に動かされたものだった。しかし、権力機構の一部になっていた(したがって、貧困とはまったく縁遠くなっていた)キリスト教内部の権威者にとっては、そうした動機自体が世の秩序を破壊するものとして映った。
 キリスト教の権威者にとって、民衆に福音書の内容が知れ渡ることは都合の悪いことであり、民衆の言葉で福音書を知らしめようとすること自体が、教会の教えに反することであった。だから、聖書を俗語に翻訳することが禁止された。民衆は無知であるべきだったのである。

6. またコンスタンティヌスに戻ると、コンスタンティヌスが主導する形でニカイア公会議が開かれ(325年)、そこで三位一体などの重要な教義が確立する。
 しかし、そのように教義を統一化する必要性は、コンスタンティヌスがキリスト教内部を管理しやすいように(要するに、正統と異端を区別しやすいように)するためという非常に政治的な動機に基づいていた。

 だから、ローマ帝国からの公認を受けたことは、キリスト教の勝利として喧伝されることが多いが、キリスト教の敗北だったというふうにも解釈できる。おそらく、イエス運動の始まりから見て判断するならば、堕落の始まりだったと言うべきであろう。少なくとも、その時点以降、イエス運動に由来するものはキリスト教の教義からは次第に、そして中世以降は完全に、消え去って行ってしまう。


7. おそらく、こうした堕落した状況を打破することが「宗教改革」の意図したことだった、と考える人がいるにちがいない。
 
 宗教改革は、過度に神学化・儀式化されたローマ・カトリックの伝統に反旗を翻し、信仰のあり方を聖書の文言だけに基づいて決めようとしたのだと。

 しかし、ルターは、政治勢力に過度に依存するキリスト教のあり方を何も変えなかった。彼は、ローマの権力の手先と対立するドイツの貴族(ザクセン選帝侯フリードリヒ3世)によって庇護されなければ、何一つできなかっただろう。そのような鎧に守られた形でなければ、何も発言できなかった。イエス運動の孤立無援な姿と何という違いだろう。私には、ルターという人は、キリスト教を救う英雄などというよりは、ドイツのローカルな勢力を救うアジテーターとしてしか映らない。

 結局、宗教改革によって顕在化したのは、ローマ・カトリックの側に付く政治勢力(例えば、ハプスブルク家)と反-ローマの政治勢力の対立が激化したということであって、キリスト教が政治権力の一環でしかなかったという事態を何一つ変えたわけではなかった。それ自体が、ヨーロッパの政治的なコップの中で起きた政治的な嵐にすぎなかった。その過程で勝利を収めたプロテスタント勢力は、敗北したローマ・カトリックの教会領を容赦なく没収した。そこにも、宗教改革の背後にある野蛮で浅ましい側面が現れているように思えるのである。


8. むしろ、宗教改革は、政治的対立に基づく宗教的対立をさらに激化させただけだった。信仰のあり方を聖書にのみ基づかせるという考え方は、一見正論に見えるが、聖書の文言は非常に多義的で、最悪の場合、十人が読めば十通りの解釈が可能な結果しかもたらさない。その結果、新たな解釈が次々と打ち出され、「プロテスタント」内部に分裂に次ぐ分裂という事態を生み出した。宗教改革は、ローマとの対立のみならず、キリスト教内にたえず増殖していく分裂の種を撒き散らしていった。こうした内部分裂や細分化は、キリスト教という宗教の統一性の印象を弱めるもので、キリスト教の地盤沈下に一役買ったと言えるかもしれない。それまであいまいだった世俗の権力と宗教的権威の関係が明確化し、国家の権力が伸長するスプリング・ボードともなった。


9.「異端審問」の頃に話を戻そう。キリスト教が異端の人々を弾圧し迫害する側に回ったということは、イエス運動やキリスト教の初期の人々が迫害に苦しんだことを考えると興味深い。同じキリスト教であっても、一方は迫害される側であり、他方は迫害する側である、つまりまったく正反対の立場になってしまったのだから、名前は同じでも中身は全く別物と考えたほうがいいだろう。

 こうしたキリスト教内の甚だしい矛盾とイエスの存在の捉え直しというテーマは、ようやく19世紀の後半になってごく一部の知識人の関心の的になっていく。異端審問を扱った作品でもっとも有名なのが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」(1880年)である。


10. 「大審問官」の舞台は、16世紀のスペインのセヴィリヤ。毎日のように「神の栄光のために」百人単位で異端が焼き殺される「異端審問」のもっとも恐ろしい時代であった。そのセヴィリヤにイエスが姿を現した。なぜか誰もが、瞬時にして、その人がイエスだと判る。

 異端審問の責任者である「大審問官」もすぐにイエスがこの世に現れたことを知る。大審問官はクリスチャンの修道僧なので、当然、イエスの足元にひれ伏すかと思いきや、そんなことは考えもせず、すぐにイエスを捕らえ牢獄にぶち込む。

 大審問官は、異端審問の恐るべき状況についてイエスが何と言うか判っている。判りすぎるほど判っている。迫害に苦しんだイエス運動の末裔であるキリスト教徒が、迫害する側に回り、同じキリスト教徒を火あぶりにするとは言語道断だと非難されることくらい百も承知である(ただし、イエスは、終始一貫して、無言のままでいるのだが)。


11. 大審問官は、イエスに向かって、当時のキリスト教の代表者として言うべきことを言う。「お前の言うことくらい、わかりすぎるほどわかっておるわ。そのうえお前には、もう昔言ったことに何一つ付け加える権利はないのだ。なぜわれわれの邪魔をしにきた?」(新潮社『カラマーゾフの兄弟(上)』629)。

 結局、大審問官にとって、今頃イエスがやって来ても邪魔なだけである。結局、ローマ帝国の権力に取り込まれた以降のキリスト教にとっても、同じことしか言えなかっただろう。「今さら来ても、邪魔なだけだから、とっとと出ていけ」と言うしかないだろう。

 大審問の演説は長々続くのだが(邦訳629-655)、一番肝心な部分だけを紹介しよう。
 
12.  大審問官の考えの要点は邦訳632-640あたりに述べられているが、その過程で、マタイのエピソードが使われている。


 イエスは、悪魔に試みられるために、荒野に出向き、40日間断食をした。そして悪魔が進み出て彼に言った。「もしもお前が神の子であるなら、この石ころがパンになるように命じてみろ」。彼は答えて言った。「人間はパンだけで生きるわけではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる、と書いてある」(マタイ4:1-4)。

 また、悪魔は高い山に彼を連れて行き、世界の国々を見せていった。「お前がひれ伏して俺を拝んだら、これを全部やるよ」。その時イエスは悪魔に言う。「サタンよ、退け。主なる汝の神を拝み、ただ神のみを礼拝せよ、と書いてある」(マタイ4:8-10)。


13. 「人はパンだけで生きるわけではない」。心底そう考えられる人間もいるかもしれないが、それはごく少数である。圧倒的多数は、パンが与えられれば奴隷にだって何にだってなるだろう。イエスは石をパンに変えるという奇跡を拒絶して、信仰の純粋性や信仰の自由を守ったのかもしれないが、しかし民衆が求めているのは信仰の自由や純粋性ではなく、パンの方である。

 民衆にとって純粋さや自由などというのは重荷でしかない。パンをもらえるならば、悪魔に服従すること位なんでもない。大審問官は、そういう民衆の代弁をしているのである。パンを行き渡らせる、言いかえれば、世の中の秩序を維持するには、信仰の問題など捨てて、むしろ、悪魔と結託してパンがいつも与えられるようにしなければならない、そして反対者が出てくれば、容赦なく処罰するのは当然だろ? というわけである。そのために、いくら異端が犠牲になったとしても大したことではない。犠牲がいくら出ようが困ることはないのである。

14. だから、演説の後の方になって、大審問官はローマ・カトリックの秘密を次のように暴露するのだが、ここが肝心な個所である。「われわれはもはやお前(=イエス)にではなく、彼(悪魔)についているのだ。これが我々の秘密だ! もうだいぶ前からお前ではなく、彼についているのだ」(邦訳648)。

 この後で、フランク国王ピピンが、754年、ローマ教皇ステファヌス二世に承認されて国王となり、そのお礼としてイタリア中央の土地を領地として寄付したエピソードに大審問官は言及している。いわゆる「ピピンの寄進」として知られる出来事で、ローマの教会と世俗権力のもたれ合いが、この頃から本格化した。

 ドストエフスキーが、このエピソードを、先のマタイのエピソード(「お前がひれ伏して俺を拝んだら、これ(=世界の国々)を全部やるよ」)に重ね合わせたのは実に鋭い。そこから、とっくの昔に、キリスト教は、イエスではなく、悪魔の側に回ったのだというあの発言につながるわけである。一般には、そこに込められているのは、小説家の卓抜した思いつきという形でしか評価されていないのかもしれないが、おそらくそんなものではない。むしろ、歴史に真っ正面から向き合って得られた洞察のように私には映る。


15.もっとも、この「大審問官」で最も有名なのは、イエスの振舞いである。イエスは、大審問官の徹底した非難や否定にもかかわらず、終始無言を貫く。大審問官にとって、その沈黙が重苦しく感じられるだけだった。
  
 「老審問官にしてみれば、たとえ苦い恐ろしいことでもいいから、相手に何か言ってもらいたかった。だが、相手はふいに無言のまま老人に歩み寄ると、血の気のない九十歳の老人の唇にそっとキスをするのだ。これが返事のすべてなのだ。老人は身ぶるいする。唇の端で何かがピクリと動く。老人は戸口に歩み寄り、扉を開けて言う。「出ていけ、もう二度と来るなよ・・・まったく来ちゃならんぞ・・・絶対に、絶対にな」(邦訳662)。


16.  ここには、世の悪のすべてを超越するようなイエスの愛のあり方が、これ以上はないほど的確に描かれている。ドストエフスキーが、たとえば『白痴』などでも披露した、得意な描写である。

 しかし、それ以上に、大審問官が述べることは、異端審問を正当化する苦し紛れの屁理屈以上のものを含んでいることの方に、私の関心は向かう。

 「もうわれわれは、イエスではなく、悪魔につき従ったのだ
」という大審問官の言葉は、キリスト教が迫害を受ける立場から迫害する側へと180度変貌していった歴史的経緯を説明するためには、これ以上相応しい言葉はないのではないかと私には思われる。もちろん、この場合の「悪魔」とは、ローマの衣装(トーガ)をまとったローマ皇帝という姿で現れた。キリスト教の歴史家エウセビオスは、皇帝コンスタンティヌス一世を称えて一冊の書物を捧げた。エウセビオスにとって、コンスタンティヌスは、イエスに並ぶほどの救世主、いや、イエスを凌駕するほどの救世主だったことだろう。コンスタンティヌスによって公認された時点で、キリスト教はイエス運動の精神から離れて、ローマの支配体制の一部門に成り下がっていった、つまり、イエスではなく、悪魔につき従っていった。その時点で、イエス運動は死んだのであり、あとは名ばかりのキリスト教が生き残っただけであった。

 

」(おわり)


















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