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フリードリヒ・ニーチェ2 [探求(旧)]

 オンラインの授業の資料作りという現実的な用事のために、あまり頻繁に更新することができなくなりそうであるが、ニーチェの第二回目を紹介する。第二章の全体であるが、有名な道徳批判を概観している。



Friedrich Nietzsche By R. Lanier Anderson 
First published Fri Mar 17, 2017
https://plato.stanford.edu/entries/nietzsche/#LifeWork


「  2. 宗教と道徳の批判


  ニーチェは、ヨーロッパの伝統的な道徳的信条(そして、それがキリスト教に基礎をもつこと)に対する批判のために有名であることは確かである。この批判は非常に広範囲に及ぶ。それが覆そうとしているのは、宗教的信仰や哲学的道徳理論だけでなく、通常の道徳意識の中心的な側面も多く含まれ、中にはそれなしでどうやってやって行けばいいか想像もできないようなものもある(たとえば、利他的関心、悪行に対する罪悪感、道徳的責任、共感という価値、人間を平等に配慮することへの要求など)。

  ニーチェが執筆していた当時、ヨーロッパの知識人は、そのような観念は、それがキリスト教の知的伝統や信仰の伝統にどれだけ多くのインスピレーションを負っていたとしても、特定の宗派の信条や宗派を超えた宗教的信条からは独立した合理的な根拠を必要とすると想定するのが一般的であった。当時は、現在もそうだが、ほとんどの哲学者は、道徳の世俗的な正当化がすぐにでもなされるだろうし、それがなされれば、われわれの標準的な信条の大部分も救われるだろうと想定していた。ニーチェはその自信がナイーブであることに気づき、ありったけの修辞的な蛮勇を動員して、読者にショックを与えてその点での自己満足をやめるよう働きかけた。たとえば、道徳的および文化的生活に対してキリスト教の基盤がまだうまく機能できるかどうかについての彼の疑念は、解放される日は近いという能天気な精神状態で述べられたわけではないし、道徳についての世俗的な理解を深めようという冷静な、しかし基本的には自信に満ちた呼びかけを発したわけでもない。その代わりに、彼は、「神は死んだ」という有名な、攻撃的で逆説的な言葉を発した(GS 108、125、343)。そこに込められた考えは、無神論が正しいということよりは - GS 125で、彼はこの言葉を無神論者のグループに対する最新の知らせとして描いている -、「キリスト教の神への信仰は、信じられなくなった」ために、「その信仰の上に築き上げられ、その信仰によって支えられたすべてのもの、「ヨーロッパの道徳の全体」を含むすべてのものが、 「崩壊する」定めにあるということである(GS 343)。キリスト教は、もはや倫理的信条を支える枠組みとしての社会全体に及ぶ文化的忠誠を意のままにするようなことはなくなっていたし、不変で不滅であると想定されていた集団生活の共通基盤は、想定されていたほど安定したものではなかったし、理解できないほど可死的である(mortal)こと— いや、実は、すでに失われてしまったことが判明した。このような事態の急変によって求められる反応は、喪に服することであり、方向感の深い喪失である。

  実は、ニーチェによると、「神の死」のケースはさらに悪い。標準的な道徳的信条が、われわれが思っていたような基盤を欠いているだけでなく、疑問の余地のない権威という見掛けを引きはがされてしまうと、それらの信条は根拠がないだけでなく、積極的に有害であることが判明する。残念ながら、われわれの生の道徳化は、純粋な心理的欲求に密かに付着してきたので - ある欲求はわれわれの生の条件にとって基本的なものであり、別の欲求は道徳下での生活の条件によって培われた - 道徳の有害な作用はさらなる心理的被害なしには取り除くことができなくなっている。さらに悪いことに、道徳が人に害を与える側面は、真の自己理解という形でわれわれの中に植え付けられてしまっているので、われわれ自身が他の仕方で生きることを想像し難くしている。だから、ニーチェの主張によれば、われわれの生き方の最も大事にされている側面が冷酷に調べられ、解体され、そして、もっと健康的な形に再構築されなければならない、困難で長期的な修復プロジェクトにわれわれは直面していることになる - しかも、そのプロジェクトの間中、普通の倫理的生活という船を公海上で操舵し続けるながら、のことなのである。


  このニーチェの道徳批判が最も幅広く繰り広げられたのは、晩年の『道徳の系譜』においてであったっが、その書は、三つの論文から構成されていて、そのそれぞれが道徳の中心的な観念の心理的検討に当てられている。第一論文で、ニーチェは道徳意識が基本的に他者への利他的関心にあるという考えを取り上げてる。彼は驚くべき事実を述べることから始める、つまり、道徳とは何かについてのこの広く行きわたった考え方 - それはわれわれにとってまったく常識的であるが - いかなる道徳の本質をなすものでもなく、歴史的に新たに創り上げられたものである。

  歴史的変化を主張するために、彼は倫理的価値評価の二つのパターンを特定し、それぞれを基本となる一対の評価評価を表わす語、善い/悪い(good/bad)というパターンと善/悪(good/evil)というパターンに関連づける。善い/悪いのパターンに従って理解されるとき、善性という観念は社会階級の特権に由来する。善であるのは、最初は、より高い社会階級の人々であると理解されが、最終的に、善性という観念は「内面化」させられた - つまり、社会の階級から、特権階級に典型的に関連づけられた性格的特徴や人格的な卓越性に移し替えられた(たとえば、特権的な軍人階級をもつ社会にとって勇気という美徳、裕福なエリートの社会にとっての寛大さ、文化的野心をもつ貴族にとっての誠実さや(心理的な)気高さなど、GM I, 4)。そのようなシステムでは、善性は排他的な美徳(卓越さ)に結びつけられている。誰もが卓越した存在であるべきだという思想は存在しない。そうした観念は、卓越しているということは平凡な人間からは区別されていることなので、意味をなさない。その意味で、善い/悪いという価値評価は、卓越した人々が普通の人に対して優れていると感じる「距離のパトス」(GM I、2)から生まれたものであり、それは「高貴な道徳」(BGE 260)を生み出す。ニーチェは、この価値評価のパターンが古代地中海文化(ホメロスの世界、後のギリシャとローマの社会、さらには古代の哲学的倫理の多く)で支配的だったということを説得力をもって示している。

  価値評価の善/悪(good/evil)というパターンはまったく違うものである。それは、ネガティブな価値評価(悪)の焦点を他者の利益や幸福の侵害に置き、したがって、ポジティブな価値評価(良い)の焦点を他者の福祉に対する利他的な関心に置く。そのような道徳は、普遍妥当的な主張をもつ必要がある。もしそれが万人の福祉を促進し保護したいとするならば、その制限や命令はすべての人に等しく適用されなければならない。それは、各人は道徳的配慮と尊敬に対する平等な権利をもっているという考えから出発するのだから、人間の基本的平等という観念にとりわけ従順である。これらは、近代的な文脈では馴染み深い観念であるが—— 実際、非情に馴染み深いので、われわれは「それらを道徳的な価値評価そのもの」といかに容易に混同していることか、とニーチェは述べている(GM Pref.4) — 、これらの価値観の普遍主義的構造、利他的感情、平等主義的傾向は、あの「善い/悪い(good/bad)」パターンの排他的美徳の価値評価とは明白な対照を示している。この対照と、「善い/悪い(good/bad)」の構造的道徳が以前は優位を保っていたことをともに考えるならば、次のような単純な歴史的問いが生じてくる。いったい何が起きたのか?  「善い/悪い(good/bad)」という価値評価が広範囲に受け入れられていた時代から、「善/悪(good/evil)」の思考がほぼ普遍的に支配するような時代へと、どうしてわれわれは移行したのか?

  ニーチェの有名な答えは、われわれの近代的考え方に阿(おもね)ることをしない。この転換は「道徳における奴隷一揆」の結果であると彼は主張する(GM I、10; cf. BGE260)。このいわゆる一揆の正確な本性は、ずっと繰り返されてきた学者間の論争の種であるが(最近の文献では、Bittner 1994; Reginster 1997; Migotti 1998; Ridley 1998; May 1999:41-54; Leiter 2002:193-222; Janaway 2007:90 –106、223–9; Owen 2007:78–89; Wallace 2007; Anderson 2011; Poellner 2011)、大まかな輪郭ははっきりしている。高貴で卓越した(しかし抑制されることのない)人々による抑圧に苦しんだ人々は — 彼らは、相対的に無力だったので、抑圧する人々に対する実効的な手段を何らもっていなかったので — 「善い/悪い(good/bad)」の道徳によって勇気づけられて、その敵に対して、持続的で腐食性のある怒りに満ちた憎悪という感情的パターンを育て上げたのだが、それをニーチェは「ルサンチマン」と呼ぶ。その感情は、敵を道徳的に非難するために意図的に考え出された新たな道徳的概念、すなわち「悪(evil)」という概念が発展する動機となった。(このプロセスがどれくらい意識的であったかあるいは無意識的であったか、どれほど「戦略的で」あったか否かが、学者間の論争の一つの種になっている)。その後、悪の概念の否定を介して、邪悪な行為を抑止するような利他的な関心に根ざした善性の新たな概念が登場する。これらの新しい価値観を用いた道徳的非難は、それ自体では、動機となる復讐欲を満たすことは何もしないが、この新しい考え方が広まり、より多くの支持者を獲得し、ついには、貴族の価値評価にも影響を及ぼすようになると、貴族的価値観に対する復讐は印象的なまでになる — 実際、それは 「もっとも精神的な形式の復讐」となる(GM I、7,GMⅠ,10–11)。なぜなら、その場合、奴隷一機は「根本的な価値の再評価」をなし遂げ(GM I、7)、高貴な生き方にその性格を与え、それを賞賛に値するように思わせていた価値観を破壊することになるからである。

  ニーチェにとって、われわれの道徳とは、他者に対する気高く、穏やかで、厳密なまでに理性的な関心なのではなく、幸運な人の幸福を害そうとする復讐心に富む努力のことである(GM III、14)。これは、利他的関心の価値評価がどのように始まったかの説明としても、現代の道徳主体における利他主義の基礎部分についての心理学的説明としても、受け入れ難いように思われる。現代の人間は、ニーチェの物語に登場する社会的条件からは程遠いところにいる人々であるからだ。とはいえ、ニーチェは、偏見のない読者に立ち止まって考えるために十分な二つの証拠を提供している。キリスト教が問題になる文脈で、彼は、キリスト教徒の手紙や説教の中で「地獄の責め苦や、破滅せよという非難」が驚くほど頻出することを指摘している。ニーチェは、テルトゥリアヌスから目を見張るような実例を引用しているが(GM I、15)、しかし、その実例は非常に大きな氷山の一角であり、この種の「復讐心の爆発」(GM私、16)が、愛と許しの宗教(と想定されているもの)の中で何をしているのかは、答えに詰まるような難問である。第二に、ニーチェは自信を揺るがすような洞察力で、いかにしばしば、重大な犯罪的または公的な問題であれもっと私的で個人的なやり取りから生じたものであれ、怒りに満ちた道徳的非難そのものが、不正に関する節度ある判断から遊離して、(現実のであれ、想像上のであれ)加害者に対する復讐心に満ちた怒りの野放図な表出へと劣化していくことかと述べている。そのような非難に見られる精神は、われわれの習慣的な(しかしおそらく自己満足的な)道徳的自己理解よりも、ニーチェの利他主義の診断のほうに不気味なほどしばしば一致するのである。

  しかし、第一論文は、高貴な道徳の持ち主がそのような非難によっていやしくも心動かされる理由をほとんど示してはいないため、道徳の価値評価の転換がどのように成功したのかという問いを生じさせる。貴族の価値体系の内部には、万人に対する利他的な関心の理由を与えるものはないし、軽蔑すべきものとして貴族が退けた人々の苦情に注意を払うべき理由も与えない。罪悪感と負い目についての第二論文が、その難問に答えるのに役立ついくたりかの材料を提供してくれるのである。

  ニーチェは、罪悪感が負債の概念と密接な概念的つながりをもつという洞察から始める。債務者の返済の失敗が債権者に代償を求める権利を与えるのと同じように(契約で定められた何らかの救済策を介してであれ、もっと正式の手順を踏まない形で、一般的な社会的または法的制裁によってであれ)、罪悪感をもつ側は、侵害に対して何らかの形で対応する義務を負うが、これが、被った被害に対する一種の代償となる。ニーチェの「道徳化された」(GMII、21)罪の概念をめぐる想定上の歴史は、物品の貸し借りという領域から、社会的に受け入れられた規範を侵害する幅広い行動へと、この構造を移し替えること —— それが各損失を何らかの(罰を含む)代償と組み合わせるのだが —— によって展開していくことを示している。しかし、本当に重要な概念的転換は、この移し替えそのものではなく、それに付随する負債感の純粋化と内面化であって、それが代償の要求を、完全に行為主体のコントロール下にあると想定される不正行為の源泉に結びつけ、それにより、罪悪感を抱く人の人格的価値の基本的な感覚にネガティヴな評価を付着させるのである。道徳化された罪悪感の高度に純粋化された性格は、それがいかに道徳的価値評価の転換のための強力な道具になりうるかを示唆すると同時に、それに対してニーチェが懐疑的になる理由のいくつかを示してもいる。ウィリアムズ(1993a)が述べるように、完全に行為主体のコントロール下にある(そして完全に運・不運の影響を受けない)ものに関わる罪悪感の純化された概念は、非難という行為ととくに密接に適合している。「非難は、ある機会 – ある行為 – と、あるターゲット — この行為を行い続いて非難にあう人を必要とする」(Williams 1993a:10)。道徳的な罪悪感という純粋な観念は、不正ないかなる行動をも非難しうる行為主体に結びつけることで、この必要性に答える。われわれが見たように、非難を誰かに割り当てたいという衝動は、第一論文によると、道徳的な価値転を動機づけるルサンチマンの中心をなすものであった。だから、人々(貴族でさえ)がそのような道徳化された罪悪感の影響を受けるかぎり、彼らはあの価値転換に屈してしまうのであろうし、こうしたことがいかに・なぜ生じるのかについてニーチェは若干の推測を提供している(GM II、16–17)。

  しかし、ニーチェの第二論文での主たる関心事は、道徳化された罪悪感が心理的健康にもたらすと彼が見なす危険である。これらの批判には、時間が経つほどますます微妙になっていく二次文献を引きつけてきた。Reginster(2011)、Williams(1993a、b)、Ridley(1998)、May(1999:55–80)、Leiter(2002:223–44)、Risse(2001、2005)、Janaway(2007:124–42)、およびOwen(2007:91–112)。一つの顕著な考えは、罪悪感は道徳的に純粋であるがゆえに、それは行為主体に歯向かうようになるということ — たとえ罪悪感が自己を統制するうえで何の正当な役割も果たしていない場合であっても、またはそのような役割を凌駕するような仕方で、行為主体に歯向かうようになるということである。たとえば、罪悪感の激しい内面化を考えると、実際の被害者との結びつきは罪悪感にとって本質的ではない。侵害行為のどんな観察者(現実の観察者であれ理想的/想像的な観察者であれ)にも、罪ある側に怒りを覚える等しい権利があるのであって、その事実こそ、たとえ誰一人として危害にあった者がいない場合であっても、宗教的(または他のイデオロギー的な)体系がほとんどあらゆる種類の規則違反に罪を付与する余地をつくる。一つが被害を受けました。そのような場合、自由に浮遊する罪悪感は、社会や道徳との接点を失い、自己処罰に対する病的な欲求と区別し難しいものに発展していくこともある。


  『道徳の系譜』の第三論文は、禁欲主義の理想化を経由してそのような自己処罰が強化される経緯を探求する。禁欲的な自己否定は奇妙な現象である(実際、ある種の心理学的前提に立てば、記述的な心理的エゴイズムや通常の快楽主義と同様、それは理解不可能であるように思われる)が、それでも宗教的な実践の歴史には驚くほどの広がりを見せている。『道徳の系譜』はどんな機会をも捉えて宗教的バージョンの禁欲主義を批判するが、そのターゲットはもっと広い — たとえば、禁欲主義がショーペンハウアーの倫理においてとるもっと合理的な形式も含んでいる。多様なバージョンを統一するのは、美徳のために自己鍛錬することに価値があるのだという禁欲主義的な考え方(ニーチェ自身も主張するような考え方)が拡張されて、徹底的な自己非難へと姿を変え、自己鍛錬が行為主体そのものに向けられ、その主体が根本的に無価値であるという信条を表明するようになる。(このような価値体系への明白なルートの一つは、モラリストが — おそらく人間や動物の本性に根ざしているとされる — 一連の衝動や欲望を取りあげて、それらを悪として非難することである。禁欲主義の反官能主義の形態はこの道をたどる)。


  ニーチェが強調するように、純化された罪悪感は、本来、禁欲主義を発展させるための道具として取り入れられたものだ。苦しみは人間の条件の避けられない部分であり、禁欲的な戦略はその苦しみを罰として解釈し、それを罪悪感の概念に結びつけることである。苦しみを自分に向けるにもかかわらず、この手法は逆説的ながら行為主体にある種の利点を提供する — 自分の苦しみが説明と道徳的正当化を得るだけでなく、自分自身の活動が罰する側に加えられることによって、妥当なものとされるのである(自己-去勢) :

 なぜなら苦しむ者は皆、本能的に自分の苦しみの原因を探しているからである。さらに正確に言えば、この苦しみの犯人を、さらに具体的に言えば、 苦しむことのできる罪悪を感じる犯人を、

そして

 禁欲的な司祭が彼に言う:「その通りだ、私の子羊よ! 誰かがその責めを負わなければならないのだ。だが、お前自身がその誰かであり、お前だけがその責めを負うべきである — お前だけが自分自身の責めを負うべきなのだ!」(GM III、15)。



  だから、ニーチェは次のように述べる。

 禁欲的な司祭が、あらゆる種類の苦しくもあり恍惚とさせるような音楽と人間の魂が共鳴するようにさせるために、自らに許した主な弓の動きは — 誰もが知るように — 罪悪感を利用することによって、なし遂げられた(GM III、20)。



  罪悪感が個人の価値の著しい低減を伴うことを考えると、この罪悪感という屈折を経た禁欲的な自己理解は、動作主体の自尊感情にとって、そして最終的には、心理的健康にとって非常に破壊的な効果をもったにちがいない。


  ニーチェの説明は禁欲主義を魅力のないように描いているが、道徳の禁欲的な概念は、これらの考察を通して、論証議論によって否定されたわけではない。たとえば、ショーペンハウアーのペシミズムの立場を考えてみよう。それによれば、人間の生と世界はネガティヴな絶対的価値をもっている。その観点から見ると、モラリストは、禁欲的価値判断が道徳的行為主体にとって自己処罰で破壊的でさえある、ということを完全に許容できるが、そのような結論は、ペシミスティックな価値評価と完全に両立できる — それどころか、その価値評価に対する正当な反応であるように見える。つまり、本来、生命が悪であり、無が存在に対して具体的により良いものであるとすれば、禁欲主義による生命の低減や棄損は、価値の純然たる増大をもたらすことになる。ニーチェの関心は、その見方を反駁することではなく、診断することであった。彼は、そのような価値評価の信条は心理的および文化的病いの症状であって、禁欲的反応は「本能的」であるが、最終的には自滅的であり、自己治療の努力であると主張する(GM III、13、16 )。禁欲主義は病んだ修行者に自己規律を課すが、それは同時に当人の病状をさらに重くし、激しい内的葛藤に投げ込む(GMIII、15、20–21)。だから、禁欲主義に対するニーチェの根本的な異議申し立ては、それが心理的に破壊的であり実践的には自滅的であるということ、しかもそれがもっともよく効いている人々(病人)にとってもそうであり、しかも禁欲主義がその人々が自分の置かれた条件下で自分でできる最良のものであるとしても、心理的に破壊的であり実践的には自滅的なのである。

  このセクションは『道徳の系譜』に焦点を当てたが、その三つの論文は、従来の道徳的観念についてのニーチェの懐疑論の一例として提供されているにすぎないということは、注意すべきである。一つの例を強調するためだけに、同情(ショーペンハウアーの道徳理論のもう一つの中心的要素)の価値をニーチェは攻撃している。ニーチェは、憐れみや同情に反対する多くの違った議論を試した。すでに『人間的な、あまりに人間的な』(1878)から始まり、生産的な人生の終わりに至るまで続いた — この点については、Reginster(2000)、Janaway(forcomingcoming)、およびNussbaum( 1994)を参照せよ。ときおり、彼は同情は見た目ほど利他的ではないという感情的主張を声高に訴えたが、それは、一見利他的に見える同情は偽装されたエゴイズムにすぎないというロシュフコー的な推論に基づいているか(D133)、憐れみの充足は本質的に他者に対する「ちょっとした優位」という感情を含んでいるという心理学的に微妙な論点に基づいていた — (ルソーも、道徳の発展において憐れみの情が果たした役割を擁護する一環として似たような観察に立脚していることに注意しておこう。Rousseau [1762] 1979: 221)。しかし、ニーチェのより深い不満は、同情の道徳が苦痛の問題に注意を集中していて、しかも苦痛そのものが悪であるということを前提しているということから始まっている。ニーチェは、快と苦痛がすべての価値についての主張の根拠にあるという快楽主義の教義(それこそ、苦痛は悪だという前提を擁護するもっとも自然なやり方である)に抵抗しているのである。快と苦痛にとっての結果とは独立して、別の価値があるというニーチェの考えが正しいならば、苦痛の特定の出来事の最終的な価値は、その苦痛が苦しむ人の人生全体で果たす役割次第であり、その苦痛がその別の価値にどのように寄与するか次第である、ということになるかもしれない。その場合、苦痛が悪いということは、それが苦痛であるという単なる事実からすぐに導き出されることはないだろう。ニーチェはこの考えを同情の道徳に対する反証に組み込み、苦痛はときには人の成長を促進したり、卓越への進歩を促したりすると主張する(GS338)。その観点から見るならば、同情の道徳は、思い上がっており見当違いであるように見える。それが思い上がっているというのは、人の苦痛は悪いものに違いないと外側から見て結論づけ、それによって、その人の人生における「最も個人的なもの」(GS 338)を平板化してしまい、その人の苦痛の価値についてその人が自分自身で決定することに干渉しているからである。それが見当違いであるというのは、個人の苦痛を何かをポジティブなもの(個人的に意味のあるもの)にする機会を奪ってしまいかねないからであり、苦痛そのものがいかなる意味でも価値のないものだということになると、傷を負いやすく有限な生き物としてのわれわれの一般的な状況の潜在的に価値のある側面があらかじめ切り捨てられてしまうことになるからである(GS 338; Williams 1973:82–100と比較せよ)。

  以上の概観は、伝統的な道徳的および宗教的価値に対するニーチェの広範囲にわたる批評のいくつかの見所のみを扱った。ニーチェの批判は他の多くの道徳的観念にまで及んでいる(たとえば、罪、彼岸への超越、自由意志の教義、無私性の価値、反官能主義的道徳観などなど)。しかし、彼にとって、人間とは、最終的には価値判断をせずにはいられない生き物である。したがって、伝統的な価値に対する批判は、価値づけを行う者としてのわれわれの欲求を満たすことができる代わりとなる価値を提案しないならば、実際には効果的ではないだろう(GS 347; Anderson 2009、特に225-7を参照)。 ニーチェは、そのような価値を創造するのは哲学者の仕事であると考えていたため(BGE 211)、読者は、彼の著作のうちに価値の創造についての説明が当然見出せるだろうとずっと長い間、そして正当にも、期待していたのである。



」(つづく)























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