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フリードリヒ・ニーチェ 1

 長い自粛要請期間を無為に過ごすかわりに、スタンフォード大学の哲学百科事典の項目を翻訳して紹介することにしたのだが、今回からは、「フリードリヒ・ニーチェ」を紹介したい。
 
 有名すぎていまさらと思う人もいるだろうが、ごく最近の動向については、専門家でもない限りはほとんど知る人もいないだろう。私もほとんど知らないので、これを機会に勉強しようと思った次第。今回は、序論と第一章の全体。 


Friedrich Nietzsche By R. Lanier Anderson 
First published Fri Mar 17, 2017
https://plato.stanford.edu/entries/nietzsche/#LifeWork


 フリードリヒ・ニーチェ(1844–1900)は、1870年代および1880年代に著作を矢継ぎ早に出したドイツの哲学者にして文明批評家であった。彼は、伝統的なヨーロッパの道徳と宗教、そして近代性と結びついている哲学的観念や社会的・政治的信心に対する容赦のない批判で有名である。これらの批判の多くは、一般的に受け入れられた観念を毒する誤った意識を明らかにする心理学的診断に依拠している。そのため、彼は、伝統的な価値に対して「懐疑心の解釈学」を押し進めた近代末期の思想家のグループ(マルクスやフロイトを含む)としばしば関連づけられる(Foucault [1964] 1990, Ricoeur [1965] 1970, Leiter 2004)。ニーチェはまた心理学的分析を使用して、自己の本性についてのオリジナルの理論や新しい価値観を提起する挑発的な提案を行った。それらは、彼が批判する伝統的価値観の下での生と比較すれば、文化の再生を促進し社会的および心理的な生活を改善するだろうと彼は考えたのであった。

1. 人生と作品
2. 宗教と道徳の批判
3. 価値創造
3.1 ニーチェのメタ倫理的スタンスと価値創造の本性
3.2 いくつかのニーチェ的価値
3.2.1 力と生
3.2.2 肯定
3.2.3 真実らしさ/誠実さ
3.2.4 芸術と芸術家気質
3.2.5 個性、自律性、「精神の自由」
3.2.6 多元主義
4. 自己と自己造形
5. ニーチェの哲学的著作の難しさ
6. 鍵となる教え
6.1 力への意志
6.2 パースペクティビズム
6.3 同一物永遠回帰


1. 人生と作品

  ニーチェはニーチェは1844年10月15日に、父がルター派の牧師をしていたロッケン(ライプツィヒの近く)で生まれました。彼の父は1849年に亡くなり、家族はナウムブルクに移り、そこで彼は母、祖母、2人の叔母、そして妹のエリーザベトから成る家庭で育った。ニーチェの学校・大学での学業は素晴らしく、それは、バーゼルで古典文献学の教授に就任する1869年5月に頂点に達した。弱冠24歳だったから、そのポストに任命された最年少だった。恩師のフリードリッヒ・ヴィルヘルム・リッチュルが、ニーチェはとても有望なので「やりたいと思うことは何でもできるだろう」と推薦状に書いたほどだった(Kaufmann 1954:8)ニーチェの大学での仕事と彼の初期の出版物のほとんどは文献学のものだったが、彼はすでに哲学に関心を抱き、特にアーサー・ショーペンハウアーとフリードリッヒ・アルバート・ランゲの作品に関心を抱いていた。バーゼルでの就任が決まる前に、ニーチェは再度の博士号を哲学で取得しようという計画を立てていた。カント以降の時代における目的論の理論に関する論文を書こうしていたのである。

  ライプツィヒで学生だったとき、ニーチェはリチャード・ワーグナーと出会い、バーゼルに移った後、ルツェルンのヴィラ・トリプシェンのワーグナー家に頻繁にゲストとして足を運んだ。ニーチェとワーグナー(およびコジマ・リスト・ワーグナー)との友情は1870年代半ばまで続いた。その友情は、その最終的な決裂とともに、彼の個人的および職業的生活の重要な試金石となる出来事だった。彼の最初の書物、 『音楽の精神からの悲劇の誕生』(1872)は、この分野で期待されるような古典的な学者仕事の注意深い作品ではなく、紀元前五世紀アテネの悲劇的文化の崩壊に関する思索と、ワーグナーの楽劇こそが現代ドイツの復興した悲劇的な文化の源泉になるだろうという問題提起を組み合わせた、反論を巻き起こした論争の書であった。この著作は、(たとえば、ギリシャの悲劇におけるコーラスの役割についての)若干の目覚ましい解釈上の洞察を含んでいたが、古典学研究の世界では概して評判が悪く、ウルリッヒ・ヴィラモヴィッツ・メレンドルフには酷評された。ウィラモヴィッツ・メレンドルフは、同世代の代表的な古典研究者の一人になる人だった。最初の著作に続いて、ニーチェは、ドイツの知的文化の幅広い方向性に影響を与える努力を続け、ダフィット・フリードリッヒ・シュトラウス、「人生のための歴史の使用」、ショーペンハウアー、そしてワーグナーについての一般向けのエッセイを出版した。これらのエッセイは『反時代的考察』という総称のもとで知られている。

 彼はワーグナーのバイロイト計画の初期の頃の試みを支援し、最初のフェスティバルに参加したが、ニーチェはそこの文化的雰囲気に好意的な印象をもつことはなく、ワーグナーとの関係も1876年以降悪化した。ニーチェの健康はつねに脆弱で、1876–77年にはバーゼル大学を休職せざるを得なくなった。彼はその期間を利用して、伝統的な道徳と文化についての幅広い意味で自然主義的と言えるような批判を模索した。これは、ソレントでニーチェと共同で『道徳的感覚の起源』に取り組んでいたパウル・レーとの友情によって促された興味である(Janaway2007:74–89; Small 2005)。ニーチェの研究は『人間的な、あまりに人間的な』(1878)に結実するが、それによって、彼の読者は、彼がそれで有名になる従来型の信仰心に対する痛烈な攻撃と、彼が後の仕事でしばしば立ち戻る番号付きの短い断章と簡潔なアフォリズムというスタイルに、初めて導かれた。1878年の初めに彼がその書物をワーグナーに送ったとき、それは事実上彼らの友情を終わらせた。ニーチェは後に、彼の本とワーグナーのパルシファルの台本は「二本の剣が交差したかのように」行き違ったと書いている(EH III; HH 5)。

  ニーチェの健康状態は休職中も目立った改善はせず、1879年には教授職を完全に辞めざるを得なくなった。その結果、彼は自由に書くことができ、自分に合ったスタイルを発展させることができた。彼はその後ほぼ毎年書物を出版した。その先頭に来るのが『曙光』(1881)で、道徳とその根底にある心理学についての批判的な観察の集成だった。そして、ニーチェがそのために知られる最も成熟した著作が、それに続いた。『華やかな知識』(1882、拡張された第二版1887)、『ツァラトゥストラはこう語った』(1883-5)、『善悪の彼岸』(1886)、 『道徳の系譜』(1887)、そして彼の生産的な人生の最後の年に、『偶像の黄昏』(1888)と『ニーチェ対ワーグナー』(1888)、そして(出版されたのは後になってからだが)『アンチ-クリスト』と彼の知的伝記『この人を見よ』。この期間の初めに、ニーチェは、レーおよび、眩いばかりの若いロシア人の女子学生ルー・ザロメとの激しく、最後には苦いものに終わった友情を楽しんだ。三人は、当初、ある種の知的なコミューンで一緒に暮らそうと計画していたが、ニーチェとレ—がともにザロメに恋愛感情を抱くようになり、ニーチェがプロポーズをしたが上手くいかなかった後で、ザロメとレ-はベルリンに旅立つ。ザロメは後にニーチェについての啓発的な本を書いたが(Salomé[1894] 2001)、それは、ニーチェの哲学の発展段階について影響力のある提案を初めて記した書であった。

  後年、ニーチェは健康を改善してくれる気候を見つけようと頻繁に住む場所を変え、冬は地中海近くで(通常はイタリア)、夏はスイスのシルス・マリアで過ごすというパターンに落ちついた。彼の症状には激しい頭痛、吐き気、視力障害が含まれていた。最近の研究(Huenemann 2013)が説得力をもって主張したように、おそらく右眼奥の脳表面にゆっくり増大する腫瘍である眼窩後部髄膜腫に罹っていたようだ。1889年1月、ニーチェはトリノの街頭で倒れ、意識を取り戻すと、次第に錯乱の度を増す一連の手紙を書いた。バーゼルの親友であるフランツ・オーバーベックはひどく心配してトリノに向かい、そこには痴呆状態のニーチェがいた。バーゼルとイエナでの治療が上手くいかなかった後、彼は母親と、後には、妹の看護に委ねられ、最後には完全な緘黙状態に陥った。彼は1900年まで生き続け、肺炎を合併した脳卒中で亡くなった。

  病気の間に、妹エリーザベトは遺構の管理を引き受け、最終的に彼女は『アンチ・キリスト』 と『この人を見よ』のみならず、ノートからの断章集(それに、彼女は、『道徳の系譜』の中で、そのタイトルの主著を計画しているというニーチェの発言(GM III、27)にしたがって、『力への意志』というタイトルを使った)を出版した。この編集作業は、ニーチェのその著作に対する残されたプランに十分に立脚していなかったし、エリーザベトの強力な反ユダヤ主義的立場によって毒されていた(それは、ニーチェ本人にも苦痛に感じられたものだった)。その結果、『力への意志』は、ニーチェのノートに残された文章の全般的な性格と内容について、やや誤解を招く印象を残すものとなった。その遺稿は現在、素晴らしい批判的エディションで読むことができる(KGA、もっと広く読むことができるものとしてはKSA。選集の英訳はWENおよび WLNで読むことができる)。

  ニーチェの生涯は、何冊かの長大な伝記(Hayman 1980, Cate 2002, Safranski 2003, Young 2010)、および思弁的で虚構をまじえた再構成で扱われている(Yalom 1992)。読者は、ニーチェの生涯と個別の著作についてのより詳しい情報を、この辞典の「ニーチェの生涯と著作」の項目(https://plato.stanford.edu/entries/nietzsche-life-works/)と、ジェムズとリチャードソン(2013)のアンソロジーの最初の三章を構成する諸論文の中に見い出すことができる。

                           」(つづく)








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