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マルコ福音書の隠れた意味 [探求(旧)]

 これから、マルコ福音書の論点を拾っていくことにするが、それに先立って、マルコ福音書の全体に対する私なりの見通しを、ごく簡単に述べておきたい。この書を、どのような観点から読むか、というもっとも根本的な部分である。



 そもそも、マルコ福音書が、誰によって、いつ頃、どこで、書かれたものであるかについては何も判っていないに等しい。もちろん、推測は出来るが、確定的な結論に到ることは多分ないだろうと思う。何も判っていないということは、書き手が手掛かりとなるようなことを一切書かないように慎重に気を配った結果である、ということである。

 なぜそうする必要があったのか? 自分たちの身元が判明しないようにしたかったからである。マルコ教団というものがあったかどうかは知らないが、「マルコ福音書」を書いた人物が所属した集団は存在しただろう。その集団を、かりに、マルコ教団と呼ぼう。「マルコ福音書」を書いた人物をマルコと呼ぼう。マルコは、マルコ教団のために、マルコ福音書を書いたはずである。しかし、その書物は、なるべく秘密にしなければならなかった。誰が、どこでそれを書いたのかを察知されないようにしなければならなかった。万が一、その内容が外部に漏れても、まったく誤解されるような仕方で書かれる必要があった。

 マルコがそういう必要性を感じていたことは、マルコ福音書の一節からはっきりと察知することができる。つまり、

 
 「あの外の者たちに対しては一切が譬(たと)えでなされる。彼らが眺めることは眺めるが見えず、聞くことは聞くが理解しないため、また彼らが立ちもどって来て、赦されることがないためである」(4:12)


 つまり、「外」の人間の目に触れても、「譬え」の部分は見えても、譬えではない核心の部分は見ることも理解することもできないように、マルコは「福音の書」を書いたということである。


 この「譬え」理論をマルコの「福音の書」全体に適用できないだろうか? もちろん、できるはずである。その書が提供する「譬え」は何か? それは、深く考えずに読むことによって得られる内容である。つまり、イエスという人物が洗礼を受け、師の「洗礼者ヨハネ」の死後、独立した活動を行い、多くの奇跡的な治療を施すことで多くの信奉者を集めるが、その活動が当局の目に留まり、裏切りもあって最終的には十字架に架けられる。マルコの「福音の書」は、イエスという人物の生涯の、死にいたる最後の断片を語る。しかし、それは「譬え」の部分なのである。では、「譬え」の背後にある、核心の部分は何なのか? 


 先ほど述べたように、マルコは、マルコ教団のために、「福音の書」を書いたはずである。しかし、その教団はいかなる立場にあったのか? 上述の「核心の部分」は、おそらく、その教団の置かれた状況に深く関係しているにちがいない。


 ここから先は、手掛かりが急速になくなっていく。その「教団の置かれた状況」について直接的な証拠がほとんどないために、推測や想像や仮説等に頼るしかなくなるためである。その教団はどこにあったのか? ローマなのか、パレスティナのどこかなのか、シリアなのか? それに、時代はいつ頃なのか、70年以前なのか以降なのか? 


 しかし、「マルコ教団の置かれた状況」を垣間見ることのできる例外的な一節が、マルコの「福音の書」に見てとることができる。その中で、最も鮮明に「教団の状況」を物語るのは、次の一節である。


 「そしてあなた方は私の名の故にすべての人々に憎まれることになる」(13,13)。


 
 つまり、マルコ教団は、周囲の「すべての人々」に憎まれるような存在であった。後の歴史の結果から見るならば、キリスト教は「世界宗教」の一つに数え上げられる巨大な宗教に変貌していったが、生成期のキリスト教は、「世界宗教」になるなどはまだ夢物語としか思えないような圧倒的にマイノリティーの集団にすぎなかった。ただ単に少数派というだけではなく、周囲の人々の考え方や生き方とはまったく相容れない価値観や世界観をもつ、異質で倒錯的で犯罪的ですらある集団として憎悪の対象となっていたのである。

 そのことをもっとも象徴的に示す出来事が64年のローマの大火に続いて起きたネロ帝による迫害である。その迫害により、多くのキリスト教徒の命が絶たれ、ローマの教団は壊滅的な危機に陥った。


 マルコの「福音の書」をローマと関連づける説は古くからあったが、20世紀の後半になると、その説に疑義を唱える研究者が多数派を占めるようになり、マルコ=ローマ説は顧みられなくなる、しかし20世紀の最後の10年あたりから、ローマ説は再び脚光を浴びるようになる。その学説史の詳細には立ち入らないが、私自身もマルコの「福音の書」はローマとの深いつながりをもつ書物であるという立場を採る。

 
 ローマの教団にいた少数の人々は、崩壊の危機を耐え忍び、それでも、迫害の再発に怯えながらひっそり暮らしていたに違いない。ネロの気まぐれで迫害が起きたが、そのネロは69年に自殺に追いこまれた。69年は、新皇帝が誕生しては殺害されるという大混乱の一年となる。一時の政治的混乱による小康状態が続いたが、いつ、ネロの再来のような皇帝が現われて災難をもたらしにやって来ないともかぎらない。片時も油断をしてはならない。13章の最後の一節も、そういう状況を顧慮したうえでの言葉のように感じられるのである。


 「目覚めていよ」(13,37)。 




一切の論証もなく、ただ自説を述べることにするが、マルコの「福音の書」は、71年6月に行われたウェスパシアヌス帝とその息子ティトスの凱旋行進を目撃した人ではないと書けない部分があることから、71年の後半頃に、おそらくはロ-マの信徒に向けて書かれた書である、と私は考える。


 ネロの迫害の記憶はまだ生々しく残っている。迫害が起こるためには裏切りの行為があったにちがいない。裁判の審問の過程で、十字架の脅威に屈して仲間の所在を教えた者がいたことは、タキトゥスの著作を丹念に読むと判る。したがって、迫害は、たんに多数の信徒が殺されたというだけにとどまらない傷を残したのである。教団内部の密告や棄教が続出して、教団内部の信頼関係が壊れてしまった。「受難物語」の中で、死の直前のイエスが「詩篇」22の一節を引用して、次のように叫んだと書かれている。


  「エローイ、エローイ、ラマ、サパクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)」(15,34)。



 この言葉が。詩篇22の一部を指すのか全体を指すのかについて議論が交わされたが、まったく別の読み方も可能である。死の直前の人間が「引用」など悠長なことをするだろうか? ここをそのまま読むと、まったく非現実的な描写になってしまう。おそらく、イエスはたんに「大きな声を発して、息をひきとった」だけであった(15,37)。むしろ、「エローイ…」の箇所は、苦境の最中にあるローマの教団の思いが込められている、と考えるべきであろう(Fritzenというドイツの学者も最近そういう見解を述べている)。ローマの信徒は、イエスの死と自分たちの教団の崩壊を重ね合わせていたのである。


 イスラエルの伝統的な過越祭の習慣として、夜を徹して行われるハガダー(過去の記憶を次の世代に伝えよとの掟(出エジプト13:8)に基づいて、朗読や祈りや賛歌を唱和するなどして夜を徹してすごす祝祭)の伝統がある。イスラエルの原始教会のキリスト教徒もその伝統を守っていただろうから、過越しの日に、読むべき書物を必要とした。(30年代にはその原型が出来上がっていたと考えられる)「受難物語」もそのような必要性から作られたのではないかと想定できる。その習慣は、ローマの信徒にも受け継がれただろう。しかし、迫害の強烈な体験が、イエスの受難の物語の一部に変化を生じさせたのではないか?


 マルコの「福音の書」は、最後まで信念を貫き通したイエスの姿を中心に描く。だが、それだけではない。裏切ったユダ、逃げ去った弟子たち、イエスを罵って棄教の姿勢を示したペテロ、祭祀行為に執着するマグダラのマリア、これらの「つまずいた」弟子達の姿は、崩壊しつつあるローマの教団の信徒たちの姿を象徴的に描いている。誰もがイエスになるべきではあるが、誰もがイエスになれるとは限らない。ペテロは裏切ったが、裏切った後に改悛して教団を率いるまで人間もいるのだから、裏切りが最後とはならない。だから、いまのこの崩壊寸前の状況が改善するためにはどうした良いのか。おそらくもう一度、イエスの足跡をたどり、イエスの「十字架」に殉ずる気構えを学び、ローマの信徒たちの失敗を振り返り、イエスの最期を回想する、そのようにして、過去を回想しながら、これからの災難に備えた。それがマルコの「福音の書」の核心の部分である。あくまで、「福音の書」に耳を傾ける聴き手に対するメッセージが、「福音の書」の本質をなす。



 だから、くり返すが、「世界宗教」に成り上がった後のキリスト教を念頭においてこの書を読んでも、何一つ得られないだろう。それは「譬え」の部分であり、何も見えず、何も理解しない読み方である。ローマにあって異端中の異端だったマイノリティの集団、しかも崩壊の危機にある集団が生き残りを求めて、読まれ聴かれた書物として扱わなくてはならない。

 以上、私のマルコ福音書の読み方の一端を示した。


















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