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製造業を見捨てたイギリスの現状 [海外メディア記事]

 かつてブレア政権は、「知識経済(knowledge economy)」の名のもと、製造業に見切りをつけ、金融やITを中心とするサービス産業に経済の主軸を置く政策を進めた。
 
 その結果、製造業は衰退する一方で、さりとてサービス産業が落ちこぼれた労働力の受け皿になったかと言うと、結果的にはならなかった。製造業からあぶれた多くの人々が低賃金の職へと流れていき苦しい生活を強いられているのが現状のようだ。

 そうしたことを受けて、現政権の財務大臣のオズボーンが、今年の春に、「製造業の躍進(the March of the Makers)」を訴えたようだが、もはや手遅れの感がある。少なくとも、それを実現する政策はまだ何も打ち出されていないようである。

 「知識経済」に似たようなことを主張する人が日本にもいた。「知価革命」の堺屋太一とか、脱工業化を熱心に説く野口悠紀雄とか。この記事に出てくる「フロリダ」氏のクローンのような人々は掃いて捨てるほどいたし、今でもいる。しかし、本家本元のイギリスで「知識経済」が完全に行き詰まりを見せ、製造業に回帰せよという声が高まっている現状を知ったなら、彼らはどういう反応を示すのだろうか?

 今日またヨーロッパで深刻化しつつある失業問題にも関係する側面もあって興味深い。イギリス『ガーディアン』紙の記事より。


Why doesn't Britain make things any more?


Aditya Chakrabortty
guardian.co.uk, Wednesday 16 November 2011 19.59 GMT
Article history

http://www.guardian.co.uk/business/2011/nov/16/why-britain-doesnt-make-things-manufacturing





 なぜ英国はもの作りをもうしないのか?


 過去30年間で、英国の製造業は3分の2も減ってしまったが、これは主要国では最大の脱工業化の動きだった。それは経済の近代化の名のもとに行われたのだが――しかし、製造業にとって代ったのは何だったのか?


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(1968年にスワン・ハンターで建造中の船。2005年、ロングブリッジにあるMGローバー社の見捨てられた工場)




 イェール大学に移りベストセラーの歴史家になる前、ポール・ケネディは1950年代と60年代のタインサイドで育った。「大きな騒音と泥だらけの世界」。それが彼の思い出の中のタインサイドだが、そこでの主要産業は造船業で、彼の父親と叔父はウォールズエンドでボイラーを製造していた。昨年この大学教授は、当時のことを少し思い出させてくれる講演を行った。

 「ものを作ることには深い満足感がありました」と彼は言った。「サービスを提供していたすべての人々の間に深い満足がありました。それが地元の信用金庫であれ、地元の設計事務所であれ、です。船の進水式が[ニューカッスルの会社である]スワン・ハンターで行われた時は、地元の学校の子供が、自分たちの父親が組み立てたものを一目見ようとみんなで出かけました。そして金網越しに眺めて、ミックおじさんやジムおじさんや父親の姿を見つけようとした時、皆が一緒になって物を生産するコミュニティーを実感できたのですが、その感覚は実に驚くべきものでした」。

 数週間前にウォールズエンドの近辺を散策したとき、私は進水予定の船を見かけなかったし建造中の船すら見かけなかった。ケネディが言及した巨大なドッグであるスワン・ハンターは数年前に閉鎖され、まだ買い手のつかない数エーカーの泥だらけの荒地となっていた。

 それでも、もちろん、工業団地はまだあったし、少なくともそんな風に見える建物はあった。オーバーオール姿の男たちがダンプの間を行きかっていたのだから。ただ、近づいてみて判ったのだが、実際に製造業の活動がそれほど行われているわけではなかった。

 ある団地の最大の店舗はドライ・クリーニング店だった。別の団地では、ロフトの断熱材の問屋がひときわ大きかった。実際にものを製造している会社はまれにしかなかったが、その一つの会社の社長であるトム・クラークは、ケネディの思い出にあった製造業が人々を興奮させた街の中心であるタインサイドの海辺に私を連れて行ってくれた。「私たちのところを過ぎると、もう何マイルにもわたって製造業にたずさわっている所はないですね」と彼は言い、静かなウォーターフロントを指差した。

 彼の会社のピアソン・エンジニアリングで、クラークはビリー・デイと呼ばれるメッキ工を紹介してくれた。いま51歳だが、彼は16歳でこの会社に入った。彼の23歳の息子ウィリアムは、何十もの小さな工場に履歴書を送ったが、まだ失業中だ。地場産業がなくなってしまったので、見習い仕事や賃労働もなくなってしまった。「若者がぶらぶらして好き勝手なことをしていても当然なんだよ」とデイ氏は言った。「われわれは一世代をまるまる失ってしまったのさ」。

 似たような場所や似たような話は、イギリスの北西部から内陸部やロンドン郊外の古い工業地帯にかけての一帯で見たり聞いたりできるだろう。しかし、このどうしようもない衰退が最も集約的に見られるのは、石炭や鉄鋼や船舶等々をかつて多く生み出したイギリス北東部だ。私はこの衰退のプロセスを脱-産業革命(de-industrial revolution)と考えるに至ったのだが、これはかつては生産的だった地域や階級が社会から取り残されるプロセスのことである。

 今日、このプロセスがマスコミで取り上げられることはほとんどないが、ここにある物語りはイギリス経済の主要な論点のほとんどすべてに関わっている。つまり、なぜ富の格差がこれほど劇的に開いてしまったのかという論点から、なぜイギリスは不況から抜け出せないのかという論点にまで関わっているのだ。11月16日の新聞に載っていた悲惨な失業率の数字――それもこの物語の一部だ。今月デービッド・キャメロンとヴィンス・ケーブルが「イギリスの製造業を応援しよう」というキャンペーンを始めたが、そのとき彼らは、製造業というセクターがすっかりやせ衰えてしまったという事実には言及しなかった。

 脱-産業革命を駆り立てたもの何だったか? これは、かなりの部分、イギリスはどこに行こうとするのかについての物語りであり、過去30年にわたって保守党も労働党も語ってきた物語りである。それは三つの部分からなる単純なメッセージだ。一つ目は、重工業の古い時代は永遠にすぎ去ってしまった、というメッセージである。未来は私たちの手ではなく、私たちの頭脳とともに働くことにある、というわけである。二つ目は、経済政策における政府の仕事は、邪魔にならないようにすることだけだ、というメッセージである。最後に、わが国は他国と貿易をするためにわが国のマーケットを解放する必要がある、というメッセージであるが、これは、ウィンブルドンやワールドカップでの無数の証拠があるにもかかわらず、イギリスは競争に乗り出しても常に勝利できると政府のエリートたちは信じていたからだ。

 しかし、このポスト重工業の未来という公約された報酬は実現しなかったということを示す証拠はたっぷりある。経済の近代化として売り込まれたものが生み出したのは工業の衰退であったし、しかも、それにとって代るものが何もないこともしばしばだった。

 だが、イギリス北東部や他の場所での結果を話題にする前に、政治家の公約を並べてみよう。過去30年間、脱-産業革命には三つの大きなバージョンがあった。それらの三つをサッチャーの主張、ブレアのビジョン、キャメロンのアップデートと私は呼ぶことにする。私は最後に連立政権と未来の話題に立ち戻るが、とりあえずサッチャーから話を始めることにしよう。

 70年代半ば、マスコミや政治家や学者たちは、イギリスが危機に瀕しているという点で意見が一致していた。イギリス経済の重大な弱点を修正するという点に関しては、サッチャーの支持者たちは明確な答えをもっていた。それは、一言でいえば、競争である。

 1974年、キース・ジョセフ――マーガレット・サッチャーが自分の最も親しい政治的盟友と述べた男性――は、そのキーとなる部分が「成長は変化を意味する」という題名だった講演をした。彼は、イギリスの産業界が「利益は低すぎるし、利潤も投資も少なすぎる」のに「人員は過剰」だと主張した。答えは、工場労働者を減らせ、ということであったが、それは、工業分野の企業をスリム化して、浮いた労働力を新規の事業に振り分けることを意味した。

 「これが成長というものだ」とジョセフは言った。「新しい仕事が工業分野にあろうと商業またはサービス分野にあろうと、公的セクターであろうと民間であろうと、労働力人口は、公的資金によって支えられた職場での狭く人目を欺く雇用保障と、順調でダイナミックな経済に基づく真の雇用保障とのいずれかを選ばなくてはならない」。

 5年後、保守党はまさにそのプロセスを進めた。最初にやって来たのが緊縮財政プログラムで、それによって、サッチャーの最初の任期中に、製造業の職のほぼ4分の1が消え去った。その後にやって来たのが民営化と、住宅ブームや金融の中心地であるシティー(City)に合わせた経済政策だった。ジョセフの主張とは裏腹に、解雇された中年のエンジニアは異業種には行かず、ソフトウェアのエンジニアになった――彼らの大半は以前よりも悪い職につくか廃業するしかなかった。


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 (80年代のニューカッスル造船所で勤務時間を終えて家路につく労働者たち)



 しかし、重工業からサービス部門へ移れという主張が、厳しい必然性を説く主張から、世界の中でイギリスが占めている位置についてのずっと楽観的な主張にシフトしていったのは、トニー・ブレアが現れてからである。「新たな労働党」の建築家たちは、未来が「知識経済(knowledge economy)」と彼らが呼ぶものにある、と確信していた。トニー・ブレアの参謀だったマンデルソンはシリコンバレーを「インスピレーションの源」と呼んだ。ブラウンは、3年以内にイギリスを世界の電子商取引の中心にすると誓った。


 またもや主題は単純だった。製造できることのほとんどは、国外でより安価にできるだろう。未来は、アイデア、ソフトウェア、そして何よりもブランドを見つけることにあった。かつてイギリスは世界の他の国々に車や船を売っていた。今では文化や観光やララ・クロフト(アクション・アドベンチャー・ゲーム『トゥーム・レイダー』の女性主人公)を売り込める、と主張されたのだった。


 奇妙なことは、こうしたテクノ・ユートピア的な考え方が、Amazonから書籍を注文するのにも一苦労するような人々に由来した、ということだ。アリステア・キャンベルはブレアが2007年に首相を辞任した後に初めて携帯電話を手に入れた模様を語っていた。ブレアがキャンベルに出した最初のメールの文章は次の通りだった。「これはすごいぞ、電話で言葉を送ることができるんだ」。

 しかし、ブレアとブラウンには、時代の最先端にいられるようにしてくれる多くのアドバイザーやコンサルタントやシンクタンクがいた。もっとも興味深い脇役の一人は、リチャード・フロリダという名前のアメリカの学者だった。フロリダは、こういう話ではしばしば話題になる人物だ。彼の主張によると、未来の成功している地域は、都市の中心部に住んでいる「創造的なクラス」の若者たちによって運営されることになっていた。「超-創造的な中核(super-creative core)」と呼ばれるもっとカッコいいエリートもいた。

 それはどう考えてもバカバカしい主張だった。フロリダにこの「超-創造的な中核」に入れるのは誰なんだと尋ねると、彼は、IT・サポート・スタッフのような特にカッコいいようにも思えない職業をあれこれ並べたてるのであった。


 しかし本当に目に余ったのは、フロリダが創造的な仕事をそれ以外のものから区切るその仕方にあった。彼によれば、知識労働者か工場労働者かのどちらかなのだ――まるで工場労働は頭脳を必要としないかのような言い方だった。そして「知識経済」の多くの議論に一貫してあるのは、一般の人間が行っていることに対する配慮がないことで、それは侮蔑に近いものだった。このことは、労働党が起業家精神にあふれ革新的な若いわが国の労働者に提示したあの厳しい選択、頭脳を鍛えろ、さもなければ用はない、というあの厳しい選択に反映していたのだった。・・・



 イギリスは戦後の西ヨーロッパで最大の工業の衰退の一つを経験している。サッチャーが政権を握ったときに、製造業はイギリスの国民所得のほぼ30%を占め、680万人の雇用を誇っていた。ブラウンが昨年5月にダウニング街を去った頃までに、製造業は、就労人口は250万人で、経済全体のわずか11%にまで落ち込んだ。・・・

 どんな基準を当てはめても、これらの数字が表わしているのは崩壊である。政府自身が認めているように、他の主要国の経済で、わが国のような大々的な脱-工業化を経験した所はない。ドイツやフランスには――メルセデスやミーレ、ルノーやプジョーといった――国内のビッグ・ブランドが存続しているし、それらとともに小規模な部品メーカーや提携企業のサプライチェーンも存続している。イギリスには産業を保護・育成する政策がなかったので、巨大な製造企業はほとんど残っていない――端役のメーカーは数多くあるが――という結果になってしまった。しかし、それは悪いことなのだろうか? 多くの証拠がそうであると示唆しているのだ。経済的に悪いことだし、社会的・文化的にはひどいことですらあるのだ。

 経済的な問題は一言で要約できる。つまり、ギリシアを見れば判ることだ。私としてはそうした比較をしたいわけではないが、ニューカッスルで私はイギリスをギリシアになぞらえる話を繰り返し耳にした。私にはあまりにも極端に聞こえるが、なぜそうなぞらえたくなるかは理解できる。製造業の消滅は、イギリスがもう世界で経済的に自立することが出来ない、ということを意味しているのだ。昨年、われわれイギリス国民が他国から買い入れた商品と他国に売った商品の金額の差額は970億ポンドに達した――これは1980年以降で最大の輸入超過である。


 イギリス政府の脱-産業論者は、長い間、そんなことは重要ではない、イギリスは他国から借金をして、その資産を国外勢に売却できるのだから、と言い張ってきた。しかし現金を国外勢に頼ることには問題がある。国外勢が資金の提供を拒むことだってありうるのである――ギリシアの首相だったジョージ・パパンドレウの末路を見ればそんなことは明らかではないか。

 イギリス北東部では、製造業の職は、1997年以降だけをとってもほぼ半減してしまった――イギリスのどの地域をとっても最も落ち込んだ地域の一つである。製造業が減った代わりに何がやって来たのか? 大したものはやって来なかった、というのが簡単な答えだ。ニューカッスル鉄道駅から歩いて数分のところに、古いスコティッシュ・アンド・ニューキャッスル醸造所があるが、そこは現在サイエンス・シティ(Science City)と呼ばれている。それは、ハイテクの新しい事業の本拠地になるはずだったのだが、今そこに見えるのは小奇麗な学生寮と数エイカーの荒涼とした土地だけである。

 
 脱-工業化の良いニュースであったものでさえも、結果的にはかなり暗いニュースであることが判明した。2005年には、MGローバー社は内陸部のロングブリッジの工場を閉鎖した。約6300人の従業員が失職したわけだが、もし復職ということになれば、また輝かしい企業名のもとで熟練したスタッフになってくれるだろう、とよく言われたものだった。


 3人の学者が、3年間にわたって定期的にインタビューしながら、300人の労働者に何が起こったかの追跡調査を行った。すると意外にも、約90%が別の職に就いた。多くの人が職業教育を受けたしサービス業に転身する者もいた。言い換えれば、彼らは政府が薦めるすべてのことをしたのだ。ただし今、彼らの収入は、MGローバーで働いていた頃に比べて、平均で5,640ポンドも少ないのだ。それにインタビューを受けた4分の1は、貯蓄をとりくずして生活していたり経済的に苦しい状態にいると告白したのだ。

 
 地域レベルでも似たり寄ったりなのだ。北東部で民間部門の成長分野を探してみると、ミドルスブラでコンピュータ・ゲームなどの高いスキルを要する変わった分野が成長している――しかしそれが、大きな雇用の受け皿になることは決してないだろう。


 労働市場の反対側に目を移すと、北東部は、イギリスのコールセンターの拠点になろうとして賑わっている。もちろん、偉大なサクセスストーリーだったが結局は破綻したノーザンロック社のような例もある。最後に、民間企業の弱点をカバーする公共の部門がある。

 マンチェスター大学の社会文化変動の研究センターは、1998年から2007年にかけて、内陸部、北部、ウェールズ、スコットランドに生じた新たな職の大部分が国に由来するものだと推計した。それに、もちろん福祉事業もあった。東北部では6人に1人以上の住民が何らかの失業給付を申請したのである。

 さて、いま朽ち果てつつある産業の本拠地だった地域に対するコストのことを考えてみよう。タインサイドのいたる所に、かつて工業が盛んだったころの過去の痕跡がある。武器メーカーのウィリアム・アームストロングによって設立されたニューカッスル大学があるし、研修休暇中の工員に訓練をさずける地元の工業大学がいくつかある。それから、ニューカースル文芸・哲学協会があり、鉱業やエンジニアの機関があり、社交クラブがある。ここの文化は伝統的に、ものを作りものを販売することに根ざした生産の文化だった。脱-産業革命が北東部やその他の地域に強要したのは、消費文化を採用することだった――ものを生産する代わりに、ものを買うこと、それもしばしば分割払いでものを買うことだった。

 だから、リバプール・ワン(Liverpool One)のような巨大なショッピング・センターが誕生するわけだが、リバプール・ワンは自分のことを、明らかに皮肉を交えることなく、ヨーロッパ最大の都市再生プロジェクトと名乗るのである。または、自由貿易は西部のブルーカラー労働者の給料を減らしたかもしれないが、今では安い中国の輸入品を購入することができるではないかとアメリカの経済学者が主張するのを耳にしたりするのである。言い換えれば、工場での作業はなくなったけれど、何でも1ポンドで買えるショップが出来たじゃないか、というわけである。


 もしあなたがサービス業に勤めているか、またはもっとこの文章の趣旨にあう例にすれば、もしあなたが、英国の将来は製造業よりもサービス業にあるとみなす政治家であるならば、いま述べたことには何も間違ったことはないと見えるかもしれない。それでも、結果的には、雇用と福祉という点で政府に頼らざるをえなくさせることで、古い工業地域や階級がもっていた経済的・政治的影響力は、なし崩しにされてしまったのである。

 しかし、デビッド・キャメロンはこうした現状をすべて変えようしているのだ、と言う人がいるかもしれない。結局、現政権は「製造業者の躍進(March of the Makers)」について語る政権なのだから、と。明らかに、今の連立政権が広めている主張――イギリスの経済は偏っていて、金融の本拠地であるシティーと住宅バブルに依存しているという主張――に同意しないのは難しいが、それに見合う政策はまだないのだ。

 その代わりに、キャメロンはサッチャーと同じ処方箋を発行している――公共部門への支出を減らせば、民間部門への支出は必然的に増すだろうという主張を。閣僚たちは、ダービーの労働者にではなく、ドイツの工場に列車製造の契約を与えた。政権の座につくやいなや、ブレアのこの後継者は、自分には新たなアドバイザーがいることを明らかにした――それは誰あろうあのフロリダだったのだ。

 イギリス人の関心を惹く主張の多くは、製造業という亡霊にとりつかれている。それは、銀行の傲慢なパワーに対する怒りからなのだろうか? それならば、それはもっと多くのセクターが混合している経済を求めている、ということだろう。金持ちとそうでない人々とのギャップに苦しんでいるからなのか? もしそうならば、結局、古い製造業のようなまともな賃金と技能レベルをもつ職が必要とされる、ということなのだ。

 これは経済的ではない論点にも当てはまる。政治家は地方の力を強調するが、脱-工業化が地域経済に何をしたかについては議論したりしない。批評家はコミュニティーの精神が失われたことを嘆くが、多くのコミュニティを破壊してきた建物解体用の鉄球のような脱‐工業化のプロセスを考慮することはしないのである。


 ピアソン・エンジニアリングの労働者たちは自分たちの会社が数百人どころか、千人もの従業員を雇っていた頃を懐かしんでいた。かつて見習工で苦労して取締役にまで登りつめたクラークは退職後の計画の青写真を練っていた。それから小休止して彼はこう言った。「自分の孫がどうなっているか心配になり始めているんですよ」。

」(終わり)






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