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「ゾンビ」日本の経済的誤り [海外メディア記事]

 今年の8月11日付けと少し前の記事だが、あえて紹介する。

 少し前に日本の深刻なデフレ状況を描く『ニューヨーク・タイムズ』紙の記事を紹介したが(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-10-19http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-10-20)、ちょっとバランスをとって、今の日本の状況は、クルーグマンを始めとする多くのエコノミストが問題視するほど悪いものではないという見解も紹介したかったからである。
 この記事を書いたSteven Hill 記者によると、 今の日本は、ドイツと並んで、むしろ理想的なコースを歩んでいることになるが、まあ、それほどまでに賞賛されるとかえって懐疑的になってしまうけれど、こういう見方もあるのかと思っていただければ幸いである。

 イギリス『ガーディアン』紙の記事より。
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/cifamerica/2010/aug/11/paul-krugman-japan-lost-decade

 「 「ゾンビ」日本の経済的誤り


 ポール・クルーグマンらは日本を誤解した。アメリカ人が日本的な失われた10年を経験するとしたら、それはむしろ幸運なことであるに違いないのだ

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プリンストン大学の経済学者で『ニューヨーク・タイムズ』のコラムニストのポール・クルーグマンは頻繁に1990年代の日本経済の二の舞にならないよう米国の政策立案者に警告を発してきた。


 日本は、いわゆる経済の専門家から不当な扱いを受けてきた。次の点を考えてみよう。景気後退の真っ只中にある米国は、ほとんど10㌫に近い失業率、高まる不平等や貧困、健康保険をもたない4700万人の国民、中産階級にとって退職後の収入の低下、そして経済的な不安定性が至る所で増加する、などの問題で苦しんでいる。ヨーロッパの様々な国もまた困難を抱えているし、中国が次に破裂するバブルかどうかは誰にも判らないのである。

 では、失業率が5㌫で、所得格差が最小で、国民すべてが医療保険が行きわたり、世界有数の輸出国の一つである国をわれわれはどう考えるべきなのだろうか? この国はまた、平均寿命が高く、幼児死亡率が低く、計算能力や識字率はトップで、犯罪、投獄、殺人、精神病や薬物乱用の割合いも低い。この国はまた、二酸化炭素排出量が低く、地球温暖化の要因を減らすために役割を果たしている。これらすべてのカテゴリで、この国は米国と中国のはるか先を行っている。

 この国は、アメリカ人などが今の苦境から脱出できる方法の一つや二つを学べる国のように思われないだろうか?

 もしその国が日本ならば、誰もそんな風には思わないだろう。現在の経済危機の間中ずっとそうだったし、それ以前からそうだったが、日本ほど経済的に無気力な国として叩かれてきた国はほとんどないからである。日本への言及があると、必ずといって良いほど、その動脈硬化に陥った経済、そのゾンビみたいな銀行、そのデフレや緩慢な経済成長などへの言及が伴った。こうした停滞は「日本症候群(Japan syndrome)」と呼ばれ、「日本のようになりたくないだろう」という台詞のように、政治家に警告を発する病気のように思われてきたのである。

 こうしたストーリーを確立する上で、ノーベル賞を受賞した経済学者のポール・クルーグマンほど影響力のあった者はいなかった。1990年代を通して、そして今でも、クルーグマンは日本の経済とその指導者たちを攻撃してきた。1990年代後半に、クルーグマンは、「日本という罠」とか「沈む太陽」といった表題や同格的表現満載の一連の悲観的な記事を書き、時には次のような露骨な言葉を吐いた。

 
 「日本の状態はスキャンダルであり、腹立たしく、恥ずべきものである…日本は、その生産能力をはるかに下回る経済活動しかしていないのだが、それはただ単に日本の消費者や投資家が十分な支出をしていないからなのだ」。


 しかし、当時の日本の指標となる数字のいくつかを見てみよう。1990年代を通じて、日本の失業率は――心の準備はいいかな?――約3%だったが、この数字は、同じ時期のアメリカの失業率の半分である。例のいわゆる「失われた10年」の間、日本は国民皆保険を維持していたし、アメリカほどの不平等はなく、平均寿命は最高水準で、幼児死亡率は低く犯罪率や投獄率も低いままだった。アメリカ人が日本的な失われた10年を経験するとしたら、それはむしろ幸運なことであるに違いないのだ。

 日本のケースを再度むしかえすと、いくつかの重要な問いかけが浮かび上がってくる。クルーグマンのような経済学者は、評価の対象や優先事項や計測の対象についてどのように決定しているのだろうか? 経済とは何のためにあるのか? 人々が必要としている繁栄や安心やサービスを生み出すためなのか? それとも、経済学者を満足させたり彼らが繰り出す方程式や理論やモデルを充たすためなのか?

 景気回復のために財政刺激策をすべきかそれとも財政赤字を削減すべきかという現在の議論で、様々な経済学者がドイツを批判している。クルーグマンは、ドイツ人が「ハーバート・フーバー(アメリカ合衆国の第31代大統領。景気刺激策に慎重だった――訳者註)の演説集から話のテーマを取っているように見える」と書いた。刺激策の推進論者であるクルーグマンは、日本を批判したのと同じ理由でドイツを批判している ――つまり、経済を刺激できるほど支出していないし、消費していない、といって批判しているのである。

 しかし、米国が大規模な財政赤字と景気後退に悩まされていた1990年代初頭、クリントン政権はクルーグマン型の財政刺激策を採用しなかった。その代わりに、赤字を削減したのだ。90年代の終わり頃には、アメリカの予算はかなりの黒字を示し、経済は活況を呈していた。

 日本の経済は上首尾だったし、現在も上々の出来である。ドイツの経済も同様だ。どちらの国も、国民を養うのにうなりを上げるほどの成長率を必要としない経済的な安定状態に達してしまったのだ。しかし、経済学のカサンドラ(予言能力をもつギリシア神話の神――訳者註)たちにとって、国民のニーズが満たされているかどうかは、明らかに、重要ではない。重要なのは、彼らの理論と方程式のバランスが取れているかどうかなのだ。

 残念なことに、これまで述べてきたことには常識的な側面があるのだが、それは話の流れの中で見失われてしまうのである。われわれの時代が教える二つの教訓は、経済のバブルが最終的には破裂するということと、地球温暖化の時代において抑制されない経済成長が環境にもたらす帰結は重大であるという二点である。言い換えれば、本当に目指すべきなのは、もはや経済成長ではない。持続可能性と、より少ない資源でより多くのことができるようになることなのだ。トリクルダウン(富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)するという考え方――訳者註)は経済的に健全ではないしエコロジー的に持続可能でもないので、アメリカ型のトリクルダウン経済の時代は、富める国にとっては終わりを迎えたのだ。先進国は、発展の別の道に向かうように他国をリードしなければならないのである。

 これは簡単な課題ではないが、それでも日本やドイツが選択した道筋であるのだ。アメリカ人は両国から学ぶべきだろう。もしアメリカが、これほど多くの不平等を生み出してきたトリクルダウン経済を持っていないならば――もしアメリカがもっと上手にその富を共有できているならば――、財政刺激策と経済成長をこれほど必要とすることは恐らくないのである。









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