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無意味は知性を磨く [海外メディア記事]

  私の好きな記者の一人BENEDICT CAREY氏が新たな記事をアップしたので、紹介したいと思います。

 少し難しい文章です。話の展開もすぐには頭に入ってこないような書き方ですが、内容は非常に味わい深い。たぶん、後半のカフカ風の短編を使った実験のところを読んで、この記事の核心が判るのではないかと思います。

 その核心部分を単純化すれば、人間の脳は、無意味には耐えられないのであって、常に意味やパターンを求めてやまないものだ、となるでしょうか? 

 しかし、カフカ風の訳の判らない話を読んだ後だと、その分テストの成績が良くなる? こうした実験結果は興味深いですね。いずれ、この結果を取り入れて大きな成果を上げる塾や家庭教師なんかが現われたらどうしましょう?

 ちなみに、最初のほうに出てくる「遥場(はるば)にありて回儀(まわりふるま)い錐穿(きりうが)つ(gyre and gimble in the wabe)」という訳の判らない言葉の連なりは、ルイス・キャロルの『ジャバウォックの詩』から取られたものです。興味のある方は、次の箇所にほぼ完璧な説明があるので参照されたし。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%90%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%A9%A9 



By BENEDICT CAREY Published: October 5, 2009

How Nonsense Sharpens the Intellect

http://www.nytimes.com/2009/10/06/health/06mind.html?ref=health

06mind-190.jpg

「  無意味はどのようにして知性を磨くのか


  不運やうれしい驚き、チャンスや屈辱的な出来事などのあれこれに加えて、人生は、ときに、ピンク色の一角獣や3㌦紙幣、あごひげを生やした修道女や、ルイス・キャロルの詩の一節を借用するなら、「遥場(はるば)にありて回儀(まわりふるま)い錐穿(きりうが)つ(gyre and gimble in the wabe)」言葉を提供する。

 手短に言い直すと、論理や期待のすべてに逆らうような経験を、人生は提供するのである。哲学者のセーレン・キルケゴールは、そうした異様な経験が深い「不条理の感覚」を生み出すと書いたが、異様な経験を真剣に受け取ったのはキルケゴールだけではなかった。フロイトは、「不気味なもの」という論文で、この感覚の由来を尋ねて、死や、去勢や、「隠されたままにしておくべきだったのに明るみに出てしまったもの」に対する恐れに行き着いた。

 この感覚を味わうと、まったく訳が分からないような気分になるのはまだ良いほうで、最悪の場合は、身の毛がよだつような気分になるのである。

 最近のある研究が示すところによると、逆説的なことに、この感覚は、脳に働きかけて、もしそうした感覚を持たなかったら脳が見逃していたであろうパターン――数学の方程式や、言語や、世界全体におけるある種のパターン――を感じるようにさせているらしいのである。


 「私たちは、そうした異様な感覚は取り除くように動機づけられているので、意味やつながり(meaning and coherence)を別の所に求めようとするのです」。そう語るのは、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の博士課程修了の研究者で、専門誌“サイコロジカル・サイエンス(Psychological Science)”に掲載された研究の主執筆者であるトラヴィス・プル-。「私たちはこの感覚を何か別の方に向けるのです。それによってある種の学習の効率は高まるように思われます」。 


 脅かされていると感じるとき、人々は自分の個人的な傾向への執着をもっと強めることは、以前から研究者によって知られていた。自分の死が避けられないことについて考えた後だと、人々はより愛国的になったり、より信心深くなったり、よそ者に対してより寛容でなくなることを示した研究は色々ある。侮辱を受けると、友人にはもっと誠実になろうと公言したり、雑学クイズで出来が良くなかったと告げられると、自分の学校の連戦連勝中のチームとの一体感をより強く感じたりする、という例が報告されている。


 一連の新しい論文で、プルー博士と、ブリティッシュ・コロンビア大学の心理学の教授であるスティーヴン・ハイネは、こうした発見が、意味またはつながり(meaning, or coherence)を維持するという同じプロセスのヴァリエーションであるという主張を展開している。脳が進化したのは予見するためであり、脳が予見するのはパターンを識別することによってなのである。


 こうしたパターンが壊れるとき――ハイカーが、森の奥深くに、まるで空から降ってきたかのように、肘掛椅子が置かれているのに遭遇したときのように――、脳は何かを、意味を成すものであれば何でもいいから、とにかく何かを見つけようとする。脳は、椅子の具合を点検するといった日頃よく行っていることだけにとどめるかもしれない。しかし、研究者によれば、脳は注意を外側に向け、たとえば、それまでに気がつかなかった動物の足跡のパターンに注目するかもしれない。まとまりのあるパターンを発見したいという衝動が起こるので、脳がそのパターンを発見する確率は高まるのである。


 「研ぎ澄まされた注意を生み出すのは神経の高ぶりであって、意味を求めようとすることではないということも考えられるので、この理論についてはもっと研究がなされなければなりません」。そう語るのは、トロント大学の心理学の準教授のマイケル・インスリクト。しかし、それに付け加えて、この新しい理論は「説得力があるし、私自身の意味のシステムのことも確かに認めているわけだし。彼らはちょっとした発見をしたと思いますよ」。


 先月発表された最も新しい論文で、プルー博士とハイネ博士は、20人の大学生にフランツ・カフカの『田舎医者』に基づいた筋の通らない短編を読んでもらったいきさつを記している。題名にもなっている医者は、ひどい頭痛を訴えている少年の家を訪れなければならない。やって来てみると、その男の子には歯が一本もないことに気づく。彼の台車を引っ張ってきてくれた馬たちが騒ぎ始める。少年の家族は途方に暮れたような表情になる。すると医者は、少年にはやはり歯があることを発見する等々。ストーリーは緊迫しており、生気に富み、そして無意味である――まさにカフカ的と言えるものである。


 短編を読んだ後、大学生たちは、 “X, M, X, R, T, V.”のように6~9文字からなる45個の文字列をじっと眺める。後になって彼らは、文字列についてのテストを受けるのだが、それは、60個ある文字列のリストから前に見たと考えられる文字列を選ぶというテストだった。実は、ある文字が別の文字の前後に現れやすくなっているという具合に、文字は微妙な仕方で関連づけられていた。

 このテストは、研究者によって潜在学習(implicit learning)と呼ばれているもの、つまり、自覚なしに得られた知識を標準的な仕方で測定したものだった。大学生たちは、自分の脳がどんなパターンを感知しているか、また、自分がどれほど良い成績を収めているかについては何も知らなかった。
 
 しかし彼らは良い成績を収めたのである。彼らは、違う短編、筋の良く通った短編を読んだ20人の大学生からなる比較郡と比べて、正しい文字列30パーセントも多く選んだし、その選択においてほぼ2倍も正確だったのである。


 「筋の通らないストーリーを読んだグループのほうがより多くの文字列を識別したという事実は、そのグループのほうが別のグループよりも、パターンを探すようより強く動機づけられていたということを示唆しています」とハイネ博士は言った。「そしてそのグループのほうがより正確だったという事実は、そのグループの人々が、カフカ的な短編を読まなければ形成できないであろう新たなパターンを形成しつつあったということを意味していると私たちは考えます」。


 異様な経験について判断を下したり、不安にさせるジレンマを解決しようとしている人々についての脳機能画像研究は、前帯状皮質と呼ばれる一帯の活動が著しく活発になることを示している。記録される脳の活動が活発であればあるほど、現実世界での誤りを探したり訂正したりする動機や能力が高まっていることが、最近のある研究論文によって示唆された。その論文の著者の一人であるインスリクト博士は「その動機を高めることができるかもしれないという考え方は、調べてみる価値が大いにあることです」と述べた。


 こうした新たな研究を良く知っている研究者たちは、たとえばデヴィッド・リンチの短編映画やジョン・ケージが作曲した作品を学校のカリキュラムに組み込むのは時期尚早だろうと言う。一つには、筋の通らないものに触れることが、フランス語の文を暗誦するといった意識的学習(explicit learning)の助けになるかどうか、誰もまだ判っていないからである。別の理由として、不気味なものに囚われた人々は、パターンがまったくないところにパターンを見てしまう――たとえば、陰謀説に走りやすい――傾向があることが諸々の研究で発見されたからである。秩序を求めようとする衝動は、得られる証拠が粗悪なものであろうと、とにかく証拠があれば満たされるように思われる。


 それでも、この新しい研究は、多くの実験的なアーチストや、旅行を習慣としているような人や、新奇なことを求める別の人々が常に主張してきたことを裏書きするものである。つまり、少なくとも時折は、方向を見失うことが創造的思考を生み出すことになるのである。












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